黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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プレーン味です。


自由と放埒の一日  ゲストなし

 

 聖ヴラホの姿を戴く門をくぐり、狭い石門を抜け、壁が絞るように迫る長い階段を登りきると、空が視界すべてを青く染める。

 

 右頬にアドリア海の潮風を受け、神崎蘭子は大粒のルビーの瞳を輝かせた。八重の桜が咲くように色づく蘭子の横顔に、黒薔薇の日傘を差しかけている青年が表情をゆるませる。

 

 不意に潮風が暴れ、城壁の上がさざめきたった。蘭子の黒い厚手のドレスも逃げ散る小鳥の羽音を真似てフリルを踊らせ、青年の掲げる日傘はコウモリのように羽ばたいた。

 

 蘭子がほかの観光客のように慌てないのは、二秒と待たず、オトモの青年が大柄な身体を風よけにするからである。

 

 ゆるく巻いたツーサイドアップの髪を白い指で整える。冬の透明な陽光で、手は絹に、髪は銀糸になって、ほのかな薔薇の香をまといなおした。

 

「見よ、友よ。黄昏に囚われし原始の揺籠を」

「壮観ですね、神崎さん」

 

 二人の目に、生命力を感じさせるオレンジの屋根が陽光にきらめく。ここはクロアチアの南端にある都市・ドゥブロヴニクの旧市街地である。

 

 緑が多くを占める城壁の外とはことなり、家々はひしめきあいながら、あたたかみのある乳白色の壁をオレンジのいらか波の隙間から波頭のように覗かせ、深い青色の本物の海に圧し迫っている。

 

 頭上の空、右のアドリア海、奥に囲まれた港の浅瀬、三色の青のいずれとも美しいコントラストを、オレンジの人工の海は描き出すのだ。

 

「このひとときを不易のものとせん」

 

 日傘とともに気取る蘭子を社用のデジタル一眼のファインダー越しに見つめ、何枚となくその姿を電子データと記憶に焼きつけていく。まだあどけない顔がいっそう幼く満足気に微笑むと、青年はカメラを下ろした。

 

「なかなかよく撮れたと思います」

「ほほう。黒き翼が切り取りし刻の断片は……」

 

 大きい手のひらのなかの小窓を、二人は額をつきあわせて覗きこむ。ロケの前泊の一日を使った観光ではあるが、オフショットの数枚も抑えておきたいというのは、アイドルの職業病なのかもしれない。

 

「さすがは瞳持つ者。電光水晶の鱗を通しても曇りを知らぬと見える」

「ありがとうございます」

「そ、それで、その……。輝かしきはど、どの残影か……?」

 

 紅玉の瞳が見上げた鋭い三白眼は、わずかに瞼の裏に隠れ、迷いなく一枚の画像を示す。それは、視界の端を飛んだ鳥を反射的に追いかけて視線を外した、一瞬の横顔だった。

 

「かすかに陰を感じさせる表情が大人びて、とても良いと思います」

 

 その一枚も感想もまったく予想の外にあった蘭子の、目と口を丸くして慌てふためく姿を、青年は有機的なフィルムにのみ焼きつけて、おだやかに笑む。

 

「いっ、いざ、真珠を愛する女王の海へ」

 

 押しつけた日傘でカメラを封印し、蘭子はストラップシューズの丸い爪先をアドリア海を臨む回廊へと向けた。

 

 

 

「ふむ、長靴(ちょうか)の踵は人魚のヴェールの向こうか」

 

 片手をひさしにし、もう片手は低い壁につき、蘭子は大きく身を乗り出した。肝を冷やしてその細い胴体を抱きかかえた青年は、はっとして周りを見回す。自分がひと拐いと間違えられて、はるか外国に来てまで警察の世話になっては情けないし、なにより蘭子の楽しみを潰してしまうことになるのだ。

 

 さざ波が銀青色に輝くアドリア海を背に、また写真を撮る。内容を確認していると、青年の肩を太い指と陽気な英語が揺すった。

 

“ちょいと、ミスター・カメラマン、あたしたちも写してよ”

 

 目を点にする二人に、声のとおりに恰幅のいい中年女性と、対照的な体型の少女がにっこりと笑いかける。母娘らしい二人から二歩だけ下がったところで、目許にシワの多い男性が帽子を脱いだ。

 

“お願いできませんか、旅の記念には家族三人で写りたいものですから”

 

 父親につづいて娘、母とおなじことをいい、青年もそれを蘭子に通訳する。

 

「少し、お待ちいただいてもよろしいですか」

 

 蘭子は紅唇を尖らせたが、瞳を閉ざしたまま一度きり頷いた。頼まれごとを真面目にやってしまう性分なのはわかっていたし、自分と歳の近そうな子供の手前、駄々をこねるのもみっともなく思えたのだった。

 

 聞き取りきれる英語ではなかったが、ミスター・カメラマンの一語くらいは蘭子にもわかった。

 

 そのひとはカメラマンじゃなくて、わたしの……。ふだんいい慣らしている友の二音に詰めこみすぎたものを心のなかで広げようとして、蘭子は短い眉を寄せた。一〇個ほど単語を並べてみても、しっくりくるものが

見つからなかったのだ。

 

 三人家族の期待どおり、そして蘭子の案の定、青年は淡々と写真を撮った。青年の態度がプロフェッショナルに見えたというよりは、水を差されないのが彼らにとっては良かったのだろう。

 

 日傘を回しながら蘭子はそんなことを考え、膨らせた頬からいきおいよく溜息をつく。アドリア海の雲は、のびやかにただたゆたうばかりだった。

 

“ありがとう、ミスター・カメラマン。とっといてよ”

“いえ、大したことではありませんので……”

“大したことよ”

“私らの思い出を残してくれたのだからね”

“いえ、しかし”

“自分の仕事の価値を決めるのは自分一人ではないだろう?”

“……”

“ようしわかった。待たせちゃったあの子への詫び賃よ。日本人はそういうの大事にするんでしょう”

 

 否定しきれない青年にチップを握らせると、家族は二人の歩いて来た方へ、談笑しながら去っていった。

 

 郷愁にも似たざわつきと見送るのもそこそこに、青年は一番の大事に取りかかる。海から蘭子の視線をとりもどすのだ。

 

「神崎さん、お待たせいたしました。少し歩けばカフェがあるそうですから、一休みはそこでにしましょう」

 

 ややあってから、下唇を巻きこんだ口で、赤い瞳が振り向いた。

 

「なれば、さきがけてコウモリに安寧の刻を与えよう」

 

 差し出された日傘を青年が日傘をたたむのを見届けると、蘭子は歳のわりに豊かな胸を反らして頷き、身を翻して走りだした。日傘の留め具を掛けながら、青年は城壁上の遊歩道に可憐な漆黒の蝶を追う。

 

「お待ちください神崎さん! 冗談ではなく本当にあまり先へ行きすぎないでください! 私が二秒以内に触れられる範囲に留まってください!!」

 

 数字の根拠は不明である。

 

 青年の不安と裏腹に、ドゥブロヴニクをはじめ、クロアチアの治安は著しく良い。女性の一人旅も不安なし、とは旅行代理店の謳い文句である。この青年にかかれば、“女性ではなくまだ少女です”と反駁されるだろうが……。

 

 彼の声は聞こえていたが、蘭子は脚をゆるめなかった。腕を広げ、ペースを気にしない解放感が、コートとドレスの裡から細い身体を衝き動かす。

 

 背中を追う青年の目に、不満にくすんでいた少女の顔が海と空に洗われて、明るさをとりもどしていくのがわかった。

 

 ……だからといって、この追いかけっこをだらだらとつづけ、蘭子を危険に晒していたくはない青年である。振り向き振り向きして、彼の追いすがるのを楽しんでいるのはいいが、つまりそれは前方不注意なのだ。

 

「さあ、捕まえましたよ。楽しんでおいでなのはいいですが、言葉の通じない場所だということは忘れないでください」

 

 胸を腕ごと、片腕で抱き上げられた蘭子は、楽しそうな悲鳴を上げて両脚を地上数センチの空中で躍らせる。それを離れたカフェのテラス席から見咎めた二人の、これもまた対照的な体型をした警官が駆けつけてきた。

 

“なにをしてる”

“……誤解です”

 

 苦りつつ、そっと蘭子を地上にもどし、青年は身分を開示した。彼が勤める346プロダクションの名刺には英語も併記されているのが、いまは役立った。

 

“本物ですかね?”

“ああ、誤解だったかな。この子も逃げようとしないしな”

 

 警官同士の会話がクロアチア語で行われるのは、英語しか話せないであろう被疑者に聞かれないためではなく、彼らも英語を話し慣れていないからである。

 

 事務的な確認の会話の平坦さは、英語の聞き取りもままならずに見守る少女の心を波立たせた。

 

 自分がかばわなければ。また身柄を確保される前に。

 

「ひ、ヒーイズマイマン!」

“ほう?”

 

 横合いから上がった意外な声に、太い方の警官がべつな疑義を深めた。

 

“誤解です。彼女は私を呼ぶとき‘我が友(マイ・マン)’といいますから、それを三人称にも使えると思ったのでしょう”

“本当に? ‘恋人(ハー・マン)’ではない?”

“だとよかったのですが”

 

 軽くなりかけた口をつぐみ、青年は襟を正した。

 

“私は彼女の保護者です”

「イエス、ア・デーモン!」

 

 蘭子の意図したのは守護神(Daemon)であったが、陽気な警官たちは悪魔と勘違いして、ひとしきり笑ってから、愛らしい天使とかしこまる悪魔に別れを告げた。

 

「神崎さん。今後、私を説明するときは、“マイ・デーモン”にしてください」

「友では不服か」

「さきほどの英語は、呼びかけにしか使えない言葉ですので……」

 

 青年の助言にしたがい、城壁上の回廊の端のカフェにはいるや、蘭子は白い右手を閃かせた。

 

「テイクオーバースローンズ、マイデーモン!」

 

 “我が守護神、玉座を平らげよ”英語でも<闇の言葉>が健在なことは、彼の予想を超えていた。

 

 警官とおなじ誤解をした客や店員の視線が、悪魔の背中をチクチクと刺す。視線を海と空と蘭子のほかに向けないように努める青年とはちがい、自慢の守護神への畏敬の視線と思う被保護者は終始ご満悦であった。

 

 

 

 活力をとりもどした二人は城壁上をひとめぐりし、はじめの階段を降りた。来たときには視界にはいっていなかったオノフリオの大噴水は、傾きはじめた陽射しで金色に染まっている。

 

 そこからまっすぐ東へ三〇〇メートルを延びるプラツァ通りを、おなじく金色に浮かび上がる時計塔まで散策する。

 

 磨き上げられた石畳は音さえ高く反射させる。路地から洩れてくる生活音とこの目抜き通りの喧騒の合奏をBGMに、ときおり野良猫がステップを踏んで少女の赤い瞳を楽しませた。

 

 時計塔の下に広がるルジャ広場の南側へ、築三〇〇年になる聖ヴラホ教会の脇を抜けて進めば、ドゥブロヴニク大聖堂の威容が見えてくる。青みがかったダークグレーのキューポラが目を引く、バロック様式の建物だ。

 

「おお、上天の白を纏いし邸よ……」

 

 窓から差しこむ夕陽が厚みのある白の壁にやわらかく受け止められ、静謐とぬくもりを堂内に満たしている。

 

「この大聖堂は、イギリスの獅子心王リチャードⅠ世の寄進によって修繕され、地震によって崩れたあと現在のこの形に造り直されたそうです。修復の都度、建築様式はバシリカ式、ロマネスク式、このバロック式と変遷してきたと……」

 

 青年の解説はほとんど少女に聞こえていなかった。壁や柱にかけられた絵を見ることに全神経を傾けており、歩き方もおぼつかない。

 

 よろける細い背中を三度目に抱きとめたとき、このままかかえて移動しようかと彼は思った。

 

 大聖堂の主祭壇には一六世紀のヴェネツィア派画家・ティツィアーノの作品、聖母マリア被昇天が飾られている。青い服を着た聖母マリアが、ヨハネを含むだろう信者たちに見送られ、両腕をそっと広げて天使のお迎えを受ける様子を描いたものだ。

 

 おなじテーマで彼がヴェネツィアの教会に贈った油彩画では、マリアの視線の先に天主たる神が待っているが、この絵には描かれていない。

 

 蘭子は絵を見上げ、息を呑んで、のけぞりすぎて両手をばたつかせた。

 

「神崎さん、周りにひとがいますから、気をつけてください」

 

 これを見越して背後に控えていた青年がすばやく細い肩をつかまえたので、少女は絵のなかの聖母とおなじようなポーズで固まった。気づいた青年が笑う。

 

「天使が迎えに来てしまいますよ」

「フッ、我は我が意志によって地上に留まる。迎えなど追い返すだけのこと」

「頼もしい限りですが、そろそろご自分の足で立ってください」

 

 笑い合う二人の横の扉から、観光客らしい若者たちが談笑しながら出て来た。扉を閉めた、彼らの仲間ではなく聖職者らしい初老の男に、青年は訊ねた。

 

“そちらの部屋にはなにがあるのですか?”

 

 施錠しようとした鍵束を胸の前で揺らして、神父は答える。

 

“こちらは宝物殿です。儀式用の道具の数々に、司祭たちの聖遺骨、それから街の黄金時代を彩った品を保管しております”

 

 ご覧になられますか、と伝えられた蘭子は、紅い瞳を輝かせて大きく頷いた。

 

 二人が通された小部屋は、安置された品々の黄金の輝きで満ちていた。額にいれられた聖母の油彩画。年季を感じさせる厨子に、祭りに使われるのだろう大小の飾り。

 

 そして、ガラスケースに収まった……。

 

「ひ、ひとの子の枝葉が!?」

 

 金細工で飾り立てられた、腕や脚の模型が並んでいる。蘭子の怖がりは遺憾なく発揮され、大きい体躯の守護神にしがみつく。

 

“神父さん、こちらは……?”

“そちらが聖遺骨です。腕の骨は腕の型、脚の骨は脚の型に収めてありまして、お恥ずかしい話ですが、どれにどなたの聖遺骨が収まっているのか、はっきりしないのです”

 

 口でいうわりには、からりと笑ってのける神父である。なかには、この街の守護聖人である聖ヴラホのものもあるのだそうだが……。

 

「よ、夜中に動いたりはすまいな……」

「お守りのようなものだそうですから、大丈夫でしょう」

 

 疲れと恐怖に脚を苛まれた蘭子をかかえてホールにもどった青年を、城壁で出会った二人の警官が出迎えた。

 

“まさか、逮捕状が?”

“それこそまさかだよ”

“仕事終わりの前のお祈りだ”

 

 こんどは、青年の通訳で警官の言葉を知る蘭子である。

 

「信心深いのだな」

“悪魔を見逃してるけどね”

“せっかく二度も会ったんだ。記念撮影をしてやるよ。悪魔は写真に写るのか、試してみたいからな”

 

 ニヤリとする警官は、素直に差し出されたデジタル一眼を受け取って構える。細かく注文をつけながら、キューポラの真下、もっとも光の柔らかに降り注ぐ領域で、熱心にシャッターを切った。

 

“ちゃんと写るもんだな、悪魔らしい顔で”

 

 からかいとともに返されたカメラには、薔薇か天使かという笑顔の蘭子と、ぎこちなく、悪そうに頬を引きつらせる青年が写っているのだった。

 

 

 

「楽しんでいただけましたか、神崎さん」

 

 空と海、二つの藍色の間から吹く風に当たりながら、二人は旧港のベンチに座っていた。背後に広がる旧市街には街灯のオレンジゴールドが、濃紺の空と美しいコントラストを織りなしている。

 

「うむ。……だが、安息の日だというのに、我が友は我が従者でありつづけた」

「外国で、あなたを独りで出歩かせるわけにはいきませんから」

「堕天の翼がともにある限り、煉獄の鎖は解けぬか……」

「それは、しかたのないことですが」

 

 大きい手が、端を下げる眉の上をそっと撫でた。

 

「神崎さんが楽しく過ごせることが、私の喜びでもあります」

「茨の棘によらぬ恍惚はないのか?」

 

 戸惑った青年の頬を、白く頼りなげな指がなぞる。おだやかな港の波音が、二人の耳にひびいた。

 

「ひとつ、ありましたが」

「なにか?」

「期せずして、もう遂げてしまいました」

 

 デジタル一眼の明るい小窓に、二人の対照的な笑顔が映し出される。青年はそこに写っているよりずっと自然に、苦くだが、笑った。

 

「カメラを向けられるとどうも意識してしまって。克服しないといけませんね」

「ふっふっふ、研鑽を積むならば力を貸そうぞ!」

 

 蘭子はスマートフォンを出し、デジタル一眼にも指をかけて、満面の笑みを向けるのだった。

 

 

(了)




ドゥブロヴニクを舞台にしていますが私は行ったことがないので、旅行サイトや旅ブログやGoogleMapのストリートビューを頼りに書いています。現実と齟齬があったら見逃してください。
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