黒いタイツをすり抜けて、花の絨毯を掃く風がわたしの脚を冷やす。夜には気温がガクッと下がりますって食堂のテレビでいってたっけ。立ち止まると、石畳からもローファーをつうじて冷気が這い上がって来るみたい。見上げた先にひしめく色とりどりの花は、春風に香りを委ねている。その花の下で、長く手を合わせてたおばあさんが、待ってたおじいさんに手を引かれて去っていく。そのうしろ姿がかわいいなあって、わたしは思わず微笑んだ。
きょうは四月八日、わたし、神崎蘭子の誕生日。生まれ育った熊本では、小学校のころからわたしより誕生日の早い同級生がいたけど、アイドルになるために上京した先の中学校では、わたしが一番最初の一五歳だ。
それから、きょうはお釈迦さまの誕生日でもある。小さいころから聞かされてて、知ってはいたのだけど、熊本ではなんとなく避けてて、去年は不案内をいいわけにして、結局いちども誕生会……花まつりに参加したことがなかった。
今年こうしてお寺に来たのは、新しい世界に踏み出す楽しさを、この一年で覚えたから。芸能事務所・346プロダクションが新人アイドルを発掘、育成する一年計画、シンデレラプロジェクト。汗と、涙と、友情、笑顔。すてきなものがぎっしり詰まった、あっという間の時間。解散式でたくさん泣いたけど、後悔なんてはじめから、寂しさだってもうなくて。あれから一週間、すこし間が空いたきょう、この区切りの日にわたしは誓う。
――この手は合わせ祈り、仰向き慈悲を乞いはしない。大地を睥睨し望みを掴み取るもの……。円環の解脱者よ、我が野望の成就るときを座して看ておるがいい!
Ⅲの学年章が真新しいセーラー服の胸を張ったまま、わたしは花御堂に進み出て、柄杓を取った。天地を指すお釈迦さまの足許、金色に鈍く光る甘茶の海をひとすくい。これをかけてあげてお祝いする、らしいけど。
――夕陽宿せる甘露、味わいはいかばかりか……?
わたしは柄杓に指を浸けて舐めてみようとした。さすがに、直接飲んだりしないもん。でも、横からの声がそれさえ止めた。
「その甘茶は口にするものではありませんよ」
「すっ、すま、すみません……。この名と香気に魅入られてしまいました」
……わたしの言葉は、ふつうのひとはあんまりわかってくれない。いままではわかってくれるひとの“通訳”に甘えていられたけど、もうそれはできない。だから、必要なときは妥協したのも話すようにした。助かるよってよくいわれるし、うまくいってると思う。
「すこし言葉が大人しくなりましたか」
……ん?
「大人しく?」
「お久しぶりです。うしろ姿でもしやと思いまして」
振り向いた先には厚い胸、わたしの頭より高い肩に、しっかりした首と顎。平らな瞼の下、切れこんだ目のなか、小さくも力強い瞳が光る。髪と太い眉は整えて黒々としたそのひとは……。
「わっ、我が友よ、なぜここに!?」
<我が友>、友達はたくさんいるけど、このひとよりわたしを理解してくれたひとはいない。ダークスーツに巨躯を包んだ、倍近く歳上の男のひと。梅雨空裂く晴れのあの日、夕闇のなか、わたしに堕天使の翼をくれたひと。秋も深いあのライブで、わたしの世界に踏み込んできてくれたひと――。
「あなたにお祝いのメッセージを送ってから、仏生会を思い出しまして。外回りのついでにと寄ってみたんです」
それで、甘茶をかけようと花御堂に近づいたら、変なことをしようとしてるわたしを見つけて声をかけたらしい。
「うむ、其方の讃歌、我が心に届いたぞ」
朝、顔を洗ってもどったとき、テーブルに置いたスマートフォンに“お誕生日おめでとうございます”のメールが来ていた。差出人はもちろんこのひとで、思い出すと、ついさっきのばつの悪さなんて吹き飛んでしまう。
「朝早くにご迷惑でなければよかったのですが」
「福音の先駆けたる其方の声、喜びのほかになにがあろうか」
そう、友達はもちろん、お父さんお母さんより早い“おめでとう”だった。頬がゆるみっぱなしのわたしに、強面をすっとやわらかく作り変えて、一段とやさしいカヴァリエ・バリトン。
「でしたら、いいのですが。神崎さん、ともかく、甘茶をかけて差し上げてください。あとの方もお待ちですし」
うしろには、大学生かな、女のひとが二人、手を繋いで“寒いね”っていい合って、順番を待っていた。わたしは早回しでお釈迦さまに甘茶を灌ぎ、手を合わせる。案内されるままについていった先には、紙コップにはいった……?
「我が友よ、それは?」
「甘茶です」
「まっ、まさか我に!? 我は神仏などではなく堕天使……」
「かけません……。飲んでみたかったのではありませんか?」
そういえばそうだった。だって、コップの下の方を持って、こっちに傾けてるんだもの。
「うん……? これは、我が予知を覆す……」
甘茶って、緑茶にお砂糖を混ぜたものだとばっかり思ってた。だけどこれはそれはとまったくちがう味で。それを友に告げれば、珍しく楽しそうに笑ってから、優しい声で教えてくれた。アマチャの木の若葉で作るお茶で、お砂糖をいれなくても甘いものだって。
二人でコップを空にして、寮までの道を歩く。ちょっとだけ遠回りになる、公園を抜ける道。薄ピンクの雲に包まれたような、夢心地の散策路。
「儚き花魄を憐れみし仙女の手土産か」
「不思議なものですね。足許にこれだけ花びらが積もっているのに、咲いている花は一つも減っていないように見えます」
わたしがどんな表現をしたって、このひとはかならず読み解いてくれる。もちろん、それができるひとは、ほかにもいるけど……。
「刻を言祝ぐ花鎖……」
「……ここが私たちごと、時間に置いて行かれたよう、ということでしょうか。すみません、ブランクが響きましたかね……」
ほんとうは、いまのに意味なんてない。なんとなく口をついただけの言葉だけど、このひとは意味を探してくれる。わたしのこと、まっすぐに見つめようとしてくれる。買いかぶりで、ほんとの姿が見えてなくてもいいよ。ときどきかんちがいでも、赦してあげる。真剣に考えてくれるから、あなたが見つけた答えがわたしの伝えたかった言葉だよ。
でもやっぱり、なんでもないのはなんでもないって、正解にたどり着いてほしいかも。なんだか可笑しくなって、わたしは駆け出した。そのとたんに風が花びらを舞わせて、わたしをすっかり包んでしまう。一面桜色の景色。飛んでくる花のかけらは顔に痛いくらいの勢いだけど。
「神崎さん!」
パステルカラーの海を裂いて、黒い影が飛び出してくる。硬派な強面なのに、目を見開いて、眉毛が下がって。
「なにごとか?」
首に手をやる、いつもの癖。なにか、困るようなことがあったのかな。
「いえ、すみません、大声を出して」
「なにごとかと訊いておる」
「……その、あなたが、どこかに消えてしまうような、気が、して……」
「花魄風情に拐かされる我ではないぞ」
「すみません」
いったきり、彼は困ったときの姿勢で動かなくなってしまって、その胸と、わたしの伸ばしかけた手の間を、桜の行列が駆け抜けていく。
「せっかく、きょうお会いできたのですから、誕生日のお祝いをさせていただきたいのですが」
そんな申し出はぜんぜん予想してなかったから、こんどはわたしが慌ててしまった。
「が、賀詞は奉じられ、竜王の甘露も……。これ以上は
「堕天使のあなたが仏教の戒律を気にされますか? それに、お祝いの言葉は当然のことですし、甘茶はお寺からの施しです。私はまだなにもしていません」
表情にはもう余裕がもどってる。薄く微笑んだ顔はニヒルで、かっこいい。欲しいものを思い浮かべようとしたけど頭のなかのモヤモヤはぜんぜん形を作らない。なにか、なにか……?
「手……」
「て?」
「手を、繋ぎたい」
浮かんだのは、花御堂の下に見た年配のご夫婦。うしろにいた、友達同士の大学生。<友>って呼んでたのに、わたしたちはまだ、あんな風に手を繋いだことがなかった。
「い、いやか?」
「とんでもありません。それでよろしいのでしたら」
彼の手はあったかくて、大きくて、手を繋ぐっていうより、わたしの手が包まれてるみたいだった。わたしに歩調を合わせてくれて、桜舞うなかを並んでゆっくり歩く。話すのは、ほとんどわたしの話。
「本担当の方は優しくしてくれていますか」
「弁才の天女が調べは我が新たな標星となろう」
話すたびちょっとずつ、ちょっとずつ。
「さきほどの“大人しい”言葉は彼女からのご指導で?」
「あれは我が敷きし<闇>の真髄への旅路。光あるひとの世との狭間に揺蕩う、<黄昏の言葉>と名付けようか」
胸の奥にひんやりしたものを感じて。
「髪型、変えられましたね」
「こ、これは牢獄の咎人に窶せる姿。……其方には見せていなかったな」
「そうでしたか。それでも、わかるものですね」
それが、息を詰まらせるから。
「きのうは新たな咎人の祝祭。我が導きを求めるものもあった」
「正しくご案内できましたか」
「論を待たぬ! 見くびるでない!」
「失礼しました。すっかり先輩ですね」
あたためてほしくて。
「神崎さん……?」
わたしは、手をほどいて腕を絡めた。<友>のぬくもりが、少しわたしの胸に近づく。
「天樹は、我が止まり木とするには高すぎたのだ……」
「すみません、ご無理をさせてしまいましたね……」
見上げた、罪悪感のにじむ顔。ちょっとだけこわばった太い腕に、わたしは両手でしがみついた。そうしても、胸の冷たさはどうにもならない。
もっと、引き寄せてほしい。肩に腕を回して。ううん、もう歩かなくていい。うしろから抱きしめて。やっぱり前からがいい。わたしも思い切り抱きつくの。そしていってほしい。“無理に言葉を変えないでください。私が通訳をします”“ずっと傍にいますよ”“私に任せてください”耳許で、やさしく。下ろした髪を撫でて、わたしが眠りに落ちるまで見守っていて。
目からも鼻からも、熱いものがどんどん溢れてくる。止められない。息が乱れて、手も脚も力がはいらない。わたしを心配そうに呼ぶ低い声。遠慮がちに、大きい手がわたしを分厚い胸に導く。寄りかかって、震えて、しがみついて、わたしは泣いた。学年でいちばんお姉さんになったのに。後輩に教室の場所も教えられるし、新しいプロデューサーともちゃんと話せるし、もう、……もう甘えないって決めてたのに。
手を繋いだだけで、かんたんに決意は壊れてなくなった。もっともっとって、甘えがエスカレートしてく。成長したわたしを見てほしかった、それで褒められたかったのに。
涙が止まるまで、いくつの鼓動を聴いていただろう。呼吸が整って、足の裏に地面の感触がわかるようになって、わたしは彼を見上げた。つらそうな顔で、わたしを見下ろしている。声は、まだ出せない。
「神崎さん、落ち着きましたか」
わたしは頷く。叱られる前の子供みたい。大きな手が、わたしの肩を掴んだ。
「あなたはもう暖炉の脇に眠る灰かぶりではありません。輝くドレスを纏った若いお姫さまです。ひとはあなたに憧れ、あなたは灰かぶりたちに手を差し伸べる。……先輩になったのです。学校でも、346でも」
その目は、熾火の揺れる炭塊のよう。このひとのぬくもりは、きっとこの瞳が放つ熱。それは私の目からはいりこんで、また熔かしていく。
「しっかりとお立ちください。自信を持って、胸を張って。あなたの魂の輝きを、私たちに見せてください」
「でも、でも、わたし、子供のままで、甘えたくて。一年で、成長して、お姉さんになれたと思ったのに。次あなたに会うときは、カッコイイところいっぱい見てもらうって決めてたのに、会ったらいっぱい甘やかされたくて」
手がまた、わたしを鼓動に誘う。拒むことなんかできなかった。
「もちろん、一五歳はまだ子供のうちです。あなたはひとつ先輩になりましたが、あなたの先輩はずっとたくさんいます。素直に頼っていいんですよ。プロデューサーも、ほかの皆さんも、あなたに頼られるのを待っているはずですから」
「あなたも、そう?」
どんな情けない目で見上げたのか、わからない。ぼやけて見えるその表情は、ただただやさしかった。
「もちろんですよ」
わたしは目だけで見上げていたから、胸から顔を伝って、彼が声にしなかった声が聞こえた。“ダレヨリワタシヲタヨリニシテクダサイ”って。驚いて起こした首は、またすぐ大きい手で胸に埋ずめられた。
「甘えていいの……?」
「はい」
私は大きい体にしがみつく。強く、強く。頭も体もめり込んでしまうくらい。
「我が友よ、流転を留めるすべはないのか」
風が花をまとって、わたしたちの周りで踊る。このまま時間が止まればいい。
「時間は過ぎていくものです。そうでなければ困ります」
「なぜ」
「一週間顔を合わせないでいた間に、あなたはきれいになりました。初めてお会いしたころと較べれば、はるかに。これからもあなたはきれいになっていくでしょう。春がくるたび、いや季節が、月が……きっと日を追うごとに。いまよりもなお美しく輝くあなたの姿を、私に見せてはくれませんか」
おべっかじゃないってことくらいこの鼓動を聴かなくても、ううん、声じゃなくて紙に書いてあったとしたって、わたしにはわかる。ずるいよ。
「よかろう。我が魂の輝き、その<瞳>を通じ世に残す務めを課さん」
「ありがとうございます」
「そして、我が魂の曇れるときは、其方の聖衣を我が紅瞳の聖水に浸し、洗い清めよ」
「はい」
「あと、あと、いましばしは、我をもっと……甘……やかせ」
わたしのお願いの後半と桜の花びらの音を貫いて、荘厳な鐘の音があたりに響いた。お寺が時を告げる鐘。せっかくお祝いをしに行ったのに、お釈迦さまは意地悪だ。
「もう六時ですか……。きょうはもう、帰りましょう。後日、時間を作りますから」
「その瞳は、高潔か」
「はい。私もこの
胸を離れると、夜から吹く風が冷たい。舞う花びらはもう落ち着いて、青いレンズを一枚かぶせたような、黄昏の色のなかでただ小さく揺れるだけ。
ぜんぜん気がつかなかったけど、公園のなかではお花見用の提灯が点って、ブルーシートのひとたちはお酒のにおいをさせていて。だれも、道の上のわたしたちに気がついてなかったみたいに、騒いでる。
隣の<友>も意外そうに見回していたけど、わたしが見上げてるのに気づくと、やさしい顔で左手を差し出した。わたしはそこに右手を重ねて、二人歩き出す。
一五歳の誕生日。いちばんのプレゼントはこの手のなかに、ずっとずっとそのぬくもりを残してる。
(了)