黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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茨の公主と黒マント<その花の名は>(中編)

 夜になって、黒マントは帰ってきました。使用人用の出入口に手をかけると、ひとりでに扉がひらきます。

 

「おお、おそいお帰りだね」

 

 タバコを指にはさんだ侍従長が笑って立っていました。なにかいいさす黒マントを制して、

 

「お嬢さまなら、食堂でお待ちだ。自分の仕事を忘れちゃいかんよ」

 

 用は済んだとばかり、いそいそと喫煙スペースへ駆けて行きました。

 

 黒マントが慌てて食堂へ駆け込むと、長テーブルの奥にお嬢さまはひとり、黙然と座っておりました。

 

「お待たせして申し訳ございません!」

 

 かすかだった暖炉の火を熾し、燭台に火をつけます。調理場に残っていたパンとスープを温めなおして、赤い瞳を伏せてじっと座ったままのお嬢さまに運びました。彼が慌ただしく駆けて来るにつけ、行くにつけ、かすかな香りが、お嬢様の鼻に届きます。

 

 この一年ばかりには週に二度ほど、黒マントはお嬢さまのそばを離れて、どこかへ行くことがありました。そのたびに彼の黒い外套から、花の匂いがしていたのです。どこでそんな匂いをつけてくるのか、はじめのうちこそ問い質しました。しかし彼は“年が明けるまでには明らかにいたします”としか答えません。お嬢さまの胸には、暗い雲がどんどん増えていきました。

 

 そしてきょう、偶然から見てしまった花屋の姉妹との逢瀬。寝る前のハーブティーは、その花屋に彼が注文して買っていることは知っていました。ですがそれは、鉢植えと一緒に定期的に持って来させていたもので、わざわざ彼が出向く必要はありません。

 

 たちまちのうちにお嬢さまの胸の雲は黒く重たくなって、ただスープが熱いということ以外、なにも感じないままに食事を終えました。

 

「精霊の薬湯はもはや要らぬ」

 

 いつものように差し出されたティーカップを、お嬢さまは突き返しました。豪華な天蓋のついたベッドの上で、靄がかった赤い瞳は従者を避けてさまよいます。

 

「我が身に澱み、蝕む毒……」

 

 黒マントは目をみはって、動けないでいました。お嬢さまにはやく下げろと急かされて、震える手で流しに捨てました。

 

「おやすみなさいませ、お嬢さま」

 

 横たわる主君の小さい体に、大きすぎるほどの毛布と布団をかけて、いつものようにささやきます。明かりを消して部屋を出、鍵をかけると、黒マントはとぼとぼと自分の寝床に帰って行きました。

 

 きしむベッドに大柄な体を横たえ、毛布にくるまって、一時間も二時間も、彼は眠れずにいました。お嬢さまがハーブティーを飲まなかったのも、おやすみと返してくれなかったのも、これがはじめてでした。

 

 熱すぎるとか、薬っぽいとか、この香りは嫌い、好き、おいしい。

 

 お嬢さまは一杯ごとに表情を変えて、そのどれもが彼には宝物でした。お嬢さまがおやすみといってくれるから、彼は身を休めることができたのでした。

 

 硬い寝床で、彼ははじめて眠れぬ夜をすごしました。

 

 

 

 目の下のクマをごまかして、黒マントは朝一番の仕事に向かいます。

 

「お嬢さま、お目覚めの時間です」

 

 いい終わらないうちに大きい扉が無造作にひらくと、お嬢さまが立っていました。昨夜よりは顔を自分のほうへ向けてくれていることに安心した黒マントですが、お化粧でも隠し切れないほどのクマをその顔に見つけます。

 

 それを問うとお嬢さまは黙って扉をとざし、ふたたびひらいたときには見事な白いかんばせをしていました。

 

 いつもであれば、お嬢さまはノックだけでは起きてこず、枕を抱いてむにゃむにゃいっているのを揺り起こしてやらねばなりません。“煩わしい太陽ね”“はい、おはようございますお嬢さま”と挨拶をかわし、それからお着替えを待って髪を梳き、またお化粧を待ってようやく朝ごはんを食べに食堂までエスコートをするのがならいでした。

 

 きょうのお嬢さまはそのくだりが逆転していて、そのうえ様子がおかしいのでした。白百合のように微笑むといつもの挨拶をし、ふだんはそっと添えるだけだったエスコートの手は、腕を絡ませて。

 

「お嬢さま、きょうはいかがされましたか?」

 

 訊ねれば、すまし顔で答えます。

 

「我は我が心の赴くままに。其方は如何にやあらん」

「御意に」

 

 昨夜の機嫌はすっかりなおっているのだと、黒マントは安心しました。

 

 お昼にはバスケットにサンドイッチを詰めて、黒マントが走らせる馬で近くの湖へお出かけを。

 

 夕方、冷える空気から逃げるようにお屋敷にもどると、お嬢さまは部屋にこもります。

 

「固くとざした地獄の門、けっして開けてはならぬ!」

 

 毛糸玉をいくつも持ち込んでなにかしているようでしたが、黒マントは気づかないふりをしました。

 

「お嬢さま、今夜はハーブティーはいかがされますか」

 

 きのう激しく拒絶されただけに、声が緊張していました。お嬢さまの答える声は、しかし、ひどく明るかったのです。

 

「女王に捧げられし黄金の雫を加えよ」

 

 いわれたとおり、まあ、いわれたとおりというとなにかおかしくはあるのですが、黒マントはハーブティーにはちみつを混ぜました。

 

「足りぬ」

 

 言葉に従ってはちみつを足して足してなお足して、ハーブティーがどろどろになると、お嬢さまはカップを受け取ってひといきに飲み干しました。

 

「おいしい」

 

 千秋の思いで待っていた言葉に、黒マントの頬がゆるみます。

 

 茶器を片付け、いつものとおりやさしく毛布と布団をかけ、寝る前のご挨拶。

 

「おやすみなさい、お嬢さま」

「其方も月光の翼の裡にその身を預けるがよい」

 

 さて、このお嬢さま、“おやすみなさい”はいいましたが従者の袖をつかまえて離しません。

 

「いかがなさいましたか」

 

 と問えば、

 

「悪魔の奏でるヴィオロンが我が耳に届くまで、其方の熱を捧げよ……」

 

 すがるような眼で黒マントを見つめるのでした。彼はすぐさまベッドの横に跪くと、差し出された白い手を両手でそっと握ります。

 

「お望みとありましたら、朝まででもおります」

 

 お嬢さまの瞳が、わずかにうるみました。

 

「その心の高潔を示せ」

 

 黒マントには二晩目の眠れぬ夜でしたが、こんどはまったく苦ではありません。ただ、一つだけ、心に引っ掛かるものはありましたが……。

 

 

 

「おひとつ奏上いたしたく存じます」

 

 翌日の夕方、お嬢さまがまたお部屋でなにかを編まれているあいだに、黒マントはミレディの許を訪ねました。

 

「お嬢さまのご様子がなにか、ふだんとはちがうのです。笑っていらしてもお声が弾まず……。お眼が氷のごとく固まっておられることも。ミレディになにかお心当たりがありましたら……」

「ことしの冬は冷えるな」

 

 ミレディの返事は返事になっていないように聞こえますが、やはりいつものことなので黒マントは気にしません。

 

「家にいてもこごえるのは、隙間風……。建てつけの悪い家にしたつもりはない、ならばどこから吹く」

「戸や、窓ですか。締め忘れた」

「そうもあろうな。だがそうではない。あの子はそんな不用心ではないさ」

「であれば……」

「部屋を照らし、体を温める暖炉……。あの子の部屋のそれは、どうやらおかしくなってしまったらしい。吹き込む冷たい風はすすと灰にまみれて、火種も見失ったというのに暖炉に

しがみついてうずくまっている。うしろにはあたたかいベッドもあるというのにな」

 

 ミレディは自嘲気味に笑いました。この母娘の言葉を難なく聞きこなしている黒マントですが、このときばかりは困った顔をしています。

 

「暖炉……」

「そうだ」

「火を……。ふたたび、火をとりもどす……」

「できねばこの屋敷にきさまの居場所はない。……わたしの話は終わりだ」

 

 ミレディは腕を組むと、顎で扉を示しました。退出しろ、ということです。さすがにジェスチャーはシモジモのものたちと変わりありませんでした。

 

 

 

 いっぽうのお嬢さまは、お部屋にこもって編み物の真っ最中。白くて幅広のマフラーです。あと三日後に迫ったクリスマスにむけて、大急ぎで編み針を動かします。

 

 この色を選んだのは、黒ずくめの黒マントですから、きっと白がよく似合うとお嬢さまが思ったからです。毛糸の白にも青っぽいもの緑っぽいものとさまざまですが、お嬢さまはかすかにクリーム色をふくんだ暖かみのある白を選びました。

 

 プレゼントの用意を忘れていたわけではありません。お母様に贈るもの、母娘で使用人たちに贈るもの、黒マントにとくべつに贈るもの。みんな揃えてありました。

 

 そのうえでマフラーも編んでいるのは、大事な執事を花屋に奪られたくないという、必死な思いからのことです。そう、きのうからべたべたと甘えるようになったのも、自分には黒マントをこんなに必要に思っているんだとアピールしていたのでした。それは、まだ幼いお嬢さまにができる最大限の抵抗でした。なにもかも、おとといの晩を泣き明かして決めたことでした。

 

 彼のしてくれることは、なんだって受け容れようとも決意をしていました。それでも、花屋から買ったハーブティーだけはそのままには飲み込みたくなくて、はちみつでごまかさせたのです。……とはいえあれは甘すぎて、少々気分が悪くなってしまったものですから、今夜はたっぷりのショウガをあわせてみよう、なんて考えています。

 

 

 

 あくる日も、お嬢さまは黒マントと一緒でした。時計の針の進むにつれて、お嬢さまの甘えようは強くなっていきます。それはきっと、執事がミレディの言葉の意味を考えてばかりいて、上の空になっていたためで……。

 

「お嬢さま、パーティーの折に、大切なお話がございます。つきましては、ダンスの始まる前にお時間をいただけませんか」

 

 さらにあくる日の朝食のあと、執事はひとつの答えにたどり着きました。

 

(私がいま、お嬢さまにして差し上げられることはなにもない。だが、もし、お嬢さまのお心が熱をとりもどすときがあるとすれば……)

 

 彼の脳裏に浮かんだのは、毎年のクリスマス、贈り物の箱を楽しみに開けるお嬢さまの輝く笑顔。贈り物を受け取る楽しみ、開ける前のワクワクする気持ち。そして思わぬ中身への驚きと興奮。クリスマスに限ったことではありませんが、そのお嬢さまのはしゃぐ姿が強く想われたのです。

 

(お嬢さまは、私が贈り物をご用意申し上げたとはお気づきでないはず)

 

 だから、

 

(きっと例年以上に、お心を動かすことができるはずだ)

 

 と、考えたのでした。

 

 希望が見えて落ち着きを取り戻した黒マントでしたが、お嬢さまのじゃれつきようは止まりません。気を引こうと焦っているのではなくて、やめどきがわからなくなってしまっておいでのご様子です。

 

 

 

 そうして訪れたクリスマス・イブ。近くの諸侯やらその子女やら、従者やら裕福な領民やら……。丘の上のお屋敷にぞろぞろと集まってまいりました。ホールでミレディとともに来賓と挨拶をしているお嬢さまに、背後に控える黒マントがっそりと耳打ちします。

 

「すこし席を外します。お嬢さまはそのままお待ちになっていて下さい」

 

 その場は許したお嬢さまでしたが、三分と経たないうちにそわそわと落ち着かなくなって、

 

「冷えるか?」

 

 お母さまに心配されてしまいます。

 

「い、否。今宵のミサの熱気に……」

「背中が、だ」

「お母さま……?」

 

 ミレディの瞳は娘の顔をちらりと撫でて、近くの扉に留まりました。そのさまに、さすがは母娘といったところで、お嬢さまはドレスの裾をつまみ上げると小走りで駆けて行きました。

 

 広いお屋敷のなか、見かけた使用人に片端から黒マントの行方を問うて、お嬢さまは走ります。螺旋階段を上へ下へ、中庭を抜けて内廊下、そしてついに外廊下、窓の向こうに求めた影を見つけたのです。

 

 なにかを待つように、丘の下へとつづく馬車道をじっと眺めている姿。その視線の先からがらがらと、二頭牽きの馬車が近づいて来ました。黒マントは歩み出て、馬車の来賓を迎えます。お嬢さまは窓ごしに、それを食いいるように見つめていました。

 

 馬車からは花屋の三姉妹が降りてきて、次女の手には大きい包みがひとつ。早足で近寄っていく黒マントに、その包みを、リンリンは笑顔で手渡しました。うやうやしく受け取り、彼も笑顔になります。それは、口を半月のようにひらいて目尻は細く下がった、お嬢さまさえいままて見たことのない笑顔でした。

 

 お嬢さまはひえびえとする窓に、割れそうなほど両の手のひらを押しつけていました。

 

 黒マントは深く頭を下げて、リンリンは照れ笑い。うしろの二人もニコニコしています。三人とも、きれいなドレスの袖が、裾が、ひらひらと揺れてお姫さまのようです。黒マントが玄関をあけて、三人をお屋敷に招きいれました。

 

 お嬢さまの脚はばらばらに壊れて消えそうで、冬の夜の凍るような窓が、ようやくその体を支えています。細い喉はえづくばかりで、息を吸うこともできません。

 

「このことは、きょうのうちは、お嬢さまにはご内密にお願いします」

 

 聞きなじんだ声が、廊下の先から聞こえました。顔を上げれば、秘密の約束を交わしたのは、先程の三姉妹。ルビーの瞳からひとりでにあふれる熱いものは、すぐに冷たくなって凍えた頬をつたい、小さい顎から虚空へこぼれていきました。

 

 ふらふらと立ち上がるお嬢さまの姿に、黒マントたちも気がついて歩いてきます。いつもの、なにごともないような落ち着いた顔を作って。

 

 にじむ視界に一瞬、彼らの顔が見えたとたん、お嬢さまは美しいドレスも銀色の髪も振り乱して、転がるように走り出していました。いくらがむしゃらでも、そこは自分の家ですから、まちがえることなく自分の部屋へと駆けこみます。途中でミイラ男を突き飛ばし、メイドを一人下敷きにしてしまいましたが、彼女はうれしそうな声を出していたので平気でしょう。

 

 そうしてお部屋の扉にも窓にも鍵をかけ、厚手のカーテンをすべて閉めます。肩で息をしながら、この日の最後にいちばん大切なひとへ送ろうと思っていたプレゼントの前に立ちました。それはヒナヒナに教わって、春先からなんども描きなおした油絵でした。

 

 布を外して震える両手で持ち上げれば、お嬢さまの両眼に浮かんでくるのは、短い黒髪、白目がちの鋭い目、若々しさと苦労の同居した精悍な顔つき。馬を走らせているとき、斜めに見上げた顔は、遠くを見つめていました。火で遊んでいて叱られたときにはほんとうに怖いと思いました。迷子になったときに見つけてくれたのは、すっかり青ざめた彼でした。はじめて会ったときのかたい無表情。食事を並べてくれるときの横顔。ハーブティーを淹れるとき、一瞬見せる真剣な顔。はじめて表情をゆるめたときのこと。自分の笑いにつられた微笑み。おやすみなさいというときに見せる、おだやかな顔。町で見た劇を、あわせて演じてくれる難しそうな顔。

 

 どれほど記憶をたぐっても、

 

「あんなに笑ってくれたこと、なかった……!」

 

 だから描いたのでした。

 

 いつか見たいと思った、彼の晴れやかな笑顔を。

 

 きっと自分が引き出してみせると決めたその顔を。

 

 もうその顔はありません。イーゼルの頭がカンバスを突き破って、油絵の具が部屋に飛び散りました。イーゼルは倒れ、カンバスは布も木枠も砕けて割れて。ぱちぱちと暖炉の中、黒一色に変わっていきます。湿った布はわずかのあいだ抵抗していましたが、お嬢さまが白いマフラーを叩きつけるころにはすっかりおなじように染まっていたのでした。

 

 

 

 お嬢さまのご様子がおかしいと騒がしくなる使用人たちを、ミレディは一喝します。

 

「鳥の歌も獣の声も、とばりに隙間を作れはしても、鋼の錠を解くには能わぬ。鍵持つものに任せることだ。おまえたちの歌、今宵は集いし我らが同志に捧げよ」

 

 シモジモの使用人たちもこのお屋敷で働いて長いので、ヤンゴトナキお言葉のとおりにいたします。なにごともなかったようにワルツを奏で、テーブルの料理は片手に持てる軽いものと替えて、来賓のお歴々にはシャンパンを。

 

 ただ一人その場にいない鍵持つものは、お嬢さまの部屋の前で立ち往生をしていました。

 

 麻袋をかかえては走るわけにもいかず、そっと歩いてたどり着いたこの大扉。ふだんのようにノックをしてお嬢さまを呼べば、はいってくるなと強く拒絶されてしまいました。その声の剣幕にたじろいでいるうちに、お部屋のなかからはがたがたごとごとと怪しい物音。もしや賊かと包みを扉の向かいの壁のきわに置きまして、ノブをひねりますが扉はひらきません。

 

「お嬢さま! ご無事ですか! なにがあったのです!」

 

 心配でたまらず、大男は叫びました。その声はホールまで聞こえたといいますから、その体のとおりの大音聲でした。

 

 お部屋の中は一瞬静かになりましたが、なにかが分厚い扉にぶつかる音につづいて、お嬢さまの声が響きました。お嬢さまは小柄なかたですから、ホールまでは聞こえなかったそうです。

 

「控えよ!」

 

 それはくぐもった、悲鳴のような声でした。

 

「そっ、そなたのっ……其方の顔などもう見たくない! 出て行け!」

 

 ものをぶつける音は三回つづいて、またお部屋は静かになりました。黒マントは色をなくして佇んでいます。

 

 お嬢さまを怒らせてしまったことは過去になんどかありました。そのたびにお嬢さまはかわいらしい頬を膨れさせて、すねたように彼の眼を見据えていたものです。あまりにもそのお怒りが激しいときには、白い歯を食いしばって、ポロポロと涙をこぼすのでした。

 

 ですから、お嬢さまのこんなご様子は、黒マントにとってはじめて見るものだったのです。

 

 

 

 お嬢さまは、燃えたウールの臭いがこもるお部屋の中で丸くなっていました。扉の前には、チェストだとか椅子だとか本だとか、お嬢さまの細腕でどうにか動かすことのできた重いものたちが積み重なって、はいるものを拒んでいます。乱暴に投げつけられた本は、割れた花瓶で水漬いてしまいました。

 

 まったく動かすことのできなかったベッドの上で、投げつけることのできなかった小さい絵を抱いて、お嬢さまはなんどもなんどもしゃくり上げます。

 

 その絵は一二歳の誕生月に、画家を招いて描かせた肖像画でした。とびきりめかしこんで、もっともよく似合うと思ったドレスに身を包んで、いまは扉にもたれているお気にいりの椅子に座ったお嬢さま。背後には、いつも変わらず黒いマントを羽織って控える、いちばん大好きなひと。彼のおだやかな笑顔はとてもよく描かれていて、すこしばかりヤキモチを焼きもしたのですが、絵が仕上がったのを見たとき、お嬢さまは天にも昇る心地がしたのでした。

 

 ただいまはもう、遠い遠い思い出です。

 

 しゃくり上げながら、お嬢さまは自分の名付けた彼の“本当の名前”を呼びました。なんどもなんども。こぼれた涙の粒とおなじくらい、なんども。

 

 

(続)

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