◆二〇一五年八月一八日
黒き爪が永劫の傷を刻み、また一つ旧き時代の終焉を告げた。新たな歴史は焔をまとうこの鳥籠に育まれる。いずれ蠍の心臓となる日を夢に想いながら。
……なんて、冗談冗談。日記では<闇の言葉>は使わないって、自分との約束。たいていそのときの気分で紡ぎ出していて、しばらく時間をおいて読み返すと自分でもわからなくなっちゃうからだ。あのひとが私の言葉を専用のノートに書き留めるようになって、三ヶ月も経たないうちに二冊目にができていたから、よっぽどいつもちがう言葉を話してるんだと思う。
あんな熱心にしてくれてるあのひとが、もしこの日記を見ることがあったら、がっかりするのかな……?
きょうはすっかり舞い上がっていて、テンションの赴くままに書いてるけど、あとで読み返したらいちばん恥ずかしいページになるかもしれない。だけど、消したりごまかしたりはしない。自分の一日を偽らない。あのひととの約束だ。
わたしのテンションが高い理由は、あのひと、つまりわたしたちシンデレラプロジェクトを育ててくれてるプロデューサーと、この日記帳を買いに行ったからだ。
話の順番がめちゃくちゃだけど、ひとに見せるものじゃないしいいと思う。世のなかには、同時代のひとの悪口を後世のひとに読ませるために書くひともいるって飛鳥ちゃんはいってたけど、わたしはそんなつもりもないもの。
ええと、その顛末はこう。前の日記帳を使い切ってたことをきょうの仕事の帰りに思い出して、わたしは大声を出してしまった。
「なにか忘れ物がありましたか、神崎さん」
わたしの<闇の言葉>をよくわかってくれるのは当たり前になってきたけど、叫び声のバリエーションにも対応し始めたんだろうか。すごいけど、ちょっと怖いかもしれない。
「真白き史書を……」
②と書かれた黒いノートにペンを走らせながら、鋭い視線を下げて考えこむ。この真剣な表情がわたしは好きで、つい右から左から角度を変えて見てしまう。
まあ、ほんの二、三秒のことなんだけど。
「日記を、つけているのですか」
わたしは大きく頷いた。わたしの言葉が通じるひとはほかにもいるんだけど、会話になって嬉しいのはこのひとだけだ。日記を買い忘れたらきょうのぶんはどうしようなんて不安を、すっかり忘れていた。
「それで、日記帳がきのうで終わってしまったと」
「うむ、瞳の輝きに翳りはないようね」
「まだお店が開いている時間でしょうか」
また書き忘れていたけど、もう午後七時になっていた。わたしの叫んだ声はよっぽど深刻そうに聞こえたみたいで、“きょうのうちに必要なものでしょう”といって買い物についてきてくれた。
「このあとはたてこんでいませんし、急ぎの用事といえば夕飯だけですから」
それで、わざわざ汐留から原宿まで寄り道をして、この鍵つきの、真っ赤な日記帳を買ってくれた。ハードカバーみたいに、渋いブラウンの縁がついててかっこいい。
「其方もやはり闇の契約者ね」
「お眼鏡に適ったようでなによりです」
そういえばちょっと前に、もっとニコニコ笑ってみろっていわれてたけど、こういうときに自然とフッと笑うのが、わたしはだんぜん素敵だと思う。
「ひとの言葉を紙に写していると、そこに籠められた本当の意味が見えてくるようで、軽い後悔や喜びがありますね」
「そ、そういうものか」
わたしはぜんぜん考えたことがなかった。
「さすがは我が友にして師。隣と思えば遥かに遠く、掴み得ぬ黒き翼よ」
「いえ、私は日記を書かないので……。これは、神崎さんに教えていただいたことです」
わたしは二冊の語録を示されて、顔が赤くなるのを感じた。恥ずかしさじゃなくて。
このあとは、“こんどは私の用につきあっていただけますか”なんていって遠回りをして、初台のお店でハンバーグをおごってもらった。
かけるのは専用のソースって決まってるのはちょっとショックだったけど(ケチャップ派だから)、食べてみたらそんなのどうでもいいくらいおいしくて、二五〇グラムを食べきってしまった。まだお腹が重い……。
「いい食べっぷりでした」
なんて褒められると、やっぱり嬉しいんだけど……。
こんどは女の子らしさを忘れないように。それだけ反省。それ以外のことは、いいことばっかりで最高だった。
◆二〇一五年八月一九日
きょうはお仕事はなくて、レッスンだけ。終わったあとに、346カフェでおしゃべりをした。
「ああ~、もう来週から学校だよー」
莉嘉ちゃんの学校は二期制で、夏休みがちょっと短いらしい。それで不満をいってたら、隣の杏ちゃんがニヤニヤ笑った。
「関東の民はぜいたくだな~。北海道じゃもう二学期が始まってるのにさぁ」
「うえーっ! 夏短いと休みもなの? ……あっ、じゃあじゃあ蘭子ちゃん、熊本の夏休みって長い?」
「我が火の国にあっても、菊花の覚醒めとともに夏の幻は消えるわ」
莉嘉ちゃんはみりあちゃんをつついて、わたしのいったことを把握すると、溶けるようなリアクションをした。
「どこか、夏休みが長いところに行きた~い」
「魂の共鳴者よ……」
「夏休みが長いと、宿題増えるんだよ。上京したの失敗だったな~ってことのワースト5にははいるね、これ」
杏ちゃんは冷たい紅茶をすすりながら、悲鳴を上げてるわたしたちを笑って見てた。そのあとの話題は宿題の進み具合とか、みりあちゃんの自由研究とか。
……と、ここで思い出した。そういえば、職業インタビューのレポートっていう宿題が出ていたんだ。
◆二〇一五年八月二〇日
身近な働いている大人に、いまの仕事のことと、それを選んだ理由を訊いて、自分の感想を添えてB4のレポート用紙一枚にまとめること。
これが夏休みの宿題の、職業インタビューの課題だ。アイドルはだめですよ、と先生が念を押したのは、わたしみたいな生徒兼アイドルが質問攻めされないための配慮なんだと思う。
身近な働いてる大人といえばやっぱりあのひとだ。きょうのレッスンのあと、訊いてみようとして部屋を覗いたけど、電話の応対とか、ちひろさんが積んでいった資料のチェックとかで忙しそうだった。
あきらめて引き下がったときに、うしろから声をかけられて、わたしはつい飛び上がってしまった。
「そんなに怖がらんでもいいじゃないかね」
わたしたちの、なんていうか、お父さんみたいな立場のひと……今西部長はそういって笑った。怖がらせる気がないなら、正面から声をかけてほしい。
「なるほど、彼が美城に入社した経緯かね」
わけを話すと、部長はにやっとして訊いてきた。
「少々ショッキングかもしれないが、いいかい」
「邪鬼が出ようと蛇神が出ようと、揺らぐわたしではないわ」
それで、346カフェに場所を変えて、カフェオレと一緒にお話を聞いた。
「彼はじつは名の知られた不良だったが、わしを相手におやじ狩りをしようとしたのが運の尽きさ。バーンと一本背負いをきめてやれば手下は逃げ散って、更正するってんでしばらく仕事に付き添わせていたら、ひとの心のあたたかさ、笑顔の尊さを知ってこの道を志すようになったというわけだねえ」
「わ、我が友が悪鬼魔道に……?」
「人生色々、プロデューサーも色々だね。いや、まあ……」
「おやおや~? いま柔道の話してましたあ~?」
部長の言葉を遮って、早苗さんが話に割りこんできた。酔っ払って。聞き取りにくかったけど、利き酒大会を堪能して、酔い醒ましにあったかいものを食べに来たとか。
事情を説明すると、早苗さんが警官を目指したわけを、柔道との出会いからドラマ仕立てで(これはあとから来た、やっぱり酔ってる瑞樹さんの表現だ)話してくれた。さらに瑞樹さん、志乃さんたちも話し出して、収拾がつかなくなってしまった。止めに来た菜々ちゃんは“なんで一七歳になったの?”って訊かれて青冷めて逃げちゃった。不思議。
わたしにはまだ、言葉の本当の意味は難しいみたい……。
ともかく、目当ての話は意外すぎたけど、わたしの胸はいっぱいになった。いまからは想像もつかないあのひとの過去を知った高揚と、そんな荒むほどのことがあったんだっていう、出過ぎたことだと思うけど、心配や同情。
ちゃんと言葉にして書けるのはこのくらいで、もっとよくわからないものがわたしの胸にいっぱいある。ハーブティーを飲んでも、あんまり落ち着かない。
あしたは、あのひとからじかに聞いてみたいな。
◆二〇一五年八月二一日
きょうはラジオドラマの収録があったので、ちゃんと話を聞けた。だから、わたしはきのうの日記を消したくてたまらない。そうしないのは自分の一日を偽らずに生きるためだ。約束だもの。
「私がこの業界を志したわけですか……。高校のころ、グレていた私にひとの笑顔のあたたかさ、それを作り出す素晴らしさを今西部長は教えてくれました。ゆえに彼に憧れて、美城の門を叩いたのです」
「おお……」
「などと今西部長がいうのを聞かれたかもしれませんが、信じないでください。真っ赤な嘘です」
「えっ」
「はじめて会うひとをおどかして遊んでいるんですよ。“だから、わしの悪口をいったら、こいつが黙ってないぞ”と」
苦笑いのあとに語ってくれた真実は、部長から聞いたのとはもうまったくぜんぜんちがうお話で、でもいい話にはちがいなかった。
それはあえてここにも、宿題にも書かない。“部長の顔を立てましょう”と密約を交わしたからだ。あのちょっと悪そうな顔には、とてもドキドキした。それに、この話をひとに教えて、あんまり興味を惹くのもいやだから。
……わたしはけちだろうか?
追記:宿題には、早苗さんが警官になるまでのドラマを書くことにした。メールでOKをもらったから。
◆二〇一五年八月二二日
暇そうにしてる今西部長を見かけたから、おとといの文句をいってやった。
「おやあ、そうだったかなあ。歳を取ると記憶の整合性ってものが怪しくってイカンなあ」
なんて笑ってとぼけられると、わたしはついムキになってしまう。
「祭壇の琴の音は三〇枚の銀貨で乱れ、天動の白き地平は魂の雫に穿たれた。銀貨が血にまみれず上天の光を映したならば音色安らかであったものを!」
むくれて、目許がちょっと熱くなるのを感じながら怒鳴っていると、横からあのひとの声がした。
「今西部長、神崎さん? どうされたのですか」
部長がひとことで説明を済ませてしまったから、わたしは両拳を握りしめて睨んでるしかできなかった。
「なるほど……。すみません、私のことでお二人にご迷惑をおかけしまして」
「いいんだいいんだ、こんなに怒ってくれるなんていい子じゃないか」
「部長、差し出がましい口をききますが、そういうことをおっしゃられるのは」
「ん、そうだな。神崎くんもすまなかったね、君がそんなに……おっと」
老人は退散するよ、といって、部長はどこかに逃げ出した。たぶん、近くの公園の、喫煙スペースだ。
「神崎さん、あまり部長を怒らないであげてください。あんな与太でも考えがあってのことなのです」
わたしたちは休憩エリアで並んで座った。買ってもらったぶどうジュースは甘く冷たくて、わたしはちょっと冷静になれた。
「いかなる星図を描き出しているのか」
「あんな話を聞いたら、初対面のひとは私に対して緊張してしまうでしょう。それで、あとから“あれは嘘ですよ”といいに行くと、“なんだ、よかった、怖いひとじゃないんだな”と安心してもらえます。ふつうよりも親しみやすくなるわけです。緊張と弛緩のテクニックですよ」
「そう、だったのか……」
わたしはもうこのひとを知ってるから、ぜんぜん効果はなくて、悪いジョークにしかならなかったんだ。
「言霊をめぐる葉脈の、なんと細やかな……」
「……たぶん」
たぶん? それは絞り出すような苦い声で、じっと顔を見ていなかったら、このひとの口からこぼれたのだと気がつかなかったかもしれない。
今西部長に確かめればいいのにといったら、あのひとは困ったような笑顔で、こそっと答えてくれた。
「本当にただの与太だったら、悲しいじゃありませんか」
(抜粋ここまで)