黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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ちょい甘?
武内Pフラット寄り。


喜ぶ顔が見たいから  ゲストなし

 神崎蘭子は学校にいた昼間じゅうを上の空で過ごしていた。数学の時間では当てられる順番が来ていたのに演習問題に手をつけず怒られ、国語は朗読のために持った教科書が逆さまで、持ち直そうとして放り投げた。

 

 生来、引っ込み思案の蘭子である。はずみをつけるために、難解で尊大ないいまわしで恰好いい自分を演出してきた。学校生活でもそれは“顕現”していて、それだけに、生活態度そのものを他人よりまじめにしていた。それを豪快に破壊せしめるこの日のようすは、数日前、一月のなかばを過ぎたばかりの、寒い午後に端を発する。

 

 

 

 ……346プロダクション本社の半地下、蘭子の所属するシンデレラプロジェクトが仮の居室に定めた倉庫の片隅で、独り溜息を繰り返すものがあった。蘭子たちの担当プロデューサーである。鋭い目と眉とをさらに険しくして、デスクに両肘をついている。簡素なそのデスクは大柄な青年の体重を受けて、彼の代わりにうめく。

 

「我が友よ、シーシュポスの岩を擲ち紅の泉にひとときの戯れを!」

 

 太く短いペットボトルを左右の手で交互に持ち替えながら、蘭子が青年の丸まった背中に声をかけた。額に指の跡をつけた青年が立つと、蘭子はそれぞれのマグカップにあたたかい紅茶を注ぐ。

 

「ありがとうございます神崎さん。……」

 

 言葉をつづけるか青年は迷った。いまデスクに置いてきた悩みごとを、はたしてこの子に打ち明けたものか?

 

 年末のことがふと、彼の脳裡に浮かんだ。道を見失っていた島村卯月が立ち直ったあとの、上司との酒の席のことだ。多くの少女たちが卯月の助けのために、あるいは穴埋めに、奔走していたことを褒めて、今西部長はこういった。

 

「きみももっと、彼女たちを頼りにしてあげていいんじゃないかね」

 

 背負い込みすぎる息子を心配するような口調だった。それはじっさい、血縁をのぞいてそのとおりだ。二人のあいだには親子ほどの歳の差があったし、青年にとっては入社以来五年以上、世話になってきたひとである。

 

「はい、もちろん新田さんや――」

「諸星くんだろ」

「は、はい。おっしゃるとおりです」

 

 恐縮して首筋をかくと、今西部長ほ角縁の眼鏡の奥で愉快そうに笑った。

 

「リーダーとか、年長とか、きみが与えた肩書き越しでなしにだね、めいめいに直接、だよ。あの子たちはきみが思うより……ひょっとするとわしのイメージより、ずっとしっかりしてるぞ」

 

 その言葉を一音一音反芻して、青年はまだ紅茶の半分以上残るカップをテーブルに置いた。黒い瞳でまっすぐに蘭子を見つめる。

 

「神崎さん、あなたの語彙とセンスを頼らせていただけますか?」

「む? フフフ、我が翼の助けを求めるか」

 

 よかろう、と鷹揚に頷き、蘭子もカップを置く。その態度は、しかし、数秒で崩れ去ってしまうのだった。

 

「プロポーズの言葉を考えねばならないのですが、いいフレーズが浮かばず……」

「にゃぁっ、ぬっ……!」

「アイドルのプロデューサーという仕事ですから、月並みなものでは突き返されてしまいますので……」

 

 青年は両手を膝にして深く頭を下げた。連動するように蘭子はのけぞる。彼女の言葉にはじめて、真正面から向き合いつづけてくれるひとである。友達でさえ深くは考えず、蘭子の所作や声音で合わせたり、乗ってきたり、ときにすれちがう。もちろん彼も読みちがえることはある。むしろ多いかもしれなかった。だが蘭子にはそれがむしろ楽しく、つかまえられたい鬼ごっこに興じるような高揚感があったのである。

 

 そんな彼に頼られる、そのことは嬉しい蘭子だが、プロポーズの五文字はあまりに重たかった。ようすのおかしい蘭子を気づかう声でやっと我に返ると、身を乗り出して声を張った。

 

「きっ、刻める暦の厚さは」

「暦……。つきあって何年か、ですか。それはだいじな情報ですね」

 

 顎に手をやり、青年は何秒か、蘭子から視線を外す。いかつい顔つきの鋭い三白眼は、蘭子にとり第一印象こそ怖かったものの、いまや斜め三〇度の横顔を恰好いいと思うほどになっていた。それだけにショックは大きい。傷を広げる真似を、自らしてしまったほどには。

 

「三年……でしょうか」

「しゃんねん!?」

「い、一般的な数字かと……思うのですが」

 

 そうかもしれない……。三年という時間の長さに頭を揺さぶられながら、蘭子は納得しかけた。納得しきってしまわないように、彼が自分と向き合ってくれた日……梅雨明けの黄昏どきに意識を飛ばした。あれから半年。そのときにはすでに二年半を重ね、いま三年となった歳月はその、六倍……。

 

「ろっ……」

「神崎さん?」

「じ、時空のひずみが……ええい! そ、その……あのぅ……ユノの加護を約束されし花はいかなる……?」

 

 のけぞり、丸まり、蘭子は空になったペットボトルに顔を隠すようにして問うた。青年はまた生真面目に頷いて考えこむ。

 

「たしかに、いわれる側が嬉しくなければ……。しかし……」

「……」

「そうですね、神崎さん」

「へっ」

「神崎さんがいわれてみたい言葉でいかがでしょう」

「むむ? 我が水鏡……? 否、我が猛き先駆けか」

「はい。イメージしていただけるでしょうか」

 

 彼の恋人が自分と似たような女性だというのは嬉しくもあり、この真剣な眼差しの裏にその見知らぬ姿が見えるようで、二リットルのペットボトルにすればよかった、などと伏し目がちに蘭子は思うのだった。

 

 ……ともかく、蘭子の質問はそこで尽き、青年から“長じた蘭子”へのプロポーズの言葉を考える段となった。

 

「“私と結婚していただけませんか”では……いけませんよね」

「剣士のつるぎが如し」

「や、やはりビジネスライクすぎますか」

 

 まっすぐ自分に向いたものではないが、彼に正面からそうした言葉をいわれるのはそう悪い気はしなかった。こうなったら求愛の裏に神崎蘭子ありと見せつけてやる、などと思えば彼の目を見つめ返す勇気はもどってきたし、詩篇を紡ぐように言葉を数多拾い集めるうち、そのこと自体が楽しくなってきた。とはいえくだんの女性の名前まで訊く勇気まではなく、蘭子は心のなかで仮に“蘭花さん”と呼んだ。ときおり声にも出ていたが、青年はそれにとくに触れはしなかった。

 

「“とこしえの天の光が我らを”……むむむ。“タナトスの刃も我が腕を奪えぬ”……ぬーん!」

「“どれだけ時間が経ってもあなたを愛しつづけます。最期のときまで私の手を”……“取っていて”? いえ、“握りあって”……? 独りよがりになると良くありませんし、難しいですね」

「捧ぐべきは心臓、肉は虚飾。なれど命は血の巡らぬ髪にさえ……」

「シンプルなほうがいいでしょうか? “あなたと共に光のさす道を歩んでいきたい”……」

 

 考えついた愛の言葉を繰り出しては添削しあう。どうせならいま、ちひろさんかだれかがはいってきたら……などと、彼や“だれか”の反応を夢想する余裕が蘭子には出てきた。けっきょくは闖入者のないまま、会心のワンフレーズの完成にこぎつけたのであるが。

 

「ありがとうございます、神崎さん。これで挑戦してみます」

 

 やりきった感覚を口の端に浮かべる青年を見て、蘭子は微笑み返そうとした。これで終わってしまうのだと──二人のあいだに分厚い壁が完成してしまうのだと、言葉にならぬままに蘭子は思い出した。胸がふさがって、両手の支えにした小さい空っぽのペットボトルは、少女の体重にパキン、くしゃりと高い音を立てた。

 

「う、うむ、我が友よ。神々の……戦果を嘉みしたまわんことを」

「はい、いい結果が出ましたら、すぐご報告します」

「ぬっ、う、うん」

「もちろん、そのときは──」

 

 

 

 神崎蘭子の意識が空の高みから地上へ帰ってきたのは、その華奢な肩に大きい手が置かれたときだった。駅の改札の、雑踏から少し離れた柱にもたれてぼんやりしていた蘭子が、紅玉の瞳をかがやかせて振り向く。視線の先、五〇センチほどに、鋭い三白眼のいかつい顔がある。青年の、ふだんよりもゆるんだ表情をしているのが、蘭子にはわかった。

 

「いざ船出の刻……!」

「はい、参りましょう」

 

 昂然としてタクシーの後部座席に並び、二人は都内にあるフレンチレストランへ向かう。運転手となにを話したかもわからぬうち、二人はオレンジゴールドの灯りに浮かぶ、城館のような建物の前にいた。大理石の飛び石が、芝生の上をゆるやかに、立派な玄関へと導いている。

 

「しゅ、祝福の鍵は」

「はい、こちらに」

 

 青年が懐から取り出したのは二枚の紙である。このレストランのフルコースと引き換えられるペアチケットだ。

 

「神崎さんがお持ちください。あなたのおかげで勝ち取れたものです」

「永遠を契る言の葉のひとひらを、召し上げし天よりの甘露……。ふっふっふっ」

「プロポーズの言葉のコンクール、なんて業務命令がきたときは肝を冷やしましたが……。神崎さんがいてくださって本当に助かりました」

 

 この冬、都内の結婚式場などが共催したコンクールのことだ。346プロダクションは規模こそ大きいが、まだ新興の芸能事務所である。スタッフの優秀さを外部にアピールしたい上層部が、二人以上の入選を目標に掲げて、プロデューサーたちに応募を通達したのである。

 

 半地下の居室でワンフレーズを紡ぎ終えたあと、青年は蘭子にこういったのだった。

 

「もちろん、そのときは賞品は神崎さんのものです」

 

 きょとんとする蘭子に青年は告知サイトを見せた。状況を飲みこむや、まだ皮算用ながら蘭子は山分けを熱烈に主張した。この手のものはペアチケットだという知識はあったのだ。そして知らされた優秀賞入賞に沸き、約束をしたきょうこの日を指折り数えて待っていた蘭子である。

 

「さあ我が友よ、ともに天国の敷居を踏み越えん!!」

「参りましょう、神崎さん」

 

 少女に手を引っ張られ、青年は光の宮への飛び石を渡っていった。

 

 

 

(了)

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