「…………」
雛に呼ばれた紅夜は、今、この扉を開けて体育館へと足を踏み入れようとしていた。
この扉の先では、この学校に通う生徒や教職員、そして理事会の雛が待っている。
「落ち着いて行け……大丈夫だ、普段通りにすれば良いんだ……何も怖い事なんて無い」
自身にそう言い聞かせて深呼吸をした紅夜は、意を決して扉を開ける。
その瞬間、生徒や教職員達の視線が一気に此方へ向けられ、その多さに気圧されそうになる紅夜だが、なるべく気にしないようにしながら壇上へと向かう。
「ねえ、あの人が試験生……?」
「そうみたい。理事会が呼んでから入ってきたし」
「それにしても、左目につけてるあの眼帯って何なんだろうね……」
「さあ、怪我でもしたんじゃない?」
「ちょっと、怖いかも……無表情だし」
「でも、顔は結構カッコイイよね。体もスマートだし」
「そうそう。中性的イケメンってヤツ?」
「しかも見てよ、あの肌。雪みたいに真っ白だよ」
生徒達の間でそんな会話がヒソヒソと交わされる中、紅夜は壇上へと歩みを進める。
その道中、歴史オタクなのであろう1人の女子生徒が、やたら興奮した様子で『独眼竜政宗の再来!?』と騒いでいたが、取り敢えず無視した。
そして壇上に着いた紅夜は、生徒達の方へ向き直る。
「(ああ成る程、確かにコレは少ないな。空き教室が多かったのも納得だ)」
全体を見渡した紅夜は、内心そう呟いた。
向かって右側に並んでいる3年生が3クラスあるのは良いとして、2年生は2クラス、そして1年生が1クラスだけだ。
こうして実際に見ると、生徒数の少なさで廃校の危機に瀕しているというのも納得である。
それから教員の方へ目を向けると、物珍しそうな目線の中に交じって一部の女性教員が不快そうに此方を見ている事に気づいた。
恐らくその教員達が、雛が言っていた私的な理由で共学に反対した者達なのだろう。
「(やれやれ、呼んだのはテメェ等の学校の理事長だろうが。強引に決められたからって俺に八つ当たりしてんじゃねぇよ)」
そんな気持ちを乗せた冷ややかな眼差しを向けてやると、教員達はそれを察したのか気まずそうに目を逸らす。
《さて、彼が共学化にあたっての試験生として来てもらった、長門紅夜君です。彼は元々アメリカに住んでいましたが、里帰りのために日本へ来ている時に、無理を言って我が校へ来てもらいました》
紅夜と女性教員による視線だけの戦いが起こった事など知らず、雛は紅夜の紹介をする。そして1歩下がると、挨拶するよう促す。
紅夜はマイクの前に立つと、もう一度軽く館内を見渡してから口を開いた。
《皆さん初めまして、長門紅夜です。試験生という特殊な立場での編入ですが、一学生として、この学校生活を有意義に過ごしたいと思っています。色々至らない点もありますが、よろしくお願いします》
そんな当たり障りの無い挨拶をして、軽く頭を下げる紅夜。
少しの沈黙の後、生徒達から拍手が送られる。どうやら自己紹介は成功したようだ。
「(さて、出だしは良好だ。後はこのまま、無難に1年を過ごすだけだな)」
失敗しなかった事に安心しつつ、紅夜はこの試験生生活を如何にして無難に乗り切るかを考えるのだった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
集会後、紅夜は職員室に来ていた。これから1年間世話になる担任との顔合わせをするためだ。
そうして彼の前に立ったのは、1人の若い男性教師だった。
彼は紅夜を見ると、優しそうな笑みを浮かべて口を開いた。
「クラス担任の
そう言って差し出してきた右手を、紅夜はおずおずと握り返して握手を交わす。
「それにしても驚いたよ。何処かの高校に無理言って生徒を寄越してもらうのかと思ったら、まさかアメリカからの里帰り中だった19歳の青年に頼むなんてな」
「まあ、その………実は、母が理事長の先輩で、久々に会った際に相談したらしく、そのまま流れで俺に……」
「白羽の矢が立ったって訳か」
その言葉に、紅夜は頷いた。
1月、当時里帰り中だった紅夜に試験生の話を持ち掛けてきた雛だが、何も最初から彼を試験生にしようと決めていた訳ではない。
その日、帰宅中に偶然にも豪希のFocusで音ノ木坂学院を訪れていた深雪と十数年ぶりの再会を果たした雛は、せっかく再会出来たのだからと長門家に招かれ、そこで学院の現状や、廃校を防ぐための最終手段として共学化を本格的に考え、そのトライアル段階として試験生を招こうと考えているものの、その試験生をどうするかで悩んでいる事を相談したのだ。
はっきり言うと、この話は試験生を引き受ける側には大したメリットが無い。
女子校に男子1人という、アニメでなければ先ず体験出来ない、世間一般ではハーレムと呼ばれている環境を味わう事が出来るのだが、それが交渉材料として通じるかと聞かれれば、答えは当然NOだ。
特別な受験でも受けない限り何処の学校に進むかが大抵決まっている小・中学校とは違い、高校は都内だけでもかなりの数があり、学生達はその中から自分が本気で通いたいと思う1校を選び、合格を目指して受験勉強に励む。そして合格を勝ち取り、晴れて高校生になれるのだ。
そんな彼等が、ある日いきなり『ハーレム気分を味わえるから、今通っている、または合格した学校は諦めて廃校になるかもしれない学校に試験生として移ってくれ』と言われて、『はい、そうですか』と頷く訳が無い。
誰だって、自分達がこれまで積み上げてきた努力を無駄にしたり、築き上げてきた人間関係をリセットするような事はしたくないのだ。
そうすると、試験生を頼める者はかなり限られてくる。
流石に大人に頼む訳にはいかないため、20歳までの浪人生に頼む事になるだろうが、彼等はいずれ、勉強して大学へ進むためにどの道頼んだところで引き受けてはもらえないだろう。
だが、だからと言ってテストも行わず共学化する訳にはいかないというのも、また事実だ。
共学化のために試験生が欲しい。だが、自分のこれまでの努力や人間関係をリセットしてでもそれを引き受けてくれる物好きな学生が居るとも思えない。かといって浪人生に頼もうにも無理であるため、最早どうしようもない。
そういった事を相談すると、深雪が紅夜ならどうかと提案してきたのだ。
紅夜は既に高校を卒業しており、今はデッカード家の仕事の手伝いをしているが、それが思わぬところで役立った。
先ず、彼はもう学生ではなく、浪人して大学に進もうとして居る訳でもないため、今通っている学校での生活を捨てるように説得したり、大学受験を諦めさせる必要が無い。
次に、彼は正社員として働いている訳ではなく、あくまでも手伝いであるため、日本で試験生としての役目を終えれば、再びアメリカに戻って仕事の手伝いを再開する事が出来る。
唯一心配な事と言えば彼の人間不信が治っていない事だが、7年前と比べればかなり回復しており、今は何かあった時に相談出来る相手も増えている事から、試験生として暮らす分には問題無いと深雪は判断していた。
それに彼女は、ちょうど紅夜が過去のトラウマを乗り越えるために良いきっかけは無いかと考えていたところで、試験生になってくれる人材を欲していた雛とは正に利害が一致していた。
念のために豪希にも相談してみたところ、彼も乗り気だった。
こうして本人の預かり知らぬところで、紅夜を試験生にする計画が進められ、今に至るという訳だ。
「まあ、こうしてこの学校に来たのも何かの縁だし、せっかくの2度目の高校生活なんだ。さっき自己紹介で言ってたように、有意義に過ごしてくれ。俺達教師も、しっかりサポートするからな!」
「……よろしくお願いします」
「おう!」
満足そうに頷いた龍治は、机に置かれていたファイルを手に取った。
「それじゃあ、何時までも此所に居たって始まらないから、クラスの方に行こうか」
そう言って歩き出した龍治に追随するように、紅夜も歩き出す。
そうして彼は、これから1年間通うクラスへと向かうのだった。
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その頃、2年のとある教室では先程の試験生の話で持ちきりになっていた。
そこには先程倒れて運び出されていった女子生徒、
「へぇ、そんな事があったんだね」
クラスメイトの1人から試験生の事を聞いた穂乃果は、興味津々といった様子で言った。
海未とことりも試験生に興味があるのか、クラスメイトの話に耳を傾けている。
「それで、どのような方だったのですか?」
海未の質問にクラスメイトが答えようとした瞬間、教室のドアが開いた。
「席につけ、ホームルームを始めるぞー。お菓子食ってる奴もスマホ弄ってる奴も、没収されたくなきゃ机にしまえー」
そう言いながら入ってきた龍治は教壇に立つと、再び口を開いた。
「えー、この学校に共学化へ向けての試験生が来たという事は、高坂達以外は知ってると思うが、その試験生は2年生に編入する事になった。そして気になるクラスだが……」
そこで一旦言葉を区切った龍治は、ニヤリと笑みを浮かべた。
「喜べ、このクラスだ」
その言葉は、教室内の生徒達を一瞬にして湧き上がらせた。
「どんな人なのかな……!」
運び出された後は保健室で寝ていたため、穂乃果は試験生の顔を見ていない。
海未がどのような人物なのかを聞こうとしたが、その答えを聞く前に龍治が来たために結局聞けず、その事が彼女の好奇心に拍車を掛けていた。
「それじゃあ、改めて試験生のお披露目タイムといこうか………長門、入ってきてくれ」
龍治が声を掛けると教室のドアが開き、紅夜が入ってくる。
先程体育館で見たばかりだが、生徒達は思わず目を奪われていた。
男性でありながらポニーテールに纏められた長い髪は、まるで雪のように白く、右目の赤い瞳がルビーのように赤く光っている。
穂乃果も紅夜を見るのだが、その瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
長い白髪や右目の赤い瞳、そして左目を隠す黒い眼帯………このような特徴を持つ人間など、彼女の記憶の中には1人しか居ない。
「昨日のお客さん!?」
思わず机を叩き、立ち上がって声を張り上げる穂乃果。そんな彼女にクラスメイト達の視線が集中し、教壇に向かっていた紅夜も、足を止めて彼女の方を向く。
「お前は………あの時の店員か」
まさか、昨日和菓子屋で会った少女がこの学校の生徒だとは思わなかったのか、紅夜も驚いたように目を丸くする。
「何だ、お前等知り合いだったのか?」
「いや、知り合いって程でもないんですが……昨日、偶然寄った和菓子屋で会ったもので」
「……ああ、成る程。和菓子屋穂むらだな」
彼女の店を知っているのか、納得したように龍治は言った。
「まあ何はともあれ、先ずは自己紹介してくれ」
そう言われた紅夜は教壇に立ち、黒板に自分の名前を書いて生徒達に向き直った。
「先程も自己紹介しましたが、長門紅夜です。この学校を共学化するにあたっての試験生として、1年間通う事になりました。色々至らない点もありますが、よろしくお願いします」
集会の時にしたものと似たような自己紹介をする紅夜。
だが、それでは面白くないと思ったのか、龍治が口を開いた。
「長門は19歳で車の免許を持っているが、だからって寝坊した時の遅刻回避のための無料タクシー扱いしちゃ駄目だぞ?特に高坂!」
「なっ、穂乃果1年の時は5回しか寝坊しなかったよ!」
「いや、そういう問題じゃねぇだろ……」
反論する穂乃果に、紅夜は呆れ顔でツッコミを入れた。
高校生になってからも、ストリートレーサーとして夜な夜な出掛けてはベンチュラ・ベイで暴れ回っていた紅夜でも、寝坊して遅刻した事は1度も無い。
自分が出来たのだからと言って相手に押し付けるつもりは無いが、体調不良や用事など、やむを得ない事情が無いなら、やはり遅刻はしない方が良いだろう。
その後も漫才のようなやり取りを続けていた2人だが、紅夜が置いてきぼりになっている事に気づいた龍治が穂乃果を座らせ、咳払いをした。
「すまんな、長門。ほったらかしにして」
「い、いえ……」
本音を言えばさっさと席に座らせてほしかった紅夜だが、先程まで2人のやり取りを見ていた生徒が笑っている中でそれを言うのは野暮だと思ったため、心の内に留めた。
「それじゃあ長門、お前の席はあそこだ」
龍治が指差したのは、窓側の列の最後尾。穂乃果の後ろの席だった。
穂乃果はそれに気づいたのか、笑って手を振っている。
無視する訳にもいかないため、軽く頭を下げて会釈した紅夜は席に向かおうとするが、龍治に呼び止められた。
「因みに彼奴、授業中もしょっちゅう居眠りするから起こすの頼んだ」
「いや『頼んだ』じゃないですよ」
何が悲しくて居眠り常習犯の起こし役なんかやらされなければならないのかと、紅夜は内心で毒を吐きながら席へ向かった。
「それじゃあ新しい仲間も増えたところで、新学期最初の授業を始めるぞ」
龍治がそう言うと、生徒達は机に教材を置き始める。
「よろしくね、長門君」
「……ああ、よろしく」
席に座るや否や話し掛けてきた穂乃果にそう返し、紅夜も教材を取り出す。
そして、2度目の高校生活初の授業に臨むのだった。