黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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支えるもの  ゲストなし

 真夏の太陽は空を青く塗りつぶし飽きたのか、少しずつ白の粒子を散らして縁の方からベージュ色に染め替え始めていた。己の短い影を見下ろし、青年が黒いベルベットの日傘の柄を握りなおす。すっかり手に馴染んだ、女物の細いハンドル。

 

「出てくるのが少々早すぎましたね……」

 

 小さい日陰に、熔かした銀で染めた絹の房が揺れる。斜め上から見るそれは、彼にはもう見慣れた光景だ。花の香りを含んだその銀の下には、名工の彫った大理石の白貌が血色を透かし、透きとおる真珠に飾られている。

 

 神崎蘭子、彼の担当する一四人の“シンデレラ”の一人は、黒いマスカラをなんとかそびえさせ、紅玉の瞳を斜め上へ向けた。

「うむ、太陽の呪いが……」

 

 答える声に覇気がない。それは暑さと陽射しのせいだけではないだろうことを、青年は察している。ここ、銚子半島を走る私鉄が開催する夏のイベント、“お化け屋敷電車”をリポートする仕事で訪れたのだから……。

 

 停留所までの短い道中、蒸し焼きの歩道に、黒のストラップシューズの音はどこかくぐもる。

 

「凍れる雷の馬車よ、グラズヘイムの風をもたらせ……」

 

 それこそ幽霊のような足取りで、蘭子はバスの後部、車道側の二人がけ席へ向かう。すぐに座らないのは、窓側に大柄な青年を着かせるためだ。体の色素が少なく、

暑さにも陽射しにも弱い少女の自衛であり、新人とはいえアイドルである以上、なるべく人目を避ける意図もあった。青年が少し窮屈に座ると、蘭子は一人ぶん弱の空間に行儀よく小柄な体を預けた。

 

 少女一人、青年一人、それに老人を数人乗せたバスは利根川沿いを半島の突端へ走る。蘭子は通路と空席越しに、コンテナの詰まれた河口域を眺めていた。

 

「ティターンの寝台か」

 

 歳相応の好奇心を輝かせる視線の先では、利根川の河口を一直線に赤い帯が横切る。青年はいつものように、知識のかぎりで蘭子に景色を教える。

 

「銚子大橋ですね。あの対岸は茨城県です」

「茨城……」

 

 声のトーンが下がる。以前、彼女のアイドルとしての名義“ローゼンブルクエンゲル”を“茨城の天使”と友人に揶揄されたことは、彼女との友情の手前、表立てはしなかったがやはり不満であったらしい。その友人、心霊モノを趣味とする白坂小梅もこのロケに興味を示していたが、“怖がらないから”を理由に制作サイドから門前払いされた。それで非常な怖がりの蘭子にオファーがされた極端さは、温和な青年もおおいに眉をひそめたものだった。

 

「橋の長さは一・五キロで、川の橋としては日本一だそうです」

「大和に無双の紅き糸か……」

「利根川そのものも日本一ですね」

「牢獄の金糸雀がさえずっていたわ。恢恢たる龍脈を束ね不死の灰に塗れたこの地の命を支える、と」

「きちんとお勉強もなさってるようで安心しました」

 

 頬を桃と膨らせ、短く整えた眉を力強くして蘭子が振り返る。青年はそっと銀の細い髪を撫でた。バスの空調ですでに乾いた銀の髪は指と指、指と爪の間をくすぐってはこぼれ、梳く手こそ心地よくなるさざ波だ。怒りを鎮めるのも、純粋に褒めるのも、心の棘を抜くのも。三つまとめてしまおうかという己が横着さを青年は笑う。……手を離すときに、名残惜しそうにしていたのは赤い目ばかりではなかった。

 

 

 二人は銚子ポートタワーの前でバスを降りた。

 

 長年の海風にガラスの曇りは強く、タワーからの眺めに蘭子は物足りなかったようだ。近くのレストランでは、醤油のアイスを物珍しさから頼み、想定以上の醤油味に苦戦する。なんとなく見越していた青年のバニラを貰い、その甘さにご満悦。醤油アイスを引き取った彼は、なるべく表情を一定にして(彼には不要な努力という向きもある)完食に努めた。

 

 ふたたび車上のひととなり、銚子半島の突端を二人は南へ、関東最東端、犬吠埼へ向かった。仕事は夜になる前から始まるが、いま真昼からはまだ時間がある。二時間ものあいだ、一両編成の電車でオバケ屋敷と対峙させられる蘭子のための、これは時間である。

 

 犬吠埼灯台は緑と明褐色の崖の上で白い巨体をまっすぐに、青も鮮烈な空を裂いて突き立てている。太陽の光を鋭く反射する突端を見上げ、蘭子が日傘の縁越しに嘆息した。

 

「螺旋階段は九九段あるそうです」

(きざはし)の数など我にはかかずらうことのないことよ」

 

 “九九段じゃなかったら怖いから数えない”と理解して、青年は頷いた。しかし頂上からの眺めにはおおいに興味があったようで、青年に先んじて階段を登る蘭子である。女性と同道するときの礼儀として、階段は男が先に上りあとから下りる。その機会の一つを青年は失う形になった。

 

「神崎さん、やはり私が先に参りましょうか」

「い、いや、構わぬ。だがア・バオア・クーを振り落とさぬよう……」

 

 蘭子はスカートの尻を抑えて、アヒルのように階段を踏んでいく。先の礼儀といまの青年の言葉の意味するところはこういうことである。

 

 頂上の小さく重い扉を開くと、強烈な風が吹きこんでくる。蘭子は細い体を見えざる激流にねじこみ、どうにか灯台の外周をとりまく手摺をつかまえた。

 

「わ、我が友よ、我に翼の庇護を……!」

 

 声は紅唇からこぼれるはしから風にさらわれていく。その向きは定まらず、風避けになるにはうしろからかぶさるほかなかった。それでも正面からの風は防げぬ。ときおり銀色の絹糸が逆巻いては彼の顔をくすぐる。

 

「一巡りしてみましょうか」

「う、うむ。エーギルの館にかかる弧光を瞳の贄となそう」

 

 犬吠埼灯台の扉は丘側にあり、そこから狭いテラスを

半周すれば、太平洋に囲まれた孤島に立ち尽くす錯覚へと落ちていく。はるか眼下でクリーム色の荒磯に白波が砕ける音は、硬い床にあるはずの脚を掬い、心を寄る辺なき紺碧の宇宙へ引きずりこむのだ。

 

 蘭子の細い肩を掴む手に、かすかな震えが伝わってくる。青年は少しだけ身を乗り出し、白く儚げな身体を包んだ。銀の髪がシャツ越しに胸をくすぐる。

 

「ご心配なく。私がついています」

 

 返事の言葉はなかったが、海抜五〇メートルのあらしま風に冷えた手で強く彼の手の甲を掴むと、うつむきがちだった白銀の頭を上げた。青年は赤い瞳の行方を、空と海とを隔てるゆるやかなアーチに追う。アーチの上、ベージュがかった淡い青を泳ぐ、平たく黒い影が見えた。

 

「神代に生きたものを運ぶ方舟か……」

「東北の港へ行くのでしょうね」

 

 二人で見はるかすその石油タンカーは、じっと見ていてはわからない速さで北へ動いている。

 

「方舟と我らを隔つ時空はいかほどか」

 

 その遥かな船影と外洋の波のほかに動くもののない孤島の景色に飽きたのか、蘭子がそう尋ねた。

 

「水平線の上ですし、簡単に計算しますが」

 

 水平線までの距離は、目の高さの平方根を三六〇〇倍したものとほぼ等しい。灯台の五〇メートルに真面目にも身長を加え、およそ五一メートルの平方根を青年は考える。

 

「およそ二五キロメートルといったところですね」

 

 蘭子の尊敬のまなざしに、青年は首のうしろをかく。平方根を七で妥協した、ばつの悪さのためである。

 

 

 

 白鉄と烈風の孤島から関東平野の端に帰ると、太陽の白色がややオレンジを帯びはじめていた。それでもまだ、ロケの用意を始めるには早い。そう伝えられると、銀の髪と真紅の瞳は二つの青のはざまを巡り、おごそかに返事を告げる。

 

「ならば星の鼓動を聴かん」

 

 太陽より白いフリルの袖を広げ、パステルブルーの小さい爪はまっすぐに、浜辺……君ヶ浜海岸を示す。犬吠埼のすぐ北側にある君ヶ浜海岸はごく一般的な海岸だ。黒っぽい砂に、そう広くはない浜。夏休みがはじまって間もないためだろうか、ひとはほとんどいなかった。寄せては返す外房の波は耳に心地よく、かすかな風と這い上がってくる香りはあまじょっぱい。

 

「我が友よ、アクア・ウィタエの洗礼を、う、受けたいのだが……」

 

 ストラップシューズ越しに砂を踏むだけでは我慢しきれなくなったのだろう。おずおずと見上げてくる少女に、青年はかばんの中身を示した。

 

「スポーツタオルはありますから、足首まででしたらいいですよ」

 

 喜色をたたえた声とともに、蘭子は黒い靴を脱ぎ、そこへ白い靴下を押しこんだ。ハンドバッグも砂上のものとして素足の感触に歓声を上げ、まぶしい笑顔の花を咲かせる。危うい足取りで波打ち際へ行くと、濃い色の砂の冷たさに、短く楽しそうな悲鳴を上げた。

 

 波の冷たさにも二、三度たじろいで、足首までを白波に預ける。目を細めて見守る青年に手を振る姿は一四歳よりもあどけなく見えた。引く波に足の下から砂をさらわせる遊びに、蘭子は夢中になっている。ほのかなピンク色を浮かべるその白い肌を、青年は日傘の丸い影に隠した。意外そうに蘭子が、丸くした目と口で見上げる。

 

「友よ、アキレスの生命線は……」

「脱いできました。神崎さんの赴くところへオトモをしなければ、いる意味がありません」

 

 スラックスの裾を捲り上げるなど、何年ぶりのことだろう。いや、海自体、もう久しく触れていなかった。波にさらわれる砂が足の裏にしがみつくくすぐったさが、感慨を彼につれてきた。薄くない足の皮膚が体温と水温の釣り合いをとるのに、さして時間はかからなかった。

 

「開闢以来のことよ」

 

 はにかんで、蘭子が見上げた。

 

神祖(かむおや)たる母に触れるのは」

「はじめて……海が、ですか?」

 

 蘭子の言葉を声に出して確認したのは、海に触れるよりもずっと短い断絶であったが、やはり久しぶりだった。小さく、しかしはっきりと、蘭子は頷いた。

 

「太陽は白き我が身を呪う……。天なる神々はその眼差しから我を隠すため、エーギルを疎んだのだ」

「すみません、配慮が足りませんでした」

「フッ、黒き魔人の守護がある。それでなにが恐ろしいものか」

 

 足にはねた飛沫が二人の顔のあいだまで上がり、重力の手に引かれて海へと帰っていった。よれていたネクタイと襟を直して、過ぎたる光栄に発そうとした言葉は、しかし、白妙のどこか大人びた笑みに塞がれてしまった。

 

「故にいましばしの人魚の刻を……」

「はい、心ゆくまで」

 

 バスが来るまでというべきだったかもしれない。いいきってから後悔したが、波がすぐどこかへ洗い流していった。蘭子がこの時間を楽しく過ごすことができればいい。このあとに控えるものを思い、表情を少し引き締める青年だった。

 

 いまふたたびの強い波がしぶきを蘭子の頬まで跳ねさせた。拭った手に紅唇を寄せる。鼻腔にざらつく塩の味を青年は思い出した。小さい舌を突き出して塩辛さを吐き出そうとする蘭子にハンカチを勧める。……さすがに青年のは差し出さず、蘭子自身のレースのものを使うようにと。

 

 しばし口をもごもごさせていた蘭子は、背筋を伸ばしなおす。スカートの裾をつまみ、いたずらっぽい顔を見せて銀の髪を、ブラウスのミルクホワイトのリボンを、黒いスカートの豊かなフリルを、さざ波の音のなかに翻して駈け出した。

 

「いかな茨にも我は囚えられ……」

 

 ……正確には、駈け出そうとして、足をもつれさせた。もがく腕を大きい手がつかみ、引きもどして胸で受け止める。はずんでまた海面へ倒れんとする身体を支える腕が、厚手の固い布越しの、張りのある弾力を感じた。

 

「立てますか」

 

 恥ずかしく思ったようで、身体をわななかせうめきながら、蘭子は白い脚を泥に突き立てた。自力で立てることを確かめ、青年はそっと手を離す。

 

「波打ち際を走るのは、水着のときにしましょう」

「乙姫の羽衣……」

 

 学校指定のではない、好みのデザインの水着と写真でしか知らぬはるか南の海に、少女の心は飛んでいた。危なっかしいその肩に、青年の手が添えられる。

 

「真珠を踏みしめ、満ちるは水宝玉。天青石の輝きのもとに……」

「いずれ、海での仕事を見つけてきましょう」

「うむ、其方の黒き翼で、我を導くのだ」

「翼、ですか……」

「そうとも」

 

 顔ごと見上げる、確信を充たした両眼は、日傘の影に反響する金波を従えて美しい。場所が場所であれば彼は跪いてしまったかもしれない。

 

「私にも翼があるのなら、いいですね。そうしたら、どこまでもあなたと……」

 

 あなたと……? 思いがけぬ言葉を発した喉を、青年は意識的に押し留める。

 

「我と、ともに……。ともに……」

 

 蘭子もまた、うつむいて声を詰まらせた。青年はひやりとする波の寄せて返すのを、百も数えたろうか。片手で触れる白い肩はまだ熱い。深い深いルビーの光が、まっすぐに彼の目を射った。

 

「ずっと、傍で護ってほしい……」

 

 消えいりそうな声だった。青年は幻聴と思った。願望が潮風をそう震わせたのだと思った。だが赤い唇はたしかに、彼の目にも、そう動いたのである。……日傘を持つ手が、ひとりでに蘭子のデコルテラインを抱き寄せた。

 

「ずっと、あなたのいちばんの支えでありたいと思っています」

 

 水平線を見つめてつぶやく。返事は潮騒にまぎれて聞き取ること叶わなかったが、細い顎の触れた腕がたしかに受け取った。近づいたうなじの香が、外洋の臭気を一掃する。

 

「ちょ、ちょっと、苦しい……」

 

 声は遠慮がちながら、青年の全身を心臓ごと跳ねさせた。あやふやな言葉で謝りながら、腕の力を抜く。ごく藍がかるゆるやかな太平洋のアーチが、青と白の鼓動を送りこんでくる。

 

「そろそろ、もどりましょうか」

 

 こんどははっきりと、満足気な返事を蘭子はした。下ろされた青年の腕に潮風が冷たい。二歩だけ海の深くへ進んだ蘭子が振り返り、歯を見せて笑う。

 

「いまこの身に魔力は満ち満ちた。ラグナロクの前夜祭に、夜の一族の尖兵を打ち果たしてくれようぞ!」

 

 銀の髪をそよがせる裸足の女神は、無限に広がる空色の翼を背負っていた。

 

 

 

(了)

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