黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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プレーン味ですが「巷に雨の降るごとく」を別なタブに開いておくと少し読みやすくなります。


無言のロマンス  ゲストなし

 煉瓦舗装の商店街の、一軒の喫茶店。焙煎された豆ときつね色のトーストの香りたゆたい、まどろむようなバイオリンがレコード針のかすれとシーリングファンのきしみと和音を奏でる。ジャケットを脱いだ壮年の客たちは、いすの反った背にもたれて、かぼそい秋雨に濡れる街路の緑に目を休め休め、橙色のランプで活字を追っている。

 

「ご注文を伺います」

 

 窓辺から離れた渋い暗赤色のテーブルで手を挙げる青年に、ウェイトレスが歩み寄る。大柄な青年は黒髪短く眼光鋭くして、昼休みであろうにネクタイをゆるめもせず長袖のワイシャツにかたく締めている。

 

 逆三角の三白眼が不意におだやかな光をたたえ、その影に隠れていた少女をウェイトレスに示す。少女、神崎蘭子はフリルとレースで飾られた白のブラウスと黒のスカート、おだやかな空調の風にたゆたう白銀の髪のモノクロームを、大きい瞳とおなじ真紅のリボンで引き締めていた。

 

 黒く染め伸ばした睫毛を誇り桃色の唇を優雅にして、蘭子は注文を告げる。

 

「正邪併せ持つ始まりの獣が美味を購いし混淆の一皿を」

 

 ウェイトレスは化粧気の薄い目をしばたたかせた。

 

「すみません、牛ほほ肉のシチュウのセットを一つください」

 

 青年が眉を下向きに曲げてその意図するところを伝えると、ウェイトレスは納得しきらない面持ちで伝票にそれを記した。少女が嬉しそうにしているので、青年の“通訳”は正しいのだろうけど、と。蘭子なりの、これが甘えかたであることを、ウェイトレスは知らない。

 

 伝票には青年の注文であるホットサンドのセットと、食後の“赤き雫”……アイスティーとホットコーヒーが連ねられた。

 

「紅茶でよろしかったのですか?」

 

 ウェイトレスが下がってから、青年は意外そうに少女に訊ねた。

 

「ふっ。安らぎの揺り籠を扼す狂乱の徒を喚ばれては困るのだ」

 

 ほんとうは恰好をつけて飲んだブラックコーヒーの苦さが堪えていることと、かといって砂糖やミルクを多量に求めるのも子供っぽいと思えたためだ。

 

「そうでしたか」

 

 携えたヴェルレーヌ、フランスの詩人の本にあわせた店選びに見えたので、飲み物もカフェオレにするのかと思っていた青年である。

 

「うむ、この止まり木に、黄昏る花の都の詩情を嗅ぎとったは真実。……だが、今宵の薔薇を潤すに漆黒では足りぬ。ふっふっふっふっふ……」

 

 早計でした、と青年はカフェモカくらいの苦さで笑った。

 

「フランスの詩集をお持ちのわけも、お訊きして構いませんか?」

 

 淡雪の指でレモネード色の本を開きかけて、青年の黒い瞳を見上げて頷く。

 

「これは詩吟の精と友誼を結び、ダンタリアンの迷宮より持ち帰ったのだ」

「なるほど、図書館から……」

 

 深い海色のネクタイが揺れる。

 

「ただ、セーヌの流れは細緻にして我が翼の捉うる風とはいまだなしえず……」

 

 リボンで留まったゆる巻きのツーサイドアップがテーブルの表面を撫でた。

 

「雰囲気や語感だけ味わうのもいいものですよ。詩歌は感性のものですから、こうして楽しむものだというきまりはありません。ですが、原文も読まれて、原語独特のリズムを味わってみてください。発音はインターネットでも検索ができますし、私も多少はお教えできます。ヴェルレーヌの詩は、とくに簡単な単語を駆使した脚韻の踏みかたが……」

 

 滔々と溢れかけた詩情を青年は喉に抑えた。小ぶりのグラスから冷水を一口、這い上がらんとする残滓を押し流して、ばつが悪そうに謝る。蘭子は楽しげに喉を鳴らしてそれを容れ、ページを手繰る。

 

「纏う瘴気の芳香ならば、我はこの一篇が」

 

 雨はしとしと市(まち)に降る――。蘭子が青年の前で開いてみせたのは、アルチュール・ランボーの一行詩をエピグラフにした一作であった。訳者は堀口大學、フランス詩の訳ではとくに高名な人物の一人だろう。

 

「巷に雨の降るごとく/われの心に涙ふる……。つい物思いにふけってしまう詩ですね……」

 

 懐かしい空気を噛みしめるような青年の声が、蘭子の耳をくすぐる。爛漫に見えるこの少女にも、この詩に共感するような、歳ごろらしい悩みがあるのだな、と微笑ましく見守りつつ、青年は心のどこかに苦々しさを覚えた。

 

「我が友の泉に、この銅貨(コイン)はすでに沈んでいたか」

「ヴェルレーヌに代表される象徴派は、学生のころよく読みました」

「で、ではその、ここ……。三連目の後半できまって淀んでしまうのだ」

 

 ランプに照らされて薄金色をなす眉を下げ、青年の肩に身を寄せて、蘭子は二行を指した。

 

 “何事ぞ! 裏切りもなきにあらずや?/この喪そのゆえの知られず。”

 

「ピエタの慟哭に対する騒乱かと見えたのだが」

「はい、そこまでの部分で、心に妙にまとわりつく悲しみを詠っていますから」

「うむ。しかしなにゆえに裏切りと嘆くのか……。喪……もそ? も……」

 

 ひそめた眉を一回転しそうなほどにして、蘭子は唇をかたく結んだ。

 

「この喪、で切ります。ほかのかたの訳では、“ゆゑだもあらぬこのなげき”となっていて、哀しみの出どころを繰り返し問うているわけです」

 

 蘭子が髪を弾ませて点頭すると、青年はもう一つの疑問に答えるべく言葉をしかめつらしくして選ぶ。

 

「このころヴェルレーヌは妻マチルドを捨て、歳下の詩人ランボーに捨てられ、暴力事件を起こして懲役刑を受けました。裏切りという言葉は、そのあたりの心情が出たものかと」

 

 ヴェルレーヌは妻のほかに美少年に惚れ娼婦に惚れ、明るいとはいいがたい複雑な人生を歩んだ。“ランボーに捨てられた”節は軽く流したかったのだが、蘭子の心のひだに引っ掛かったのを見てとって、青年は別の解釈を持ち出した。

 

「あるいは、一行目を“raison”で終えているので、三行目、四行目は韻を踏んだ“trahison”“raison”にしなければならなかった、というだけかもしれません。この詩は四つの連がいずれも、一・三・四行目で脚韻を踏み、連ごとに見るとそれが交韻になっているという構造ですから」

 

 しかし、言葉の奔流に疑問は耐えきったのだ。

 

「ランボーというのはこの冠なす一篇の……?」

「……はい。エピグラフといって、ここではほかの詩の引用です。ランボーの詠んだその一言から作ったという恰好でしょう」

「……男のひと?」

 

 顔も声もブラックコーヒーの苦さで、青年は首肯した。

 

「芸術家もいろいろある、ということです」

 

 より具体的な話になる寸前、香気と湯気をともなって、二人の昼食が届いた。ビーフシチュウの芳醇な香りに蘭子が顔を花やがせる。詩集がハンドバッグにしまわれると、いよいよ詩人は大皿に居場所を逐われ、テーブルの縁から転げ落ちていった。

 

 

 

 青年が蘭子の口許の汚れを甘やかしているところへ、食後の一杯が供される。痛いほど冷たい紅茶で牛肉の味を洗い落とすと、蘭子はとなりに座る黒い瞳が、ブラックのままのコーヒーの、湯気の先を遠く眺めていることに気がついた。

 

 青年もまた、紅茶よりも赤い瞳が不安の波紋に揺らいでいることに見ずして気づき、カップを置いて顔を向けた。

 

「すみません、学生のころを思い出していました」

 

 彼にヴェルレーヌを薦めた先輩は、なにかというとコーヒーを飲んでいた。“大抵の問題は、コーヒーを飲んでるあいだに心のなかで解決するものさ”と恰好をつけて。それは彼の知らぬだれかの受け売りで、じっさいその先輩が大抵の問題をどうにかできていたようには、ありし日の青年の目には映らなかったが……。

 

「ふっ、漆黒の雫なぞなくとも、我が友のあるかぎり我に愁うるいとまなし!」

「もったいないお言葉です」

 

 そういえば、と蘭子は思った。ランボーとヴェルレーヌの話は半端なままだ。しかし友はあれ以上語りたくないように見え、問題が残ってしまう……。

 

「や、やはり、我が友よ。闇のひとしずくを我にも……」

 

 青年は驚いた様子だったが、言葉の裏のなにごとかを汲み取ると、カップをソーサーごと蘭子の前に滑らせた。砂糖を断り、高揚感をもたらす湯気に目鼻をしばし湿らせてから、薄桃色の唇へ白い両手でカップを運んだ。苦味が舌を取り囲み、じわじわと沁みこむ。

 

 震える手で、小さい音とともにカップをソーサーに返した。

 

「神崎さん、ご無理はせずに……。厚手のハンカチもありますから」

 

 青年の鼻先をゆるく巻いた髪ではたき、蘭子は黒い香気をどうにか飲み下す。すぐに冷えた紅茶が残り香を消すと、怯えた猫のような声がこみ上げた。

 

「飲みやすいようにして飲みましょう、神崎さん。万人の正解というものは、コーヒーにもありはしませんから」

「はい……」

 

 抱いた疑問が解けることは、もちろんなかったが、ブラックのコーヒーでもあんがい飲めるということと、今夜の寝つきはそうとう悪くなりそうだということは、少女の心に、はっきりとわかった。

 

 

 

(了)

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