重ねての大雨は暑気を洗い去り、太陽さえ一枚、薄衣をまとって秋の足音に耳をそばだてている。鎌倉は鶴岡八幡宮、蓮の葉があざやかなパッチワークを描く源氏池のほとり。ハトの群れとまばらな観光客のなかでスーツ姿の青年が、文字どおり抜きん出て高い頭を右へ左へ動かしている。
ややあって彼がようやく動きを直線にしたその先には、少女が一人涼風の吹く空を見上げている。白と黒との絵画とことなるのは濃い銀色の髪が風にそよぐこと。そして瞳と唇に鮮やかな赤色が差していることだ。まだあどけない顔立ちに反すプロポーションやそれを覆うフリルとベルベットよりも、その赤の鮮烈なきらめきはひとの視線を釘付けにする。
見開かれる観光客たちの目と好対照に、青年は鋭い三白眼を気持ち細めて、その少女の前に立った。
「こちらにおいででしたか、神崎さん」
白百合のかんばせが、やにわに薄桃色を帯びて振り返る。
「遅いぞ、我が友よ」
青年は蘭子の隣に立った。収録の後始末の長引いたことを詫びながら、黒いレースの日傘を小さい手から受け取る。
「なにか見えるのですか?」
紅玉の目線の先を追って、三白眼は源氏池に浮かぶ中島の高い木を捉える。それを見上げたままで蘭子は答えた。
「天空の盗賊、貪食の翼の軌跡よ」
「ああ、トンビが……」
彼の諒解を待ってか、焦茶色の四角い翼が螺旋をえがいて頂の梢を揺らした。幹のほうから、べつの一羽がその帰りを迎え出る。
「巣があるのでしょうね」
「ふむ、円環を描きしは右の比翼であったか」
日傘の陰で、蘭子と青年はトンビのつがいを見上げる。樹上の二羽に飛び立つ気配はない。
「雄雌の別がわかるのですか?」
「我が眼力を疑うか?」
蘭子が胸を反らすと、薄手のブラウスの肩が青年のみぞおちを叩いた。斜めを見上げるその目の赤には、不満とからかいの色が混じっている。悠長に遅れてやってくるのは男に決まってる、と。
彼が重ねて遅刻を謝ると、蘭子は満足げに頷いた。そのままハトの群れを横切り、八幡宮の参詣道に向かう。待ちぼうけた姫君を日傘の陰から出さないように、青年は歩幅を狭くして華やかなフリルの背を追った。
二足の黒い靴と砂粒のセッションを、蘭子は楽しんでいる。少なくとも青年の耳にはそう聞こえる足音だった。遠い国の言葉たちが風の声にちぎれ、規則的なリズムにあわせて歌う。
参詣道に出ると、そこにかすかな笛の音が加わった。高くどこかくぐもった音色。和楽器だと二人は察して、出どころを探す……青年は目だけで、蘭子は上半身も使って。ゆるく巻いた銀の髪が、彼の顎の先で踊る。
「あの屋根のところ、ひとが集まっていますね」
大きい手が舞殿を指した。高い基礎に乗った大きい四阿のような建物である。
「異教の偶像の顕現か……?」
「撮影や収録ではないようですが……」
声こそいぶかるが興味をそそられたらしく、スカートのフリルを乱して、蘭子は足を舞殿へ急がせる。遠く聞こえたのは笙の音、雅楽の奏でられる舞殿には正装のひとびとが姿勢を正して座している。蘭子は青年に振り向いた。
「友よ、あれは?」
「おそらく、神前式だと思います」
「しん……」
短い眉を寄せて、蘭子は言葉を文字に変え、文字の意味を記憶からひっぱり出した。
「天神地祇の許、孤独なる歩みは涯てて永遠への船出……」
「はい。……オープンな場で執り行うものなのですね」
「名も知らぬ旅人なれど、天の風の祝福を」
憧憬のこもった囁きは、折からの風とともに舞殿を吹き抜けて、高い天へと運ばれていった。青年はちらと蘭子の背中を見た。こうしたやわらかな風の吹くとき、つい出る癖のようなものである。ふだんは隠している翼が見えるような、それを広げて飛んでいってしまうような気がして。
蘭子の耳は神前式の音楽を堪能しきったようで、赤い瞳の興味に任せて奥、石段の脇にある切り株へと吸い寄せられていった。
「大イチョウ……? すでに死しているようだが」
「何年か前に倒れてしまったんです。しかし、いまは息を吹き返しているようですね」
切り株の上に顔を出す鮮やかな若芽を彼は斜め上に指し示したが、頭一つ小柄な蘭子にはよく見えない。眉尻を下げて試行錯誤する彼女の小さい手を引き、青年は石段を登った。蘭子が覗ける高さまで登れば切り株は遠のき、小さい若芽が見えなくなる。それで、彼は切り株の真横で足を止めた。彼の目の高さでやっと、へし折れた断面が見える位置だ。
日傘を白い手に預け、黒いフリルのスカートを肩まで抱き上げる。花の香りが青年の嗅覚を満たし、あわててしがみつく手が視覚の半分を占めた。きめ細かい布越しのやわらかな熱に集中しかける触覚だけは全身に分散させた青年である。それは少なくとも、耳の熱さを感じられる程度には成功していた。
「見えますか、神崎さん」
「おお、フレイヤの息吹を感じるぞ」
「逞しいものですね、わずか数年で」
「生えてきたのね、最近のことじゃあないのよ。五年前の春先に倒れたんですけどね、ふた月もしないうちに根っこから芽が出てきてたんです」
とおりがかりの老婦人がそういって切り株のふちから青空を見上げた。揃っておなじような驚きかたをする蘭子と青年に目を細め、口許を隠す。やがて降りてきた老紳士とともに、会釈をして眼下に去っていった。白い日傘の揺れながら小さくなるのを見送って、黒い頭を抱えこむ蘭子の手がゆるんだ。
「五年……」
蘭子は青年より二段上に降り立った。二人の目の高さが揃う。五年前には蘭子はわずか九歳、私は就職活動に勤しんでいたころか……。赤い瞳を正面に見た青年の胸にふと、感慨が涌いた。その当時にはアイドルのプロデュース業をするようになるとは、思ってもいなかった彼である。芸能界の裏方を志した高校時代、アイドルと知り合えるかもしれないなどと考えた日のことが瞼の裏によみがえる。
……その当時、つまり一〇年前には、この子はまだ学校にかよってもいなかった。歳の差を考えると、私が硬い学ランに袖をとおして、爪を痛めながら金の釦を留めていたころに生まれたのだ。隔世の感がめまいを誘い、青年はうしろへバランスを崩した。日傘を放り出した蘭子の伸ばした両腕につかまり、一段踏み外しはしたがこらえきった。
「すみません、ちょっと、昔のことを考えていたら……」
蘭子に体勢を立て直させ、日傘を拾う。おなじ段に立つと、銀で染め抜いた絹糸の束は、彼の肩よりも低い。参詣者が気づかう言葉をかけつつ石段を登る。その頭が階段の端に見えなくなってから、青年は蘭子を上へ促した。神社のメイン、本殿はこの上である。
しかし、蘭子は沈んだ様子で、それを振り落とすように首を動かすと、彼に向き直った。
「大樹は崩ずれど、ニーズホグの牙にも負けず春の歌を知った……。我が友の許でしおれし花も、異郷の風のもとにかぐわしく歌っているはずよ」
蘭子は青年が、かつての失敗を回顧していると思ったらしかった。それも独りのつまづきではなく、少女たちの未来を挫いてしまった、苦い経験だと。よもやはるかに卑近な、過ちでさえないものに打たれただけとは知るよしもない。
「翼は
純白のブラウスのフリルを翼のように広げて、血潮の色を濃くした瞳にこういわれてしまえば、彼には頷くよりほかできることはない。蘭子が石段を一つ登る。銀の前髪が青年の鼻の高さになる。次の一歩にさきがけ、青年もまた足を上に踏み出した。
「神崎さん、あじさいはお好きですか?」
銀の髪はとまどったように揺れ、短い言葉とともに頷いた。
「我が友が捧ぐなら、移り気の手鞠でも蜂蜜色の薔薇でも、我は拒みはせぬぞ」
「ここからもっと北西に行くと、一面にあじさいの広がる、あじさい寺と呼ばれるお寺があります。そちらにお誘いしようと思いまして」
「な、なんだ。そうであったか……。だが、いまは……」
「はい、もうあじさいの時期ではありませんから、来年です。来年の初夏ごろ、いかがでしょうか」
「我が運命に刻んでおこう」
「ありがとうございます。見頃に、かならずお誘いします」
次の春には、蘭子たちは彼の預かりでなくなり、広い世界に飛び立っていく。この少女をつなぎとめんとする、それはうしろむきな約束に思え、青年は奥歯でだけ笑った。
「よかろう、いかなる障壁もこの翼で飛び越え、其方の許に降臨しようぞ」
「頼もしいですが、ブッキングしたらお仕事を優先してくださいね」
「それはならぬ。我が友との約束、たがえることまかりならん!」
青年の目許口許に嬉しそうな苦笑いがにじむ。
「来年はあじさい寺、また来年もどこか……。いつかは、我が友の郷里へ……」
石段のてっぺんでつぶやいた声が、風に乗って散る。ただわずかに青年の鼓膜を揺らし、いつかの未来を瞼の裏に描きだした。蘭子の頭が己の肩をこえて、顎に届くくらいにはなるだろうか。服装はおなじままだろうか。彼女なら成人しても着こなせよう、心配など無用のものか……。そんな彼女に相変わらず日傘を差しかける自分。そう、蘭子のうしろを歩いているのは、まちがいない。そんな里帰りにきっと旧知の友人も親たちも、一様に驚く。
行く先々で蘭子のことを訊ねられては答える姿は、蘭子に自分の故郷を紹介するというより、むしろその逆に思えるのだった。
「私が故郷をご案内するのもいいですが、いつかは、神崎さんの故郷をご案内していただきたいですね」
「きっ、聞いていたのか!?」
蘭子は素っ頓狂な悲鳴を上げて、顔を赤く染めた。全身で振り返り、手足をせわしなく動かす。そのなかでふと、さまよっていた視線が彼の顔の横に止まった。ばたつく手も胸の前で小さく祈るようにしている。……はるか石段の下に見える舞殿から神前式の一団が出て来たのだ。色打掛に角隠しの花嫁が、鮮烈な赤を初秋の陽光に印象づけながら、紋付袴の新郎と歩む。
蘭子は気恥ずかしさも忘れたように嘆息した。
「神崎さんは、神前式がお好みですか?」
「わ、我は天主と十字架に誓うほうが……。いや、な、なにをいわせる!」
「す、すみません。拙速がすぎました」
蘭子は言葉の末節に気を配るほどの余裕はなく、すでに本殿に向けて歩きだしていた。余裕があったなら、“拙速”の二文字に“数年ののちにはあらたまって訊くつもりでしたが……”などと前置きを聞きとり、いまよりもさらに心臓を鳴らしただろう。
「なにをしている! ともに祭神の加護に
歩幅広く踏み出す蘭子の背を、青年はふだんどおりの歩調で追う。神さまになにを願おうか、いまさらながらに、鶴岡八幡宮のご利益を記憶からたぐりながら。
(了)