黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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プレーン味です。


背伸び  ゲストなし

 

 昼を回り、夜半からの雨は、寒々としてビル街を霧の腕に抱きすくめている。半地下に位置する広々とした部屋、そのコンクリートの床は、きょうの曇天を圧し固めたように冷たい。

 

 それから逃れ、神崎蘭子は黒のストラップシューズを脱いでソファにいた。黒いスカートの膝には、日ならぬハロウィンイベントのイメージを描きつけたスケッチブックを抱えている。閉めきられた室内で弱い暖房が冷気と中和して眠気を誘う。砂嵐にも似た雨音は心地よい子守唄となり、少女がまとう厚手のベルベットの、細やかなフリルのひとつひとつに染みこんでゆく。

 

 睡魔が、蘭子のゆるく巻いた左右の銀の髪を櫂にして、意識の小舟をまどろみの海へ滑らせんとする。それを、硬質な音がどうにかつなぎとめていた。衝立の裏からひびくその音は、彼女の保護者である、逆三角形の三白眼をした大柄な青年がキーボードを叩く音である。

 

 打鍵音はハロウィンよりもさらに先の、大きいイベントに関する資料を彼のPCの画面に記してゆく。しぜんと力む手が、蘭子を睡魔から守っているとは青年はつゆ知ることはない。

 

 あたためてきた構想のすべてを音と電子データに変えきるまであと幾許かというときである。室内の二人の視覚と聴覚が、蒼白の閃光と鋭く低い唸り声に占められた。

 

 大気の鳴動は蘭子の短い悲鳴を呑みこんでなおつづく。腹の底を揺らすようなとどろきのなか、回復した二人の視界は、ひとしく暗闇だった。蛍光灯は暗い灰色を呈し、モニタもタワー型PCのLEDも光を喪っている。

 

 左を向き、右を見て、少女の赤い瞳に見えるのは、天井に近い小窓の、夜のような曇り空と、きわだって白いホワイトボードのうすぼんやりとした姿である。ふたたび霧雨のノイズで満たされた耳に、衝立の向こうから低い呻きが届いた。

 

 蘭子は身を固くしたが、その正体に思い至り、あわてて椅子から飛び降りた。氷の床に上げた二度目の悲鳴は、衝立の裏の青年に、我をとりもどさせるにはじゅうぶんであった。

 

「神崎さん!? そ、その場を動かないでください……。いま、どちらに?」

「おお、オダリスクの寝台……」

 

 黒のタイツをつらぬいた凍気に膝が固まっていた蘭子は、青年の言葉を受け、ソファに小柄な体を放り出した。ひときわ大きい影が寄り、丸みを帯びた尻に重い揺れが伝わる。闇に盲た青年が、硬い革靴をソファの足にぶつけたのだ。

 

「す、すみません。こちらですね」

「うむ。と、隣に……」

 

 青年は座面を叩くかわいらしい音に従い、すり足で動いた。爪先に当たった軽いものが蘭子の靴であることは直感でき、指定の場所に座ると、自分の足の横に揃えて置き直した。

 

 座面に蘭子の残した体温を感じ、青年は表情をゆるめる。

 

「どこかぶつけてはいませんか」

「ふっ。闇こそ我が眷属、斯様な愚を犯すと思うか」

「悲鳴が聞こえましたよ」

「そ、それは……。それは、其方の懊悩の声に逸った天馬の嘶きよ」

 

 手綱はきちんと持っていてください、と答える青年の声は、先の嗚咽が揺り返したように、少しだけ詰まった。蘭子は仰々しくして頷く。

 

「しかし、光盗みし大罪、なにものが……?」

「先ほどの雷が電源設備に落ちたのでしょう。すぐ館内放送がはいるはずです」

 

 耳を澄まして五秒のうちに、青年の言葉どおり、社員はその場で復旧を待つようにとアナウンスがかかる。蘭子は首をかしげた。目のなれてきた青年には、赤い瞳と銀色の髪のかしぐのがはっきりと見えた。

 

「放送設備の電源は別系統に取られているんです。ほかに、電話は電話線から給電されていますし、カードキーの認証や階段の灯りも別系統ですね」

 

 閉じこめられる心配はないと言外にするが、はたして蘭子に伝わったかはさだかでない。青年もそこまで気が回っていなかった。どうせ落ちるのなら……という呟きが、乾いた唇からこぼれる。はっとして口を抑える仕草を、彼よりも闇に馴れた赤い瞳が映していた。

 

「ふっふっふ、これしきの闇に心脅かされるようでは我が神域には遠いぞ」

「……そうですね。これでは、いけませんね……」

 

 覇気のない声だった。蘭子はいぶかり、身を乗り出すと、青年の肩から腕をつたって、縮こまった大きい拳を包んだ。両目がひときわ明るく光る。

 

「其方は我が友にして戦車の牽き手、闇に臆しては我が覇道は途絶えてしまう。ゆえに、我が魔力を分け与えん!」

 

 持ち上げられた青年の拳に、やわらかい温もりと鼓動が伝わる。暗い青色のモノクロームのなかで、なにごとかのやまとことばの呪文を唱える少女の唇は、青年の目にははっきりと桜色に見えていた。

 

 呪文について、すべやかな生地ごしに手を挟むものから意識を逸らすべく、青年は訊ねた。

 

「千古の時代、我を夜の翼から守りし女神の歌よ」

 

 得意げに反らした胸は、青年の手を更なる谷底へ落とす。脱出を諦めたか、彼は笑んで応えた。

 

「素敵な歌ですね……。ありがとうございます、私のために」

 

 その声がまとうカラ元気の分子は、少女でなくとも気がつきえたであろう。暖房の止まった部屋の寒さに白んだ頬を膨らせて、蘭子はなお強く青年の手を胸に抱きしめた。

 

「我が瞳はたばかれぬぞ」

「大したことではありませんから……」

 

 声は暗闇に吸われて、青年の発した半分も少女の耳に届かない。

 

「なおも我に背くか!」

「本当です。ちょっと、思い出せなくなってしまっただけで……」

 

 青年の黒く小さい瞳が、闇のなかでも蘭子にははっきりと見えた。

 

「む、無意識の海に月の影を探すのならば、我が眼力を助けにできぬか……?」

「大丈夫ですよ、思い出せなくても、もういちど紡ぎ出せばいいのです。ただ、ちょっと、資料の肝心な部分がちょうど、停電で……。ああいえ、Wordは定期的にバックアップを取ってくれますから、もしかしたらなにごともなく、全部無事かもしれません……」

 

 青年の頭は、少女の胸にあずけた腕に伏し、その重みに沈んでゆく。理性は大したことではないと告げている。自分のいちどは考えたことが再現できないなどとも思わない。しかし、企画の訴求点を会心の文章に著した刹那に襲った蒼白の閃きは、青年の気力を奪い去り、心を暗黒の深海へ突き落としていた。

 

 疑懼の霧が両目をふさぎ、憂愁の錘が心臓に下がっては、取り柄のひとつに頑丈さを数える青年も、蘭子に気づかわせまいとすることさえ苦労に感じた。

 

「友よ……」

 

 心細くつぶやいて、蘭子は、胸に抱いた大きい手が、すがるようにリボンを握っていることに気づいた。あまりに弱々しく、ベルベットのなめらかさに、いまにも滑り落ちていきそうだった。

 

「わ、我らは一対の翼よ!」

 

 繊弱に堕した手のひらを、白く細い喉許まで持ち上げて、少女は声を張る。

 

「其方が羽ばたくことをやめれば、我もまた混迷の海に墜ちる」

「すみません……。ただショックだっただけですから、そう、手を動かせば、……動かせば、すぐに、もとどおりに……」

 

 なかば以上を自分へいいきかせる言葉は途切れた。電源の復旧まで、どれだけかかるのだろうか。きょうのうちに復帰するのか。自分はほんとうに、もとのできを再現できるのか。不安の泥は鉛の重さで彼を覆いつくしていく。

 

「其方の嘆き、絶望の海は我が飲み干さん」

 

 赤い瞳が、霧雨の音だけが満ちた暗闇のなかで、まっすぐに持ち上がる。蘭子はスカートの裾をつまみ上げ、青年の前へと膝でソファの上を移動した。うなだれていた頭を持ち上げても、青年の目に蘭子の白貌は見えない。黒いフリルの海に、青年の顔は沈められた。

 

 洗剤のものか、花の香りと、熱を帯びた汗のにおいに鼻が溺れる。鼓動が速く耳を打ち、短い髪には豊かなフリルが触れる。その向こうに硬い厚布が、顔に感じるよりもはるかにやわらかな肉を感じさせる。

 

「いまこの刹那に、魂を解き放て」

 

 少女の細腕は、溢れる黒のベルベットで青年の頭をあたたかく包みこむ。呼応するように、ワイシャツの太い腕は少女の腰にすがろうと震える。

 

「傷負いし黒騎士に、堕天使の祝福を……」

 

 細い指が髪を撫でる官能に、青年は溜め息をついていた。少女のくびれに腕が触れ、その重みを尻の丸みに預ける。

 

「神崎さん……」

 

 少女にははじめて聞く声だった。腹に発された、上擦ったか細いひびきが小さい心臓を締めつける。常に自分たちを守ってくれるこの頼もしい大人が、いつも見上げていた大きな男が、いまは……。

 

 少女自身も戸惑うほどの深みからこみ上げた衝動が、細腕に力を増させる。衝動は熱へと変わり、熱は桜色の唇から、青年の名となってこぼれた。口をつぐめば、両眼からにわかにあふれようとする。

 

 息苦しさに青年は腕をほどき、深い呼吸とともに華奢な腰骨をつかむと、切なさを増す腕から強引に逃れた。

 

「いけません」

 

 厳然とした声はやはり、自分へと向けたものだった。言葉に詰まる蘭子をまっすぐに見上げ、わずかにおだやかな表情を見せる。そこに一切の作為の影はなかった。

 

「たかだか数分の作業が消えた程度で取り乱して、こんな甘えかたをしては、情けない男と思われてしまいます」

 

 こんどは蘭子が、顔に強がりの白粉をまぶす番だった。弱った姿を見たいわけではない。しかし、自分しか知らないその姿を、もっと見ていたかった。自分だけが彼の支えでいられる時間が、もっと欲しかった。

 

「雷神の槌を受ければ勇者も潰乱に陥ろう。臆病な傍観者の哄笑ごとき毒花、心の苑に咲かせることはないわ」

「自分で思ってしまうんです。あなたにとっては、頼りになる大人でいたい。腑抜けたところをお見せして、失望されたくないと」

「だ、だから、わたしはそんなことは……」

「男の、子供っぽいところです。お赦しください。……こういう甘えかたをしてしまうことも」

 

 腑に落ちきらないと唇を尖らせ、白い手をふたたび青年の頭にかけた。

 

「ま、まあ、よかろう。だが、いまはもう少しだけ……。我が胎にその身を安んずるがいい」

「……わかりました」

 

 青年は蘭子の背中を抱き寄せた。少女のいざないに沿いかぐわしい腹部へ顔をうずめるのではなく、華奢な身体を横へ崩して、太い脚の間に横座りをさせる。

 

「ただし、この形でです」

 

 少女は身じろぎをして、背を支える腕から身体を起こす。

 

「こ、これでは揺り籠に在りしは我の方……」

「あなたの手が震えていたこと、気がつかないとお思いですか」

 

 もう片方の手が、黒いベルベットの海で縮こまる両手を握ると、赤い瞳が気まずく揺れる。すでに冷えはじめた白魚の指が、ごつごつした手のなかで泳ぐ。

 

「悲鳴をあげたのも、聞こえていましたよ」

 

 青年は心のなかで失笑した。安っぽい揺さぶりをかけてまで精神的優位を取りたいのか。一〇歳以上も下の子を相手に。そう、大人の自分が、歳若い少女を相手に……。

 

 赤くなってうつむき黙る横顔を、青年は肩ごと抱き寄せた。

 

「これなら、私も不安にかられずに済みます。あなたのぬくもりが伝わってきいますから」

 

 言葉の後半は、ノイズ混じりのジングルで遮られた。電源の復旧を告げ、スピーカーは切断音をはっきりと残してアナウンスを終える。

 

「……あと一〇分ほどですね」

「たったの……」

「部屋があたたまりなおすまでは、もう少しかかります」

 

 白い指をそっと撫でる青年の言外にしたところに、少女は渋々という風をよそおって頷いた。いま少しは甘えるだけの側でもいい。大きい手のひらの熱を指先で吸いながら、気持ち速い鼓動を、蘭子は子守唄にするのだった。

 

 

 

(了)

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