「はぁー、冷えるわねー」
言葉と裏腹に楽しげな声が、半地下の広い元倉庫にひびいた。コンクリートを打ちっぱなしにしたここは、いまはシンデレラプロジェクトの面々が使う業務スペースであり、会議室であり、集会所である。
「おはようございます、川島さん。神崎さんもご一緒でしたか」
小さいデスクとパソコンとで留守居をしていた青年が立ち上がって声の主を迎える。川島瑞樹と神崎蘭子、二人の開け放った重いドアは、内ノブにかかっていた蹄鉄を鳴らして閉まった。
「……どうされたんですか?」
「見てわからないかしら?」
青年は首筋に手をやった。二人の高揚した顔、蘭子の手にした土鍋。土鍋は蓋の蒸気穴から湯気を立てていて、銀の十字架を散らした黒紫色のミトンで蘭子が掴んでいることからも、鍋料理ができたてであるらしいことは彼にもわかった。その中身は、彼の鼻にはなにも匂わず、不明であるが。
「ヒント」
桃色の手指を返して、瑞樹は蘭子に話を促す。
「明けてより今宵の月は何度目か?」
足を肩幅以上に開いて、歳の割に大きい胸を反らしてみせる。その前で脇を閉めて土鍋を持っているから、蘭子は全身でラテン文字のAをえがいていた。Aラインのワンピースとはよくいったものだ、などと青年は感心しつつ、謎かけに答える。
「七度目、一月七日ですね」
二人は鷹揚に頷く。声に出して、青年もすぐ答えにたどり着いた。
「七草粥ですか」
「せいかーい!」
平時より二オクターブほど高い声で瑞樹は正答を祝福した。脱いだ上着を振り回すのはハンドベルかタオルのつもりだろう。蘭子もようやく、重そうな土鍋をテーブルに置く。
「きのうスーパーで見つけちゃったのよねー。熊本・阿蘇で採れた春の七草セットって。これはもう蘭子ちゃんと作ろうと思って」
蘭子が夏前にデビューしてから何度か一緒に仕事をした瑞樹は、この一四も歳の離れた少女を気にいっているようだった。相通じる世間話があるとは青年には思えなかったが、一緒に遊んでいるところを見かけることがままあった。歳の離れたお姉さんと遊ぶのを蘭子は楽しんでおり、瑞樹も若い娘とはしゃぎたいだけ……というのが彼の見立てで、それは正解でもある。
「それで意外と多くなっちゃったから、キミにも食べさせてあげる。アイドルの手料理よ!」
堅苦しく述べられた彼の謝辞は、瑞樹の眉間を険しからしめる。
「キミは本当にかわいくないわね……。蘭子ちゃんは目をキラキラさせて喜んでくれたのに」
「生来よりそういうものは持たずにきましたので……」
青年は生来の硬い表情を精一杯すまなそうにさせた。いいわけめいたあぶくが“女子中学生なみの可愛さを三十路間近の男に求められても……”と胸の底ではじけたのは、おくびにも出さずに。
彼とほぼ同年代の川島瑞樹はそれこそ女子中学生のように唇をとがらせ、これもまた露骨にそっぽを向いてテーブルにお椀とれんげを用意しはじめる。手ぶらで来たと思っていた青年の当惑の目を見ることなく、二人は七草粥をよそっていく。
「これなるは桃花源の女御と我の」
「にょうご?」
川島瑞樹の笑顔は笑っていない。
「む、むすめご」
仲良く遊ぶなかにも、なんらかの教育があるのだろう。蘭子は上ずった声で言葉を直した。
「桃花源の娘御と我とが捧げし供物、
いいなおしのやりとりは見なかったことにして、青年は頭を下げた。
「ありがとうございます。お相伴にあずからせていただきます」
「では!」
熱気立つ煮えた白米が、れんげに乗って彼の鼻先に突きつけられた。朱塗りもつややかなそれは鉄線の蒔絵がえがかれて、安物ではないことを主張している。鮮やかな赤い柄からそれを支える白い指へ、興奮気味の蘭子の顔へ、困惑ぎみの三白眼は移っていく。大きい赤い目はさらに丸く広がり、桃色の唇がゆるやかな放物線を描いて、口を開けろと言外のお達しである。
「あの、神崎さん。自分で食べられますので……」
聞くやこんどは頬が膨れる。気恥ずかしさだけで断る彼ではない。柄をつたって蘭子の指にかかりそうな粥から二秒、彼は目を離す。
「川島さん、スマートフォンはしまってください」
「ちぇーっ!」
「あなたいったい何歳のつもりですか」
飛び出そうとする余計な言葉を、彼は差し出された粥で防いだ。
「美味しいですね」
しゃきっとしたセリの香りに、ほのかな塩味がさらなる食欲をあおる。歯触りのいいスズナ・スズシロも嬉しい甘みを添えている。彼は自分の顔を見ることができないが、瑞樹と蘭子の二人は満足げに笑んだ。
ようやく席についた彼に饗された椀には、七草粥がきれいな半球状にこんもり盛られている。用意されたスミレのれんげで一匙すくえば、粥とは思えぬたしかな手応え。形を整えるためにずいぶんたたいたようだ。これを盛っただろう蘭子の椀に彼は目をやる。ごくふつうの量。一瞬、取り替えてほしいくらいに思う青年である。そして。
「川島さんのそれは……」
ほぼスープだった。瑞樹の椀にあった米のすべてが私によこされたのでは? 青年の勘繰りは顔の皮一枚の下でどうにか押し留められた。
「うふふ、ダイエット中でーす♪ だってミズキ、アイドルだもん!」
隣のアイドルと量をまた見較べて、青年の頭に、基礎代謝の四文字が浮かぶ。
「プロデューサーくーん? いま、“脂肪が落ちにくいもんな”とか思わなかったかしらー?」
むせかえった青年の斜向かいで、図星を突き刺した魔女の目は険しくなる。その隣の蘭子だけは目を輝かせていた。
「おお! いまだ読心の力は健在か!」
「蘭子ちゃん」
イマダドクシンの七文字を正確に漢字に変換できぬ瑞樹ではないが、誤変換を一つ経由したらしい。一オクターブ下がった声音に、向けられた蘭子より青年のほうが緊張した。だがそれも一瞬のことだ。彼女の顔は唇の中央を上げていかにもわざとらしくどこかユーモラスに、怒り顔を主張している。蘭子がしょげると、彼女もやっと表情筋の緊張を解く。
「いいもーん、気にしてないもん。だってミズキはピチピチの一八歳だからっ☆」
否定形の言葉が口から出ないように、青年はなるべく多めに粥をすくって口に押しこんだ。蘭子もこれにならってか、お椀から直にスープをすする。自称一八歳はこれにこそおカンムリのご様子だが、二人は口のなかのものをどうにかするまでなにもできぬ。せいぜい、すまなそうに目で応えるだけである。
「アイドルに転向したときに諦めたと思ってたんだけどね、やっぱり親はうるさいのよ、結婚しろ結婚しろって」
二人のしゃべれないことを逆手に、瑞樹はいいたいことをいいだした。
「せっかくアイドルになったんだもの。あと三年はスポットライトを独り占めしてたいなって。でもわかってくれないのよね~……」
深々とため息をつき、とろみのついたスープをアジサイ柄のレンゲでかき混ぜる。
「ご結婚後もアイドルをつづけるのは、なかなか難しいでしょうからね」
「偶像の下僕たるもののなかには、片翼のままを嘆くのもあるというが」
「それはもっと上の世代の話ね」
上? 傾きそうになる首を青年は制した。
「ファンって、若いアイドルには理想の恋人を夢見るものだし」
「神崎さんくらいのお歳だと、娘を重ねて見るかたもいらっしゃるでしょうね」
「うんうん、キミくらいの歳だとちょうど……」
とつぜん押し黙ったかと思うと勢いよく手を叩き、それ以上の勢いで立ち上がった。
「それよ! 蘭子ちゃん、三人で写真を撮るわよ! それを送ってやればうるさい両親も黙るはず!」
「……どういうことでしょうか」
「そしたらとくにコメントなんかつけなくたってきっと私が東京で家庭を持ってるって思いこむわ!」
独りで盛り上がる瑞樹の言葉を数秒遅れて理解し、青年は気色ばんだ。架空の夫に見せかけられようとしている。
「神崎さんまで巻きこむんですか」
「子供はいたほうが説得力が出るじゃない」
大きすぎるだろう。冗談のような切り返しでは飲まれてしまうことを彼の理性は反射より先にさとって、なるべく論理的な切り口を探す。
「私はともかく、神崎さんの顔くらいご存知のはずでは?」
川島瑞樹は両手を広げて、かしいだポーズで固まった。
「……つれご」
「私が神崎さんの父親で、妻には逃げられたと」
「……そこは……かっこよく死別とか……」
「わ、我が父も母もちゃんといる!!」
「だ、だんなさんがなくなってプロデューサーくんとさいこんしておくさんもなくなってわたしとさいこん……」
神崎家を乗っ取った悪魔かなにかにされた青年である。このまま瑞樹の嘘を貫くとどうなるか、彼はつい考えた。つぎは自分が死んで瑞樹・蘭子の奇妙な母娘が遺るのではないか。
「神崎さんが悲惨すぎます」
蘭子はさっきの比でなく両頬を膨らせて涙目になっている。瑞樹もさすがに我に返り、すっかりご機嫌斜めの少女に謝罪をしている。横から抱き寄せて頬ずりをするのが誠実な謝罪なのかは彼にはわからない。
「じゃあ気を取り直してプロデューサーくんと二人で。私がノイローゼになる前に顔を貸してちょうだい」
「返していただけるんですか?」
浮かんだ返事は声にする前に、彼の危機意識が握りつぶした。蘭子の手前、あまり真剣に叱りもしたくなく、かといっておなじ独身者として彼女の親の味方もできはしない。
「ふ……ふ……」
彼が顔だけいやそうにしていると、蘭子がわなわなと震えるのが視界に映った。
「太れっ!!」
青年もいままで聞いたこともない<闇の言葉>、いやただの暴言を吐き出して、蘭子は土鍋に残っていた粥を瑞樹のお椀に放りこんだ。
お粥を押しつけあう子供二人を、青年は疲れた顔で見ている。彼女たちはどうやったらおとなしくなるのだろう?
(了)