黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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とくていのもでるはいません。


氷雨の街  ゲスト:渋谷凛・本田未央

「長い……長い雌伏の時であった」

 

 万感の想いをこめ、深紅の瞳が静かに開く。

 

「ついに取りもどしたね……私たちの城」

 

 閃緑の眼はいとおしげに、主を失って長い広間をめぐる。

 

「嗚呼、夢にまで見たこの絶景~! ではでは歓びの歌をば一番」

 

 栗色の跳ねた髪が揺れ、黒と銀の二人の前に躍り出た。

 

「気が早いよ」

「うむ、我らが同胞が揃わぬうちは……。だが、フッフフフ、猛る魂を鎖すことなど叶わぬもの!」

「おやおや? 魔王さまは我慢弱くておいでですかな~?」

「ふふっ、私も気持ちはわかるな。ふふふっ」

 

 三人の高笑いが広々とした空間に(こだま)した。真昼の太陽を覆う暗灰色の雲からは淀み透けた手が無数に伸びて、びたびたとはげしく346プロダクションの窓を叩く。その上には青空も星もあるといったところで、この天気は喜ばしからぬものであろう。

 

 三月も半ばというのに寒がこぞって帰省してきて、東京のコンクリートジャングルが噴き出す熱気を征服してしまった。地上三〇階のこの部屋は、上半期いっぱいまで魔王夫妻と宮廷道化師……もとい渋谷凛、本田未央、そして神崎蘭子が使っていたものだ。より正確には彼女たちを含めたシンデレラプロジェクトが、である。下半期中に成果を出さねば解散とまで追いこまれた新人アイドルたちがついに成果を認めさせ、この部屋にもどる権利を得たのは、ひと月ばかり前のことだ。だが引っ越しなおす時間もなく、部屋はガランドウのままである。

 

「神崎さん、そろそろ発ちませんと」

 

 小芝居に夢中の魔王蘭子に、暗がりから現れた大男が腕時計を示した。彼女たちの担当プロデューサーである。

 

「む? も、もうそのような……」

「ありゃー、ほんとに一曲やる時間もないかー」

 

 おどけていた未央がぴしゃりと自分の額を打つ。

 

「ごめん、時間取らせちゃったね」

 

 凛はそういって緑の黒髪を揺らし、蘭子を青年のほうに促した。発たねばならぬのは蘭子とその保護者たる彼だけで、凛と未央はただ蘭子をここに誘って遊んでいただけだった。

 

「急いで急いで!」

「未央が引っ張るからだよ」

「しぶりんだってノリノリだったじゃーん!」

 

 じゃれあう二人へ挨拶も手短に、蘭子と青年は持ち物の確認をして部屋を出る。

 

「頑張りなよ、蘭子。またみんなで、この部屋で待ってるからさ」

 

 背中に飛んできた今生の別れのような台詞に二人が振り向くと、すでに未央が凛をからかう段になっていた。

 

 きょうは新作ラジオドラマの収録。実績はいくつかある蘭子だが、それでもデビューしたての新人である。時間ちょうどどころか遅刻などはできぬ。足を滑らせないよう、蘭子のボリューミーなゴシックロリータが雨に汚れないよう、とくに青年が気をつかいながらタクシーを拾い、現場へ急いだ。

 

 その甲斐あって七分前に滑りこみ、蘭子を預けてさらに別件での仕事を終えて、……青年はカフェの窓側のカウンター席にいた。蘭子をスタジオに迎えに行くまでの、わずかながら空き時間だ。雨はやむ気配をみせず、風はその強さを増していく。

 

 知らず、溜息をつく。あしたは晴れて気温も上がるという予報を疑わしげに、青年は空を見上げた。にぶい色の単調な空が鋭い三白眼に眠気を注ぎ、まぶたを重くさせる。涙袋のしびれがこめかみまで広がり、じわりときえていく。スマートフォンが鳴った。凛からの電話だ。

 

「あ、プロデューサー? いま空き時間だよね?」

「はい、もうじき神崎さんを迎えに行くところです」

「そう。送るの間に合った?」

「はい、問題なく」

「よかった、あんなことやって遅刻させたら可哀想だからさ」

 

 電話口の奥で、未央と責任の所在をぶつけあうのが聞こえる。……もちろん、ふざけているのである。

 

「突然でしたね、プロジェクトルームに行こうとは」

「うん……。奈緒から聞いたんだけど、そのラジオドラマの監督、すごく指導が厳しいんだって」

 

 青年はその名前を頭のなかから引いた。凛の友人で、アニメ作品に造詣の深い少女だ。今作の監督はこれまで多数のアニメ作品を手がけているので、彼女の情報網にも引っかかっていたのだろう。

 

「叱られすぎてストレスで酒浸りになったひとがいたとか、頭にきて“目の前で死んでやろうか”って思ったひともいるとか」

「そんなにですか……」

「だからちょっとは励みになるかと思ってさ」

 

 あの深刻なエールのわけに、青年は納得できた。

 

「きっと、素晴らしいお守りになったと思います」

「オマモリ……。ふふっ、まあ、そうかもね」

 

 押し殺しきれてない笑いがまだ聞こえる。

 

「未央はなんかいうことある? もう切るけど」

 

 遠くに未央の戸惑う声を二、三秒流して、通話はブツリと切れた。不安の虫にせっつかれ、青年は席を立った。

 

 

 

 仕事を終えた蘭子は、塩した青菜を体現していた。笹の小舟のような眉も長いまつ毛も見事に下がり、情けなく開いた唇の隙間から吐息とともにうめきが漏れる。死を決意するほどの傷は負わなかったらしいことは蘭子にも青年にも幸いである。少し安心した自分に気づき、青年はかぶりをふった。

 

「お疲れさまでした、神崎さん。さ、346にもどりましょう」

 

 ゆるく巻いたツーサイドアップを力なく揺らし、蘭子は青年の袖をつまんだ。

 

「すこし、歩きましょうか」

 

 虚ろな赤い瞳が上がる。“この大雨に?”といっているのだろう。

 

「駅ビルでなにか甘いものでも」

 

 彼にいえる最大限の甘言は有効だった。曇りきっていた少女の目に生気がもどる。しかし蘭子は二つ縛った髪を振り回し、またうつむき気味に、言葉をこぼす。

 

「憐憫など無用、闇に生まれし姫は傷を背負いその力を増す……」

「すみません、あなたの打たれ強さ、見くびっていました。では参りましょう」

 

 外の雨はいっそうはげしく、ぼたぼたと舗道に落ちている。もはや径が大きいといえど、傘を差しても濡らさずに済むのは胸から上程度のものだろう。タクシーを拾うまでの、五分のうちであっても。

 

「失礼します」

 

 青年はコートを開き、左身ごろに蘭子をくるんだ。戸惑う短い声が胸許に上がる。

 

「これなら濡れずに済みますので」

 

 数歩の距離だが、きっと心に降る雨にしとどに濡れただろう蘭子を、この氷雨に打たせるのは忍びなかった。戸惑う声は静かになって、わずかに身ごろが引っ張られる。

 

「わ、我が友よ……。その、先の……甘美なるいざないだが」

 

 遠慮がちに、しかし強く、赤い光が照りつける。

 

「やはり、受けようと思う。下僕の雅量を受け止めてこその魔王よな」

 

 魔王蘭子は、下僕の懐におさまりのいい場所を探す。満足げに鼻を鳴らすのを聞いて、青年は歩みを促す。ゆっくり、足並みを合わせながら、雨に煙る通り沿いを駅へと。

 

 雨音がすこし乾きだし、二人の目は街並みに転じた。冷えきった空を裂き注いでくるのは、白くまだ重みを感じる……。

 

「凍てつく女神の涙か……」

「三月の東京に、雪ですか……」

 

 みぞれのようなものとはいえ、雪は雪にちがいなかった。自分では晴らすこと叶わなかった蘭子の顔を、たやすく色めかせてしまったにび色の空に、青年は眉根の寄った視線を鋭く投げかけた。

 

 

 

(了)

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