黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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しおあじ


血の気  ゲスト:渋谷凛

 

 

「それでは、すぐお連れしますね」

 

 蛍光グリーンのジャケットをはためかせ、千川ちひろが廊下へ飛び出した。346プロダクションが擁する新人アイドルたち、シンデレラプロジェクトの全員がデビューを果たして間もないこの時期、彼女たちにはテレビ番組から、中小規模のステージから、連日オファーが届く。きょうも、シンデレラたちを取りまとめる青年に、アポイントメントもなく面会を求める客があるのだ。

 

 ゆっくり閉まってゆく扉に背を向けて、青年は無人のプロジェクトルームで取り急ぎ身だしなみを確認した。ネクタイだけ直し、大窓の外へ視線を転じる。地上三〇階から見晴るかす街並みは深い青色の空に覆われ、その遥かな外縁に夏の雲が白く立ち上がっている。直接に届かずとも陽射しはまばゆく、青年は鋭い三白眼をさらに細めた。

 

 かすかな物音に、青年は振り返った。閉まらんとする扉の隙間に、飾り気のない手が滑りこんで止めたのだ。

 

「おはよう、プロデューサー。……なに? 開けかたが乱暴だった?」

 

 強引に滑りこんできた少女・渋谷凛の薫る青葉の視線を浴び、青年は自分があっけにとられた顔をしていることに気づいた。

 

「まあ、そうですね。危険ですので、ノブを使うようにしてください」

「うん」

 

 凛は苦笑いで返事をすると、肩にかけていた通学カバンをソファに預けた。

 

「渋谷さんは本日は、四時から五時の間に健康診断がありますので、忘れずに受診なさってください」

「ああ……そうだったね。大丈夫、ちゃんと忘れずに行くよ」

 

 凛はスマートフォンのスケジュール帳の上で指を遊ばせる。歯切れ悪そうに喉と鼻を鳴らすのを、青年が珍しそうに見つめる。

 

「んー、きのうは……蘭子の番だったんだね。怖がってなかった? 採血とかあったんでしょ?」

「はい。だいぶ、不安だったようです」

 

 怖がりの本性をゴシックロリータの黒いドレスに鎧った神崎蘭子はきのう、凛の想像どおりに怯えていた。真紅の果実のような瞳を白い手とおなじように震えさせ、胸に抱いた健康診断票はしわしわにして。力なく垂れた銀の絹の髪、小さい背中の感触は、青年の手にまだ新しい。

 

 青年の苦い表情をどこか楽しそうに、凛は長い黒髪をかきあげて耳にかけた。

 

「蘭子も大変だったんだね」

「“も”……と、いわれますと?」

 

 凛は表情を改め、ダークブラウンのローファーを青年に一歩踏み出した。

 

「……あのさ」

「はい」

 

 声音にも真剣なものを感じ、青年も襟と姿勢をただす。

 

「きのうまる一日じゅうさ、卯月が“がんばります”を“ばんがります”ってずーっといってて」

「……はい」

「私は気になって仕方ないのに、未央もだれもなにもいわなくて。指摘したら卯月は返事だけしてそれでもやめなくてさ」

「はい」

「何度もいったのにやめなくて」

「はい」

「もう悔しいし悲しいし、“卯月!”って怒鳴ったら、ドッキリ大成功だって」

「はい……」

 

 暗色の靴が、硬い床に一つひびく。

 

「仕掛け人の卯月たちはもちろんだけど、プロデューサーも、私にドッキリをやるって知ってたよね?」

 

 口調どおり厳しい青竹の視線が顔に突き立つことに怯まず、青年は鋭い目をできうるかぎりに大きくして見つめ返した。

 

「はい。ですが、詳細な内容までは聞いておらず……。ただ、知っていても、“ドッキリはヤラセなし”というのが業界の鉄則なので、事前に教えることはできませんでしたが……」

 

 鼻からのつまらなそうな返事も、青年は正面から受け止める。

 

「ご不快にさせてしまい、すみません。今後は精査します」

 

 頭を下げる青年の、真面目と冷静の両岸に両脚が踏みとどまったままなのを見て、凛はより多くの息を鼻で吐き出した。

 

「ま、いいよ」

 

 脅かすつもりの言葉にはたじろがず、なにげない一言で揺らぐ大柄な青年に、凛の顔に苦笑が浮かぶ。“しょうがないな”と応える代わりに肩をすくめて、キャビネットに置かれた花瓶を指ではじいた。

 

「撤収してるときに見せてもらったけど、CCDカメラって本当に小さいよね。ボトルガムにもはいってるの。ぜんぜん気づかずにガム食べてたよ」

「いまもその花瓶から、こちらを伺っているかもしれませんよ」

 

 青年の珍しい冗談で、凛は思わず周りを見めぐらした。それをごまかそうと、耳を赤くして握った片手を上げたところへ、重い音を立ててまた扉が開く。

 

「プロデューサーさん、お客さまをお連れしましたよ」

 

 蛍光グリーンのジャケットの千川ちひろが笑顔と右手のひらで示したのは、老若黒白、対照的な二人の男だった。

 

 

 

 綿飴のような頭の鹿毛仁(かげ じん)は生物学者と名乗り、黒い飴細工のような七三分けの努月理(ゆめづき さとし)は若手の医師を名乗った。二人の来客と青年にアイスコーヒーを供すと、千川ちひろは執務室を退出する。扉をはさんで聞き耳を立てていた凛の背中を押しながら。

 

 名刺の交換をせわしなくし、うっすら汗を浮かべるグラスのコーヒーで口を湿らせると、努月が見た目どおりに堅苦しく話しだした。

 

「346プロダクションさまの健康診断結果は当病院で取り扱っておりまして、その分析結果につきまして一件、おりいってご相談させていただきたいのです」

「私にということは、シンデレラプロジェクトのだれかの……?」

 

 硬質な声が彼の不安を短く肯定する。受け取ったひもつき封筒は乾いた音を発しながら、表面にしわを増やしていく。

 

「神崎蘭子さんの血液検査結果です。まずはご覧になってください」

 

 8の字にかけられた留めひもをつまむ指が震え、何度もかえって巻きつけ、端を取り落としながら、青年はやっと中身を取り出した。

 

 彼には見慣れた書式の成分表は、〇に近いγ-GTPや正常範囲内やや下の赤血球数など、蘭子がいたって健康であることを淡々と報告している。ただ、下側の余白の、丸みのある走り書きに、青年は黒い眉を寄せた。

 

「“発光”……?」

 

 つぶやきとともに体から震えが抜け、一人がけの椅子に腰を下ろしたときの落ち着きがもどる。疑色を帯びてまっすぐな視線を受け、こんどは鹿毛が口を開いた。

 

「検査をやっていた看護婦のメモだよ。彼女も検体の発光を確認して、まあ私のところに持ってきてね、調べてみたんだが……」

 

 “看護士です、先生”との努月の小声に、鹿毛はあいまいに頷いてつづける。テーブルの上を滑って手許へ来た紙は、鎖状の六角形やラテン文字の羅列に、青年には見えた。

 

「新型のルシフェリンが検出された。その式はまだ予想だが、まあまちがいはあるいまい。複合光で発光量子効率が〇・九〇……ああ、白い色でよく光るということだ」

 

 ルシフェリンという言葉には青年も聞き覚えがあった。自ら発光する生物が体内に持つ物質の総称で、ホタルのものが最もエネルギー効率がいいという。発光は視覚的にわかりやすいため、遺伝子の発現解析によく使われているとも聞いた。それは彼がまだ学生のころ、テレビやキャンパスで話題になっていたノーベル化学賞の話の延長でのことである。

 

「白い発光は世界初だ。青、緑、赤と三原色のルシフェリンは揃っているが、これを光の強度が揃うように混合してやるのは骨が折れるから誰もやらなんだ。まあ結果としては正解だった。見事な白色ルシフェリンが登場したんでな」

「はい。そして、その白色ルシフェリンのサンプルがより大量に必要です」

「サンプル?」

 

 硬質なまま熱を持つ努月の声に、青年は眉をひそめ、身構える代わりに襟を直した。はんだごてを突きつけるような視線を受けて、しぜん、もともと鋭い目つきがよけいに険しくなる。

 

「つまり、神崎くんの血液をもっと提供してほしい」

「なんですって!?」

 

 言葉未満の状態で頭のなかに這い回っていたなにかが、気安い老人の言葉でたちまちに毒虫の姿を得て飛び立った。浮かした腰を椅子にもどしたがまるでおさまりが悪く、青年は縁にごく浅く、飛びかかるような姿勢で座った。

 

「白色ルシフェリンの含有率は一ミリリットルあたり六〇マイクログラムです。追加試験や検証に、ひとまず一グラム、およそ二リットルぶん。量産の目処が立つまでには現状の概算ですが五リットル」

「そんなことは許可できません!」

「しかし遺伝子工学の助けになります」

 

 遺伝子の発現状況が視覚的にわかるよう、呈色や発光をさせるために加える遺伝子をレポーター遺伝子という。改良した遺伝子の出来不出来を見るなど、工学上欠かせない要素で、ルシフェリン遺伝子がよく使われている。しかし、光量や色の強化があえて言及するほどの進歩にどうつながるのか、余裕のない青年には考えるべくもなかった。

 

「オワンクラゲのルシフェリンで作られた光る猫は見たことがあるだろう?おなじ要領で光る樹を作って道端に植えれば電気いらずの街灯になる。非常にエコだ。手入れも剪定くらいなものだ。まあ、街灯らしい光が得られんから、話にならなかったんだが」

 

 一息にいうと鹿毛は、早くも尽きたコーヒーを物足りなそうに、紙コップの底を眺めた。

 

「これまでは構想だけだった話ですが、神崎さんの新型ルシフェリンがあれば未来が拓けるかもしれません」

「そんな量を採るためにどれだけ彼女を拘束するつもりですか! どれほどの苦痛だと思っているんです!」

 

 もはや青年に椅子は用をなさなくなっていた。毒虫の火をまとって飛び交う感覚が走る指先で、ローテーブルを圧し割らんばかりにする。

 

「科学に犠牲はつきものだよ」

 

 いけしゃあしゃあと答える鹿毛に一瞬鼻白み、しかし、熾き火はすぐ勢いをとりもどす。

 

「……これまでの犠牲は見ず知らずのひとでしたから、薄情かもしれませんがなんとも思っていませんでした。ですがこれは事情がちがいます。どのような理由であれ、あのひとは害させません!」

 

 青年はテーブルを爪できしませ、剥いた牙の隙間から火の粉を噴き上げた。紙コップを揺らして物足りなそうな鹿毛の態度が油を注ぎ、努月の涼しい顔がふいごで風を送りこむ。

 

 冷房のたしかに機能しているはずの室内で、青年の顎から暗褐色の天板へと汗の一粒が落ちた。薄い唇を真一文字に結んで身じろぎもしない努月の横で、鹿毛はへの字にした唇の山を右へ左へさせている。二粒目がはじけ、三粒目の躍り出るのとほぼ同時に、白い頭の老人が大きく息を吐いた。

 

「いや、わかった。しかたない。私は諦めよう」

 

 鼻息の音を短く立てて、努月が鹿毛の意思を問い直す。深く頷く老人の姿に、青年はテーブルを爪から解放し、努月ははじめの一口からずっと飲まずにいたコーヒーで、かすれかけていた喉を潤す。

 

「いまあるぶんだけでやるか。まあ、日本の研究者は制限されたほうが成果を出すものだしな」

「ご理解くださって、ありがとうございます」

「いいえ、ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」

 

 努月の言葉はスマートフォンの振動で遮られた。断って通話を始めた直後、不変に思われた表情が驚愕の形に歪んだ。

 

「あのひとが……? すまない、なるべく引き伸ばしてくれ。私もいまから、神崎さんの担当の方ともどる」

 

 通話を終えた努月は、青年に深々と頭を下げた。彼の先輩医師である板頭等(ばんどう ひとし)がこの話を聞きつけ、蘭子の血液に高い値がつけられるとふんで彼女をつかまえたというのである。

 

 青ざめた顔をするのも一瞬、“先に行きます”というや(二人にはほとんど聞き取れなかったが)、青年は部屋を飛び出していった。

 

 乱暴に開け放たれ、閉まりきらんとしたドアをノブでつかみ、凛が応接間に姿を現した。パーティションの支柱に背を預け、腕を組んで、二人を見下ろす。青年がまだここにいたなら、頼もしい味方に思えたかもしれない。

 

「ねえ、悪趣味すぎない?」

 

 相変わらず淡々とした言葉に、二人の男はしばし顔を見合わせるのだった。

 

 

 

 神崎蘭子は簡素なベッドに小柄な身体を横たえていた。薄いティッシュ箱のような枕は、後頭部を乗せても横顔を乗せてもまるで落ち着かない。清潔感を絞って染めたような白い壁のこの部屋は、四畳ばかりだろうか、やはり簡素な机にファイルと筆記具が置かれ、背もたれのない丸いすがぽつねんとある。

 

 二つある扉のうち、入室に使わなかったほうの向こうから、蘭子はなんとも恐ろしげな物音を聞く。細かい金属がいくつもぶつかる、軽快で心のない音だ。泣き出しそうな溜息を漏らして、蘭子はごく淡いクロッカスのブラウスの胸で小さい手を祈るように合わせた。

 

 ……エントランスで千川ちひろから再検査通知を渡され、指示されるままにこの病院へやって来たのは、三〇分ほど前のことだ。シンデレラの一人である彼女の担当、三白眼の鋭い大柄な青年を伴いたかったが、とにかく急かされて炎天下を独り歩いたのだった。

 

 痛かった採血の記憶で窓口へ行く脚が鈍った。吹き出る汗をいいわけにして控えめな冷房に休んでいたところへ、濃い茶色の巻き毛の男が声をかけてきた。白衣に縁無し眼鏡の男は、蘭子には、彼女の恃みの青年より少し年長に見えた。

 

 板頭と名乗ったその眼鏡に案内されるまま診察室の椅子に座ると、きのうの血液検査での結果について知らされた。大筋はおなじころに、いまは病院へとひた走っている青年が聞かされたとおりのことである。

 

 ただし一つちがうのは、白色ルシフェリンを大量に作れるようになることでもたらされる恩恵の規模が、板頭の説明では難病治療やエネルギー問題の解決まで飛躍していた点であった。

 

 勢いに押し切られ、わけのわからぬままに追加の採血に同意した神崎蘭子は、機材の用意をこの白亜の部屋で独り待っている。その間に恐ろしくなってきて、だが約束をたがえるうしろめたさに細身をベッドに押さえこまれ、真紅の瞳に涙を浮かべる蘭子である。

 

「友よ、我が瞳は曇っていたのかもしれぬ。其方の瞳であればどの道の涯てに光を見ただろうか……」

 

 眼光鋭い“友”の姿を思い、蘭子は天井をまっすぐに見つめて、両手の指に力をこめて握った。奥の扉の向こうから一つ大きい音がして、静かになる。

 

「ギャッラルホルンは鳴れり……」

 

 両のまぶたにも力がはいり、淡いアイシャドウと漆黒のマスカラが紅の瞳を閉ざし、恐怖と緊張が小さい身体を震わせた。ドアノブが、音を立てて回る。

 

「神崎さん!!」

 

 奥の扉より早く廊下の扉が開き、大きい影が飛びこんできた。なかば怒鳴るような声に、蘭子は全身の緊張を解いて跳ね起きる。

 

「我が友!」

 

 かかとで蹴られたベッドが壁に安い音をひびかせる。飛びつき、抱きとめる二人の奥で、開きかけた扉がそっと閉まった。

 

「帰りましょう。こんなところにいてはいけません」

 

 青年は己の胸から見上げる真紅の果実をやさしくのぞきこんだ。白く小さい手でワイシャツの肩にしがみつく。

 

「きのうのぶんだけでも研究はできるそうです。あなたがこれ以上痛い思いをして、身を削ることはありません」

 

 震えの残る銀の絹の髪を、熱っぽい手が撫でる。

 

「だ、だが、我が受難により光もたらされる民があるのならば……。この身、ひとときカフカスの鷲に捧げても良いと思うのだ」

「あなたを犠牲にして得た利器になんの価値があるというのですか。ファンのみなさんも悲しみます」

「巫女の神託には従うはず……」

「少なくともここにいる一人は納得しません」

 

 青年の鋭い目が、蘭子の揺れる瞳をおなじ高さから見据えた。力強い手が、ブラウスの細い肩をしっかりと包みこむ。

 

「あなたはアイドルです。血を使うのでしたら、汗と涙との結晶をステージの上から届けましょう」

 

 青年の目と口許がその線をおだやかにすると、蘭子もまた表情をゆるめた。両目にどこか安心したような、静かな光をたたえて。

 

 青年の汗を蘭子が拭い、日傘を青年が預かり、並んで廊下側の扉を開いた。白くまばゆい光が、狭い部屋になだれこんでくる。

 

「はーいどうも、ドッキリカメラでーす」

 

 笑顔の鹿毛、努月、板頭と、うしろから彼らを睨む凛のあわせて四人が“ドッキリ大成功”のフリップとともに二人を出迎えた。うしろにはマイク、照明とレフ板、二台のカメラが控えている。

 

 目を丸くする二人に、フリップをうしろのスタッフに渡して凛が進み出る。細い首筋をかき、顔は背けがちにしながらも、鮮緑の視線はしっかりと二人に注いでいる。

 

「ごめん、私はさ、知ってたんだ。プロデューサーも巻きこむって」

「そうでしたか……。ああ、それでやけにきのうのドッキリの話を」

「うん、教えようと思ったけど、ヤラセはだめだって聞くとさ」

「ドッキリ……? これは、バルベリトの詭弁……?」

 

 事態の飲みこみきれない蘭子に、凛は苦笑いを向けた。

 

「そう。怖かったでしょ蘭子。こんな場所だし、ネタの趣味は悪いし」

「わ、我が血の煌めきは」

「そんな物質ありません。どうも、板頭等と書いてイタズラです」

 

 茶髪の眼鏡の人懐こい笑顔は、黒と緑の刺々しい視線に引きつった。

 

「白いルシフェリン以外は嘘でもないそうですが。ドッキリの努月理です」

「そして私が仕掛け人の鹿毛仁。いやあ、お疲れさまですみなさん」

 

 朗笑する三人に温度のない“お疲れさまです”を返し、心には、この番組のプロデューサーと放送作家はきちんと調べておこうと決めた青年である。もう一つの“お疲れさまです”と、同義である蘭子の“闇に飲まれよ”もまた心のこもらないまま、雑な偽名を使っていたスタッフに届いた。蘭子が頬を膨らせ、茶髪を恨みがましく睨んでいる。

 

「蘭子……まさかかっこいいって思ってた?」

 

 むくれたまま深く頷く。蘭子の視界をふさぐように青年が回りこみ、そっと肩を包んだ。

 

「堕天使の覚醒めが我が身に兆しをもたらしたものだと……」

「それは残念でしたが、神崎さんが狙われずにすむなら、とてもいいことです」

「ルシフェリン……闇の波動を感じたのに……」

 

 怒りのエネルギーが放散してうなだれる蘭子に、青年はつい焦ってしまう。慰めの苦手な凛も、腕を組んで困り顔だ。

 

「見るだけ、でしたら、せっかくの夏ですから、どこかで夜光虫の取材などを探してみましょう。生物発光は、ご自分が光るより見るのが楽しいですよ」

「やこうちゅう?」

 

 赤みを強くした瞳が見上げる。こんどは青年がハンカチを差し出す番だった。

 

「海にいるプランクトンの一種です。青白いルシフェリンを持っていて、夜の波打ち際などを輝かせています」

「ふーん……。私もいい? 蘭子」

 

 さっき泣いたカラスがもう笑い、凜へうれしそうに二つ返事をする。青年は自分に訊くのではないのかと片眉を上げたが、肯定以外をしないと思われたのだろうと、独り、納得した。

 

「……番組の趣旨からは外れるかもしれませんが、この二人でそういう映像はいかがですか?」

 

 すっかり機嫌を直した蘭子の満面の笑みと、凛の自信に満ちた微笑が三人のスタッフに迫る。アイドルや見知らぬ男の怒り狂う姿より、驚きの自然現象と銘打ったちょっとした非日常ではしゃぐ二人のほうがまちがいなく視聴者には受けるだろう。まだ気迫の抜け切らない青年の眉間も含め、三者三様におなじメッセージを発している。

 

「ひ、ひとまず持ち帰らせていただいて……」

「いえ、急なことですし、すぐにそちらのプロデューサーさまとお話をさせていただけませんか。ああ、作家のかたにも、大枠で本を書いていただかないといけませんね」

「いや、ちょっと、ねえ?」

 

 笑顔を無理に貼りつけた青年に肩をつかまれ、茶髪の顔は完全にひきつった。巻き添えはごめんだと、撮影スタッフと残る二人のドッキリ仕掛け人が静かに撤収を始める。茶髪がすがるように伸ばした手は、せわしない足音にまぎれた“あとはがんばってくれたまえ!”という声で叩き落されるのだった。

 

「では、あとの段取りをお願いします。ちょうど、使える部屋もありますから」

 

 

(了)


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