宿へ帰る道は、すっかり夜闇に沈みきっていた。温度を感じさせない月明かりは、雲に吸われて地表までたどりつけないでいる。
「シンデレラプロジェクトはさー、こういう旅企画ってやんないの?」
「皆さん、学生ですからどうしても……。姫川さんも、予定を訊かれるのは、お三方でいちばん最後ではありませんか?」
「いわれてみれば」
プロデューサーが彼女のところにスケジュールの調整に来るときは、たいてい、“紗枝と幸子が動けるの、こことここしかないからどっちかは絶対空けてくれ”という要求から始まっていたのを、友紀は思い出した。忘れていたのではないが、専業アイドルの彼女はもともと野球観戦くらいしか個人的な予定がなく、あまり気に留めていなかったのだ。
「それに、引率する大人が私だけでは不都合もありますので」
「美波ちゃんは?」
「新田さんも年少者を任せられる歳ではありますが、新人であることに変わりありません。負担が大きすぎてしまいます」
新田美波自身も新人アイドルのために信用を得にくいという点については、黙っておく青年であった。
「その点、友紀はんやったら余裕もおして虎の子任しても安心やと」
まだしめり気ののこる黒髪をまとめ上げた紗枝が、タマゴ肌の一四歳二人を連れて姿を現す。
「小早川さんのサポートも、あてにさせていただいています」
「あら、うれし」
「ふーん、そうなると、連休だけとはいえボクたちが地方ロケできてるのは、友紀さんのおかげってことなんですね」
幸子はシャツの上から浴衣を羽織った、あまりカワイくはない恰好で、口をとがらせてみせた。
「大人だからね!」
友紀が腕組みをして胸を強調して、鼻高くふんぞり返ると、下ろした髪から水滴が散った。
「畏れ敬えー!」
「……それは、我が水鏡か?」
微妙なモノマネに蘭子が口をとがらせた。珍しい反応だな、と青年は思う。
「そこは“幸子ちゃんがカワイイからだよ”っていうところですよ友紀さん!」
「我が友よ! 我は飛兎竜文に拝す後塵のなきを知らしめんことを求める!」
子供の懸命の訴えを、片方の大人はいつもどおりになだめすかして、もう片方はいつもどおり、大まじめに受け止めた。
「神崎さん、お一人で地方に仕事に出られるのは許可できません」
「ほんなら引率のセンセがついてかはったらよろしいんとちゃいますのん」
「あっ、紗枝ちゃんのその語尾聞きたかったんだー。かわいいのん」
「語尾とちゃいます」
薄桜色をした無地の薄物の袂で、紗枝は横の脳天気な大人をはたいた。
「いかに、我が友」
短い銀色の眉を立てて、紅玉の瞳が湯屋の薄明かりにかがやいた。青年は、表情を少しだけゆるめると、東京での仕事以上に無理をしないことと、自分の目の届く範囲にいることを条件に、地方での仕事を探すことを諾けた。
存外に目論見どおりに話が運んで、紗枝はつい笑い出してしまった。さきほど、浴槽に沈んだ蘭子を引き上げてから、こんな会話があったのだ。
「プロデューサーっていったって男のひとだもんね。二人きりで泊まるのは、怖いよねえ~」
「無礼な、我が友に邪心あらず、我に友を恐れる心なし!」
「ほんなら一遍、どこぞにか行かはります?」
「受けて立つ!」
「こんなカワイイボクだって、プロデューサーさんに連れられて過酷なロケをしていたんです! ふふーん! 蘭子さんもやってみれば、ボクのカワイさに少しは近づけるかもしれませんよ!」
冗談を冗談で済まさなかったところは、京都人にもしばらく暮らした江戸のお祭り好きが染みこんでいたのかもしれない。ともかく、いぶかられては困るので、幸子が紗枝の笑いを適当にごまかした。真相にたどり着くための材料は、彼の手にはないのではあるが。
「紗枝さん、いつになくはしゃいでますよねえ」
「そないなことはあらしまへん」
台詞に節がついていることに、本人は気がついていないようである。
「幸子ちゃん、ニブいなあ。宿に着く前からずっと上機嫌だよ、紗枝ちゃんは」
「なにかいいことがおありでしたか」
「うーん、うち、ずーっと
「それではしゃいで、あたしにお尻からぶつかってくるんだもんなー。やっぱ実家が良かったなっ」
青年のぎょっとした視線に紗枝は顔を赤くした。告げ口の持ち主の背中で、薄桜の袖が振られ乱れる。
「もう、アホ、そないなこと男のひとにゆわへんの!」
行きとおなじ並びで談笑しながら夜道を進むうちに、輿水幸子が違和感を声に出した。
「こ、この道こんなに暗かったですか……?」
「風の交わる処も、一里塚も、電光の
不安げに白い首をめぐらす蘭子に、青年はスマートフォンの地図を開いた。表示された現在地は広い川の真上になっていて、およそあてになりそうにない。
そういえば以前、先輩が出張先で、行き先の住所を入力したらとんでもない大嘘を表示され、二時間無駄にしたと愚痴っていたな。そのときの座標も川の上……にあるなにかの物置だったとか。青年がそんなことを思い出して画面を閉じたとき、なまあたたかい風が吹いた。五人はずっとうしろになにものかの気配を感じた。
それはずっと離れているはずだが、すぐ近くにいるような不気味さがあった。湯に火照っていた体が急速に冷えていくのを、五人五様に覚えていた。
なにものなのかはわからないが、三六計めぐらしてみても、五人には逃げるよりほか道はなかった。
「けど紗枝さんは走れませんよね」
「私が運びましょう。神崎さんもご一緒に。姫川さんはいちおう大人ですので、心苦しいですが頼らせてください。輿水さんをお願いします」
「えっ……。幸子ちゃんを?」
友紀はイヤそうな顔をする。この非常時に、と四人ははっきりと、あるいはぼんやりと思った。
「ふ、ふふーん! まあ仕方ないですよね、カワイイボクと密着してたら友紀さん霞んじゃいますもんね!」
「ううん、幸子ちゃんって暴れそうだなって思って」
「暴れないですよ!?」
「ふむ、では古都の姫をケットシーの使徒に任せ……」
「ボクが蘭子ちゃんと一緒にこちらにと。いいですよ、ボクはどこにいたってカワイイですからね!」
「友紀はんはどないな風に運ばはんのかしら?」
「おんぶ」
明快な答えに、紗枝は青年に向き直った。
「しんでれらのセンセ、なんや気合いかなにかで腕生えて来ーひんの?」
「私は仏さまではないので……」
「えー、腕増えるならあたしも担いでってよー」
「我が友は我と共に地上に黒薔薇の夜をもたらす闇の使徒よ! 負うは七条の後光にあらず、禍々しき漆黒の翼!」
どこかずれた友紀の要求と、なにかかけちがった蘭子の反論はすれちがって夜闇深くに沈んでいった。
「友紀さん、紗枝さんは着物なんですから脚開かせちゃいけませんよ……」
「せやせや、いったっていったって」
「ふっ、ケットシーの使徒よ、姫を抱くときはこうするのだ」
蘭子は得意気に胸を反らすと、かがんだ青年の首に腕を回した。たくましい右腕に白の細身を委ね、優雅に跳ねた両脚を太い左腕が持ち上げる。白と黒のフリルをたたんだ少女は厚い胸におさめられた。
「しっかり引きつけておくと安定します」
「手慣れたはりますなあ」
「そんなしょっちゅう抱いてるの?」
「いやないいかたはよしてください」
友紀のひと聞きの悪いモノイイに、青年は苦虫を噛んだ。
「けどお姫さま抱っこか……。姫ってついてるのあたしなのに」
持ち回りの順番があるのか、こんどは友紀が口をとがらせていると、紗枝と幸子が左右から彼女をはさみ、抱え上げた。
「はいはい、お姫さま抱っこやえー」
「よかったですねえ友紀さん。世界一カワイイお姫さま抱っこですよ!」
「これハンモックじゃない!? あっ、ダメ、脚開いちゃうとヤバイのこれ! 教育的にマズイから!」
めずらしく慌てふためく大人をアスファルトに返し、二人は肩をさする。
「満足しましたやろ。ほいたらことの起きたときはあんじょう頼みますえ」
「ちょっと待ってください。シンデレラのプロデューサーさんが蘭子ちゃんをそうやって抱いてたら、ボクはどこに!?」
「おんぶやね」
明快な回答に、幸子は一瞬言葉に詰まった。
「ふ、ふふーん! いいですよ!? ボクはガニマタでもカワイイってこと、証明してあげますよ!」
「それ見えるの、うしろの怪しいヤツだけだけどね」
その言葉に、発した本人まではっとなり、一同五人は背後をかえりみた。異様な気配の主は、暗がりのなかにあって、その服がわかるほどの近くまで来ていた。
「ゆ、浴衣の合わせかたってあれで合ってましたっけ?」
白い無地の長衣に、幸子の声が震えた。
「いややわあ、にわか仕込みやねえ、左右まちがえたはりますわ」
震えながら、長い袂がみたび友紀を打つ。
「抱いておくれやす」
友紀はなにもいわずにそれに従い、彼女が走りだすのを待って青年もあとにつづいた。背中に、いきおいよく輿水幸子をへばりつかせて。
服が見えれば、顔も見える。五人ははっきりと見てしまった。背後の男女と思しき二つの人影は、首から上を鏡のように光らせた、死装束の異形であった。
姫川友紀はがむしゃらに走った。うしろの怪人の気配は離れるどころか、進むにつれて迫ってきているようだ。脚にも体力にも自信はあったけど、鈍ったかなと友紀は思う。なにかと適当な大人であるが、ひと一人抱えていることをいいわけにはしなかった。もっとも、自分一人なら観念もできたんだけどな、などと冗談めかすのが彼女である。
気がつくと、半歩うしろを走っていたはずの、少女二人を抱えた青年は姿を消してていた。異形の気配も一つに減っているが、安心にはつながらない。
あたりの景色はくろぐろとして、土地勘のあるはずの紗枝までも前後不覚になっている。
腕を伸ばされたら捕まりそうな距離を離せないまま、友紀の脚が踏みいった先は、ついに行き止まりであった。獲物を値踏みするような光る顔の怪人と、二人は
壁を背にして相対した。
「あんたはんと二人やったら、うち、死んでもええと思います……」
「まだ諦めないで! 失礼でしょ! 野球はツーアウトからだから! なんかある! まだなんかあるから!!」
こうでもいわないと諦めがつかない理不尽な危機だった。そんなかぼそく、泣きそうな声を出す紗枝を叱咤して、友紀はどうにか平静を保つ。
「そうだ、なにか! なにかぶつけて、怯んだ隙に逃げよう!」
ぶつけられるなにかなど、二人には着替えをいれてきた巾着袋しかなかった。それなりに重たい二つのかたまりは、しかし、よろけも驚きも生むことなく、怪人に当たって地面に転がった。銀色の顔はそれらをちらりとも見ず、二人に突き出されている。
友紀は紗枝を下ろして背中にかばい、かくなるうえは自分が捨て身でかからねばと歯を食いしばった。握った拳が決意を伝えたか、紗枝が不安げに視線を上げ、落とす。
そこに、友紀のホットパンツのポケットのふくらみに、
「せや、とらっぴー! 最後のあがきに、投げてしもうてもええかしら」
「うえ? うん……。そうだよね、虎みたいな猫、なんて、不吉なのあたしが持ってたせいかもしれないし。思いっきりやっちゃって!」
引っ張り出された出店のオリジナルグッズは、水平に近い弧を描いて怪人に向かって飛んでいった。とらっぴーは光るように白い顔にぶつかるや、瞬間、ぼつんと座布団の破けるような音を発して地に落ちる。その首から上はえぐられ、綿が飛び出していた。
鏡のようだった怪人の頭は虎柄の猫のように変わり、動くはずもない口許をにぃっと歪めると、青ざめた二人の横をすたすたと、行き止まりの闇のなかへと溶けて散っていった。
「さ、紗枝ちゃん……ナイスピッチ」
「おおきに……」
あたりに薄明かりはもどったが、二人が、末端ほど大きく震わせる悪寒から解放されるには、いましばらくの時間が必要そうであった。
逃げ始めて、五、六分は経ったのだろうか。青年は姫川友紀の慧眼を背中に痛感しながら、どことも知れぬ道をひた走っていた。早くも脚の感覚は消え、いつもつれてもおかしくはなかった。
二人を解放して、自分が怪物を押しとどめるか、あるいは“かがみむし”の亜流だというなら、自分が犠牲になれば二人は助かるか……。青年は逡巡する。
私が死んだとしても、より有能なプロデューサーは多くいる。彼らがきっとシンデレラプロジェクトを成功に導くだろう。夏のフェスを見られないのは、心残りになるが。
そう心を固めながら下ろした視線が、紅玉の光を浴びた。迫りくる危険への恐怖と、親愛なる者たちの危機への不安を混ぜてなお、彼の目に鮮やかな赤であった。
この子は私の死を悲しむだろうか。やさしい子だから、きっと泣いてくれるのだろう。プロデューサーとアイドルという仕事上のつながりを越えて、友と呼んだ相手が帰らなければ、幼い心に傷跡が残るかもしれない。
少女が悲しみの淵から立ち上がる力を持っていることを、彼は疑わなかった。しかし、己の行為でそこへと彼女を突き落とすことを恐れた。
「ぎゃああっ!」
迷いと疲れは足を鈍らせ、怪人に目的を達させた。白く冷たい二本の腕が、幸子の両肩を掴む。
「神崎さん、あなただけでも逃げてください!」
「蘭子ちゃん“だけでも”ってなんですか!? ぼ、ぼぼぼボクは顔がなくなったってカワイイにちがいありませんけどね、顔がなくなったら息ができなくて死んじゃうんですよ!」
「いざとなれば私の顔を差し出します。顔ならばだれのでもいいはずですから」
「まだいざじゃないんですか!?」
その言葉に、蘭子の揺れる赤い瞳が澄んだ。手の感覚を頼りに、分厚い体をはさんで向こうに震える幸子の帯を解く。そして、肩越しに羽織られた浴衣を一気にめくり上げた。
輿水幸子が背中の異様な感覚にさらなる悲鳴を上げる。怪人が顔をべったりと押しつけたのである。
青年が驚きに固まった喉からやっと背後の少女の名を叫ぶのと、怪人が彼女から離れたのはほぼ同時であった。
気配が遠のくのを感じて青年は振り返る。怪人は背を向けて、夜のなかへと歩んでいた。あちらも三人の視線に気がついたのだろう、ゆっくりと肩越しに振り返り、不気味な笑みを残して、やはり霧のように消えていった。その顔は、しもぶくれた魚顔の猫という、いかにも異様なものだった。
「可憐の神髄が、かの擬物を負いし咒衣を纏っていたのを思い出したのだ」
動悸のおさまらぬまま、蘭子はわけを告げた。
「昼間、姫川さんが買っていた……。顔ならばなんでもいいといっても、絵でもよかったとは……」
「カワイイボクの、ふだんの行いがカワイかったおかげ、ですね……」
見回せば、三人の周りの様子も元にもどっていた。道路の反対から、震える手を取り合って友紀と紗枝が帰ってくる。暴れなくなった幸子を背負ったまま、一同は無事を確かめあい、そして宿への道をたどった。
「結局、内湯で汗流さなあきへんな」
力なく、しかし心の底から笑いながら。
(了)