プレーン味です。
都下、日増しに色を濃くする青と緑の間に、神崎蘭子は濃密な銀色の長髪を吐息とともに弾ませていた。なにやらカラフルなモニュメントも大粒の紅玉の瞳の端に流し、丁字路の壁で遠慮がちに佇む人影へ。飛びつく寸前で止まった少女のカールした銀髪から、服を飾り立てるフリルから、花の香りの微粒子がこぼれ、大柄な青年の鼻腔にはじける。
「お久しぶりです、神崎さん」
険しかった青年の逆三角形をした三白眼がゆるむんで、蘭子も再会の喜びを顔じゅうから溢れさせる。アイドルとしてデビューしてからの一年、彼の許を巣立ってからの一年、記憶の波濤は口より先に、宝石の目のふちににじんだ。
目つきよりも数倍おだやかに、青年は蘭子のはずんだ、あるいはせきかかる息の整うのを待って、そばにいられなかったこの一年間のことを問いかけた。
……もちろん、二人はおなじ社屋を拠点にして、メールで、SNSで、電話で、ときには直に言葉を交わすこともあった。しかしそれらは、二人で過ごす時間という感覚を置き去りにしていたのだ。
ゴシックロリータと独自の世界観でアイドルとして顔の売れたいまにして、その実感をともないつつも蘭子がその身を偽らないのは、
「すみませんが、きょうは仕事ではありませんので、撮影はご遠慮願います」
どちらの心にもやましさの影が落ちていないと、信じ切っているからである。
青年が断りながら示した、アルフォンス・ミュシャ展のチケットに、数人のご婦人はチケットカウンターに行こうかと全身で迷う。それに微笑みかけて、青年が差す日傘に、蘭子は細身の体をおさめた。自然に揃う歩調は心地よく、履きなれた靴の音が軽快にひびく。
「神崎さん、日傘はこちらに置いていくようです」
示された鍵つきの傘立てに、蘭子が振り返って頷くと、青年は黒いフリルの日傘をたたんだ。初夏の陽射しにさらされて、絹の髪がなめらかな鏡のようにきらめく。小気味いい音とともに引き抜いた板鍵を、青年は手首に着ける。
「エグリゴリの名は」
「〇四〇八番にしました」
「我が聖数か」
こそばゆそうに桜色の唇の奥が笑う。
「すみません。少々浮かれているようです」
「我とても雲に立つもの、いたずらに風を送られては立っていられなくなってしまうわ」
「そのときは、私が支えます」
自分のセリフの照れをごまかすように、青年は腕を広げて道を示した。
「参りましょう。展示もお待ちかねですよ」
蘭子は青年の大きい手からチケットを一枚取り上げる。代金がわりに、まだ幼さの残る顔を花のように咲かせて。
六本木の国立新美術館で開かれたアルフォンス・ミュシャ展のメイン展示は全二〇点からなる巨大な連作、スラヴ叙事詩である。小さくとも約四メートルかける約五メートルのカンバスに詰めこまれた、一七〇〇年になんなんとするスラヴ民族の歴史が来館者を圧倒する。
どのカンバスの前も半円状に空けて見いるひとの群れを避けながら、二人も巨大な油彩画を眺める。不穏な始まりを示す一点目の前はなかば逃げるように蘭子が青年の背を押し、二点目、“ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭”に目と足を止めた。
「こちらは画面が賑やかですね」
「ひとの子が謳歌する、一〇〇〇年を褪せぬ輝きよ」
スヴァントヴィートはバルト海沿岸のスラヴ人に信仰されていた収穫の神だ。それを称える祭りに広場は賑わうが、カンバスの左上には、狼を伴った戦神がのぞき、ゲルマン民族の近い来襲をほのめかしている。
そうした寓意に気が回らなくとも、ちょうど目線の高さ、カンバス最下部の中央に座る女性に、青年は視線を寄せた。
「どうした? 我が友よ」
「あの女性の表情が気になりまして……。なにか訴えかけてくるような、深刻そうな……」
「むう!」
細い喉を震わせて抗議の鳴き声を発し、蘭子は青年を腕で引いた。一つめの展示ブロックのなかを時計回りに、つづく四枚の絵画を足早に眺め去っていく。
「か、神崎さん、もう少しゆっくり見ていきましょう」
解説のプレートも読めないままに二つ目の空間へ引きずられてきた青年は、不機嫌な小さい肩を両手でつかまえた。手が覚えていた、折れそうな硬さではなく、しっとりと弾力のある感触で、一六になったばかりの彼女の歳ごろを思い出す。かつて手許にあったおりの、一四歳の小さい女の子では、いまやすでにないのだ。
「よかろう、七つ目の時を超える窓、その光の綾は」
……クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ。展示の順序ではなく、描かれた順序に沿って、二人は縦長の一枚の前へ足を運んだ。これを左とし、九点目、一〇点目と並べると、フス派を主題としたチェコ側の歴史を描く物語になる。
そしてこの絵は、
「娼館を修道院に改装させるミリーチ伝道師の姿……」
なのである。
「とくと見よ」
「……」
「ふむ、女たちの深き悔恨と祈りが瞳と心を震わせるな」
「次の絵を見ましょう、神崎さん」
「……我が天の光だけを眺めて地上を渡ってきたと思うか」
「思いませんが、きれいな光を浴びて輝くあなたの瞳が、私は好きです」
桜色の唇はとがらるかだらしなく横に広がるか迷い、意味のない短い言葉を二、三発した。チェコを描く三枚の残り二枚を眺めるうちに、大人びはじめた幼い顔はようやく混乱からさめたのだが、もどって八点目“グランヴァルトの戦いの後”が呈す惨禍の痕には、少し青ざめて頼もしい背中に隠れた。
「ミュシャは凄惨な光景を描くのを避ける傾向にあったそうですが、写実的に描かれると死の恐ろしさが迫ってきますね……」
ここからつづく歴史は戦乱のなかにあり、青年は眼前に迫る暗黒の迫力と、背中に押しつけられるどこか心地よい圧迫感に挟まれて来場者の海を渡った。
そのなかにあって一枚、光彩を放つのが、“フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー”である。画面中央のゴシック様式の窓からの陽光は暗い主題の多かった一連の絵に差した朝陽のようにも見える。実際に示すのは、新たな自由の誕生、そしてボヘミアに対するローマの宗教的支配の終焉だが。
「“ローマの終焉”と題された本……だそうですが、ROMAの四文字以外はよく見えませんね」
「少年……?」
解説には、“ローマの終焉”と題した本を持つ少年、とあるのだが、美形と帽子のビジュアルで、蘭子にはあまり納得できなかったようである。しばらく“彼”を眺めていた二人はどちらからともなく苦笑を漏らし、三つ目、最後のブロックへと足を向けた。
「これは……白雪と銀氷の天地」
「ロシアの農奴制廃止、とありますね。背景はクレムリンの写真で見たような気もしますが」
「ううむ、白銀の妖精ならば……否、窓の先の名は光に託されし心にあらず、息遣いにこそ耳を傾けるべし!」
……雪の積もる赤の広場で、農奴の身分から解き放たれ途方に暮れる群衆の背後に、聖ワシリイ大聖堂のカラフルなタマネギ型の七つ屋根が浮かぶ。この表情をあらためて眺めて、疑問を呈す蘭子であった。
「なかなか難しいところですが……。神崎さんも学校はないから好きに学び、アイドル業もないから好きに働け、といわれたら困るでしょう?」
「むう……。偶像たる影を産み出す輝きを失えば、暗夜を闊歩する我が脚とて竦んでしまうかも……」
だが、と赤い瞳が輝いて青年を見上げた。
「我が脚の折れしときは、
「それは……よかったです」
青年は口の下手さを噛み締めながら、上機嫌の蘭子と次なる絵へと向かった。“聖アトス山”と題された絵に山容は描写されていない。聖なるアトス山にある教会で祈る巡礼者と、それを見守る天使たちの彫像の一枚だ。
そしてすぐ背後に飾られている“イヴァンチツェの兄弟団学校”。赤い壁の奥に高い糸杉と白亜の塔を望む学校の庭が描かれている。そこにいるのはキリスト教の布教のためにチェコ語の聖書を印刷する、若者たちの一団だ。その絵の左下に蘭子は目を留めた。
「水鏡に宿れる光?」
アトス山の教会と、イヴァンチツェの印刷小屋。そのどちらの左下にも、白ひげ豊かな老人と巻き毛の少年が描かれている。
「どちらも似ていますね」
二枚の絵のあいだを何度も往復して老人と少年は同一人物だと結論し、蘭子の歩調で次の絵へと彼らは進む。その絵、“スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い”を見上げて蘭子は、それまでとは描かれかたのちがう人物たちに、眉の角度を変えた。
「未完成……?」
神の座した樹の下で輪を作る若者たち、それを取り巻くひとびとのようすなのだが、手前の数人を残してぼんやりと色が置かれただけのようになっている。
「これだけは政治的な問題から完成させず、生前は公開もしなかったそうです」
聞きかじりの知識ですが、と断って、青年はシルエットのままになっている大人たちを手で示す。
「彼らの右手を指先まで伸ばして前へ出す誓いのポーズが、ナチスドイツ式の敬礼を想起させると物言いがついたのです。右下に描かれている円に収まった変形十字も、本来スラヴの太陽のシンボルなのですが、これを参考にハーケンクロイツが作られてしまったために……」
青年はかぶりを振って、小声でつづける。
「政治的な問題から影に沈んでしまった、文化と一枚の絵の、まさに現物です」
「悪意は水脈の毒か……」
複雑な気分を最後の一枚に洗い流し、二人はさらに先のコーナーに進む。
「おお、我が瞳の求めし軌跡よ」
「アール・ヌーヴォーもご趣味のうちでしたか」
アルフォンス・ミュシャと聞いて多くが思うのは、アール・ヌーヴォー式のくっきりとした流麗な主線と微細な筆致で花や女性を美しく描いた絵であろう。ゴシックロリータのように情報量の非常に多い、優美なデザインを好む蘭子が同様に愛好する様式としては、青年にとってもあまり意外ではなかった。
展示されている舞台の宣伝イラストを食いいるように見つめる蘭子である。
「ハムレットでしたら、社内に映像があるかもしれません」
「トスカもまた魔力を秘めていよう」
「探しておきます」
このコーナーの奥側には、今回の展示では唯一の彫像“ラ・ナチュール”が置かれている。ブロンズで作られた、うら若い裸の美女の胸像である。両目を閉ざし、胸は隠すことなく自然に張った姿は、性的な因子を廃した、女性美のひとつの具体化と……思わなかったものも、もちろんいる。
嘆息する青年の脇腹を肘で刺すと、蘭子はまたむくれて大股に歩き去った。それまでの展示と異なり、狭いブースである。声を立てずに少女を追い、その腕をどうにかとらえたのは、明くるコーナーも最後、“クォ・ヴァディス”の前であった。
「むう、このようなところで……。アスモデウスに魅いられたか」
中年の域にあるも精悍な男・ペトロニウスに恋をした奴隷娘のエウニケが、彼の大理石の彫像に肌を晒しキスをする、その一瞬前を描いた作品だ。
蘭子の言葉に巨大な絵を見上げて青年は瞠目し、偶然だと主張した。実際に偶然である。蘭子がこの一枚の絵の雰囲気に、そして解説文に気を取られて、足を止めた結果なのだから。
「それより、ひとが多いのですから……。ぶつかっては危険ですし、私の目の届かないところに行かれると、その、心配ですから」
「……」
振り仰いで、赤い瞳は、青年の言葉足らずをいまさらながらに思い出した。もとより険しい目から上の、重く垂れこめた暗灰色の空にも似たありさまは、とても二文字で表現しきれるものではなかったのだ。
「責めはいくらでも負いますので、どうか、ご自分の安全を」
「よい。我が歌なき静寂の冷気、心に焼きついたであろう」
弱々しい語気が、言葉と裏腹の気持ちを青年に伝える。そうと知らぬ本人ははっきりと言葉に変える。否、知っていても己の口で伝える少女であったろう。
「凍えし心臓、我が掌にて癒やさん……。あの、心配させてごめんなさい……」
「はい。この手はお離しになりませんよう。私も、ずっと見ていますから」
青年はそこから先の展示をほとんど見ないまま、展示室の正面にある円形のサロンの席にいた。感想をいいあう間も、その手は去年の春より大きくなった白い手の、きつく握るこそばゆさとあたたかさを反芻していた。
「エウニケの想いは遂げられたのだろうか……」
話題は飛び飛びに進み、青年の記憶の最後にある一枚にやってきていた。
「クォ・ヴァディスは読んだことがないもので……。絵を一見した印象では、歳も立場も遠いように思え……」
以前と変わらぬ、短く整えた銀の眉が下がる。それが意識にはいるより早く、青年は失言を悟っていた。白魚の指が青いグラスをなぞり、水滴をソーサーに落としていく。
「し、しかし、そういうものを乗り越えるのが、愛の物語だと思います」
力強い断言に、少女が指を止めて微笑む。数秒の停止した時のあと、店員がこの展示に合わせた特別ケーキセットを運んできた。マカロンとミルクアイス、木苺ソースのチーズケーキの三点盛りである。アイスの甘さ、コーヒーのほろ苦さよりも、甘酸っぱい真紅の木苺ソースの味が、きょうの蘭子の舌には強く残ったのだった。
(了)