黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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ビール、もしくは水の味。


七年の呪い  ゲスト:学生時代の先輩

 空の青は深く、夏の雲が漂い、しかし吹く風が半袖を冷やす。九月の日比谷公園はオクトーバーフェストのさなかだ。キッチンカー囲まれた噴水広場はジョッキと紙皿を手にした来客で溢れ、そのうちの半数ばかりが特設ステージへ視線を注いでいる。

 

「愚かなる気高き琥珀に見せられし罪人たちよ! この堕天使・神崎蘭子の到来に震えるがいい!」

 

 赤薔薇の王笏を会場へ突きつけて高らかに歌うのは神崎蘭子。346プロダクションが擁するシンデレラプロジェクトの一人である。彼女の<闇の言葉>の意味がわかるものは多くはないが、この酒のはいった場で、それは些末なことだ。途切れぬ複雑で詩的なマイクパフォーマンスに拍手と野次があがる。

 

 純白と漆黒、二枚の翼が特徴的な紫紺の衣裳。落ち着いた銀色の髪と紅色の瞳、大胆に露出した肌の白さは儚げな印象を与えるが、その足取りはたしかで、ほほえみはどこかワルそうに、自信に満ちている。

 

「よかった」

 

 控えのテントで独り、大柄な青年が安堵の息をついた。きまじめに濃い色のスーツを着こんだ彼は、蘭子を含む一四人のシンデレラたちの担当プロデューサーである。本人はやる気を見せて昂然としているとはいえ、まだ一四歳の少女だ。酒宴の仕事に萎縮しはしまいかと気を揉んでいたのだった。

 

「おっ疲れさまでーす!」

 

 背中に明るい声を投げつけられて青年は振り向いた。みじかい焦茶色の髪をした女性だった。フェストスタッフのユニフォームを着、細い銀縁の眼鏡から楽しげに笑っている。

 

「いやあ、ごめんねホント。ふつうに日本の子だなんて思ってなかった……。ローゼンブルクエンゲルとかドイツ語じゃん。グラビアもオトナっぽいしさあ」

「先輩……」

 

 青年は苦虫を噛み潰したような顔でなにか答えかけ、いちど視線を逸らしてから言葉をついだ。

 

「アーティスト名に英語もフランス語も昔からよくあるでしょう」

「ソロってみんな本名じゃない?」

 

 まったくそんなことはない。青年は首だけで答えた。

 

「それに、最近のグラビアには大きく一四歳と書いてあったと思いますが……」

「アーアー、ワタシ 日本語 ヨムノ ジョウズ ナイデス」

「アラビア数字も日本語ですか……」

 

 二匹目の苦虫を噛みながら、彼は追及をあきらめた。

 

「まあ、思いっきり勘違いで呼んじゃったけど、きみの子でよかったよ。拒否られたらどうしようって……予算とか」

「昼のステージでしたから」

 

 ビールの祭典といっても、ドイツの白ソーセージやワッフル、アイスなどの食べ物も提供されており、昼間は親子連れのすがたも多い。酔っ払いに絡まれることはないだろうと、彼は判断したのだった。ゆえに、売り出し中の神崎蘭子サイドに、このオファーを断る理由はいっさいなかったのだった。

 

「ありがたやありがたや……。でさ、なんかやつれてない? やせたよね、大学のころより。よしよしここはお姉さんがひとつ栄養のある黒ビールでもオゴリましょう!」

「まだ仕事中なのですが」

 

 返事も聞かず、眼鏡のスタッフはテントを飛び出していた。そそっかしいのは変わっていませんね、と大学の後輩だった青年は三匹目を噛むのだった。

 

 

 

「お疲れさまです、神崎さん」

 

 ステージを終えて楽屋にもどってきた神崎蘭子に、そのプロデューサーはタオルを渡す。少女がステージの火照りを冷ましたところへ、眼鏡のスタッフが小走りで帰ってきた。その両手に一つずつ握りしめたものに、青年は溜息をこらえる。黒ビールのジョッキである。律儀にもどこかの列に並んでいたようだ。

 

「おまたせー! あっ、お疲れさまでーす」

「うむ、炎天の獄卒よ、闇に飲まれよ」

「はい、修道院ビールよ」

「ビー……ル……?」

 

 まだ幼い少女には、差し出された濃褐色の液体とビールのイメージとが結びつかなかったようだった。

 

「日本では金色のものが一般的ですが、こうした褐色のものや、真っ黒いものもあります。原料もさまざまで、果物のビールもあれば滋養強壮剤のようなものまであるんです」

 

 蘭子に差し出されたジョッキをまんまと受け取り、右手に半リットルの重みを感じながら、彼はざっくりと説明した。彼自身、なぜこれを買ってきたのか説明されたい立場ではある。だがそれは求むるべくもないことだと、問わずともわかっていた。

 

「飲まなければいけませんか……」

「きみには水みたいなものじゃない?」

「しかし、いちおうまだ仕事中で」

「度数もたいしたことないんだし、バテて倒れる前にちゃんと栄養とっといたほうがいいって。ねえ、このひと、元気そうに見える?」

 

 大学時代の感覚にもどっているらしい先輩は、後輩が番をするアイドルに話を振った。

 

「えっ!? う、ううん……。追憶すれば、煩わしき太陽の支配せる時代になってより、我が友はその魔力に翳りが……でも、あの、いやがってるみたいですから……」

 

 前半部分に同意らしい雰囲気を感じとるや、そこから先は聞かず彼女はまた後輩に向き直って酒をすすめる。

 

「ほら、担当アイドルに心配されるようじゃだめでしょ。きみは心配する立場、ね? 度数だってふつうのビールと変わんないだろうし……たぶん」

 

 一般的なビールは五パーセント。修道院ビール、とくに色の濃いものになると七・五パーセントから、高くは一〇パーセントを超えるものもある。もちろん、この場の三人のだれも、そんなことは知らない。

 

「じゃ、乾杯ね。打ち上げも兼ねて……。主役の蘭子ちゃんは悪いけど、ミネラルウォーターで」

 

 青年は観念してジョッキを持ち上げる。少女が不安げに顔全体で見上げ、眼鏡の先輩は彼の目をのぞくような目つき。

 

「……あの、なぜ目を合わせてくるのでしょう」

 

 やりにくいのですが、と苦情をこぼす青年に、銀縁の女性は指を振って胸をそらした。

 

「ドイツのマナーみたいなものでね、乾杯のときにはひとの目を見てないと、そのさき七年は結婚できなくなるのよ。いやでしょう七年も……。うわあ恐ろしい……」

 

 だったらはじめから飲ませないでくれ、と男は目で訴えかけたが、届きはしなかった。ふたたびジョッキを持ち上げると、先輩はおなじように目を覗きこんでくる。ちらっと目をそらすと、神崎蘭子は顔を背けてなにかつぶやいていた。

 

「あの、神崎さん?」

「七年……経ったら、わたしだって……」

「神崎さん」

「待っててくれないかも、しれないし……」

 

 男は体中で溜息をつくと、まとめて何匹も噛み潰したように眉根を寄せてまぶたを閉ざしたまま、ジョッキを突き出していった。

 

「乾杯」

「あっ、貴様! 私を、私を呪われさせる気か? なんて邪悪な後輩なんだ……!!」

 

 ドイツの言い伝えを真に受けていたのは少女だけではなかったようで、銀縁眼鏡の奥の瞳はすぐに隣にいたおさない赤い瞳をのぞいた。

 

「蘭子ちゃん乾杯!」

「か、乾杯」

 

 

 

「すみません、断りきれず……」

 

 日比谷公園をあとにしながら、日傘を低く持ったスーツの男がいう。

 

「ま、まあ、あれで其方の魔力が充ち足りるのであれば」

 

 白のブラウスに黒のロングスカートとケープをまとい、そのいずれも大量のフリルで飾った少女が振り返らず答えた。

 

「だが、あの誘惑の毒気を浄化するには時を要しよう?」

 

 つづけられた言葉とともに、日傘の下から赤い瞳がのぞく。スーツの男は苦笑いとともに頷いた。

 

「きょうは急ぎの仕事はありませんし、お時間がよろしければ銀座を歩いてみませんか」

「銀ぶらなるものか。ふっふっふ、よかろう」

「申し訳ありません、酔いざましに付き合わせてしまって」

「構わぬ。……が、詫びたいというなら受けてやっても良いぞ」

「そうですね……」

 

 男は頭の中に銀座の地図を広げた。銀座駅からならば渋谷まで一本で帰れる。そこは行き過ぎないように、適切な店を探した。

 

「では、あまり広くはないのですが、喫茶店にご案内させてください。時期ですし、いいモンブランがありますよ」

 

 秋空にブーツの音も高く、二つの黒い影は銀座の街へ消えた。

 

 

 

(了)

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