不確実性下の改変   作:hrd

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閑話
9.5 入隊から2年後の錆兎と義勇 前編


 夢ならばどれほどよかっただろう

 

 

 ──出てきてくれよ? 

 助手鬼は蠱毒(こどく)の笑みを浮かべた。道端に落ちている壺の中に人間を放り込み、十二鬼月(じゅうにきづき)・上弦の伍、玉壺(ぎょっこ)を呼び出した。

 

 

 玉壺の旦那と土産の人間を喰いながら鬼の能力について話す。旦那を見つけ出すのは随分と苦労した。何せ同じ鬼なのに気配がわからない。気配の消し方が童磨以上にうまい。

 

「なぁ、旦那は壺から壺へ一瞬で移動できねえのか?」

「口を慎めたわけめ。そのようなこと、この玉壺には造作もないわ」

「本当か!? すごいな、漬け物みてえに夢が詰まってるじゃねえか」

「例える言葉が漬け物とは気品の欠片もない。美しい私にふさわしい言葉をお前は持ち合わせておらぬのか」

 

 上から目線で物を言う高飛車な旦那にニッと笑う。いつか黴の生えた糠床を詰めてやると心の中で決意する。

 

「ま、実際に詰まってるのは玉壺の旦那だけどな」

「魚や蛸もいるがな」

「それも旦那じゃねえか。糞よりはましだがな」

「きさま!」

 

 旦那が凄むと同時に濃い瘴気が辺り一面に充満する。体がガタガタと震え冷や汗が止まらない。上弦の伍の瘴気だ。鬼になったばかりの体では耐えられない。

 

 瘴気が濃すぎて息ができず、次第に視界が霞だす。くそっ、と悪態をつき、瘴気一つとってもあまりの実力差に悔しさが込み上がる。格の違いを見せつけられるというよりは、違いを見せつけられる以前の問題だった。

 旦那は格を見せつけようとすらしていない。

 

 それでも怯んでいるだけではいられない。弱さゆえの反骨精神を表に出して余裕を見せる。

 

「すまん、冗談だ。でも壺から壺へ移動できるってのは、旦那はやっぱり強いな」

 

 旦那を称賛し持ち上げる。気分良くした旦那は瘴気を解き、緊張から体が解放される。

 

 旦那は承認欲求が高いのだろう。利用するには持ち上げて掌の上で転がす方法が適している。

 長い年月をかけて馬鹿みたいにただ人間を喰ってきただけの旦那を嗤う。

 長く生きているだけで新しいものを取り入れようともしない思考が止まった老害を引きずり下ろしてやる。

 

 助手鬼は指を折り曲げ、玉壺の良いところを挙げていった。

 

「近距離攻撃は旦那自身が戦えるだろ、化け物や魚を呼び出す蛸壺攻撃で中距離もいけるだろ、よく知らんが遠距離だろ、後は毒だろ、雅なことは知らんが壺も高く売れそうだ」

「美しく気品にあふれ優雅に満ちていると言えぬのか。まあ、貴様程度には私は過ぎたものよのう。今夜は共にいることを誇るがよい」

 

 旦那は胸を張り、もっと褒めろと待ち構えている。

 

「ああ、すごいことだ。さすが無惨様(あのお方)の特別だ。ちなみに聞くが、旦那は分裂することもできんのか?」

「……どういう意味だ?」

「旦那が自分を何等分かに分けて存在するんだよ。例えば、今旦那は上弦の伍の力を持ってるだろ。これからもっと人間を喰ってさらに強くなる。その強くなった分を切り離してもう一人の旦那を作る。その旦那ももっと人間を喰って強くなって今の旦那と同程度の力になるように力をつける。その旦那がさらに分裂してもう一人の旦那を作ってこれを繰り返す。旦那が能力で化け物を生み出すのと同じように能力で旦那が旦那を作れたら強いんじゃねえかって思ってな。単細胞生物が分裂していくやつだな。旦那を殺そうと思ったら分裂した回数旦那を探して殺さなきゃならねえってやつだ」

 

「旦那しかできねえと思うんだ」──その一言に旦那は喜色を満面にした。

 

「それは面白い」

「そうだろ。そしたら旦那最強じゃねえか。あのお方もより一層旦那を重宝するはずだぜ」

 

 その後もとりとめのない話をし、それぞれ暗闇の中へ姿を消した。

 

 十二鬼月・上弦の伍、玉壺の感触は上々である。

 あれならうまく転がせられる。

 まあ、本当に聞きたいことはまだ聞かない方が良いだろう。体が朽ちても魂だけで生きられるかなんて思いつきもしねえだろうな。魂を分裂させて物に残留思念を封じ込める。年月はかかるが人間の生気を吸い取るもしくは乗っ取ることができれば生きながらえるはずだ。だがそれは無惨様の目的じゃない。踏み込むのはまだ先になる。

 

 頚を斬られても生き残ってみせる。

 鬼の限界はどこまでなんだろうな。

 

 

 

 

 

 

 ──旅人が美しい壺を拾った。旅人はその壺を骨董屋へ持って行き金に換えた。

 

 

「こんにちは」

「はい、おおきに」

 

 骨董屋に一人の青年が顔を出す。身なりは整っており、それなりに裕福な家の人間であることがわかる。

 青年は店の中へ入り、辺りを見渡した。

 

「あのー、なんか良い壺あります? 今度客が家に来るので飾り物として新調したいのですが」

「そんなら坊ちゃん、ちょうどええところに来はったわ。ちょうど今朝、上等な壺を入れたところなんやわ」

 

 青年に旅人から買った壺を見せる。

 壺の見た目は美しく、大きさも丁度良い。銘がないことで価格は高くはないが、古くからの技法が取り入れられており、嗜好品としては充分である。

 青年は壺と価格を見比べながら頷いた。

 

「じゃあ、この壺をお願いします」

「まいど、ありがとうございます」

 

 店主は頭を下げ、店先まで青年を見送った。

 青年は骨董屋を後にし、壺を抱えて歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 名は櫻 物の見事に 散る事よ

 

 

 町の入り口で二人の少年は再会した。一人は口元に傷痕があり、オレンジがかったピンク色の髪をしている。意思の強い目と凛々しい佇まいは、彼の厳格さをより一層表していた。

 もう一人の少年は、人形の様なきれいな顔立ちをしており、少々硬そうな黒髪を後ろで一つに縛っている。先程の少年よりも幼く見えるのは、丸く大きな目のせいなのだろう。

 

義勇(ぎゆう)、2年ぶりだな。怪我はないか」

錆兎(さびと)! ああ、大丈夫だ。錆兔も怪我はないか」

「変わり無い。最終選別を突破した後はすぐに隊に別れたからな。今日組めるのが楽しみだった」

「俺もだ」

 

 錆兎の変わらない態度に義勇は口元が緩む。錆兎とは鬼殺隊に入る前に同じ師の元、共に修行に励んだ。

 入隊してからは会っておらず、今回の任務で初めて組む。

 

 会えなかった分の成長を錆兎に見せる良い機会であり、錆兎の成長もまた間近で見ることができるため、義勇もこの日が待ち遠しくてならなかった。

 

 

 

 97代目鬼殺隊当主、産屋敷耀哉の功績の一つに、鬼殺の剣士の長生が挙げられる。

 

 鬼殺の剣士は短命だ。入隊直後の剣士を筆頭に、柱以外の剣士の命は鬼との戦いによって瞬く間に散っていく。故に剣士は常に人員不足であった。

 最終選別を通過した者を入れたとしても、新規入隊者における1年間の生存率は10%以下であった。10人入隊したとしても1年間生き延びる者は1人である。その1人でさえ、次の年まで生き残るかは不明である。

 

 その原因は主に知識、技術、経験不足が挙げられる。新入隊員の鬼に対する知識、剣技は修行時の師匠、育てにより差が生じる。更に、最終選別を通過した後は、一人前の剣士として誰からのサポートもなく一人で鬼を滅する。

 

 耀哉はこの事実に涙した。よって耀哉は新米剣士の長命に尽力した。

 

 鬼殺隊の勢力は、改革しなければ衰えることは明白であった。質の良い組織を維持するためには、まず新人を育て戦力を底上げしなければならない。

 だが、時間、戦力、心に余裕がない中で人を育てることは困難である。それ故に耀哉は前世も含めあらゆる知識を総力して改革に臨んだ。

 

 耀哉は入隊直後の隊員を対象に2年間の小隊制を導入した。(ひのえ)から(きのえ)までの上位二位の剣士が新人剣士を最低一人、最大三人まで受け持つ教育制度である。

 これにより、新人剣士の1年間における生存率は飛躍的に向上し、鬼の情報や戦術も共有されるようになった。また、知力、体力、精神力も向上し、呼吸が合っていない者は他の呼吸を紹介され実力を上げていった。

 

 高位の剣士には後輩の命を預かる責務、チームとしての戦術の見直しが要求されスキルアップへと繋がった。表向きは新人剣士の教育だが、裏では高位の剣士の実力の向上も兼ねている。

 甲に位置する剣士であっても、鬼を50匹もしくは十二鬼月を倒せず昇格していない、昇格する気のない剣士は存在する。そんな彼らに耀哉は機会を与えた。条件を満たさずとも研修が終わった後、継子もしくは柱となる可能性があるということを。

 

 この制度により、各階級に属する隊士の層、柱の継子受け持ち率は上昇し、戦術の幅も広がった。故に現在、鬼殺の剣士の数は過去最高に達している。

 

 これが、戦うことのできない産屋敷耀哉の一つの闘いだった。

 

 

 

 義勇、と名前を呼ばれて隣を見ると、錆兎は真剣な表情で言った。

 

「俺は柱になる。柱になってより多くの人を助ける」

 

 錆兎の決意に義勇も頷き、同意を示す。

 

「俺と義勇で、最強の水柱になろう。俺たちの命は、色んな人が命を懸けて繋いでくれた。託された未来をこれからは俺たちが繋いでいこう」

 

 差し出された手と言葉に、昔を思い出した。

 修業時代に錆兎と喧嘩した時だ。原因は忘れた。だが、いつのまにか心の奥底に燻っていた(くら)い過去を錆兎にぶちまけていた。

 

 姉は、鬼に喰われた。祝言を挙げる前日に鬼に喰われた。俺を庇って死んだ。両親が死んでから自分を犠牲にして育ててくれたのに、幸せな生活が待ってたはずなのに、俺は姉を犠牲にして生きてしまった。だから「姉さんの代わりに死ねばよかった」と錆兎に吐き出した。

 その直後だ。錆兎に頬を叩かれ、諭されたのは。

 

 目が覚めた瞬間だった。

 生を肯定され、少しだけ自分を許すことができた。

 錆兎は、過去を見続けていた昏い目を現在に戻してくれた。姉の想いとこれからの生き方について説き、俺を救ってくれた。あの時からずっと、錆兎は眩しい。

 

「だから、お前も絶対死ぬんじゃない」

 

 差し出された手を強く握った。目頭が熱くなりツンとしてくる。潤んだ目を見せたくなくて、隠すように茶化した。

 

「……錆兎、柱は9人だ。その内2人が水の呼吸になるが、良いのだろうか?」

「9人で駄目だったら10人目の柱になればいい。多くの人を救い、誰も文句を言えない程強くなればいい」

「わかった」

 

 発した声は湿り気を帯びている。握りしめた互いの手には涙が落ちた。

 俺は錆兎を見て何度も頷き、夢ではなく目標を口にした。

 

「二人で最強の」

「柱になる」

 

 声に出すことで明瞭な目標となる。言い終わると、お互い同時に笑った。

 

「ところで義勇、俺はこの任務の後水柱の継子になる。研修の時に先輩が継子に推薦してくれたんだ。この間水柱にも認めてもらった」

 

 錆兎の一言に目が開く。さすが錆兎だと思う自分と、意味が分からないと思考を停止する自分がいた。

 錆兎が畳み掛けて何か言っているが、一つも頭に入ってこない。

 

 共通の目標に向けて一斉に走り出したはずなのに、錆兎は最短の道を走っていた。俺はその道を選ぶことはできない。

 

 錆兎は苦笑しながも視線をひたと据えてきた。

 

「義勇、俺は一歩先に柱へ近づいた。だからお前も早くこい」

「……必ず、追いついてみせる」

 

 徐々に悔しいという思いが込み上げてくる。

 絶対に追いつき、追い抜いてみせる。互いに背中を守り合う存在になってみせる。

 

 義勇は静かに闘志を燃やし、錆兎と共に歩き出した。

 

 

 

 

 

 鎹鴉が案内した町は、商人たちの声が響き渡る活気に満ちた町だった。

 

 

 錆兎と義勇は町を歩き回るが、鬼の痕跡どころか手掛かりすら掴めずにいた。町の治安も非常に良く、滅多なことがない限り、争い事も起きないそうだ。

 だが、それを伝えても鎹鴉はこの町だと躍起になる。烏の情報網を甘く見てはならないと重々承知しているが、鬼の痕跡どころか人が消えた噂すら無い。

 ひねくれた考え方になるが、挙げるとすれば、この町の治安があまりにも良すぎることしかない。

 

「錆兎」

「わかっている。町がきれいすぎるな」

 

 錆兎の目も同じことを語っている。

 

 この町に鬼は居る。それも痕跡を残さない程の強い鬼が。陽が昇っているうちに手掛かりを見つけなければ、犠牲者が増えるだろう。

 錆兎も同様のことを懸念しているのか、凛々しい顔を引き締めて鬼の気配を探っていた。

 

 

「義勇!!」

 

 突如、ゾワリと背筋を撫でるような悪寒が走る。周りを見渡し気配の元を辿ると、壺を抱えた男が一本前の通りを歩いていた。

 隣にいた錆兎は既に走り出し、俺は周囲を確認してから錆兎の後を追った。

 

 

 先に走り出した錆兎は、男を地面に押さえつけていた。二人の周りには男の荷物が散乱し、道行く人が目を丸くしている。喚き暴れる男を錆兎は難なく拘束し、尋問していた。

 

「いきなり何すんだ!! くっそ! 離せよ!!」

「単刀直入に言う。お前は鬼の協力者か。鬼はどこに居る」

「はあ?! 何わけわかんねえこと言ってんだよ!! 鬼とかなんだよそれ! 知らねえよ! どけよクソガキ!!」

 

 今の男からは、鬼の気配は感じられない。

 俺と錆兎は目を合わせて一緒に首を傾げた。

 

 

 

 

 

 錆兎、義勇と青年はお茶屋で団子を食べていた。いうまでもなく、手荒なことをした青年へのお詫びである。錆兎は青年の向かいに座り、机に額を擦り付けた。

 

「本当にすまなかった」

「ああ、本当にな」

 

 青年はぶっきらぼうに返し、団子を次々と頬張っていく。見たところ、青年は二人よりも年上の様である。

 義勇は青年を観察しながら、錆兎の行動を感心していた。

 青年を鬼の協力者と間違えたが、自分の感覚を信じ、話を聞き出そうと詫びと称してお茶をご馳走している。

 そんな転んでもただでは起き上がらない錆兎に、義勇は尊敬の眼差しを送った。

 

「この町は平和だな」

 

 ぽつりと錆兎が青年に言った。言外に平和すぎると含みがあることを義勇は理解した。

 鬼の協力者がどこに潜んでいるのかわからない状況で、お前は鬼の何なんだと直接聴くのは危険だからだ。

 錆兎の言葉をわかりやすく青年に伝えるにはどうすれば良いのか義勇は考え、口にした。

 

「水清ければ魚住まず……」

「あ? 急にどうした……」

 

 錆兎の意図を汲み取った脈絡のない義勇の一言に、青年の顔が引き攣る。

 ──こいつもヤバイ奴だったか。

 

「水があまりにも澄みきっていると魚が住みつかないように、人も高潔すぎると人が寄り付かず孤立してしまうという意味だ」

 

 すかさず錆兎が義勇のフォローにまわるが、青年が聴きたいことは故事の意味ではない。

 二人の天然ぶりに青年は次第に苛立ちが募る。

 

「んなことわかってんだよ。何で急にそれを言い出したって言ってんだよ!」

 

「おそらく義勇は、この町は澄みきる水の様に治安が良く、後ろ暗い輩は一人もいないんじゃないかと言いたいんだ。見栄えが良すぎてよそ者には少々息苦しい。町を見て周ったが、現に争いごとも危ない輩も浮浪者もいない」

 

 青年の眉がピクリと動く。そのまま遠慮なく団子を食べ続けながら青年は素っ気なく返した。

 

「意味を凝縮しすぎだろ。使い方もへたくそすぎるわ」

 

 口の中にある団子を呑み込み、青年は話し出す。

 

「……でもまあ、あながち間違っちゃいないですけどね。この町は縁無(えんむ)様に守られてるから」

「エンム様とはなんだ?」

「この町の土地神様ですよ。この町は賑わってる分、昔は荒くれ者も多くて危なかったらしいんですよね。実際、大通りから一本細い道に入ると薄暗いですし。うちのばあさんがよく口にしていましたよ。『薄暗い場所には薄暗い人間が後ろ暗いことをしている』ってね。だからその分、昔は不条理にいろんなものを奪われる人が多かったらしいです」

「その話、続けてくれないか」

 

 錆兎の言葉に義勇も頷く。鎹鴉の言う噂はこの話かもしれない。

 青年は暖かい茶を啜り、一息ついて話を続けた。

 

「縁無様の話は、祖父母が幼い頃から町に広まったらしいのでそこまで古くないんですよ。

 権力のある人が、気に入らない者から全てを奪ったそうです。お金、家、婚約者、ありもしない噂を立てて人徳も命も奪ったそうです。

 奪われた人は川に身投げし、その遺体を見た婚約者は、後を追って夜中に井戸で自殺を図ろうとした。そんな時『いい夢を見せてあげよう』って声がしたらしんですよ。女は事のあらましを井戸に話し、『権力者(あいつら)の苦しむ姿が見たい』と言ったそうです。夜が明けると、権力者とその一族郎党死んでたそうです。

 その死に方はあまりにも猟奇的で、獣に喰い殺されたように悲惨だったらしいですよ。女はそれを見て狂ったように笑い、翌朝同じように悲惨な姿で死んでたそうです。

 悪い縁は全て無に。そういう意味を込めてこの町では縁無様と呼び、治安の神様として祀っているというか鎮めているというか、そんな微妙な位置ですね」

 

 青年は茶を再び口に含み、吐息と共に考えを吐き出した。

 

「さっき、この町は平和だって言いましたよね。それって、平和すぎて怪しいってことですよね。何かあっても町全体で隠してるんじゃないかって」

 

 義勇は目を細めて青年を見た。彼は鋭く賢かった。

 錆兎は思案し、義勇に視線を送った。彼を協力者にする。視線からそう聞こえてきて義勇は頷いた。

 その通りだ、と錆兎は強い視線で青年を捉え、先程の言葉を肯定した。

 

 青年は何か言いづらそうに目線を逸らす。

 

「僕、この町がちょっと気味悪いんですよね」

「……どういうことだ」

「家無し……浮浪者を筆頭に人が消えていくんですよ」

 

 青年は目を伏せ、自嘲気味に言葉を続ける。

 

「僕の家はちょっと大きな商売をしてるんでね、その勉強の一環で町の状態を常に観察してんですよ。流行とか、何を売れば人は買うのかとかね。その中で少し前から気になってたんですよ。あー、人が消えてるなって。橋の下とか誰もいないでしょ。一週間町に滞在するって言っていた旅人が、次の日から姿が見えないこととか何回もあるんですよね」

「誰も何も言わないのか?」

 

 義勇は思ったことをそのまま口に出したが、青年はより一層顔を歪めるだけだった。

 

「誰も困ることじゃないので言い出す人なんていないですよ。むしろいなくなることで治安は良くなる。浮浪者同士の抗争とかもなくなりますしね。よそ者のことは、もっとどうでもいい」

「その守られた治安が、お前達の言う土地神様のおかげなのか」

 

 青年は苦笑した。

 

「おかしなことに、みんなそう言ってる」

 

 義勇は、青年の横に置いてある壺を見たが何も感じなかった。錆兎に目を向けるが、錆兎は瞳を閉じて顔を左右に振るだけだった。錆兎も今は何も感じていないらしい。

 錆兎は感覚が鋭い。ほんの僅かな殺気でも敏感に感じ取る。それは鬼の気配であっても同じだ。元より優れていた感覚が、最終選別を終えてより一層磨き上げられた。

 

 俺と違って、正式にあの試験を突破したのだから当たり前なんだろうが。

 

 だからこそ、義勇は青年を見て真っ先に走り出した錆兎の感覚を否定することはしなかった。

 錆兎は未だ壺に視線を向けている。土地神様の話も気になるが、壺の方を優先したいようだ。

 義勇は錆兎の気持ちを慮り提案した。

 

「錆兎、俺は土地神について調べる。壺は任せた」

「すまない、助かる」

 

 錆兎は青年の目をひたと見た。目力のある錆兎に見つめられた青年は、たじろぎ視線を逸らす。

 

 わかるよ、その気持ち。錆兎の眼力は強い。だが、目を逸らすのは平伏するのと同じだ。

 

 義勇はお茶を啜り、青年の負けを確信した。

 錆兎は机に身を乗り出し、青年の目を見据えて追撃した。

 

「今夜、その壺を見張らせてもらえないか」

「 あー……、いいですよ……」

 

 有無を言わせない錆兎の圧力に、青年は顔を歪めた。

 

 

 

 

 

 

 ──妖怪と神は本質としては等価だ。だが人々は別の意見をもつだろう。真実を知れば。

 

 

 なにが寂しくて僕は錆兎少年と夜の河原で夜を明かさなければならないのだろうか。字面だけ見れば、なにかいかがわしいことをしようとしているように見えるが、実際はそうではなく、ただ僕達は壺を前に腰を下ろし、壺を睨み続けているのだった。

 いや、もっと正確に表すならば、僕の隣に座る錆兎少年は壺を睨み続け、僕は半目になって壺を眺めている。そう、この時間は僕にとって実につまらない時間なのである。

 

「なあ、家で見張っていた方が良いんじゃないか」

 

 口調もよそ向けの口調から雑になっていく。彼らに気を使うだけ無駄である。無駄なことをして疲れるのは馬鹿げていると僕は常々思っている。

 言葉通り家に壺を持って帰って二人で睨み続けるか、壺をおいて自分だけ家に帰るか。どちらにしても帰りたい旨を錆兎少年に伝える。

 

「家族が喰われるぞ。喰われてから後悔しても遅い」

 

 ぞくり、と怖いものを見てしまったように肌が泡立った。彼の口調は厳しく、同様に視線も鋭利だった。肌寒い夜風とは違う冷たさが、全身を走り胸に穴を空ける。

 

 彼の視線と言葉で理解する。僕は未だ彼に疑われており、彼の中ではこの壺は鬼とやらの住処となっている。僕を鬼と思っているのか、会った時に言っていた鬼の協力者と思っているのかはわからないが、見当外れも甚だしい。

 彼は壺だけでなく僕も見張っていた。優劣はあるが、壺と僕は彼らの中では疑わしいという群に分類されている。ならば手っ取り早く身の潔白を証明して、彼の役に立てばさっさと家に帰れて布団で眠れるのではないだろうか。

 そう考えて僕は、後々思い知らされる愚かな質問をした。

 

「なあ、その鬼とやらは何が好物なんだ? どうやったらその壺から出てくるんだ?」

 

 僕の突拍子もない質問に彼は怪訝な眼差しを向ける。きみ、目力あるから怖いんだって。

 

「人間だ」

「そう、なんかそんな感じしてたけど、実際訊くと君達の行動に納得がいったよ」

 

 真剣すぎて行動が奇妙に映るんだ。

 

 僕は立ち上がり、落ちている石を掴んで地面に叩きつけた。石は割れ、鋸の刃の様に面は粗い。それを使って僕は壺の前で手首を切った。

 人間を喰うなら、血の匂いでも襲ってくると思ったからだ。

 

「馬鹿野郎!!」

 

 彼の怒号を無視して壺の周りに血を落とす。何滴目か、手首から滴り落ちる赤い雫は壺の中へ吸い込まれていった。

 いつの間にか、壺は動いていた。独りでに、血が滴り落ちる手首の真下まで動いていた。

 

 瞬間、吐き気がするほどの悪寒が壺から放たれる。

 

 気づくと僕は錆兎君の後ろにいた。彼の背中越しにソレを目にし、震えのあまり呼吸が止まる。人の手足が生えた魚の様な巨大な化け物が、涎を垂らしてこっちを見ていた。それはまさしく、餌を見る眼だった。

 

 頭の中で警告の鐘がガンガン鳴る。早く逃げろと鐘の音が速く強く鳴るが、体が固まり動くことができない。

 僕達はコイツに喰われる。その事実を認識し、僕は恐怖に呑み込まれた。

 

「下がってろ!!」

 

 彼は冷静だった。僕は歯をガタガタいわせて腰を抜かしているのに、彼は巨大な化け物に立ち向かっていた。

 

 何で僕は、無条件に守られているんだ。

 

「これが、鬼……」

 

 こんな恐怖の塊ときみは戦い続けているのか。

 

「違う。恐らく鬼の能力の一つだ」

 

 彼は刀を抜いた。構える刃は月の光を反射し青く光っている。その輝きは、彼の高潔さを連想させた。

 シイィィィィィィィ──と彼は息を吐き、一瞬にして姿を消した。突然巻き起こった風に目を瞑り開くと、彼は宙を舞っていた。

 

 水の呼吸──陸ノ型 ねじれ渦

 

 巨大な水龍が化け物を閉じ込め飛翔する。その光景はこの場に似合わず、とても美しく思えた。

 

 彼が着地した後、化け物は肉塊となってボトボトと落下した。地面には罅割れた壺も転がっている。

 

「やった……!」

「まだだ。──本命のお出ましだ」

 

 彼は罅の入った壺を射殺すように睨みつけた。

 次第に壺から肌を刺す悪寒が漏れ始める。鳩尾を押されるような不快な感覚が胸に広がり、喉を絞めつけられるような息苦しさに涙が落ちる。

 

 壺の中身は嗤った。死体を煮詰めて発酵した悪臭と共に、壺からゆっくりと這い出てきた。

 ムカデの様に、胴体には幼子の手がいくつもついている。顔には、目がある箇所に口が、額と口がある箇所には目玉がある。目玉にはそれぞれ『上弦』と『伍』の文字が刻まれていた。

 

 目元にある口がニタリと釣り上がった。

 

 僕は悪臭と嫌悪感に耐え切れず、胃液を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 耳を裂く叫びに、義勇は屋根の上を駆けていた。

 

 

「ああああああ!!! 助けてくれ!! 誰か!! 助けてくれえええ!!」

 

 男が血まみれの女を抱きしめ、喉が裂けるほどの声を上げている。地面には女の血が溜まり、助かる見込みはない。男は喪心のあまり膝をついて滂沱の涙を流した。

 ぽんっ、と肩をたたくように、男の背後からこの光景に合わないほどの飄々とした声がかかる。

 

「その子を殺したのは君なのに、随分なことを言うんだね」

 

 若い優男が男の顔を覗き込み嗤う。

 

「おまえ!!」

 

 血が上ったように、男は持っていた包丁を怒りに任せて振りまわした。

 

「そう、その包丁でその娘を刺したんだよ。君が」

「だまれええ!!! おれは知らない!! 目の前に化け物がいたんだ!! 刺しただけなんだ!!」

「それがなぜか君の婚約者だった。でもほらこの娘の手元を見てごらん。この娘も君を殺したかったみたいだ」

 

 優男が視線で男を誘導する。視線の先には、血だまりの中に包丁が転がっていた。それは悲しくも女の手元にあった。

 

「お互い、殺したかったんだね」

 

 うっとりと、極上の笑みでほほ笑みかける優男に男の目は血走る。

 

「嘘だ嘘だ嘘だ!!! 嘘だ!!」

「本当だよ」

 

 優男はパチンッと指を鳴らした。暗闇が男の周りを徐々に侵食する。いつの間にか優男は消えていた。男は一人、暗闇に取り残され泣き喚く。

 事実、男の腕の中に娘はいない。

 だが男の中では、息絶えた婚約者を抱きしめていた。

 

 

 ──夢から覚めるように、優男は瞳を開いた。

 目の前には男と女が苦痛に顔を歪めて眠っている。目の周りは涙で濡れ、彼の嗜虐心を十分に煽った。

 

 十二鬼月・下弦の壱、魘夢(えんむ)は、熟れた餌に唇を舐め恍惚とした。

 

「──それでは、いただきます」

 

 水の呼吸──壱ノ型 水面斬(みなもぎ)

 

 ──ゾクリッ、と本能が危機を察知し体に電撃が走る。瞬間、頭上からの一閃に、魘夢はその場から飛び退いた。

 魘夢の速い動きに土煙が舞う。煙は次第に晴れ、一閃の正体が姿を現す。そこには、刀を持った黒髪の少年がいた。

 

 魘夢は過去の経験からソレの正体を理解する。

 憎くてたまらない。

 

「鬼狩りがッ!」

 

 眠り死ね!! 

「眠れぇえぇ」魘夢が突き出した左手から口が現れ奇声を上げる。その声は目の前の鬼狩りを深い眠りへと突き落すはずだった。

 

 水の呼吸──参ノ型 流流舞(りゅうりゅうま)

 

 それは濁流の如く蠢いていた。

 流水が地面を抉るように、義勇は刀で地面を削り轟音で血鬼術を相殺する。

 

 魘夢には自信があった。下弦の壱である己の硬質な肉体は、こんな小僧には傷一つつけられないと。

 

 暴れ狂う土石流が魘夢の目の前に迫る。

 それはかつて戦った鬼狩りの威力とは違った。

 とっさに魘夢は避けたが、腕を一本持っていかれる。刎ねられた腕は血飛沫と共に宙を舞い、ドサリと地面に落ちた。

 魘夢は腕を生やし、憎々しげに義勇を睨みつける。

 

「よくもやってくれたな……」

 

 血鬼術──強制昏倒催眠(きょうせいこんとうさいみん)(ささや)き・(まなこ)

 

 魘夢の血を吸った地面から巨大な肉塊が現れ義勇を襲う。肉塊を埋め尽くすほどの目と口が一斉に義勇を向き、暴力的な睡魔が襲いかかる。

 

「悪夢にもがいて苦しめ!!」

 

 魘夢の呪詛により強化された肉の触手が、義勇目がけて矢となって襲う。

 義勇は矢を一閃し、追撃の触手も斬り落とした。

 

 血鬼術は展開され続けているにもかかわらず、義勇は未だ刀を振り続けている。

 魘夢は血鬼術の(まなこ)を介して義勇を見た。義勇は目を瞑り、叫びながら触手を斬り続けていた。

 

 瞳を閉じれば視覚を遮断することはできる。だが刀を握る以上、手で耳を塞ぐことはできない。故に義勇は声を張り上げ、自身の声のみを聴くことによって血鬼術を祓い続けていた。

 

 魘夢は屈辱に塗れた。こんな下っ端の鬼狩りに術を防がれ、苛立ちのあまり額に青筋が立つ。

 

 血鬼術だけでは足りない。自ら一撃を入れなければ気が済まない。

 

 魘夢は走り出した。義勇の間合いに入る前に飛び上がり、遠心力を利用して回し蹴る。

 義勇はすかさず身をかがめて躱し、宙に居る魘夢の鳩尾を貫いた。

 魘夢はニヤリと笑った。胴を突く刃を握りしめ、義勇の右腕を膝蹴りで砕く。

 義勇は瞬時に刀を左手に持ち替え、型を出した。

 

 水の呼吸 弐ノ型・改──横水車(よこみずぐるま)

 

 体勢を地面と水平にし、全身を使って魘夢を回し斬る。刀に突き刺さっていた魘夢は、遠心力により鳩尾から半身を引き裂かれ、刀から抜けて飛ばされた。

 

 静寂が訪れた空間で義勇は跪く。砕かれた右腕の激痛から尋常じゃない量の脂汗が湧き出る。痛みに叫びたくとも声は枯れて出ない。内に籠り続ける激痛に呼吸が乱れ心が暴れ狂う。

 

「うああああああああああ!!!」

 

 突如、眠り続けていた男が叫びだした。男には、斬り落とした魘夢の手が男の頭を鷲掴んでいた。

 義勇は男に駆け寄り手を取り払う。

 瞬間、掌から目玉がギョロリと現れ、目玉と目が合った。

 転瞬、暴力的な睡魔に義勇は襲われた。

 

 義勇は鬼の手を刺突し、刀に縋り混濁する意識に抗う。

 そんな義勇を嘲笑う様に、足音がゆっくりと近づく。

 

 血鬼術──強制昏倒催眠の囁き

 

「やっと眠った」喜色の声の主を睨みつけながら義勇は意識を落とした。

 

 

 

 

 

 

 突如、そいつは体を震わせて笑いだした。

 

 

「フフフフフフ、ヒョヒョヒョヒョヒョッ! ウッヒョヒョヒョヒョヒョヒョヒョ!! この土地は他の鬼の気配がする! この縄張りを奪えばさらに本体に近い力を得る!!」

 

 聞くに堪えない暴君に錆兔は一閃を放つ。だが、それは無数にある鬼の手の一つを斬り落としたにすぎなかった。

 

 玉壺は、ここに居る錆兎達など些細なことのように、町の方(遠く)を見て気持ち悪く笑った。

 

 町には大量の餌がある。鬱陶しい蝿のように視界を横ぎる錆兎を相手にするよりも、下位の鬼の縄張りを奪う方が得だと損得勘定が働く。

 

 手軽に大量に人を喰う姿を想像し、玉壺は口福に浸った。最早、錆兎達のことなどどうでもいい。

 玉壺は即座に壺に戻り、颯爽と姿を消した。

 

 錆兎はすぐさま土手を駆けのぼり、玉壺が見ていた方角を確認した。錆兎の力強い目が動揺で揺れる。錆兎は、鬼が嗤っていた理由を即座に理解した。

 

 町の方から義勇の技が見える。

 義勇は今、鬼と戦っている。土地神は鬼だった。

 

「おい、どういうことなんだ?! なんであいつは消えた!?」

 

 後ろから青年の声がする。錆兎は情報を整理するように、声に出して青年に答えた。

 

「町には他の鬼がいる! 義勇が戦っている!! さっきの鬼は町に向かった!!」

 

 答え終わると同時に錆兎は青年を置いて走り出した。青年もまた、既に姿が見えない錆兎の背中を追いかけて走り出した。

 

 

 

 

 

 ──真っ暗な世界で義勇は目を覚ました。

 

 

 自分以外何も見えない暗闇に、義勇は血鬼術を推測した。

 暗闇の中から何かの気配を感じ取る。左手で刀を構え、義勇はその先を睨みつけた。

 ソレは霧を通り抜けてきたかのように、闇から徐々に姿を現す。

 

 握る剣先の焦点はずれ、瞳も見開き揺れる。脳がソレを認識した時、義勇の目頭に熱いものが込み上げてきた。

 

 そんなはずない。分かってる。そんなことありえないんだ。けど、もう一度でいいから、会いたかった。

 

「義勇」

 

 いつも呼んでくれていた、優しい声がそこにあった。

 

「ねえ……さん……」

「会いたかったわ。大きくなったわね」

蔦子(つたこ)……姉さん……」

「ずっと義勇を待ってたの。会えてうれしいわ」

 

 蔦子の優しい笑みに、義勇の中で罪悪感が湧き上がる。

 

「姉さん、俺、あの時何もできなくて……助けられなくて……」

 

「ごめんなさい」そう言った時には姉さんの腕の中にいた。幼い頃、抱きしめてくれたように優しく暖かかい姉に鼻先がツンとする。

 今まで心に燻っていた懺悔の氷塊が義勇の涙と共にぽたぽたと溶け始めていく。

 

 蔦子は義勇を愛おしく抱きしめた。それがより一層、義勇の心を幼くしていった。

 

「いいのよ、義勇。貴方が生きてくれているだけで、姉さん嬉しいの。だからあなたには、私の分まで生きてちょうだい」

 

 蔦子は微笑みながら義勇の頬に手を添える。義勇と同じく、大きな目には水気が帯びている。

 

「──なんて、言うとでも思ったの?」

 

 一瞬にして蔦子の表情が消えた。全ての感情を吸い込んでしまうような、暗い目をしていた。

 

「義勇、どうして姉さんを助けてくれなかったの? 姉さんには幸せになる権利はないの? お願い。答えて。私の人生はあなたの踏み台だったの?」

 

 耳元で切なく話す蔦子の声が義勇の脳を揺らす。

 義勇の姿は、いつの間にか姉と死別した時の幼い姿になっていた。それがより一層、あの時の後悔を思い出させる。

 

「ごめんない。助けられなくてごめんなさい……。姉さん、ごめんなさい」

 

 涙が止まらない。姉の言ったことが全て事実だからだ。

 俺は、姉さんの人生を犠牲にして今生きている。俺がいなければ姉さんはもっといい暮らしができていた。山奥じゃなく、町に出て住み込みの働きもできていたはずだ。食うものにも困らず、きれいな着物を着て、美人で気前もいい姉さんはもっと早くに結婚もできていたはずだ。そうしたら、鬼に襲われることもなかった。

 

 俺がいたから、姉さんの人生が不幸に傾いた。

 

 フッ、と二人の目の前に小さな天秤が現れる。

 天秤は、蔦子の人生を表していた。皿の上には、蔦子に似た人形が置いてあり、もう一方の皿には蔦子の幸せが詰まっていた。

 両親が死に、幸せの皿からその分の幸福が落とされる。落ちた幸せは、天秤の下にいる手が奪い合い引き裂いていった。いつの間にか、天秤の下には人間の手を模した不幸の手が波のようにうねっていた。

 

 蔦子の天秤に、義勇という重りが増える。幸せの皿に義勇が乗り、皿が低く傾き不幸に近づく。その皿の傾きを上げるために、蔦子は幸せの皿から義勇以外を落としていき、義勇を不幸から遠ざけ続けた。

 次第に蔦子が乗る皿が地に落ちる。落ちた蔦子に不幸の手が群がり、蔦子を喰っていった。

 

 義勇は蔦子の天秤を目にし、罪悪感に心臓をつかむ。姉さんは、俺を不自由させないように自分の幸せを捨てた。我慢して、努力して、耐えて、報われずに死んだ。それも俺を庇って。

 

「いいのよ、義勇。これからは一緒にいてくれるんでしょ。向こうに準備してあるの。あなたと暮らすために用意してきたのよ。義勇、一緒に行きましょ」

 

 義勇の心は呆然としていた。幼くなった義勇は抵抗することなく、蔦子と手をつなぎ、暗闇の方へ歩き始めた。

 


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