黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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コメディ風味です。


表裏一体  ゲスト:前川みく

 三月にはいったばかりのうららかな日曜日、原宿の駅は若者の足音と話し声を吸いこみ、吐き出しつづけている。

 

 駅舎の呼吸が落ち着くのを待って、三人の男女が尖塔と三角屋根の特徴的な影へと歩み出てきた。

 

 代々木公園からの寒風にスーツ姿の大柄な青年が首をすくめる。春の息吹というにはまだ緑の薫りうすく、肌寒い。彼の前を歩く二人の少女は、大きい風除けのおかげで寒がらずに済んだ。……二人合わせてやっと彼と釣り合いそうな体格の差である。

 

 青年が襟を直して空を見上げる。厚手の白い雲がその目に見える速さで西の空から流れこんでくる。吹き寄すかたを眺めれば、色濃い雲の塊が三白眼に映った。

 

 こっちに来なければいいのですが……。

 

 口のなかでつぶやく言葉は、少女のはずむ声に吹き飛ばされた。

 

「フェルガナの馬の如く!」

 

 瞳に赤々と篝火を焚いて彼を急かすのは神崎蘭子。トレードマークであるゴシックロリータの豊かなフリルを反らした胸で持ち上げる。

 

「張り切ってるにゃあ~」

 

 それを微笑ましく眺めるのは前川みく。アイドルとしてのトレードマーク、白い猫耳はつけずに、赤いセルフレームの眼鏡をかけている。

 

 オフの日ではないが、ひとの多い場所で目立つことを避けるためのスタイルである。そのため、しゃべりかたには猫キャラが生きている。

 

「すみません。参りましょう、神崎さん、前川さん」

 

 青年は黒いベルベットの日傘を開いた。それが落とす影へ、雲を紡いだような二つの縦ロールがふわり翻る。蘭子のまとうさわやかなシャボンの風が彼の鼻をくすぐった。

 

 茶髪のショートボブが転がりこむのを見て、青年はゆっくりと歩を進めた。エナメルの靴がアスファルトを叩く音が半球の天蓋にこだまして、青年の耳と大きい手に快くひびく。

 

「そうだ、さっきのふぇる……がも? ってなんにゃ?」

 

 少し歩いてつかまった赤信号の交差点、みくが蘭子に訊ねた。

 

「んぬ……。わ、我が言の葉が響いたのではなかったのか……?」

「急げって感じなの大体わかるけど~……。フェラガモの馬ってどんなのかにゃーって」

「フェルガナですよ。ユーラシア大陸のほぼ中央にある地域のことで、脚力にすぐれた馬の産地です」

 

 三国志に登場する名馬・赤兎馬がこのフェルガナ産の馬、汗血馬だとする説もある。

 

「へぇー……。二人とも物知りだにゃ……。みく、距ぉ~離を感じちゃ~うにゃあ~」

「どこへ行くっ」

 

 日傘から白く弱々しい陽光のなかへ、みくがにじり出ていく。白いレース地の袖が伸び、くちなし色の上着を捕らえる。腕をとらえる赤いマニキュアの手を外そうと、ストーンを控えめに乗せた指に力がこもる。

 

「にゃー!」

「クックックッ、大魔王から逃れられると思うたか! アーッハッハッはむ……む?」

 

 みくが飛びついて口を塞ぎ、蘭子の高笑いを遮った。

 

「ただでも目立つんだから大きい声出さないのー!」

 

 白猫と黒猫のじゃれあいをほほえましく見守っていた青年は首許をおさえた。路上のそこここから、どころか停車している車からまで視線が集まってくる。

 

「むむむ、氷の矢」

 

 身を縮めた蘭子に信号が青い救いの手を差し伸べる。これ幸いと、三人は横断歩道を駆け出した。

 

 

 

「我が友よ、蝙蝠を下がらせよ」

 

 白と興味とを混色した衆目から逃げ切ってたどり着いた路地裏で蘭子が二人を振り向く。

 

 日傘をたたむ短い時間にも汗ばんだ体を風が吹き抜けていき、それぞれに首をすぼめた。

 

 蘭子が背にするのはコバルトブルーの重厚な扉だ。日焼けした赤色レンガの外壁に黒縁の大窓が釣鐘のシルエットを切り取って、ラグジュアリーな白いレースカーテンの裡から、陳列された種々の細工品が道行くひとに手招きをしている。

 

「な、なんか物々しいにゃ……」

「こちらが神崎さんの行きつけのお店……ですか」

 

 近く共演が決まった二人は、せっかくなのでお揃いの小物を身に着けて出ることにした。これまで蘭子の使うものは本人のデザインを元に作ってもらっていたのだが、今回は急な話のため、既製品を買いに来たのである。

 

「うむ、ここなるは我が庭のひとつ。ひとの世をはぐれた聖魔混淆の箱庭よ」

 

 いざ! と蘭子は扉を押した。コロコロとドアベルが鳴り、扉同様コバルトブルーに染まった店内から、おだやかな白い光とかすかな白檀の香気が洩れてくる。

 

「いらっしゃいませー」

 

 抑揚を欠きながら、流麗に歌う声が三人を迎えた。しかし背の高い青年にも声の主は見当たらない。右も左も視界のかぎり、見上げるほどうず高く商品が積まれている。おそらくは種類ごとに分けられて、しかしそのなかでは雑然とした小物たち。棚の端には連なった駄菓子まで掛けられている。

 

 青年とみくが目移り……というより、どこに視線を定めたものかわからないでいると、奥の棚の影から銀髪をボブカットにした青いドレスの女性が現れた。

 

「ごゆっくりご覧になってくださいませ」

 

 ていねいに頭を下げるその口調は、迎えの挨拶とおなじ調子だ。

 

 極彩色の棚の前で話しこむ蘭子とみくに、青年は買い物かごとおぼしきバスケットを持って行った。赤ずきんが葡萄酒や焼き菓子を運ぶような、舟型の籐のバスケットである。敷布は内装どおりの紺色で、いうなれば青ずきんバスケットだ。

 

「蜃の吐息に踏みいる道はない。たしかな黄金郷へつづく標を見出ださねばならぬ……」

 

 あれでもないこれでもないと賑やかにするうち、みくが拳を振った。

 

「まずは猫チャンにならなきゃ始まらないにゃ!!」

 

 そう叫んで棚の海へ消えたかと思うと、すぐさま猛然と駆けもどってくる。

 

「蘭子チャンは髪色に合わせてアメショになってもらうにゃ!」

 

 ……そういう本人の髪は茶トラの色だが、ふだんもいまもつけているのは白猫の耳だ。青年は大阪出身のみくなりのボケなのかと悩んだが、蘭子がグレイッシュな猫耳をつけて上機嫌だったので黙っていることにした。

 

「にゃ、にゃー……」

 

 蘭子は白魚の指を遠慮がちに丸めてみせた。取っているのは猫のポーズというよりは、前川みくのポーズだ。

 

「なかなかキマってるにゃ。もっと腰を意識してお尻をつき出すにゃ」

「もっと胸を張るにゃ」

「上目遣いにゃ!」

 

 はたしてなんの指導なのか……。これを放置すれば己の人格が疑われかねぬと、青年はゆるめていた目尻をふたたび硬質なものにした。

 

「ど、どうかにゃ、我が友よ……?」

「その……よくお似合いです……耳は。ですが……」

 

 火照った頬が瞳だけで青年を見上げる。深い青につつまれて、赤い視線は甘く香るようだ。言葉に詰まる青年へ、不意に横合いから声がした。

 

「失礼ながらお客さまにお猫さま。お連れさまは反応にお困りのご様子……。僭越ながらわたくしがアドバイスなどさせていただきたく存じますが、よろしいでしょうか」

 

 いつの間に近づいていたのか、青いドレスの店員が彼の真横に立っていた。

 

「先ほどから拝見させていただいておりましたが、お連れさまはどうやら大変な堅物でおいでのご様子。おそらくはお客さまのそのスタイル……人間の耳も猫の耳もお見えになられたお姿に、どちらかにしろという魂の叫びと、女子会の空気を壊してはならないという理性のせめぎあいによって口を利くことができなくなっておいでのものと推察いたします」

「ちがいます」

 

 喉は詰まったままだったので、青年は目で答えた。動けばヒトの耳が見える前川さんにも、それを指摘どころか気にしたことさえありませんよ。

 

「では失礼させていただきまして」

 

 そもそも彼を視界にもいれていなかった青い店員には目で語る言葉など通じない。彼女の会話の相手は客人たる蘭子であって、その連れや猫にではないのだ。あっという間に蘭子のヘアスタイルを整え、人耳を隠してしまった。

 

「う、うにゃー……」

 

 銀の猫娘は丸めた指を黒い青年の鼻先に寄せる。彼の喉につかえていた複雑な思いは、胸の奥まで押し下げられた。……ぎこちない笑顔を返すために。

 

「た……たいへん可愛らしいかと……」

「にゃー!」

 

 蘭子がすっかり猫になりきってしまい、みくは小さくガッツポーズをした。困惑の色を濃くしていく青年の目からはこぼれて、見咎められることはない。

 

「お連れさま、こちら初回サービスとなってございます」

 

 いつの間にか真横に移動してきていた青い店員が、かぶりを振る青年に紫色をしたプラスチックの猫じゃらしを差し出す。

 

「どうぞ存分におじゃらしあそばされませ」

「Pチャンのじゃらしかたも蘭子チャンのじゃらされかたもみくがバッチリ指導してやるにゃ!!」

 

 みくの鼻息は荒い。こわばる指は猫じゃらしをつまみ、高めに掲げて細かく揺り動かす。甘く握った小さい猫の手がそれをはじく。

 

「にゃあ~……」

「動きはいいけど鳴き声がダメにゃ!」

「た、戯れには戯れの歌があるのか?」

「通訳!」

 

 蘭子の言葉はだれでもたちどころにわかるものではない。それでも諦めるのが早すぎると強面の裏に苦みを隠し、彼は答えた。

 

「猫が遊ぶときはちがう鳴き方をするのですか? と神崎は申しております」

「にゃるほど。そーじゃないにゃ! “にゃ”だとみくとカブるから別なのにしてほしいにゃ! 猫メイツの少ないいまならやったモン勝ちにゃ!」

「増やすつもりなのですか」

 

 質問が低い声に乗ることはなかった。その答えを、みくが問わず語りにのたまったからだ。

 

「個性派猫チャンをアホ……んっ、山ほど集めて、イチコーナーからイチ番組に独立にゃあー!」

「さすがは軽食屋を占領した革命闘士。見上げた野心でございます」

 

 店員は本当に感心しているのか怪しい口調で拍手を送っている。鋭い三白眼はそれを横目に睨んだ。申し訳程度に。

 

「むう~……。みゃ、みゃうー……」

「そうにゃ! いい鳴き声にゃ!」

 

 律儀な蘭子の恥じらう声に耳をくすぐられ、みくの妙な褒めかたに胸がぞわりとして、猫じゃらしの動きが鈍った。

 

「そこにゃ! 両手で掴むにゃ!」

 

 フリルの両袖が伸び、猫じゃらしをはっしととらえる。しかしいわゆる猫の手なので、猫じゃらしは両手のひらをくすぐってまた宙空へと逃げていく。

 

 やる前は気が重くても、いざ始めてしまうと案外興が乗ってしまうとは、往々にしてあることだ。及び腰だった蘭子も体を動かすうち、歯を見せて笑うようになっていた。

 

 顔には出ぬが、もちろん三白眼の青年も。

 

 猫じゃらしを上へ下へ、右へ左へ、速すぎないよう捕まらないように泳がせる。前川みくがはじめの台詞と裏腹に彼にはなんの指示も出さないのは、猫にとって人間の動きなどどうでもいいためだろう。

 

 銀色の猫をじゃらすうち、三白眼の焦点はしだいに遠くへ移っていく。独り暮らしのしんと冷えた家のなかへ。まだ小さい、手のかかりそうな猫の姿をえがきだす。

 

 一日の疲れをかかえて家路をたどり、冷えたドアノブをひねる。後ろ手に鍵を閉めてダイニングの灯りをつければ、まだしまうには早いコタツ布団で丸くなっていた猫が、不機嫌そうに起きてくる。彼がスーツも脱がずにしゃがみこんで撫でていると、すぐに鼻を鳴らしてその手をすり抜け、食事の催促をする。

 

 すこし温めたキャットフードをいれてやって、水も替えて、ようやく彼も半額弁当で空きっ腹を満たす。入浴の解放的なひとときは、この空想のなかでは魅力を欠いた。

 

 上がれば日付も変わるころだ、洗濯の用意を済ませて床に就かねばならない。猫は一緒に寝たほうがいいという話を思い出し、枕許に丸くなる姿を想像する。

 

「んー、みゃう~」

 

 朝にはまた食事の催促で顔を叩かれて目を覚まし、寝転がったまま機嫌を損ねるまで猫を撫でる。

 

「みゃああ……。わ、我が主よ、の、のどはちょっと……」

 

 ……青年が夢想の世界から立ち返ると、銀猫の神崎蘭子が腕のなかにいた。胸板に後頭部をあずけて太い指先に白い喉を任せている。

 

 困惑した瞳と見つめあい、謝罪とともに青年は飛び退いた。離した指先に、滑やかな感触が残る。

 

「蘭子チャン、そういうときは猫パンチにゃ! セクハラPチャンを成敗にゃ! 猫の手スタンバイで間合いをとって、上から下へえぐりこむように打つべし! 打つべし!」

 

 いわれるがまま、指を丸めた手が交互に彼の胸を叩く。遠慮しているのか“叩いた”という感触のみのある猫パンチだ。むしろ青年のほうが、細い指を擦りむいたりしないか心配してしまう。

 

「胸板ポコポコイワしてやるにゃ!!」

 

 みくはみくでなにかのスイッチがはいったようだ。鼻息荒く拳を振り回している。目つき顔つきが心なしか、青年には猫のように見えた。

 

「蘭子にゃん叩きかたがちがうにゃ! そんなブリッコが彼氏にやるよーなの、好感度が直滑降にゃ! みくのお手本をよく見て! 姿勢を低くして目つきは鋭く体を揺らして隙をうかがって素早くばーし! ばーし!」

 

 猫としてのキャリアの差か、前川みくの猫パンチは厚い胸板にドスドスと突き刺さる。だまって制裁を受け容れるしか、彼にできることはない。手本どおりの型を蘭子ができるようになると、みくは下がってコーチにもどった。

 

「猫パンチ! 猫パンチ! 連打あ! ナイス!! 猫キック! いまにゃ! トドメの猫頭突きにゃあー!!」

「ちょっと待ってください」

 

 膝の痛みをこらえながら、青年は跳び上がろうとする蘭子の頭を両手でつかまえた。鋭い目のなかの小さく黒い瞳がみくをとらえる。

 

「前川さん、猫の動きのご指導をされると仰っていましたが」

「にゃっ! ちょ、ちょっと熱がはいりすぎて……あにゃにゃ……。 ね、猫チャンがひっかくのはー、好きとか嬉しいとかって気持ちの表現なんだにゃ♪」

「どついてどついて蹴ってトドメと聞こえましたが」

「Pチャンがそんな言葉を使うなんて珍しいにゃー」

「目を見て答えてください」

「お客さま、お猫さま、お連れさま、お楽しみのところたいへん申し訳ございませんがお時間でございます」

 

 店員の横槍に蘭子はぱっと離れてカチューシャを外し、みくは歳下の少女を黒い針から身を守る盾にした。

 

「なかなか面白い光景でございました。そちらの猫じゃらしは差し上げますので、ご来店の記念にお持ちくださいませ」

 

 そういえばこの店員は何者なのだろう? 青年の疑問をよそに、猫の心を手にいれた蘭子とみくは、気分も新たに小物選びに気持ちを切り替えていた。

 

 

 

「我が友よ、我らにデルフォイの神託を……」

 

 青ずきんバスケットには蘭子がつけていた猫耳がひとつだけ。長い時間悩みとおして、蘭子もみくもすっかり行き詰まってしまったらしい。

 

「だれにゃ……選り取りみどりの雑貨屋なら秒速でコーデ決まるーとかいったひょーろくダマは……」

 

 ひょーろくダマは床に手をついてうなだれた。猫耳もへたっている。みくの予定ではアクセサリーをすんなりと決め、買い食いなどしながら原宿駅にもどって、ホームの端でユニットの相方・多田李衣菜と待ち合わせるはずだったという。

 

「もともと一点を足すのみのアレンジの予定でしたし、一つに絞って考えられては……」

「それはもうやってるのー!」

「で、では先ほどの店員の方にうかがってはいかがでしょう。当日の服自体はいま着て来ていますし、それをお伝えして……。まあ、ふつうの小物選びになってしまいますが」

 

 妙な人物ではあるが、こういう店の店員ならセンスについて頼りにしてもいいはずである。さっそく前川みくはそのとおりにした。

 

「かしこまりました。アイドルの衣裳に手を加えさせていただけるとは、わたくし胸が一杯ウキウキ気分でございます。この店の看板に賭けまして、全力で責務をまっとうさせていただく所存、よろしくお願い申し上げます」

 

 三人に後悔する暇も与えず、店員は棚の影に消える。かと思えばたちまちのうちに、深いワインレッドの紐を手にもどってきた。幅が一・五センチほどの、細い腕時計だ。

 

「猫といえば自由気ままな生き物……。しかしながらその性を宿したひとの裡には、束縛され繋ぎ止められたい欲求もたしかにあることと存じます。そこで、こちらメッシュレザーの腕時計はいかがでしょう。逃れえぬ時の流れ、たいせつな約束、そして撮れ高というノルマ。お二人揃って手首に感じれば、まさに運命共同体。デザインもお客さまのお召し物にはよく馴染み、お猫さまにはよいアクセントになるかと……。いかがでございますか?」

 

 四角い文字盤の、三人の見間違えたとおり一本のリボンにも見えるファッションウォッチを、蘭子とみくは手首に試した。

 

 店員の見立てたとおり、厚手の黒いフリルに彩られた蘭子の腕には、革を編んだバンドはしっくりと馴染む。

 

「よくお似合いです」

「ふふん」

 

 蘭子は青年のわかりづらい微笑に小鼻を膨らませた。

 

「Pチャン、Pチャン、みくはどう……にゃっ!?」

 

 くぐもった振動音にみくは言葉を切り、スマートフォンを取り出した。短く断るや店の隅へ駆けていく。その顔は露骨に青ざめていた。

 

 程なくしてもどってきたみくは苦手の魚もかくやとばかりに目を泳がせて、いった。

 

「ご、ゴメンにゃ蘭子チャンPチャン。りーなチャンとの待ち合わせに行かなきゃいけないにゃ……」

「む? それは鐘七つが鳴るころと……」

「りーなチャンどーせ遅れると思って三〇分早い時間伝えたら、時間どおりに来ちゃったにゃ……」

「すると、いまのは」

「早く来いーって電話」

 

 同情するような溜息が、音もなく二人と一人のあいだに流れた。

 

「まあ、多田さんの方へ行って差し上げてください。この腕時計は」

「ファッションウォッチでございます」

「……ファッションウォッチは買っておきますから」

「うん。みく、もう行くね! 時計は明日渡してほしいにゃ!」

 

 みくは三度頷いて、手首の赤いファッションウォッチをバスケットに放りこみ、駆け出した。その刹那の横顔に、喜色の浮かんでいるのを青年は見つけた。

 

「わかりました。お気をつけて」

 

 その返事は彼女の背に届いたかわからない。扉の重たい音がして、店はしばし静かになった。

 

「神崎さんは、ほかにも買って行かれますか?」

 

 銀の髪を揺らし、蘭子は頷いた。青年が手で促すのに従い、雑貨の海へ馳せていく。

 

「お連れさま、ちょっとよろしいでしょうか」

 

 腕時計二つを青ずきんのバスケットに持って蘭子のもどりを待つ青年に、落ち着ききった声がかけられた。

 

「当店ではお一人さま一点のご注文をいただくきまりとなっております。お客さまのお買い物もよろしゅうございますが、お連れさまも店内をご覧になられてくださいまーせー」

 

 歌うように語尾を伸ばすと、青い服の店員は深々と一礼した。

 

「わ、私ですか!?」

「はい。当店、数多の品揃えがございますので、どなたさまのお求めにもかならずや応じてみせる所存にございます」

「そう仰られましても……」

「ではあちらをご覧くださいませ」

 

 青い長手袋が仰向いて示すのは、短い銀の眉を寄せる少女の横顔。その真紅の瞳がためつすがめつしているのは、太さも色も装飾も、おなじもの一つとてない紐の束……チョーカーであった。

 

 幅広の黒に、舞い散る銀製の羽根をあしらったもの。総レースで、中央に大輪の薔薇を編んだもの。十字架の控えめなロザリオ、などなど。

 

「あれは……さすがに私のような者には似合わないかと」

 

 首許をおさえて一瞬、青年は鋭い目を丸くした。

 

「あ、私から神崎さんに買って差し上げるようにと?」

「ようやくでございますか。かのお客さまのお言葉はおわかりになるのにこれがおわかりになりませんとは、意外すぎてわたくし思わず」

 

 青い店員は金色の視線をいちど床に投げ捨て、ふたたび彼の鼻先に突きつける。

 

「二度見してしまいました」

 

 目許まで苦らせる青年を尻目に、店員は蘭子に近づく。さもいま気がついたかのように声をかけた。

 

「おや、お客さま、チョーカーをお求めでございますか」

 

 短い眉を八の字にして、蘭子は喉の奥で唸った。肯定の返事と受け取り、遠慮がちに近づいてきた青年へ水を向ける。

 

「ではお連れさまのお見立てではいかがでしょう?」

「私が選ぶのですか?」

「はい。わたくしばかり働いては不公平かと存じます」

「あなたはここの店員では……?」

 

 青年の疑問は口から外まで出ていかなかった。矢継ぎ早に、青い店員が言葉を足したからである。

 

「お連れさまはお客さまやお猫さまを星の彼方へ導くことがお仕事……。彼女たちの輝きを引き出す術には、わたくしよりもよほどお詳しいはず。見立てちがいでございましょうか」

 

 言葉と裏腹に、巨躯を見上げる両目には自信が満ちている。黄金の視線から思わず背けた彼の目に、期待と不安の薪に燃える篝火が映る。

 

「うむ! 我が翼、其方に委ねよう!」

 

 青い手袋と赤い瞳の示すままに、青年は無数の革紐を見較べる。記憶のかぎり、蘭子のファッションを脳裏に呼び起こす。レース編みは着けているのを何度か見た覚えがある。メッシュは感触が気になりすぎるかな。ウェスタンのブラウンは、やはり服に合わないか。

 

 ひとのためにものを選ぶ楽しさというものを久方ぶりに思い出し、硬い口の端が少しゆるむ青年であった。

 

「こちらはいかがでしょう」

 

 大真面目に悩み抜いた果て、彼が差し出したのは細めの黒い革のものだった。優美な曲線のバックルが金色に光る。その右側でリボン部分から大きくはみ出して漆黒の薔薇が大小六輪並び、ゴシックテイストのあるアクセサリーを主張する。そしてそのサテンの花びらを、花芯に埋まった緑色のジュエルが照らしている。

 

「ほう……。闇の結晶、ヴィーナスの供物か」

 

 はやばやと試着をすませた蘭子が満足気に頷いた。姿見を抱える店員も、変わらぬトーンでそれを褒める。

 

「暗黒の花と二つの輝きを持つ貴石、よくお似合いでございます」

「二つの……?」

「こちらの石はアレキサンドライトと申しまして、当たる光によってその色を変える風変わりな石でございます。当店のような蛍光灯や太陽の許では緑色、お客さまのおっしゃったとおりエメラルドに見えますが、ランプやこちらの電球色のライトを当てますと……」

 

 白い首に小さいスポットが当たり、黒薔薇が赤い光を湛える。青年が思わず声を洩らすと蘭子も見たくなったのだろう。音を立てて金具を外し、胸の前に掲げた。

 

「わあ……」

「アレキサンドライトの天然石は希少かつ高価……。ゆえにこちらは安価な人工石ではございますが、品質が安定しており天然石よりも変色が鮮やか。いささか皮肉なものでございますね」

「なるほど、面白い宝石ですね。神崎さん、こちらでよろしいですか」

「異存なし!」

 

 蘭子は鷹揚に頷き、チョーカーをバスケットにいれた。

 

 ……安心していられたのもレジまでの二〇歩程度の距離だけである。提示されたデジタル数字を青年は二度見した。チョーカーは覚悟できていたが、ファッションウォッチと主張した腕時計の額が想像をはるかに超えている。

 

「こんなに……」

「この極小の文字盤を仕上げる技術料……とでもお思いくださいませ」

 

 面積にして二平方センチほどの赤く小さい盤面に、低い溜息が一つ。青年の広い背で額面の見えぬ蘭子が横からのぞこうとするのを、店員が目で制した。

 

「贈り物のお値段はお気になさらないのがマナー……。お客さまにおかれましてはどうぞ、大きく構えておいでくださいませ」

 

 支払う立場の青年も、この少女に額面をもって心配させたり遠慮させたりしたくはなかった。すばやくクレジットカードを出して会計を済ませ、二人は青い店をあとにする。

 

 去りぎわ、青い服の店員が“お客さま、いい忘れたことが”と声をかけた。“お客さま”というので蘭子に用と思った青年だったが、店員は彼に話があるという。どうやらこの店では、買い物をしてやっと客になれるらしい。

 

「宝石言葉、という文化がございます。宝石の輝きに言葉を託す遊び心……。むかしびとの風情を感じますね。さて、お客さまがお求めになったアレキサンドライトの宝石言葉は“秘めたる想い”。二つの輝きを持つ石、そして本音と建前に生きるサラリーマンにはジャストフィットかと存じます」

 

 青年とて花言葉や石言葉があるのは知っていた。しかしどれにどんな意味があるとまでは詳しくない。すらすらとそれを話す店員に、素直に感心した彼である。

 

「薔薇の色と数にもおのおの意味がございます。こちらはいちどご自分でお調べになられて……、そしてたまにはオレンジのランプに照らされて、思索に耽られることをお勧めいたします」

「はあ……。まあ、そう、ですね」

 

 あいまいな返事に思うところはないかのように、店員はにこりと笑う。

 

「ではごきげんよう、またのご来店をお待ちしております」

 

 

 

 重厚なコバルトブルーの扉の裏路地には、もう夜の涼気が忍び寄っていた。買い物をしているあいだに雨も通り過ぎていったようで、舗道に色と香りがわずかに残る。長々と買い物をしたものだと、青年は腕を下のまま、肩を回した。

 

 待たせていた蘭子が壁にもたれているのを見て、彼はひとつ思い出したことがあった。思い出したというと語弊がある。忘れていていいことではないのだ。

 

「あの、神崎さん。先ほどのことですが……」

「む?」

 

 壁を離れて地面にまっすぐ立ちながら、猫のように下唇を上げてみせる。

 

「猫じゃらしのときですが、どこか変なところに触れたりしませんでしたでしょうか。ぼんやりと、その、猫を飼う空想に取り憑かれていて、よく覚えていないものですから、失礼を働いたのでしたらお詫びを……」

「ま、まあ……そのことは……。砂に刻みし絵空は刻の波にさらわれ消える。風の行方など追うに及ばぬものと知るがよい」

 

 そう露骨にごまかされると、とんでもないことをしたのではと余計に心配になってくる。ついさっきの記憶を、彼は必死に手繰った。

 

 店員も前川みくもそれほどリアクションは大きくなかった……。しかし、セクハラとはいっていた……。それにあの店員の反応はあまりあてにできたものでは……。

 

「そんなことよりも! つ、使い魔の一体や二体、其方ならば造作もなかろう」

「本当によろしいのでしょうか……」

「くどい!」

 

 一刀のもとに切り捨てられた悩みはそれきり忘れることにして、彼は蘭子の問いかけに答えた。

 

「たしかに、飼うお金がないわけではありません。しかし、家を空けがちの私ではひどく寂しい思いをさせてしまうでしょう。独り者がペットを飼うと、依存しきってしまい抜け出せなくなるとも聞きますし、とくにペットを喪った場合、すぐに新しいのを飼うか抜け殻になるか……。私は後者だという自覚はあります。ですので……」

「千秋の狭間ほどならば、我を使役する魔法陣を与えても良い……」

「それは外聞が悪いので……」

 

 蘭子はみゃあと低い鳴き声をあげて厚い胸を叩いた。さっき前川みくからダメ出しされた叩きかたである。

 

「神崎さん、ひとの目もありますから」

 

 白い頬を膨らせて数秒、蘭子はニヤリと笑った。

 

「黒薔薇の円環を我に捧げよ!」

 

 蘭子は藍色の空を大きく仰いだ。真紅の双眸は閉ざして、青年へ白い喉を強調する。やや戸惑ってから、彼は蘭子の言葉に従った……つまり、いま巻いている組紐のチョーカーを外して、買ったばかりの黒薔薇のものを着けるのである。

 

 四本の指先が首筋に触れると、蘭子は少し身を固くした。指先はさらに遠慮がちになって、うなじのところにある留め具を外す。買い物袋のなかから平たい小箱を取り出し、中身を外したものと入れ替えにして白く細い首へ。

 

 六輪の黒薔薇が白い首許に咲いた。

 

「苦しくありませんか?」

 

 顔が近いせいで声のボリュームがしぜん小さくなる。蘭子は目を泳がせてから、ささやくように答えた。

 

「もう少しきつく……。ぴ、ぴったりくっつくようにして」

「はい」

 

 締めたチョーカーに短くあえぐ息が桜色の唇から漏れる。

 

「すみません、締めすぎました」

「ううん、ちょうどいい」

 

 紅の瞳に嘘はない。だが、白い首に黒い革帯が食いついているのも事実だ。黒い眉の根が寄る。

 

「これでは痕が残ります」

 

 鎖の輪ひとつ分だけゆるく鈎にかける。伏した目の色は彼にはわからなかったが、ほころぶ口許は見えた。傾きのないことを確かめて、彼は数歩退く。夕焼けにはまだ早いが、その顔はだいぶ赤みがさしている。

 

「くっくっく、きょうのところはこれで勘弁してやろう」

「ありがとうございます」

 

 気の利かぬ返しを心のなかで自嘲した。軽やかにステップを刻む子猫に日傘を差しかける。夕陽を遮られるとき、首の宝石は赤く光っていた。

 

 

 

(了)

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