おとぎ話から生まれた殺人は、おれに戒めを教え、現実に起きた殺人は、おれに覚悟を教えた。
鬼が背を向けて歩き出した後、クルイが鬼に追いつくのに約5秒かかった。その間にクルイは鬼の眷属を倒し、能力を分析した。
鬼の能力における分析──。
薬を出現し使用する能力。一例、身体および脳の機能を向上または低下させる。
長距離における攻撃。薬の散布。出現させた薬を散布し、能力を摂取した生物を眷属にする。眷属になると鬼に吸収される。眷属および戦闘訓練を積んだ人間も戦力の一部。
近距離における攻撃は未知数。
結論──薬が自然界および人工的に創られたものであればオレに効果は無いが、鬼独自による創造されたものであれば、効果は未知数となる。薬は粉体、固体のみならず液体、気体の出現も推測される。
薬以外の物質の出現、手以外からの能力の発現も考えられる。
クルイは死角から鬼の頚を狙い、脇差を振りかざす。刀身が肉を裂き、頚椎を断つ瞬間、骨から六角柱の結晶が散弾し、刀を弾き返した。結晶の圧倒的な生成速度、硬度、威力に刀身が震える。
クルイはすかさずもう一方の刀で追撃を図るが、鬼は再度頚から結晶を出現させ、加圧した鋭利な水流を追撃として放つ。
クルイは空中で体を捻り水流を回避した。避けた水流は後方で瓦礫を切断し、瓦礫は切断面から煙を立てて溶解した。
弾丸の如く放たれる結晶により、クルイは鬼から距離をとる。その際、襲いかかる水流を角度をつけた刀身に反射させて躱す。
──能力の発現は全身から。結晶、液体は鬼の独創物か否か。
鬼は頚の骨から生成した結晶をもぎ取り、頚を繋げて構えた。
クルイも双刀を構えなおし、能力の情報を修正する。
ミルキが情報の波に乗りネットサーフィンをするように、クルイは知識の海に潜り自らの記憶と語り合った。
無色透明の結晶。刀と競り合っても欠けない様子から硬度は刀以上。形状から鉱物と推察。
刀を見た。
少量の液体を弾いただけだが、刀が若干溶解している。液体からは薄く煙が立ちあがり、特有の刺激臭もする。液体の特徴、純度の高い鉄を溶解させる性質から王水と推測する。
刀はまだ使える。だが刀で受け流し続ければ、溶解して使い物にならなくなる。
鬼は間髪入れずに小刻みに王水を飛ばす。
クルイが飛んで避ける度に、床は溶解され足場が消えていく。鬼はその間も、もう一方の手からきらきらとした銀白色の粉末を放出する。
──クルイは遠い記憶を思い出していた。あの世界に転生するよりも前の記憶だ。
テレビを見ていた。金属加工工場から爆発事故が起きたというニュースだった。不思議なことに、火事が起きているのに消防は水を撒いていなかった。アナウンサーは原稿を読み上げた。大気中の窒素と反応したマグネシウムは、水と反応すると高熱を生み出す。燃焼中のマグネシウムに水をかけると、水は分解され、水素と酸素が発生して爆発を起こし、マグネシウムの燃焼を加速させる。その後画面が切り替わり、粉末のマグネシウムが映し出された。それは、きらきらとした銀白色の粉末だった──。
クルイはこれまでの戦闘から確信した。血鬼術は下界に存在する物質であることを。鬼独自による想像した創造物ではないことを。
近接攻撃のクルイと遠隔攻撃の鬼、双方にとっての最善の攻撃距離の相性は最悪だった。
クルイは跳躍した。轟然と降り上げた右脚にオーラを80%移動させ鬼の胴体を砕く。
クルイは刀を使用しなかった。鬼が防御に金属を生成した場合、刀であれば火花が発生し爆発を起こす可能性があるからだ。打撃であれば金属、結晶のどの物質でも砕くことができる。そんな思惑があった。
だがその選択は誤りだった。
鬼は能力を身体強化に使った。凄まじい衝撃に鬼は胴体が破壊されるも、地に足を生やし受け止めた。鬼はにやりと口角を上げた。身体が後退し、滑り続ける靴裏から摩擦熱により発火した。
瞬間、凄まじい炎と強く白い光が発生し大爆発を起こした。
鴉を追って走り続けた紫緒は、病院の中を走っていた──。
暫く前に、ドンッ──と音が鳴り響き、建物の揺れと共に煙があふれた。その後、叫び声と慌ただしく走り回る足音を耳にし、再び地を這う音と揺れを感じた。それが、非現実的すぎてどこか遠くの出来事のように思えた。
──あの人が戦ってる。
紫緒は直感的に、この非常事態の原因はクルイだと結びつけた。紫緒の中でクルイは、非現実的な人間だ。通常の人間では実行しないようなことを表情一つ変えずにやり遂げるイメージがある。
鴉は紫緒をつつき、混乱に乗じて窓から病院の中へと侵入した。混乱と恐怖に鼓動が増す中、紫緒もまた気を引き締めて鴉と同じく窓から入った。
鴉は破壊音から遠ざかるように廊下を飛んだ。鴉と紫緒が廊下を走っていても、混乱の中では一人として気に留める者はいなかった。
走り続け、次第にすれ違う人もいなくなり、不気味な雰囲気が漂ってくる。鬱々とした空気が紫緒に伝染し、紫緒の思考も暗くなっていく。
横から突然何かが出ていたらどうしよう。武器も何も持っていない。夜の病院が怖い。でもそれ以上に、姉ちゃんが死んでたらどうしよう。
先程の院内の混乱が脳裏に映し出される。鬼殺隊が乗り込んだことにより、姉の死期が早まる可能性を想像し恐怖した。そんな自分勝手な思いに自己嫌悪が募る。
前を飛ぶ鴉がある一室に入る。続いて病室へ入ると、ベッドが一つ、月の光に照らされていた。
近づくと涙が溢れた。会いたかった姉がそこに寝ていた。
「姉ちゃん……? 姉ちゃん、姉ちゃん!!」
紫緒は堪らず駆け出し、姉に抱き着いた。姉は温かかった。それがさらに嬉しく、涙が溢れた。
生きていてくれてありがとう。一人で寂しかった。そんな様々な感情がごちゃ混ぜになり、涙と共にとめどなく流れる。
紫緒は歓喜に打ち震え姉を抱きしめ続けていたが、時間が経つにつれて違和感が募り始める。
なぜ姉は起きないのか。なぜ抱き返してくれないのか。
「姉ちゃん、姉ちゃん! 姉ちゃん! ねえ……起きて」呼びかけと共に姉の体を揺さぶるが、姉は反応を示さない。
先程とは違い、今度は不安に涙が溜まる。何度も必死に呼びかけ続けるが、姉は目を開けることすらしなかった。
死体のように、ずっと眠り続けていた。
「お願いだ……姉ちゃん、起きてくれ……」
涙と共に零れた願いを姉は叶えてくれない。
「起きないわよ」
姉とは違う女性の声に、紫緒は顔を上げた。
白衣を着た女が入口に立っている。
紫緒は町医者の事から、白衣に対し嫌悪感を抱いている。自分から姉を奪ったこの病院で、白衣を着る人物というだけで猫のように毛が逆立つ。
「なんだよ、どういうことなんだよ」
紫緒は姉から離れ、背に姉を隠した。
「この子はね、貴重な子なの。稀血と言って、すごく特別な血を造りだしてくれる子なのよ。私もそういう血がよかったんだけど、違うのよね」
女医は拗ねたように言い、ゆっくりと部屋の中に這入ってきた。鴉が威嚇の声を上げるが、煩わしそうに一瞥するだけでじわじわと紫緒との距離を詰める。
「正直言うと、ちょっとその子に嫉妬した時があったの。だってこの子、その血のおかげで
女医の純粋なほほ笑みに、紫緒は喉元が熱くなる。瞳孔が開き、声にならない叫びを上げ、心から血が流れ出る。
──そんなことのために、姉は町医者に売られたのか。それでも姉は、ずっとこいつらと戦い続けていた。
姉の性格を知っている。両親が死んでも、姉は紫緒の前ではひたむきに歩き続けた。その背中を見て、紫緒も姉に倣い必死に生きてきた。姉はどんな状況でも諦めず活路を見出す。そんな姉だからこそ、紫緒はわかる。姉は、ずっと助けを待ちながら一人で戦っていた。
紫緒は震える声で言った。だがそれは恐怖からの震えではなく、怒りを凝縮して抑えつけた声だった。
「お前も、鬼の味方なのか?」
「も? きみ、誰かに会ってきたの?」
女医は思考を巡らせた。「ああ、なるほど」と掌に拳を乗せて少女がここに来た経緯を思い出した。
「町医者の裏の顔を見てきたのね。ええ、そうよ。私達は
「早くその子を返して」物を返せというように手を伸ばす女医の手に、紫緒は腹の底がずんと重たくなった。口から無理やり重りを呑まされたように、ここまで来てもまだ、受け入れたくはなかった真実を呑み込まされ涙が落ちる。これまで生きてきた中で、経験したことのない怒りと不条理に心が追いつかない。
──おれはただ、姉ちゃんと二人で暮らしたいだけなのに。
涙に濡れた瞳で呟いた。
「……ただ、一緒にいたいっていうそれだけの願いが、どうして叶えられないんだよっ」
喉が熱く、鼻がひくつき、雫となって涙が落ちる。
何でこいつらの勝手で、そんな小さな願いが奪われるんだ! これ以上おれたちの邪魔をするな!!
濃縮された憎しみが目に篭り、涙を流す瞳で女医を睨みつける。
「おれはお前を絶対許さない。父さん達だけじゃなく、姉ちゃんにもこんなことしやがって! 絶対に殺してやる!」
鴉が飛び立った。同時に紫緒は拳を握りしめて女医に殴りかかった。だが女医に左脇腹を蹴られ壁に叩きつけられる。成人女性と、第二次性徴にも差し掛かっていない子供では、手足の長さの違いから紫緒は圧倒的に不利だった。
紫緒は何度も女医に突っ込んだが、その度に蹴り飛ばされた。骨が軋み、鼻が出血し、体が悲鳴を上げる。それでも紫緒は姉を守るために立ち上がり、女医にとびかかった。
何度目かわからない。だがそれまでとは違い、女医の足が腹に重く入った。紫緒の体は蹴り飛ばされ、窓ガラスを割り、ガラスの雨が襲い掛かる。
割れたガラスの破片が着物を裂き、血が腕を伝って模様を描く。紫緒は腕に刺さっていた大きな破片を抜き、強く握りしめた。流血がひどいにもかかわらず、紫緒は姿勢を低くして女医に向かって走り出した。
「何度やっても同じよ」
女医は声を上げて言い放ったが、紫緒には届いていなかった。
紫緒の中で、全ての音が遮断されていた。周りの音、女医の声、自分の呼吸、足音、ありとあらゆる音が消え、無音の中に紫緒はいた。無意識に、五感の一つである聴覚を捨て、集中力を高めていた。
紫緒は女医の癖を思い出していた。目の前の女は、一発目は必ず右足で蹴り上げてくると。
歩を踏み出していた紫緒は、女医の右足が上がると同時に体を下げ、床を這った。床についた手と足で強く踏み込み、握りしめたガラスと共に目の前の障害物に突進した。
何かを刺した。紫緒に音が戻った。突然の音に、視線が彷徨う。目の前が赤かった。手元を見ると、ガラスを握りしめた手は、何かを突き刺していた。目線を上げると、女の人と目が合った。
紫緒は、自分のやったことを受け止めきれなかった。人を刺したこと、本気で殺そうと思ったこと、殺すために冷静に分析したことを。紫緒自身、そんなことができる人間だとは思わなかった。
もう一度自分の手を見た。手は赤く染まっていた。自分の血であるが、それが酷く汚く見えた。
女医は蹲り呪いの形相を浮かべ、聞き取れない言葉をブツブツと吐き続けている。
呆然と、力の入らない足で紫緒は女医と対峙した。先程まで感じていなかった疲労と打撲と傷の痛みが全身を襲う。
未だ自分を受け入れられない虚ろな目で、腕から滴り落ちる血を見た。──瞬間、視界の端が白く光り、耳が裂けるほどの爆発音がした。
え、と思い顔を上げると、何かが壁を突き破って部屋に飛んできた。土埃が晴れて、それを認識すると、絶望から全身の力が抜けた。
人間を模した、圧倒的な存在がそこにいた。
「稀血を出せ。喰うぞ」
答えてくれるはずがないのに、思わず姉の名前を呼んだ。
爆発の瞬間に、クルイはオーラの90%を両脚に分散し、その場を脱した。脚で壁をぶち抜き、一瞬でできるだけ遠くへ移動し病室に辿り着いた。それでも爆発の中心地にいたことから、外套はところどころ焼け焦げている。
クルイでいなければ、間違いなく死んでいた。
クルイは部屋を見渡した。部屋の中にはベッドがいくつも置いてあり、人はいなかった。救助部隊が機能を果たしているのか、眷属にされた後か。どちらにしても、現時点では詳細は判明しない。
今は、鬼を斬ることが第一だ。
感覚を研ぎ澄ましてオーラを探り、居場所を特定する。
刀を構え、息を吸う。
音の呼吸──肆ノ型
目の前の壁を無数の斬撃と衝撃波で吹き飛ばし、鬼の居場所まで最短距離の道を作る。
クルイは脚に力を籠め、離れている鬼との距離を一瞬で詰めた。
音の呼吸──壱ノ型 轟
瞬足で迫るクルイの間合いに鬼が入った瞬間、クルイは二閃の斬撃を放った。
気づいた鬼は鉱物を生成し、威力を相殺する。
「何でオマエがここにいる。帰れ」
クルイは静かな狂気を纏い、紫緒を見下ろした。動けば首が飛ぶほどの緊張感が場を支配する。
紫緒は眠る姉を背に、震えながら鬼と対峙している。
クルイは紫緒の足元を見た。黒い羽毛が落ちている。すかさず周辺の気配を探るが、鎹鴉の気配はない。
──増援を呼びに行ったか、もしくは逃げたか。とりあえず、こいつが邪魔で仕方がない。
状況を把握しながらクルイは紫緒に背を向けた。再び双刀を構え、鬼と間合いの駆け引きをする。
鬼の後ろにいる人間を見た。白衣を着た女は、血に濡れた手で目と腹部を抑えて蹲っている。状況から見て鬼の協力者と判断する。
「死にたいなら一人で死ね」クルイは紫緒を見ずに吐き捨てた。
紫緒はクルイの背をまっすぐ見つめながら、震える声で言った。
「契約を、しに来た」
声は震えていたが、数時間前に聴いたものより確実に重みが違う。
「おれに……こいつらを殺す方法を教えてくれ」
「自殺に金を払うのか」
「違うっ!!」紫緒はありったけの大声を出して叫び、鬼と女医を指差す。
「おれは生きる。死なないように生き延びる! だけど、こいつらを殺したい! そのためにおれは、あんたのようになりたいんだっ!!」
覚悟を胸に刻み、紫緒は懇願した。
今ある自分の総て、死ぬまでの時間全てをクルイに差し出す。
「一生、貴方の手足になります。だからおれに、こいつらを殺す方法を教えてください」
クルイは錆兎を思い出した。最終選別の藤襲山で、似たようなことを言われた記憶が呼び起こされる。錆兎のまっすぐすぎる意志が、今の紫緒と重なる。
しかし──甘い。
「現実味の無い話は乗らない。オレに得が無い」
クルイは冷静に、冷徹に紫緒を切り捨てた。
クルイと紫緒が話している最中も、鬼はかまわず血鬼術で金属を生成し、弾丸のように飛ばす。
音の呼吸──肆ノ型 響斬無間・改
クルイは至近距離で飛んでくる金属の嵐を撃ち落とし、衝撃波で残りの軌道を逸らす。
紫緒はガラスをきつく握りしめ、血を流しながら哀訴嘆願する。
「お願いします……。何でもします……、おれの命と時間で取引してください。おれは、もう──前に進むしかないんです」
偶然にも、紫緒が言った言葉は、以前錆兎が言っていたものだった。
クルイは自嘲気味にため息を吐いた。
他人を巻き込み変えていく人間に、我が家はキルアだけでなくオレも弱いらしい。
「……3つだ。オレがお前に要求することは3つ。全て飲めたら取引してやる。1つ目、胡蝶姉妹に弟子入りしろ。胡蝶姉の花と、妹の持つ技法、蟲の呼吸を習得しろ。最悪、剣の才能が無くとも毒で生き延びる確率は上がる。2つ目、鬼殺隊と胡蝶を裏切れ。鬼殺隊の情報、特に胡蝶しのぶが創る薬の情報をオレに流し続けろ。胡蝶の元で得た鬼殺隊の情報をオレに流し、指示通り動け。3つ目、前2つが果たせなくなる場合は鬼になれ。鬼になって奴らの動向を探って情報を流せ。オマエが死にそうになったらオレがオマエを鬼にしてやる。鬼の血液を全部オマエにぶち込めば鬼になるだろ。自我をなくしたらオマエを殺す。裏切ったら姉も殺す。この3つだ」
クルイは着ていた外套と詰襟を脱ぎ、紫緒に投げた。紫緒は服から顔を出し、覚悟を宣言する。
「全部のみます! おれは一生貴方の手足になる。貴方の利益のために、最大限、生き残る努力をする! だから、だからお願いだ! 姉ちゃんにこんなことをしたやつら全員を、殺してくれ!!」
クルイは返事をするように、瞼を閉じて、開いた。
「着てろ。雑魚鬼の爪とぎぐらいにはなる」
紫緒は頷き、ベッドに寝ている姉を抱きしめた。姉と共に詰襟と外套にくるまり、隅で身を潜める。
クルイはベッドを蹴り飛ばし、向きを変えて2人のバリケードにした。
クルイと鬼の距離は接近戦には遠く、遠隔戦には近すぎた。今のクルイに念の発が使えない以上、間合いを詰めて鬼の頚を切り落とすしか方法はない。
純粋なる、相手を上回る速さと力の勝負となる。対峙している以上、暗殺者お得意の奇襲は使えない。
緊張の糸が張る中、先に仕掛けたのは鬼だった。
目を虚ろにした、刃物を持った男達が部屋に飛び込み、後ろに隠れている姉弟を狙う。
男達からは、先程殺した眷属と同じオーラが視える。
──目的は少年の姉か。
クルイはすかさず眷属の首を斬った。血飛沫をあげ、血に触れた物が溶解する。直後、宙がきらりと光った。空間を埋め尽くす程の金属の嵐がクルイへ向けて砲火した。
クルイは眷属の体を次々と盾にし、弾丸の嵐を避ける。嵐の威力は、肉体を肉塊へと変えた。眷属の肉体は分断される度に溶解液を飛散し、クルイに浴びせる。
嵐は途切れることなく、クルイを襲い続けた。
クルイは人の体を保つ、最後の死体を宙に投げた。刀を構え、来る嵐を見据える。後ろには紫緒がいる。弾丸を避けることも後退することも許されない。契約は履行されている。
音の呼吸──伍ノ型
紫緒は見ていた。一瞬、余りの輝きに目が眩み、カンッ──と音が鳴る。
瞼をあげると、嵐が晴れていた。
紫緒には、クルイが一振りで鬼の技を払ったように見えた。
クルイは、超高速、縦横無尽に二振りを閃めかせ、血鬼術を全て打ち落とした。刀身に反射するいくつもの煌めきが、目に映らぬ速さにより一つの輝きに見え、打ち落とされる金属音は集約され一つの音となった。
鳴弦奏々。名前の通り、弓の弦を鳴らし邪気を祓うように、鬼が展開する全ての血鬼術を払った。
クルイはすかさず追撃の一閃を放ち、胴を断つ。
鬼はクルイの動きが見えなかった。予備動作なしに間合いを詰められていた。鬼は瞬時にクルイの攻撃圏内から離脱し体を再生させるが、クルイはオーラを込めた脇差を投げてその行為を許さない。
クルイは未だ念が封じられている状態であるが、徐々に流、周といった発以外の応用技が使えはじめている。それでも前の世界にいた時と比較し、カス程のオーラ量しか戻っていない。本領を取り戻すには道は遠い。
決着は刹那だった。
投げた脇差は、鬼をかばい間に割り込んだ女医ともども鬼を突き刺した。
クルイは音もなく間合いを詰め、短刀を一閃した。鬼が能力を発動する前に、女医の目の前で頚を斬り落とす。
刀が体を貫通しているにもかかわらず、女は灰になっていく鬼を見ながら
「お願い、逝かないで!! 私が死ぬときはあなたが食べてくれる時なんだから! あなたが先に逝ったら私はあなたと一緒になれないじゃない!! 逝かないで、一緒に居させて……」
皮肉にも床に落ちた首は、目の前にいる女ではなく遠くを見ていた。
「
クルイは、灰を踏み女から刀を引き抜いた。じわりと女の腹が赤く染まる。クルイは再度女の腹に刀を突き刺し、じりじりと刀を動かして胃を切断した。女は灰となった鬼を握りしめながら絶叫し、出血多量と胃液に焼かれて力尽きた。
全てが終わった。部屋に残ったのは、死体と生きてる3人だけだ。
紫緒は、自分が臨んだ光景のはずなのに、なぜか涙がこぼれ落ちていた。不幸の根源が消えたはずなのに、心が晴れない。
何でこんなにも、後味が悪いんだ。
「姉ちゃん、起きて。姉ちゃんに、酷いことした、あいつらを殺ったんだよ。姉ちゃん、目を開けて。起きて……、姉ちゃん……」
紫緒の瞳は涙で濡れていた。喉が熱く、声がかすれる。
紫緒は姉を見た。鬼を殺しても姉は目を覚ますことはなかった。鬼を殺せば、姉が目を覚ますのではないかと心のどこかで期待していた。
これから一生、姉の目が覚めなくても、姉には生きていてほしい。だがそれは姉の意思が確認できない以上、紫緒の独りよがりとなる。
──姉ちゃんにとっては、殺してあげた方が優しさなんだろうか。
紫緒は呟いた。クルイに聞かせるのではなく、自問自答の声が音となって外に漏れていた。
「姉ちゃん、あの鬼の術で昏睡状態らしいんだ。いつ目覚めるかわからない。殺してあげた方が、楽なのかな?」
言葉ではそう言っているのに、その声は殺したくないという切なる思いが溢れている。
自分の意志と、姉の意志が同じか分からない。姉が望むようにしたいのに、姉の望みが分からないことを良いいことに、自分の願いを押しつけてしまう。
──例え、これから一生目を開けなくても、生きてほしい。
足音が近づいてくる。目を上げるとあの人がいた。
「質問になる以上、答えがある。答えがある以上、応えられる者はゼロじゃない。オマエが選択しろ。姉を殺すなら自分で殺せ」
クルイは鬼の頚を斬った短刀を少年に向けた。
「これで殺せ」
クルイは紫緒に短刀を握らせた。
紫緒は涙が止まらなかった。
鬼の首を斬った刀で、姉を斬ることはできない。この人は、それをわかっているように思えて、涙が流れ続けた。
「……ありがとう、ございます」