一〇月初旬のたそがれどき、人影もまばらな街角にときおり鋭い風が吹きつける。半袖のワイシャツの若いビジネスマンが二人、急な冷えこみと薄着の油断とを冗談めかして足を早めた。すれちがった一人の青年が振り返る。それは、彼らの奇抜なシャツの柄に驚いたからではない。彼の半歩前を進む少女が、唐突にきびすを返したからだ。
ついいましがた通りすぎたショーウィンドウの前までもどり、その少女、神崎蘭子はポーズを作る。黒いレースのフレアスリーブの白い手で自分の小さいあごをつまみ、コルセットを巻いた細腰を抱いて、重たげに広がる黒のフリルのスカートから伸びた脚にはレース編みのストッキングをまとい、交差させている。
「お嬢さま、なにか気になるものがございましたか?」
蘭子もまだ新人とはいえ歳若いアイドルである。嘘の代名詞で彼……担当プロデューサーが呼ぶのは、衆目を集めるを避けるためだ。目立つ外見には焼け石に水ともいえるが……。
「あ、ああ……我が下僕よ。煉獄彷徨う魂の饗宴、その偶像の秘める光が我を呼んだのだ」
それは蘭子自身の楽しみによるところが大きい。寡黙で大柄な青年は、か細く豪奢な“お嬢さま”の守り人としてとくに違和感なく巷の景色の、明るい側の一部となっている。
白魚の指の示すショーウィンドウには、ハロウィングッズが飾られていた。ダークブラウンの丸テーブルにティーセットが並び、紫の幽霊とオレンジのカボチャをかわいらしくアレンジした椅子がそれを囲う。おおきいジャックオーランタンが菓子箱になっていて、山盛りのゼリービーンズを床にいくらかこぼしている。楽しげなハロウィンの彩りである。
「覗いて行きますか?」
蘭子は意外そうに彼を見た。仕事先のスケジュールが押して、蘭子たちのスケジュールが三〇分ほどうしろへ送られたとき、“早めに着くぶんには、まあ、あまり問題ないでしょう”と彼はいっていたのだが。
「すみません、言葉が足りず……。“遅刻するよりは早く着いて待つほうがいい”程度の意味でした」
急に遠慮がちな目になった蘭子に思い当たる節を訂正する。真紅の瞳はころころとその輝きを変えるもので、銀の髪をたなびかせて自動ドアをくぐり、極彩色の空間へ飛びこんだ。モノトーンにこそ親近感のある青年は玄関マットの上でたじろいでしまうが、蘭子は嘆息しながら目当ての売り場へかけていく。
「お嬢さま、お待ちください」
せまい棚と棚の間をすり抜けて青年は蘭子を追う。ひとがほとんどいないのは彼にとって幸いだが、体格の大きさが思うようには進ませてくれない。右によろけ左にぶつかりながら、ただ蘭子の迷いのなさに舌を巻くばかりだ。こうした店にはなにか、女性にしかわからない誘導があるのだろうか? いよいよ見当のつけどころさえ混乱する青年の視界の奥で、蘭子はようやく立ち止まった。
「フッ、煩わしい太陽ね」
その挨拶は青年へでも棚にうずたかいハロウィングッズにでもなく、そこの先客がために発されたものだ。
「あら、おはようさんどす」
「お、おはようございます」
挨拶を返した着物の少女、小早川紗枝は両の手にカボチャをつかんでいる。青年も滑りこみではあるが間に合った。紗枝は両手のカボチャ……正確には表情のことなるジャックオーランタンの大きいぬいぐるみに、頭を下げさせた。おなじ規格のものながら、表情は細かくちがう。左に持つのは口がひとまわり大きく、右は際立って垂れ目である。
「西なる都の姫君、其方も煉獄の灯火に惹かれたか」
「ええと……」
「小早川さんもハロウィンのグッズを買われるのですか? と……」
蘭子の言葉にかしいでいた三つの顔が、説明をうけて、得心して頷いた。口の大きいほうは細かく、垂れ目のほうは鷹揚に、紗枝自身は小さく二回。
「うちとこのプロデューサーはんがこれとよう似た西洋座布団を買うてきてくらはりましてんけど、また友紀はんがなあ……」
紗枝は姫川友紀、輿水幸子とともにKBYDというユニットを組んでバラエティを中心に活動している。三人ともマイペースでなにかにつけウルサイくらいだと、青年は担当の愚痴を聞いたことがあった。聞き流しがちな彼だが、紗枝も“ウルサイ”に分類していたのが意外で、それはよく憶えている。
「なにかありましたか」
「すっかり気にいらはってもうて、ずっと離しもせんとぽんぽん放って遊んだはるんどす」
離さないのか離すのか。光景を一瞬、青年は想像しそこねた。
「けど、ほんまは座るもんどっしゃろ? うちも座りたいし、うふふ。そやし、もひとつありましたらええかなと」
それでクッションを吟味していたと紗枝はいう。もこもこした見た目で青年はぬいぐるみとばかり思っていたが、それはクッションだったのだ。
「其なる灯火の依代を共にする契りを交わしては?」
「ええと、交代に使うというのは……」
紗枝の表情に翳りがうかぶ。友紀への気おくれというよりも、気づかわしげに悩む顔である。
「まったく、あないな見た目は子供、おつむも子供、おっさんみたいなもん食べて、口を開けば野球の話、はあ、取り上げてやってもかましませんけど、なんやなあ……」
クッションに視線を落として、ふかく溜め息をついた。
「あの、あまりそのように……」
「はい、はい、わかっとりますえ。たまにはあかん子になりたなるときもあるんどす」
「阿寒湖でも摩周湖でもいいからはやく選んでくれないか……」
どこに潜んでいたのか、KBYDの担当プロデューサーがあらわれた。彼は手でちいさく蘭子と青年に挨拶し、紗枝の話を補った。
「いやね、たまには時季モノを一個くらいと思って買ってったのさ。そしたら紗枝が見つけて座って茶あ飲んで、本取ってくるって席外すだろ。次にもどってきた友紀が“あたしいっちば~ん!”って飛びついて。タイミングよくはいってきた幸子と投げ合いはじめてさ? 紗枝は行き場なくしてションボリってわけよ。しかも“これいいにおいがするね”とかいうから紗枝のやつ、さっきまで座ってたの返せとかいえなくなって」
「プロデューサーはん、決まりましたえ」
小早川紗枝は迷っていたどちらでもない、牙がとくにギザギザのジャックオーランタンを顔の前に掲げてのたまう。短い悲鳴のような返事をすると、紗枝のプロデューサーはジャックオーランタンの先導についてレジへ行進していった。
「さあ我が友よ、我が煉獄を渡る供に相応しき魔獣を示せ!」
蘭子はといえば、オレンジと黒と紫のマーブル模様の前に立ち、似合いのひと品を青年に求めた。目移り以前の問題を抱える彼は平衡感覚を狂わせて、ぬいぐるみやクッションの山の横に立てかけられた、おそらく売り物ではないだろう棺桶に手を伸ばす。
「死せる者の揺籠に供は務まらぬ!!」
「す、すみません」
蘭子の体当たりで遮られた手を首筋に逃げさせる。目を大きくデフォルメされた骸骨のカカシにも手を伸ばしたが、不気味すぎると強く拒絶されてしまう。なんでもいいといったのに。青年は女性へのモノ選びの難しさをあらためて噛み締め、はたと気づく。なんでもいいとはいっていなかった。ジャックオーランタンでは安直に思え、堕天使のお供にコウモリは目新しくもなく、黒猫ならば先日チャームを一つ贈ったばかりであった。
「こちらなどいかがでしょうか」
魔法使いの恰好をした、白い幽霊のぬいぐるみを青年は差し出した。
「お、おばけ……」
たじろぎはしたが、愛嬌のある顔立ちにほだされたか、おずおずとだが蘭子は受け取った。両手を伸ばして鷲掴んだ、その姿勢のままで固まっている。
「し、しかしおばけは、その、夏の夜のものというか、もう雪の精も近づきつつある折ゆえ……」
「幽霊は夏、との向きはありますが、それは芝居小屋のお盆の都合のためですので……。お盆にも帰れない奉公人だけでも芝居小屋を営業するために、演技も設備も求められない怪談話が選ばれたことで伝統になったそうです」
「む、むう……。もっとたのしいはなしにすればよかったのに」
「肝が冷えるとはいいますが、ほんとうに涼しくなることはまれでしょうし……」
「そうでもない!」
「失礼しました。もっと古くは“幽霊の正体見たり枯れ尾花”というように、この時期にも……むしろうら寂しい時期こそ幽霊の時期と思われていましたし、ハロウィンの本家のイギリスに行けば、幽霊は冬のものだそうです。もっともあちらの幽霊は、この土地には由緒があるんですよ、という箔づけ程度のものですが。日本でも足のある幽霊が、雪の上に足跡だけつけて行く描写のために冬に出たり……」
青年は口を噤んだ。幽霊話にこもった熱を瞬時に、短いうめきですべて吐き出す。だがときすでにおそく、蘭子は青い顔をして震えていた。幽霊のぬいぐるみを抱きしめて。
「す、すみません神崎さん。もっとかわいらしいものにしましょう」
「い、いや、これで、これでよい」
とぼけた笑顔の幽霊を、赤い瞳がじっと見据える。抱きしめるというより抱き潰すくらいに力いっぱい、蘭子は幽霊を自分の胸に押しつけた。
「よろしいんですか?」
「よ、よい。其方の欲望のままに……」
二人は余らせていた時間をほぼ使いきって現場にはいった。リボンのかかった丸いものをだいじに抱える蘭子を見た共演者が、めずらしそうに声をかける。プロデューサーからもらったと素直に答えかけて詰まった蘭子に代わり、青年が簡潔に返事をした。
「ファンからのプレゼントです」
入り待ちかあ、と笑いながらそのタレントは去っていった。蘭子は反対に怪訝な顔だ。
「なにゆえ偽りを……」
「嘘ではありませんよ」
目を丸くした蘭子は、身を翻すと薄暗いスタジオの廊下を先へ急ぐ。いきおいよく振り回された縦ロールが青年の胸を叩いた。
「その容は巌が如くして、宿りしは邪鬼の叡智、禁断の果実を貪り、聖譚曲を地に響かせ我を苛む……」
「あの、神崎さん……?」
彼女の言葉は幾分わかるようになってきた彼ではあるが、その心の内まではまだ見えないことがある。彼女の赤い瞳に映る世界をこの目でのぞけたらと思うこともしばしば、まさにいまもそうであった。戸惑う青年の、わずかに丸みを帯びた三白眼を、蘭子は向き直って見つめる。
「我が友よ、なおも心に高潔はありや」
じっと見つめ返し、彼は頷いた。険しかった眉が穏やかになるのを見届けて、青いリボンの紙包みに声をかけた。
「夜は私はついていられませんから、悪いことが起こらないように、神崎さんをたのみますよ、幽霊さん」
蘭子はむくれてみせたが、どこか楽しそうだった。
(了)