黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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チョコレート味


混ぜるな危険  ゲスト:速水奏

 まだ二月もなかごろだというのに、早くも三寒四温の風情がただよいはじめた。この日も早朝こそ冷たい風が吹き回ったが、昼には四月なみのあたたかさになるとの予報が出されている。

 

 とはいえ、コンクリートを打ちっぱなしにした半地下があたたまるにはまだ時間がかかる。シンデレラプロジェクトが仮の居室と定めたこの広い部屋で独り、大柄な青年はキーボードを打つ手を揉んだ。打ちこんだばかりの文章を鋭い三白眼であらため、椅子の背を軋らせて大きく伸びをする。その耳に、澄んだ金属の音が届いた。

扉にかけられた蹄鉄の音だ。

 

「お、おはようございます」

 

 内心あわてて、動作はゆっくりと、彼は佇まいを直して向き直る。扉からはいってきたのは二人の少女だ。ツーサイドアップにした朝霧の髪をうしろへ揺らす神崎蘭子と、夜空色の短い髪に満月色の目の速水奏。

 

「わ……わずらわしい太陽ね」

「おはよう」

 

 青年は表には出さずおや、と思った。それは蘭子の、夕陽より赤い瞳に緊張の色があったためで、彼の担当外である奏の訪問にはよらない。……部署を問わずアイドルもスタッフも出入りするこの部屋にあって、意外な来客は彼にはいなかった。

 

「プロデューサーさん、きょうの収穫はいかが?」

「収穫……?」

 

 一瞬首を傾げそうになり、チョコレートのことだろうと思い至って、彼はつとめてあいまいな表情を作り、頷いた。

 

 ……世のなかにはショクゴウキンというものがある。金属のたぐいではなく、“食合禁”、すなわち“食べ合わせの悪いもの”だ。鰻と梅干、スイカと天ぷら、そのたぐい。それは食べ物に限った話ではない。ものでもひとでもおなじことだ。彼も聖人ではなければ、特定の日の特定のひとに忌避感を持つことがある。

 

 競馬狂の同期と、大きいレースのある日。締め日の事務職、千川ちひろ。そしてきょう、二月一四日という女性主体のイベントの日に、この速水奏。

 

「まだなにもありません。まっすぐに出社してきて、だれにも会いませんでしたから」

「あら、よかったわね蘭子ちゃん。蘭子ちゃんがはじめてだって」

 

 わざわざ引っかかるいいかたをする奏から青年は視線を外した。壁の時計は午前八時半を回ったところだ。346プロダクションの始業時刻には、じつはまだ早い。働き者の青年は、きょうは午後にしか仕事をいれていないはずの蘭子がもう姿を見せた理由を、奏の言葉以外から探そうとした。これというものに思い当たったか否か、どちらにせよ、彼の口から出る言葉は一つだ。“お早いですね”と。

 

「一番乗りがしたかったのよね」

 

 金色の目がしたりと細まる。

 

「う、うむ。我が友よ、まだ火蓋は切られておるまいな」

「ええ、この部屋にも、お二人以外はまだだれも来ていません。私ももっと遅く来るべきでしたか?」

「否、其方の道を歪めるには及ばぬ」

「ええと、神崎さん、冷えますか……?」

 

 コートこそ脱いでいるが、蘭子は口許をスミレ色のマフラーで覆ったままだ。暖房の効きが悪いかと、すでに室温に慣れた青年は首筋をかいた。

 

「これは、うう、口先の魔術師に我がマスケラを溶かされてしまったから……」

 

 青年は蘭子の目許をまじまじと見た。赤い視線が彼から逸れてはぶつかり、また逸れる。そしてマスケラをマスカラと聞きちがえていたのに気づいた彼の困り笑いで床に落ちた。

 

「蘭子ちゃん、もうちょっと恰好よくならない? せめて唇の、とか」

「速水さんはそんなことを要求する前に、なぜ神崎さんの化粧を落としたのかご説明願えませんか」

 

 口調がつい厳しくなる。蘭子とのつきあいの、彼よりも短い奏たちがよどみなく彼女と会話できている眼前の事実が、冷えた針先となって彼の喉を裡から刺すのだ。

 

「それはまだヒミツ」

 

 奏はなんの痛痒もないというように、すらっとした人差し指を口の前に立てた。かつて彼女が語った言葉が青年の脳裏をよぎった。魅力的な女性は常に秘密を抱えている、と。ただそれは暴きたくなるような謎めきのことで、叱られそうな悪戯をごまかすのはちょっとちがうのではないだろうか……。引きずられて一瞬苦らしめた顔を、彼は小さく振った。

 

「我にも真理の扉を閉ざすのか?」

「もうちょっとあとで、ね? 代わりにクピドの秘術を授けてあげたじゃない」

「妙な知識を吹きこまないでくださいよ」

「自分が食べにくくなるから?」

「なんの話です」

「チョコの話。きょうはバレンタインデーでしょ?」

 

 振り落とした渋面が青年の顔に飛び帰ってくる。速水奏はそ知らぬ顔だ。

 

「どうしたの? すごい顔よ」

「すみません、いただいた苦虫があまりに苦かったもので」

「だれから貰ったか知らないけど、この飽食の街で虫なんか食べなくってもいいじゃない」

 

 青年の口に追加の虫を押しこみつつ、都会の夜空色の魔女は生贄に語りかける。

 

「さ、蘭子ちゃん」

「う、うむ、むぅ……」

 

 目許までマフラーに埋まって、蘭子はなにかをためらう。

 

「勇気をあげようか……?」

 

 マフラーに忍びこもうとする毒蛇から身をかわし、転がるようにして蘭子は青年の前に進み出た。白い両手に乗せた平たい小箱は無地の黒い光沢紙で包まれ、白いラインの入ったラベンダー色のリボンで飾られている。

 

「わ、我がおも……否、こ……ではなく、うう、ま、魔力! 我が魔力に満つ黒化(ニグレド)せる霊石(エリクシル)を受け取るがいい!」

「ええ、と。手作りされた……チョコレート、ですか」

「うむ!」

「ありがとうございます」

「もっと喜んだって怒るひといないわよ?」

「喜んでいますよ」

 

 プロデューサーという職掌上、アイドルからのプレゼントに浮つくわけにはいかぬ。そう、彼は思っていた。素直に浮かれる同僚を見て不安になることは多いが。

 

「のちほど大切に食べさせていただきます」

 

 いいさして、彼は果実のソースのように瑞々しく輝くものを見た。いま、この場で食べてみて欲しいと訴えるような目だった。

 

「……いえ、いまいただいてもよろしいですか、神崎さん」

 

 声を介すか否かにかかわらず、蘭子からのメッセージの判読は私の特技の一つといっていいのかもしれない。嬉しげになんども頷くのを見届けて、彼はなるべく丁寧に包装を解いた。ベリーのさわやかな香りが立つ。ギリシャ十字の中央にアクセントを飾ったチョコレートの詰め合わせ。レーズンやオレンジピール、アーモンドなどなど。

 

 口に含めば鋭く硬いエッジもじわりと甘く溶けていく。そのミルクチョコレートのやさしい味をアーモンドの香ばしさが包み、鼻へ抜けていく。美味しいとシンプルな表現をしたのは彼の巧言との遠さゆえではあるが、蘭子はマフラーに隠れていてもわかるほど大輪の笑顔を咲かせた。彼としてはチョコレートよりもその笑顔の全貌のほうが望ましかったが、本人が恥ずかしがってしまっていては詮無きことである。青年の表情がおだやかになると、元兇たる速水奏がついに動機を供述するときがきた。

 

「じゃ、私からもハッピーバレンタイン」

 

 そういってハンドバッグから金色の短い筒を取り出す。数度の瞬きののち、それが口紅だと気づいた青年は半歩後ずさった。

 

「私は化粧はしませんが」

「でしょうね。ちょっと見てみたくはあるけど」

「わ、我が友に偽りの(おもて)は不要と見る!」

「そ、必要なのは蘭子ちゃん」

 

 いうや夜色の魔女はスミレを雪の野に散らし、魔法の筒をひねると寒椿は桜へと移ろう。淡桃の細面が満足気に笑って離れると、幼い赤い瞳は波立ったように揺れた。そしてなにを思ったか、小さい舌で唇をなぞり、もとの赤へともどしてしまった。

 

「甘い……」

「生チョコだもの。もう一回塗るから、こんどは舐めちゃだめよ」

 

 青年の顔がまた険しくなる。

 

「面白いでしょ、ルージュ型のチョコ。友チョコにいいと思って」

 

 この346プロダクションは女性社員が圧倒的に多い。ゆえにバレンタインデーのチョコといえば友チョコで、義理チョコはその亜種にすぎない。蘭子もやはり、この出来のいいチョコレートをシンデレラやクローネの面々と交換して食べ合うはずである。

 

「はい、プロデューサーさん。召し上がれ」

 

 どこかに感じた針を追う暇も彼に与えず、奏は義理チョコを差し出した。……生チョコレートを唇に塗られた、神崎蘭子を。

 

「ま、ま、ままさか我が紅を奪ったのは」

「口紅は味も悪いし体にも良くないものね」

「しししかしこれをたったっ食べるというのはっ」

「たまには激しいカレもいいんじゃない?」

 

 どれだけ想像を逞しくしたらそうなるのか、深くなっていく眉間のしわを青年はチョコレートの十字架で浄化しながら、なるべくやさしい声を出した。

 

「舐めてしまっていいですよ、神崎さん」

「えッ、な、舐めっ!? そんなことをすればしっ舌が……!」

 

 青年の表情の変化は忙しい。

 

「ご自分の口についたのを舐めとってしまえばいいんです。速水さんも、神崎さんに変なことをさせるのはおやめください」

「変って……。私は素敵だと思ったのよ」

 

 奏の苦虫と蘭子のチョコレートと、はたしてどちらの在庫が先に果てるか。こんな形で浪費する自分にも、青年の心はささくれ立ちかける。

 

「チョコレートにはね、GABAっていう抗ストレス物質がたくさんはいってるから……」

 

 眼前で妖しく動く舌から意識を逸らし、青年はふと耳に蘇ってきた声の記憶を慎重にたぐ

った。はいってるから……“お肌にもいいのよ”だ。川島瑞樹の言葉だ。去年、パウチ入りの丸いチョコレートを瑞樹から山ほど貰ったときのことである。“食べすぎも毒だけど”といいながら彼女の築いたデスクに赤い山を、印象的に覚えている。

 

 バレンタインといわず、彼には去年の冬の記憶があまりない。可笑しく思ったのはそれくらいだったかもしれぬ。それというのは、託された少女たちの夢を断ってしまったことで、塞ぎこみ機械のようになっていたためで……。開きかける記憶の暗さに覆われかけた彼の視界に、急に動くものがあった。意外そうな短い声が奏のものとわかったその眼前に赤いものが迫る。

 

「こ……このラシール・フルールを其方に……」

 

 ようやく彼の目が焦点を合わせたとき、みたび奏のガナッシュをまとった桜色の唇があった。

 

「其方に、……と、溶かしてほしい……」

 

 白い手が私の肩をおさえ、細い指がすがる。揺らぎながらまっすぐに、真紅の光が私の両目を貫いた。

 

「其方にのみ手折ることを赦されたこの花、いまこそ……」

 

 桜の花弁は震えながら、しかしはっきりと言葉の形を作る。記憶の暗がりからもどってきたはずの青年は、しかし、体を動かすことができなかった。

 

「神崎さん……」

 

 どうにか絞り出した声はかすれていた。その鼻先を甘い吐息が包む。

 

「秘められし花の魔力を其方に与えん」

「なにを、おっしゃっているんです……」

 

 ジャケットごしに、彼の腕は桃色の爪を感じる。うるむ瞳の奥に、固い決意を見た気がした。

 

「わたしがしてあげられることならなんでもするから、だ、だから……だから、もう、そんな顔しないで……」

 

 青年は気づいていないことである。彼の顔に刻まれていた声なき慟哭の形相が、奏の誘導よりすみやかに、蘭子に勇気を出さしめたのだ。

 

「あなたのすべてを受け止めてみせるから……!」

 

 言葉の後半は不明瞭になった。青年が人差し指で、桜色の唇を抑えたからだ。

 

「私の仕事はあなたという花を、いまよりももっと美しく咲かせることです。切って持ち去ることはできません。いちどは花壇を踏み荒らした男が、ふたたび花守りになれたのです。花泥棒を認めることはできません。たとえ、それがだれでも……」

 

 浮いていたエナメルの踵が床に降りる。その右手から、青年は金色の筒を取り上げた。蓋を外し、スリーブを破いて、オベリスクの形をしたガナッシュを口に放りこんでしまった。心を安からしめるには、それは甘すぎた。

 

「あなたを唆すものも、なくしてしまいましょう」

 

 包み紙を手のなかで金色の紙玉にしてポケットへ隠すと、呆然とする蘭子の頭の向こうから、ぷうと吹き出すものがある。奏である。

 

「ちょっと、さっきからもう……!」

 

 奏は口許と腹を抑えて背を丸め、肩を震わせている。

 

「そこまでやれなんていってないわよ二人とも……!」

 

 いい終わるとこらえきれなくなったか、声を上げて笑い出した。その場に座りこみ、ソファの背にすがり涙まで浮かべて。気障なことをいった自覚はあれば、奏の笑う理由は理解できる青年である。だが、蘭子が赤面してうつむいたことは意外であった。

 

「それを食べちゃうなんて反則でしょ」

 

 奏の言葉は大笑いで細切れになっていた。それをつないで復唱して、彼は自分の失策を悟った。

 

 あのチョコレートは、三度も……。

 

 

 

(了)

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