黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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少し甘めに。


残り雪  ゲスト:速水奏

 一面の白銀の世界を、蛍光色のパーカーが右へ左へと動き回る。雪面のコンディションや太陽の位置を確かめ、大きいビデオカメラの向きを変えている。その動きを見守って、ダークスーツにチェスターコートの青年はターコイズブルーの冬空に白い息を吐き出した。黒い煙突のような彼に蛍光オレンジのパーカーが頭を下げる。青年も一礼すると、雪に靴を埋めながら、暗色の幔幕で目立つ休憩スペースへ向かった。

 

「神崎さん、速水さん、ご用意はよろしいですか」

 

 彼の担当する新人アイドルたち“シンデレラプロジェクト”に所属する神崎蘭子。いま一人の速水奏は、美城常務……彼のはるか上役の集めた“プロジェクトクローネ”のメンバーである。二人と青年、そして蛍光色のスタッフたちはこの雪山に、スキー場のコマーシャル・フィルムを撮りに来ていた。

 

 幔幕の外から声がかかると、休憩スペースから朝霧色の髪がのぞいた。遮るものなく上下から照る太陽に、紅薔薇色の瞳が星を散らしたように輝く。身につけた衣裳はゴシックロリータふうの浴衣。純白と氷色をメインにしており、用意した広告代理店側は雪の精と説明する。蘭子も青年も一度で納得したできである。

 

「ふっふっふ、愚問! 我は常在戦場なり!」

「頼もしいお言葉です」

 

 寒さがこたえていまいかと気にかけていた青年は、凍りかけた顔の筋肉をゆるめる。目だけでスペースを見回し、奏のいないことに気づいた。

 

「蒼翼の乙女ならば花園へ……」

「行って、もどってきたわよ」

 

 訊いたのと数秒の差で奏はもどってきた。日光を受けてその瞳は満月のように光る。真冬の夜空の髪をうしろへなでつけ、黒を基調にした男物の冬コーデに身を包んでいる。

 

「お待たせしちゃったみたいね。お詫びの印に……」

 

 青年の首許に二匹の黒蛇が這い上がる。眉から上がピクリと動いたが、表情は変わらない。

 

「いえ、ちょうど呼びに来たところでしたから、お詫びは不要です」

「つれないなあ」

「こんなことをしていると、スタッフの皆さんにこそお詫びしないといけなくなりますよ」

 

 蛇は彼の喉を離れ、蘭子の手をとると、二人を待つ大くのスタッフのもとへ向かった。過剰になりかけたお詫びの件に蘭子は頬を膨らせたのも短いあいだで、すぐにここへの車中とおなじく、楽しそうに笑い合っていた。

 

 さきごろのオータムフェス以来、クローネの面々とシンデレラたちの距離は大きく縮まった。お互いの居室に行き来することも増え、きょうのようにおなじ仕事を受けることもある。もっとも、クローネを取り仕切る美城常務とシンデレラプロジェクト担当の彼とには、役職の差もありいまだ大きい隔たりを残しているが。

 

 今回のスキー場の広告は、スキーやスノーボードなどをするところを撮るのではない。暖冬のためスキー場に充分な雪がなく、近場の雪山のひらけた斜面を使っているからである。この点は詐欺まがいなのだが、安全面に配慮があっただけマシと青年は自分を納得させていた。

 内容はスキー客の青年と雪の精の、一瞬のロマンスである。蘭子に雪の精役が来たのは、嗜好が合って仲良くなった速水奏からのご指名だった。そして奏が青年役を受けたのは、キャストを指定しなかった代理店と常務の隙を、“スキーをひっくり返してキス、ってことでうちのキス魔使いましょう”と彼女の担当者によるダジャレ未満の世迷い言がみごとに貫いた結果であった。

 

 その担当者はここにはいない。青年に二人を引率を任せて東京で“プロジェクト・クローネの速水奏”の営業行脚をしている。

 

 半日とはいえ速水奏の面倒を見る上で、青年がこんこんと聞かされたことがある。なにかにつけキスやボディタッチで揺さぶってくるぞ、おまえみたいなのはキスマークの一つや二つつけられてもおかしくないんだぞ、と。けっこうないいようだと思いはしたが、それならばと前向きに、彼は自分のペースを崩さないよう努めることにした。いまのところはうまくいっているようだ。

 

 

 

 撮影はつつがなく進行していく。滑りに来た若者が雪の精と出会い、スキー板を放り出して彼女の手を取る。雪原に遊ぶ二人。脚本ではそのあと、転んだ青年を雪の精が笑いながら木立に消えていく。青年は切なげに遠くを睨み、再会を誓う。キャッチコピー“何度だって、ここに来る”がそこにかぶさるということだったが……。

 

「あっ」

 

 二人揃って雪のなかに倒れこんだ。ほとんど奏が蘭子を押し倒すような恰好で。そこからはアドリブだった。奏についてはそうである。蘭子は、青年は気づいたが、奏に振り回されて素が出ていた。

 

 白銀の髪にかかった雪を払い、奏扮する若者は赤みさす頬に手を添え、静かに顔を近づける。驚いて固まっていた赤い瞳は、眼前に唇が迫ってからようやく息を吹き返し、大きく顔を背けた。ぴたりと止まる青年の下から這い出し、口許を袖に隠しながら雪の精は木立へ消える。いちどだけ、物悲しげに振り向いて。

 

 

 

「お疲れさまです」

 

 簡易の休憩スペースで、青年がほうじ茶と使い捨てカイロを二人に差し出した。それぞれに受け取り、彼を挟んで座る。片方に固まったほうが話しやすいだろうにと青年は思ったが、蘭子の気まずさを察して黙っていた。

 

「うう……。よもや運命の轍をたがえるとは……」

「おもいっきり裾踏んで転んじゃったものね、ごめんなさい」

「監督はなかなかお気に召したようでしたから、あれでOKが出るかもしれません」

 

 蘭子は素直に表情を明るくする。対して、奏の反応は青年には意外だった。

 

「うーん、アレをオンエアされるのはちょっと恥ずかしいかなあ。あんまり演技してなかったし……」

 

 まさか本気で蘭子にキスしようとしたのか。反射的に振り向いた青年の肩口に、奏が細い顎をのせていた。予想だにせぬ状況に、短く低い悲鳴が洩れた。

 

「ふふふ、やっと慌ててくれたわね」

 

 あれが演技じゃないといわれれば驚きます。いや、いまの反応のことだろうか? 時系列の概念が一時的に吹き飛び、青年は自分のほうじ茶をすすった。

 

「もしシナリオを、さっきのアドリブのに変えるってことになったら」

 

 一口のうちに、表面的ながら落ち着きをとりもどした青年に、奏は興味をなくしたように離れる。席を蘭子の隣にかえた。

 

「こんどは、本当にキスしちゃおうか」

 

 いたずらっぽく笑う先輩に、蘭子は困惑の鳴き声をあげた。

 

「速水さん、それはちょっと……」

「だって、こんなかわいい唇をみすみす逃がすなんて……ね」

 

 ターゲットは男の自分だけと油断していた青年である。事前にアドバイスをするのなら、担当するアイドルの趣味くらい正確につかんでおいてほしいと、心のなかで同僚に詮のない文句をつける。

 

「カメラの前がダメなら、いま」

「は、速水さん!」

「あら、いけない?」

「いけません!」

「天使の蘭子ちゃんには清らかなままでいてほしい?」

「……そうです」

 

 速水奏のしたたかなのはこのあたりで、彼の答えるより半瞬はやく、こう滑りこませてきた。

 

「自分の手で穢すために」

 

 一四の少女でもその言葉の意味するところはわかったらしい。蘭子が白磁の顔を赤く染め、それ以上に深い色をした大きい瞳で失言を捏造された青年を凝視する。彼は青くなった。

 

「ち、ちがいます! 神崎さん、ちがいますからね!」

「必死になっちゃってアヤシいんだ。ふふふっ。蘭子ちゃん、二人きりには気をつけないとダメよ。こんなひとが相手じゃ、なすがままにされちゃうわ」

「危険なのはあなたです」

 

 声にはせねど渋面を作る彼と二人のアイドルに、スタッフが撮影再開を告げに来た。

 

 

 

 シナリオは大方の予想どおり、先のアドリブを活かしたものに変更されていた。ラストシーンのみ、立ち上がった青年が雪の精を樹に追い詰めてキスをするというものに、さらに変えられている。青年の眉根は寄りっぱなしである。

 

 キャッチコピーも“雪の妖精を融かしに行こう”と変わった。当初の冬のはかない恋模様みたいなものはどこへ行ったのか。否やはない彼らであるが、広告代理店や依頼主のスキー場の意向は気になるのである。

 

 その協力にも限度はあった。二人に本当にキスをさせるわけにはいかないのである。青年の説得と監督の妥協により、ふわふわした、象徴的な映像になってしまった。最初のまま、ないしはあのアドリブのままで良かったのではないかと、青年のみならず疑念の目を監督へ向けた。

 

「どうせフレームアウトさせちゃうなら、本当にしたっていいじゃない」

「わ、我が氷の唇に触れるは死を意味する!」

「いいわよ、私の熱で解かしてあげるから」

「お茶の間に少女同士のキスシーンは流せません。私が止めなくても局が、その前に常務が水際で止めるでしょう。そうなればお蔵いりで、この仕事はなかったことにされてしまいます。それは困りますよね?」

「ふーん! 私が男だったらプロデューサーさんは許可したのね! 蘭子ちゃんのかわいい唇をよその男に売り渡すんだ!」

「我が凍土の花は甘美なる黒炎をおいてほかに解かすことはできぬ! 白群の水晶に閉ざされる羊を望むのか我が友よ!」

 

 蘭子にまで怒られて青年はたじろぐ。なぜ、と首を傾げるわけにもいかず、両手のひらを向けるのが精一杯だった。

 

「相手が男性でも許可しませんよ、まだ一四なんですから」

「へえ、じゃあ私と男のひとなら?」

「それは、止めはしませんが」

 

 じっさいには事務所NGの範囲であろう。しかし、彼女についてはなにか特例が動いているかもしれない以上、下手なことをいうのを避けたのだった。

 

「蘭子ちゃん、あと三年したらキスし放題だって」

 

 蘭子は全身で慌てた。なにを想像したのか、彼が想像をめぐらすよりも先に、もんどりうって雪道へ頭から突っこんでいった。もちろんそれをぼんやり見守っていることは、天も自分も赦さぬ青年である。彼女の腕を掴んで支えようとした。だが焦った彼も足を取られてバランスを崩してしまった。それでも執念か、蘭子と雪とのあいだに滑りこんでクッションになってみせた。

 

「神崎さん、お怪我はありませんか」

 

 彼の胸の上で、全体重をあずけていた蘭子がゆっくりと動く。

 

「うむ……。我が友も無事か」

「はい。あなたひとり受け止めるくらいでは、びくともしませんよ」

 

 びくとも、どころかずるりといった結果がこの状況ではある。しかしながら、そうだからこそ張りたい見栄というものが彼にもあった。付け加えるなら、ここはのんきに笑ってなどおらずに起き上がるべきだったのだが、それはいまの彼にはわかるべくもないことだ。

 

「あう」

 

 青年の腹の上に追加の荷重がかかり、あいだに挟まれた蘭子が短くあえいだ。速水奏がかぶさったのである。

 

「なにをしているんですか……」

「私が男の人とキスする分には止めないんでしょう? ふふっ、これなら逃げられないわよね」

 

 金の満月が二つ、魔女のブランコのような赤く細い三日月の上に浮かんでいる。周りの目を気にしろと鋭い三白眼で抗議し、しかし自分ではその“周り”を見ることを躊躇した。彼の首筋を汗がつたう。

 

「だ、だ、だめー!」

 

 叫びとともに蘭子が上体を大きく跳ね上げた。蘭子の上からかぶさっていた奏は雪の上に投げ出され、小さく悲鳴を上げた。聞こえていれば、青年も気づかったかもしれない。気にすべきだった“周り”、スタッフは遠巻きに笑っている。奏慣れしたひとたちだ、とかの担当がいっていたのを、青年はぼんやり思い出した。

 

 彼は蘭子に礼をいい、二人で立ち上がる。薄紅の頬を膨らせて、淡い桜色の唇が尖っていた。その小さい花びらは雪が放つ白い光に艶めいて、本意ならずも青年に、奏がああもこだわったわけを納得させた。

 

 もともと蘭子は色素が薄く、まだ幼いために皮膚の厚みもない。そのため雪の肌に唇は血の赤をそのまま呈して、髪色が黒檀のごとくあれば白雪姫だったろう。いまは雪は雪でも雪女、あたたかみを控えるべく白いルージュを引いた。それが、八重桜を思わせる色をなしている。

 

「わ、我が貌(おもて)になにか……?」

「いえ、なんでもありません。はやく戻りましょう」

「そうはいくか」

 

 逃げられるものでもないのだが、休憩スペースへ逃げ戻らんとした二人の行く手を、オールバックをゴルゴンのように乱した奏が怒気の炎を背負って阻む。

 

「無事に帰れると思わないことね」

「なにをおっしゃってるんですか」

「知らないの? 冬山の林に棲む怪物の話を」

 

 話して聞かせるから聞け、という笑みだった。蘭子が短く鳴いて青年の左胸にぶつかる。怒りを鎮めるには聞くよりほかないと、彼は蘭子を捕まえて……もとい支えて、奏に話を促した。

 

「うちのひとが大学生のころ、ワンゲル部に所属していたんだって」

 

 うちのひと、とは彼女の担当プロデューサーのことだ。この呼ばわれかたになにか思うところはないのだろうか。青年は眉を動かしたが、それだけである。

 

 声の調子をワントーン下げて奏が語りだすと、蘭子は大型犬から逃げる仔犬のように彼の胸許をかきむしり、コートの裡に潜りこんだ。ジャケットまでめくろうとしていたが、吊るしとはいえ体型に合ったもののため、それは断念せざるをえなかった。生真面目な性分が働いたか、コートから顔だけ出して震えている。青年はその肩をそっと抱き、奏の話のつづきを聞いた。

 

 とうとうと語られる話はおおよそこのようなものだ。

 

 奏のプロデューサーがまだ大学一年生のころ、ワンゲル部揃って東北地方の山に登った。キャンプに向かう途中森で迷い、夜になってしまった。特徴的な地形に出たことでようやく現在地が把握でき、ほどなく目的地にたどりつけそうだと胸をなでおろす。

 

 彼は入部したてで、ありがちなシゴキというべきか、先輩たちの荷物を背嚢に積まれ、最後尾を歩いていた。

 

「そしたら、見たんだって」

 

 金の目が細まる。

 

「黒い空に舞う雪のなか、白っぽい影がふわーっと降りてきて、四年生の先輩にかぶさるのを」

 

 鳴き声とともに、青年の左胸に伝わる震えが大きくなった。

 

「影はすぐ飛び上がって、またべつな先輩へ……。けれどだれも気がつかない。プロデューサーさんは寒さと疲れと恐怖で声も出ず、背負った荷物に隠れるようにして歩いて……」

 

 青年はふと気になった。奏が自分より、蘭子を見ながら話しているような気がしたのだ。震える頭を撫でようとして顔に触れてしまった手に雫を感じた。

 

「速水さん、すみませんが巻きでお願いします」

「つれないなあ。ま、もうすぐお終いだけど」

 

 震えはだいぶおさまってきた。気分が安定したのか、震える元気もなくなったのか、蘭子より頭一つ以上大きい彼の視点ではわからない。

 

「ようやくキャンプ場につくと、待っていたほかのメンバーは灯りで照らされた先輩たちを見て悲鳴を上げたわ。だってみんな、背中が血に染まっていたんだから……!」

 

 蘭子を支える腕に、かかる重みがにわかに増した。蘭子が腰を抜かしたのだ。雪に座らせるわけにもいかず、青年は蘭子を抱き上げた。奏が楽しげに視線を上へ逸らし、手を振る。ならって見上げた青年が見たのは、太い枝に留まった大きいフクロウ。

 

 冬、つまり恋の季節のフクロウは、つがいと子供に近づくものに苛烈な攻撃を加えるようになる……。そんな話を聞いたのを、彼は思い出した。人間が相手でも飛びかかるとなれば、怪物級の気性の個体だったことはたしかだろう。足を開き翼を膨らせて睨みつけるのみの“彼”に、青年は思うのだった。

 

「仕返しのつもりではあったけど、そこまでいくといじめたみたいじゃない」

「いじめてるでしょう」

 

 困ったような口ぶりの速水奏に、青年が口ではなく目でいいかえす。彼女ならば聞き取れたことだろう。

 

 

 

 深夜。雪山の昼とそう変わらない、ひんやりとした賃貸マンションの一室。ハンガーに掛けたジャケットを前に、青年は固まっていた。

 

 あの山を降りてからの行動を何度も脳裏に再生している。ガソリンスタンドでの給油。奏を自宅に、蘭子を寮に送る。蘭子が去り際に謝っていたのを不思議に思った。奏がひどく満足気に笑っていたような思いが、数を重ねるごとに増す。自分は帰社して企画書の作成にスケジュールの確認、それはいい。エントランスで何人とすれちがったか。彼らの表情に目立った変化がなかったか。帰り道、それこそ、どれほどのひとがこれを見ただろう。記憶は想像を巻きこんで、彼の色を失わせていく。

 

「神崎さん……」

 

 幼い雪の精の名前を、彼は喉から絞り出すしかできなかった。ジャケットの左胸に彼女の咲かせた、白く小さい氷の花に触れたまま。

 

 

 

(了)

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