黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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茨の公主と黒マント<その花の名は>(後編)

 長い長い夜が明けました。多くの来賓は夜半を待たず家路につき、ミレディの友人たちはながながとワインを傾けてから帰って行きました。使用人たちは朝食をとりにこないお嬢さまを心配しましたが、やはり女主人に叱られて、そぞろな気持ちのままふだんどおりの仕事をしています。ただひとりをのぞいて。

 

 大きく分厚い扉の前で、黒マントは片膝をつき、頭を垂れ、こぶしを絨毯に圧しつけたまま、石像のようにじっとしていました。

 

 夜が更ければ、お嬢さまはきっと眠っておいでなのですから、騒いでお起こししてしまってはいけません。でももしかしたらお嬢さまは眠れなくて、夜のハーブティーを淹れろといってくれるかもしれません。だから黒マントはその場を離れず、三日ぶりの寝ずの番をしていました。四日前の眠れぬ夜よりも、この一夜はつらく、苦しく、長いものでした。お嬢さまの手を握って番をしたあの夜の、千倍は長い時間でした。

 

 朝、いつもの時間には立ち上がって朝のご挨拶をと心に決めていたはずなのですが、ゆうべのあの涙に濡れた悲痛なお声を思うと、彼の大きい体は動きませんでした。

 

 庭のさえずる小鳥も静かになって、もうじきお日さまは空のてっぺんへと昇るころです。立てた膝には大きい麻袋を乗せて、黒い影はただただ、押し黙っています。

 

 

 

 お嬢さまはいつもよりも遅い時間に目を覚ましました。枕元に時計がないことにはっとして、すぐにゆうべ手当たり次第に扉へ投げつけてしまったことを思い出し、よろよろとそのがらくた山に近づきます。

 

 見つけた時計は壊れずに時を刻んでいましたが、乱れた針が指していたのは六時でした。

 

「いまは一〇時四八分だ。合わせておきなさい」

 

 背後の声に驚いて振り向けば、そこには腕組みをしたお母さまが立っていました。目を白黒させるお嬢さまに、お母さまは淡々といいます。

 

「四九分に変わったな」

 

 時計を合わせて枕元に戻したお嬢さまは、部屋の窓があいていて、重いカーテンが風にそよいでいることに気がつきます。

 

「いかなる術式を以って我が結界を……」

「この屋敷がだれのものと思っている」

 

 鍵束の輪を長い指で弄びながら、お母さまはアンニュイに答えます。窓の外のバルコニーに、立てかけた梯子で小さく手を振る侍従長が見えました。

 

「あかぬ錠もないではないがな」

 

 わけを問う娘に、わからぬか、と難しい顔をしました。

 

「おまえの部屋の前に鎮座する闇色の彫像のために、使用人たちが通れぬと困っている」

 

 彫像の正体に思い至ったお嬢さまの赤い眼が、はっと見開かれました。

 

「自分のものは自分で片づけるように」

「……いいえ」

 

 その眼はまた閉じそうに下を向き、喉から声を絞り出します。

 

「あれはもう我が闇の軛から放たれ、野の花を渡る蝶。光の許に我が力など、及ばず……」

「光の道は容易に歪む。……おまえ、わたしが買ってやったものまで投げたのか」

 

 お母さまの手が拾い上げたのは、いつか土産物屋の店前にあったプリズムでした。窓からの光にかざせば、がらくた山に虹色の帯が浮かびます。

 

「硝子の一枚も挟めば、あるべき光の届かぬこともあろうな」

「我が瞳に、翳りがあったと……?」

「花屋な……」

 

 身をすくめた娘に困ったような顔をして、お母さまの言葉はつづきます。

 

「市長の家の馬車に乗って帰っていった」

 

 お嬢さまはまだどこか怯えた顔で、お母さまを見上げました。

 

「その、心は……」

「この母はおまえの眼など恐ろしくはないが」

 

 繻子のハンカチでそっと、目許を拭いてやります。

 

「涙は困る。おまえを産んだときからな」

 

 お嬢さまは紅唇をきゅっと真横に結んで、背筋を伸ばしました。泣き腫らした顔をととのえようと向かった洗面台の鏡の中から、お母さまが語りかけます。

 

「仮面をかぶれば素顔は見えぬぞ」

 

 お嬢さまはひりひりする眼の周りだけ濯いで、すぐに分厚い扉の前に積まれた家具をどかしにかかりました。こまごましたものを抱えて、部屋のなかほどへ移します。椅子は足許がふらふらしましたが、なんとか運べました。しかしテーブルは、ほんとうに自分が運んだのか疑ってしまうほど動かせません。

 

「仕方のない子だ」

 

 お母さまが溜息をつきながら手伝ってくれたのですが、

 

「脇によけておけばよい。元にもどすのは、やつにやらせるのだろう」

 

 といって大雑把なのは、お嬢さまにとってはとても意外でした。

 

 扉の前がさっぱりすると、お母さまは豊かな黒髪を揺らし、開け放たれた窓の光と風の中へ去って行きました。

 

 ひとり残されたお嬢さまは、錠前を白魚の指でいじります。開けかたを忘れたのではありません。解錠するべきか、せざるべきか。それを悩むのです。悩んで悩んで、いくたびもお母さまのすがたをうしろの光に探しました。

 

 逢いたいと願う気持ちと、勘違いでなかったらという恐怖のあいだに少女の心は揺れて、揺れて。ようやく定まったのは、錠前がすっかり人肌になったころでした。

 

 

 

 闇色の彫像は、大切なおかたを案じる気持ちと拒絶されることへの恐れとに挟まれて、身じろぎひとつできないでいました。お嬢さまはもうお起きになられたろうかとか、お腹を空かせておいででないかとか、声をかけてはまたあの悲しい声を出させてしまわないかとか、お嬢さまのことばかりが行き場をなくして頭のなかをぐるぐると回っています。

 

 吹き溜まった頭に鉄の音が響いて、からりとした冬の昼をわたる風と静かで低い光が、固くなった体を包みます。彼は顔を上げました。真っ赤な瞳、下がった眉根、鼻の頭と頬も赤くしてきれいな銀髪はぼさぼさに乱れた、彼の主がそこに立っていました。

 

「……永劫を過ごせしか」

 

 かすかに震えるお声が、静かに風にのって届きます。黒マントは乾いた喉から、はい、と絞り出しました。

 

 赤と黒の瞳はまっすぐに見据えあったまま、お嬢さまの紅唇が“どうして”と動きます。黒マントは背中を起こして答えました。

 

「私の主はただお一人、お嬢さまをおいてほかにございません。そのお嬢さまから出て行けと賜れば、これは出て行かねばなるまいと思いました。ですが、どうしても心残りがございまして、こうしてご命令に背きました。申し訳ございません……」

 

 その小さい漆黒の瞳は冬の陽光をまっすぐに、赤く大きい瞳へ投げかけます。お嬢さまは目を閉じて、かたちのいい顎をすこし引くと、口の端をその半分ばかり持ち上げました。

 

「よい」

 

 おごそかにつぶやいて、いちど部屋を振り返り、いいました。

 

「嵐は去れり、されど痕を留めり……。其方の力が……あの、……片付けるのを、手伝って」

「御意に」

 

 黒マントはそれだけ答えると、お嬢さまの机だとか、椅子だとか、チェストだとかを黙々と元の位置にもどしていきました。絨毯に散らばった木くずも、ほうきとちりとりで取ってしまって、あっという間にお部屋はおとといまでのようになりました。

 

 黒マントは最後に、お嬢さまのお部屋の暖炉を開けました。黒いすすが吹き出したあとに、黒くぐしゃぐしゃに燃え残ったマフラーと、すっかり布が焼け落ちてしまったカンバスを見つけます。

 

 黒マントがそっと撫でると、それは灰の中へぼろぼろと崩れてしまいました。

 

「このたびは、お嬢さまにおつらい思いをさせたこと、詫びるに足る言葉がございません」

 

 まだ眼の赤みの引かないお嬢さまに、深々と頭を垂れます。

 

「この一命をもって償いとなりますならば、とうに捧げた命ではありますが、どうぞお取りください。……ただ、その前にひとつだけ、お贈りしたいものがございます。どうか、お受け取り願えませんか」

 

 お嬢さまがこくりと頷くと、静かに立ち上がって、夜半からずっと大切に抱えていた大きい包みを差し出しました。お嬢さまは目を拭って、震える手で茶色の麻袋を持ち上げます。

 

 するとそこには、黒マントが両手に支える素焼きの鉢に、黒い土、みずみずしい緑は茎が淡く、葉には濃く、細首の先にはお嬢さまの両手にやっとおさまるほどの薔薇の花。幾重ものフリルは中を高貴な紫に、外を可憐な白に染めて重たげに、しかしぐっと顔を上げて、お嬢さまへ向いて咲き誇っています。

 

「きれい……」

 

 つぶやきとともに、お嬢さまの瞳にも輝きがもどります。

 

「これを、わたしに……?」

 

 か細い声に、黒マントは力強く頷きました。

 

「この一年をかけて、あなたの御ためにのみ育てました。私のほかには、花屋の主人も姉妹たちも、だれも見たものはおりません。お嬢さまお一人に捧げるための一株です」

 

 そっと手渡された紫の薔薇の鉢は、まだ幼いお嬢さまにはずしりと重たいものでしたが、細い腕と足首に力をこめて、しっかりと受け取ります。

 

 しばしその美しく咲いた花を見つめておりましたが、ためらいがちにその紅唇を開きます。

 

「ひととせのあいだと申したな」

「はい」

「孤高なる幾重の翼に秘められし神話、語ってみせよ」

 

 黒マントは話します。

 

 この薔薇を選んだのは、お嬢さまの黒いお召し物に映える白と、白いお肌を引き立たせる紫をしていたからと。

 

 ただ一輪のみの花を捧げたかったから、もとの木と同じ花をつける挿し木をせず種から育てたことを。

 

 たびたびの外出は、世話の一切を自分だけで行っていたためであると。

 

「先だっては、私が楽をしようなどと思い花屋の荷馬車を利用したために、お嬢さまのお心をわずらわせてしまい、まことに……」

「もうよい、古き罪は葬られた」

「あの日、遅くなりましたことは、この鉢の用意のためでした。店主に届けてもらわなかったこととあわせまして……」

「よいのだ」

「よくありません。これだけは! お嬢さま、私の不手際による数々のご心痛、まことに申し訳ございません。……いえ」

 

 黒いマントを羽織った大男は小さい主君を見上げます。その顔は、お嬢さまがはじめて見る必死の形相でした。

 

「……ごめんなさい、お嬢さま」

 

 こんなに震えた声も、涙も、お嬢さまは知りませんでした。彼がその手で拭うよりはやく、お嬢さまはその唯一の下僕を胸に抱きしめました。お召し物が汚れますと止められても聞きません。

 

「我もまた罪人、其方を裁けはせぬ。其方に贈る偶像も羽衣も、心に涌ける毒虫のために業火に投じてしまった」

「お嬢さま、それこそ私のせいで……」

 

 さらに強く抱きしめられて、黒マントは言葉を切りました。

 

「其方は孤高なる光の天使を育み、我に捧げた……。だが我が翼に羽根はもう……」

「お嬢さま。そのお心だけで十分です。が……。叶いますならばひとつだけ、いただきたいものがございます」

 

 お嬢さまは腕を離し、半歩下がっていいました。

 

「申せ」

 

 黒マントは胸に手を当てて求めます。

 

「昨夜の、出て行けとのお言葉、お取り下げを願いたく……。私は、……私には、あなたにお仕えするよりほかに、生きる道がございませんゆえに」

 

 赤い瞳に、また涙が溢れてきました。慌てて差し出された淡い藍色のハンカチで、熱い雫を拭います。

 

「……ばか。あんなの、全部うそだもん……」

 

 膝をつくお嬢さまを、黒マントが抱きかかえました。

 

 肩の震えがおさまると、胸の中から紅潮した花のかんばせが向き上がり、真紅の花弁ははじめて耳にする名を囁きます。

 

「この名……我が真名を魂に刻み、其方の時のすべてを我に捧げよ」

 

 黒い瞳がうるみ、落ち着いた声が答えました。

 

「御意のままに」

 

 冬のやわらかな日差しと正午を告げる鐘の音の中、ふたりの黒い影はひとつに寄り添って、じっとたがいの鼓動を感じていました。

 

 

 

 いつもの主従に戻った二人を見て、使用人たちも安堵の息をつきました。

 

「まったく、苦労をかけおって」

 

 夕食の時間、クロッシュをかぶせたメインディッシュを運ぶ黒マントに、ミレディがお小言をいいます。

 

「きさまがはじめから贈り物のことをいっておればなかった騒ぎではないか」

 

 黒マントは困ったように首に手をやって、答えました。

 

「それはそうなのですが、ミレディ。中身がわかってしまっては、お嬢さまのお喜びがなくなってしまうのではないかと思いまして……」

 

 ミレディが高い鼻を鳴らし、お嬢さまにきょうのメインディッシュを訊ねますと、ヤンゴトナキお言葉でカモのローストですと返ってきました。

 

「クロッシュを開けるとき、娘の顔を見ておけ」

 

 首を長くして待つお嬢さまの前へいつもどおりお皿を運び、ミレディの仰せのとおりにしてみますと、お嬢さまは瞳を輝かせてにこにこしておりました。

 

「きさまにしても、朝ごとに、娘の部屋をつまらんと思うて開けるのか」

 

 背後で眼と口を半開きにしている大男を銀のスプーン越しに見て、ミレディは溜息をつきました。

 

「揃いも揃って<瞳>の力のにぶいことだ……」

「血は争えんといったところだね」

 

 スプーンの鏡像の中で、侍従長も苦笑いをしていうのでした。

 

 

 

 さて、茨の公主の本当のお名前なのですが、彼女も黒マントもついにだれにも告げることはありませんでしたから、もうどこにも知るものはおりません。そんなわけで、ここにも書くことができないのです。

 

 

(了)

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