黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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嵐の春に  ゲストなし

 

 咲きかけの梅の鮮烈な香りを、南風が低彩度の街に吹き散らしていく。神崎蘭子は紅の瞳で長々とつづく赤信号を見やり、あわてふためく鳥と化した黒の日傘をたたんだ。

 

 これは春何番だろう? ぼんやりした感想と一緒に吐き出した溜息を新たな風がさらい、濃い銀色の髪を乱す。手櫛で整えて落ち着く間もなく、次の風が少し生地の薄い春物のドレスに、黒いフリルの荒波を立てた。

 

 春の嵐の絶え間ないいたずらに、蘭子は顔にかかるセミロングの髪を抑えた。故郷の熊本にいたころのこの風の時期には、ただ顔をしかめ、憂鬱な気分で、出歩きを控えていた。好んで着るゴシックロリータのフリルが崩れてしまうし、お気にいりの日傘を差していられないからだ。

 

 346プロダクション所属の新人アイドルとして上京したての二年前の春も、憂鬱に変わりはなかった。それでも出歩くようになったのは……。少女はごく淡いアイシャドウの瞼を下ろした。顔で唯一漆黒の、長いまつげが左右に振れる。あの春は、はじめての東京、あこがれの原宿で、木の葉よりも気持ちが高く舞い上がっていて、かつてなくアクティブだったのだ。

 

 そして去年。少女は風に膨らむ胸許のドレープを白い手で抑えると、桜の唇を引いた。まったく無意識の微笑だった。

 

 

 

「これでは、日傘が差せませんね」

 

 一年前の春、風の日に、蘭子は斜めうしろに心地よく低い声音を聞いていた。声の主、一回り以上も歳の離れた、蘭子を包み隠せそうなほど大柄な青年の、託された黒い日傘を閉じるバネの音が風のうねりとともに、色づく耳朶に届く。

 

「猛るゼピュロスは蝙蝠の空を奪うか」

「早めに落ち着いてもらいたいところです」

 

 頼もしい気配がまうしろに、半歩だけ近づいたのを蘭子は風の流れに感じた。当時はゆるめに巻いたツーサイドアップだった髪は、もどされた耳のうしろで静かに揺れている。

 

「だがそのときは、春の女神が冥府を去るときぞ、友よ」

 

 歳のわりに豊かな胸を反らすと、頭の先が友の熱に触れた気がした。青年の脚の間を抜け、少女の脚にまとわりついて、また風が通りを駆け抜けていく。

 

「春はまだ、もう少し先です。神崎さん」

 

 背後の声は風のもたらした湿度を含んで、銀色の頭上に注いだ。回りこんだ西風の神の指先が二房の髪をかき乱し、少女は歩幅を狭めた。厚い胸郭が頭にあたり、重心を失っていた脚がよろめく。

 

「す、すみません」

「よ、よい。我が庇護たる漆黒の翼よ……」

 

 太い腕から胴を解き放たれた蘭子は、向きを変え正面から吹きつける突風によろめき、たくましい胸にふたたび顔を預けた。細い肩に感じるいかつい指はふだんよりも痛く、しかし不思議とそれが快いのだった。

 

「風除けくらいにはならせてください」

「よかろう。我が征く覇道の黄塵を晴らせ」

 

 鼓膜をくすぐる声にささやき返した。短い返事で進み出た広い背中は少女の視界を埋めてしまったが、道が見えなくなったという思いはなかった。揺れる前髪の向こうでときおり振り返る逆三角の三白眼に、頬を上げてみせながら、黒のブーツはレンガ道を軽やかに進む。

 

 ただ、春の風は気まぐれで、交差点では真横から、ビルの谷間では渦を巻き、一本道には前にうしろにと向きを変え、そのたびに青年も歩く位置を移った。自分よりも一〇数回、この季節を多く過ごしたはずの友の、その慌しい様子に蘭子が笑い、青年もはにかんで頭を掻いた。

 

「思うようにはいきませんね……」

「天に縛られし哀れな太陽とは神格がちがったわね」

「あなたのためにもっと、できることがあればいいのですが。残りの時間は、さほど……」

 

 青年は肩越しの視線を切って、かぶりを振った。蘭子もまた、後半の言葉を風に飛ばされたことにして、下唇を噛む。

 

「……まだ、楽園は門を開かぬ。ファヴォニウスの祝福にて、太陽のしずくを供物とせん」

 

 上ずり気味の声に、青年は顎に手をやると、ふだんの落ち着いた瞳で問う。

 

「喫茶店で、ハーブティー。ですか?」

 

 見上げる赤い瞳を外さぬまま頷く。青年は広い背中で答える。

 

「それでしたら、少々歩きますが、いいお店があります。ご案内しましょう」

「うむ。うむ!」

 

 細い体をはねさせるようにして、蘭子は何度も頷いた。上半身で振り向いて青年はそれを笑顔で受け止め、うやうやしく蘭子を春風のなかへと連れ出した。

 

 

 

 ……それからふた月が経たぬうちに、蘭子は新人アイドルの肩書を卒業……すなわち、青年の手を離れ、中堅と肩書を変えて独り立ちを果たした。所属が変わっても会社は変わらない。ゆえに、会おうと思えば彼にはいつでも会えた。だが去年の一年のように、ともに歩くことはないのである。

 

 春の大風をふたたび憂鬱に思ってついた溜息の飛ばされていく先を眺めて、蘭子は青信号が点滅していることに気がついた。一年分だけ遠くなった一日を思い返している間に、渡りそこねてしまった。赤くなった信号に困った視線を送り、すくめた細い肩に、うしろから声がする。

 

「なにかお悩みですか」

 

 快く低い声に、白い耳朶は色づき、喉は歌うように気取って答えた。

 

「旧き風に我が翼が乱れただけ、飛ぶに障りはないわ」

 

 背筋を伸ばしきったあとで、少女の意識は声の主に気がつく。振り返るのを待たず、耳と心をくすぐる声の主は言葉をついだ。

 

「頼もしいですが、こういう日は、風除けが必要でしょう」

 

 一年分だけ幼くかえった笑顔が、おだやかな逆三角の三白眼を見上げた。

 

 

 

(了)

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