黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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前中後編とも甘めにしてあります。



時は待たない(前編)  ゲストなし

 梅雨明けの喜びを歌うような、茜色の夕陽である。天頂は一瞬ごとに藍色を深くしていく。その二色をつらぬいて立つ346プロダクションの社屋の足許からは、スーツ姿が渋谷の駅へ、長い影を引いて三々五々に歩く。

 

 その黒い群れをつっきって走るものがあった。

 

 深い海色のネクタイを締めた、体格のいい青年である。すぐ正面の大通りでタクシーを拾い、後部座席へ転げこむと息も整えず行き先を告げる。

 

「サレジオ教会の前までお願いします!」

「お急ぎですね」

 

 “はい”と返事をしたつもりで、喉から少し高い音が出る。

 

「ひ……、ひとを、待たせていまして」

 

 運転手はルームミラー越しにおだやかな表情で、はっきり頷いた。もう六〇ばかりだろうか。目尻と頬の微笑み皺が青年の印象に残る。

 

 青年は腕時計を顎の高さまで上げた。すでに一九時。いつもなら予定終了時間を待たず解散となる定例会が、この日たまたま紛糾したのだ。待ち合わせの時間は一時間前に過ぎている。雲行きが怪しくなったころに、チャットアプリで遅れる旨を伝えてはいた。よけいな気をつかわせないよう、努めて事務的な文面で。

 

 青年はスマートフォンのアプリに視線を移す。会議室を出るとき、居室を去るとき、エレベーターのなか、そしていまタクシーのシートで、五分のうちに四度目の確認である。

 

「神崎さん、申し訳ありません。会議が長引きそうです。三〇分ほどお待たせしてしまうと思います」

「懐かしき天上の日々を追憶し、契約のときを待たん」

 

 相手……神崎蘭子からの返事は彼の送信から二分後のタイムスタンプの一つきり、依然増えていない。

 

 神崎さんはおそらくは教会のなかで、絵を眺めながら待っているはず。しかし甘い見積もりの、すでに倍の時間が経っている。いまからの移動を加えれば三倍……。青年は眉間の冷えて痛くなるのを覚えながら、新たにメッセージを送った。

 

「いまそちらに向かっています。もう少しだけお待ちいただけませんか」

 

 既読の表示はすぐについた。安堵の息をつく。肺に空気をとりもどすのとほぼ同時に、蘭子からの返事が届いた。

 

「その心は高潔か?」

「はい」

 

 謝罪の言葉やまちがいなくもう二〇分ほどで着くという保証をどう文章にまとめるか、焦る青年の指は二文字だけを送信してしまった。蘭子から重ねてのメッセージはない。

 

 逆三角形の三白眼を歪めて、青年はうめいた。繊細で多感な歳ごろの少女に、いうべき言葉たちに加えてこのぶっきらぼうな返事の釈明まで、どう書けば正しく受け取ってもらえるのか。

 

 赤信号で止まった車窓へ、まとまらぬ考えから三白眼が逃げる。ケーキ屋のシャッターに貼られた新商品のポスターである。純白のレアチーズケーキ、木苺のソースつき。白く整った生地に深紅のソースが丸くとろけて滴っている。

 

 約束を二度破られてなお待っていてくれる少女の、白い顔にうるむ赤い瞳が目の奥に浮かぶ。青年はかぶりを振った。

 

「なるべく、裏道で行きましょう」

 

 信号待ちの運転手が渋滞情報を聞きながら、左へウィンカーを出した。

 

「すみません、お願いします」

「教会にスーツで駆けつけて、なんて映画ありましたっけね。あ、けどあれは美城さんじゃないか」

「ありましたね。あれはたぶん、ずっと自分の足で走ったでしょうけど……」

「バス停もサレジオ教会のすぐ脇に……っと、信号変わりましたわ」

「私の場合は待ち合わせですが、バス停は助かります。少し離れたレストランまで……」

 

 青年が自分の発した単語、“レストラン”に息を呑むなり、彼のスマートフォンが着信音を鳴らす。電話である。相手は蘭子ではない。画面に表示されているのはそのレストランの名だ。

 

 ……蘭子との約束の時間を過ぎているということは、行くつもりでいたレストランの予約時間も過ぎつつあるのだ。あいことなる安心と焦りを混ぜた声音で青年はスタッフの確認に答えた。

 

「ご予約のお時間を回っておりますが、いまどちらにおいででしょうか」

「申し訳ありません、予定がずれこんでしまいまして、いまは目黒駅の近くです。たいへん恐縮なのですが、二〇時……いえ、二〇時半からに遅らせていただくことはできませんでしょうか」

 

 早口の長台詞をスタッフは何拍か遅れて聞き取った。スマートフォンのスピーカーはしばらく打鍵音だけを青年に聞かせる。タクシーが三回ばかり曲がったあたりで、スタッフが電話口にもどってきた。

 

「たいへんお待たせいたしました。お客さま、二〇時半からにご変更でおまちがいありませんか?」

 

 どうやら問題なく予約をずらしてもらえるらしい。青年は安堵した。あとは一刻も早く蘭子の許へたどり着くのみだ。

 

 ……茨の城に住む堕天使・ローゼンブルクエンゲル。それが神崎蘭子という新人アイドルが打ち出す世界観である。その少女にさっそく来たのが、グルメ番組へのゲスト出演のオファーであった。

 

 美しく妖しげな世界観を壊さぬよう、最低限のテーブルマナーを備えておこうと、二日間の集中講座にも通わせた。きょうはその実践に、フランス料理のコースを味わう……というある意味では役得の、残業の日だったのだ。

 

 紛糾した会議も最後は実のあるところへ着地できた。ずれた予定も修復できた。気がかりなのは神崎さんだけだ。彼が事態を整頓し終え、車が大通りに出たときである。

 

「あちゃあ、お客さん、ここまで渋滞が来てました」

「えっ」

「目黒通りのね、五叉路で多重事故だそうで。このあたりの路地はスピードも出せませんし、歩かれたほうが早いかもしれません」

 

 はっとして青年は前後左右、六枚の車窓へ鋭い視線をめぐらせる。左斜めうしろに保育園が見えた。スマートフォンの地図アプリで確かめると、教会までは一キロあまり。走れば五分だ。

 

 行けると確信するや支払いを済ませ、礼をいって青年は飛び出した。車道を横切りながらジャケットを丸めて小脇に挟み、かばんのショルダーベルトを短くする。走る前から額に汗が噴き出てきていた。

 

 まさか、神崎さんが巻きこまれていないだろうか。気分転換に、あるいはしびれを切らして教会の外に出たときに? 暴走車が教会に飛びこむことも考えられる。

 

 ……おちつけ、事故があったのは五叉路だ。目黒通りの。サレジオ教会からは離れている。いや、しかし、神崎さんがあきらめて帰ろうと、そこまで出て行っていたら……? 待て、目黒駅までもどるならすぐそばのバス停を使えばいい。大通りには出ない。とはいえ、塞いだ気分を紛らわすために歩くということも……。

 

 どれだけ脚を動かしても、不安の泥が足許にまとわりついてくる。あの子は無事だ。事故は無関係だ。……青年は走る。ただそれをたしかめるために。

 

 

 

 サレジオ教会の周りはいたって静かだった。三六メートルの鐘楼は白くそびえ、十字架に残照を反射している。

 

 一九八五年に松田聖子、一九九三年にキング・カズがそれぞれ挙式したことで有名な教会だ。しかし神崎蘭子がここを待ち合わせ場所に選んだのは、著名人への憧れというよりも、もっとシンプルな理由だった。

 

 デビュー曲のPVを撮る候補地の一つがこの教会であり、下見に来てそのロマネスク様式の内装に惹かれたのだ。スケジュールが合わず、撮影はスタジオのセットとなったことでいっそう、この建物へのこだわりが強まったといえる。

 

 もちろん青年も蘭子のそんな心情に気づいていたから、回り道になってもそこを待ち合わせ場所とすることを諒解したのである。

 

 ……革靴の音も荒くそのしじまを青年は走り、薔薇窓の下の扉を開け放った。気まずい表情を作れぬまま、突き刺さる視線のそれぞれに頭を下げる。細い光の針の一つ一つが静かに逸れるなか、じっと彼に向けられる赤い瞳があった。

 

 神崎さん! 青年は叫ぶ衝動をかろうじて抑えた。息を短く吐き、空気の塊を一つ吸い、赤い瞳の主へ黒く小さい瞳を向ける。

 

 色素の薄い髪はふわっとおろしたセミロングスタイル。白いワイシャツには幾重ものフリルが飾られ、臙脂色のリボンタイ、そして黒絹のベストと、やや地味なボーイッシュスタイルだ。

 

 お忍びと自分のポリシーとの妥協点。ふだんのツーサイドアップもフレアスカートのドレスもない。だがその幼い顔に主張する長く黒いまつげと、紅玉に血をかよわせたような瞳にまちがいはない。神崎蘭子である。

 

 聖堂を走らないように、青年は蘭子のそばへ急いだ。足を踏み出したとたんに蘭子はうつむいてしまう。しかしその短い時間に彼はたしかに見た。赤い瞳に涙を浮かべていたのを。

 

 私はどれだけひとを悲しませたら気が済むのか。自責の念が胸に広がる。この子たちの笑顔を守り、育てて、広い世界へと送り出すのが使命だというのに。

 

 硬い床にひびく足音と心臓の音との区別をつけられぬまま、彼は蘭子のまうしろに立ち、丸まってふるえる背中によびかける。

 

「神崎さん、たいへんお待たせしてしまい、申し訳ございません」

 

 返事はない。青年は瞑目した。

 

 当たり前だろう。あいまいな短い言葉を二つだけで、一時間以上も待たせた男だ。赦してはもらえないだろう。だが憎まれたとしても、いま彼女に笑顔を……せめて涙を止めるだけでも、私はしなければならない。ともすればこれは使命感ではなく、この子の涙に耐えられず、胸の苦しさから解放されたい一心なのかもしれない。

 

 そうなら、私はひどいやつだ。

 

 三白眼が静かに開いた。床の上から蘭子の前髪へと焦点がさだまる。

 

「お怒りはごもっともだと思います。申し開きの言葉もありません。きょうの埋め合わせは、かならずさせていただきます。……もちろん、あなたの御意に沿う形で。それから、よろしければ……これで、涙をお拭きください」

 

 自分の言葉を無味乾燥なものと聞いて、彼の声の大きさも頭の位置も、情けないほど下がっていく。それが止まったのは、手にわずかな感触を覚えたためだ。差し出したハンカチを蘭子が取ったのだ。

 

 青年が顔を上げるのには、さらに覚悟が必要だった。赫く燃える星が宿った双眸に焼き殺される覚悟を。

 

「……ありがとう」

 

 青年は跳ねるように身を起こした。それがあまりにとつぜんで、蘭子は短い悲鳴をあげて身構える。

 

「す、すみません。しかしいま、ありがとうと……?」

「う、うむ。崩れゆく我が仮面を守らんとするその魂に共鳴せんと……」

 

 蘭子はいいかけて、レース飾りのついた小さい藤色のバッグから自分のハンカチを取り出し、冷却スプレーをふきかけるて彼に差し出した。落ち着いた赤色の生地に、白と黄色で組紐模様が描かれている。

 

「この極冠の欠片をもって、枯れ果てなんとする汝が生命の泉を潤すがよい」

 

 青年はいわれるままに受け取り、額の汗を拭いた。ひんやりとした感覚とかすかな花の香りが、引きつりきっていた彼の表情を和らげる。

 

 そのあいだに蘭子はまた背を向けて、手をせわしなく動かしていた。彼の冷却時間に化粧を直しているのだ。もちろん、かかる時間は数倍ことなるが。

 

 蘭子のまつげが黒々と天を指すのを待って、青年は話を元にもどした。

 

「あの……神崎さん。怒ってはいない……のですか?」

「怒る……?」

 

 なにをいっているのかわからないという顔で答える。なぜそんな顔をされるのか、こちらこそわからないと強面が答え返す。

 

 気の強い女性ならば“怒ってないわ、呆れてんのよ!”とハンカチをハナムケに足音高く立ち去るかもしれない。しかし蘭子はもっと繊弱であり、回答は彼にはより堪えるものであった。

 

「わたしは、……怒ってなんて……」

 

 珍しく、蘭子が難解で詩的な<闇の言葉>ではなく、ふつうの言葉で話した。反応できぬ青年に、さらに言葉をつづける。

 

「……ごめんなさい。ずっと疑ってたんです、来てくれないんじゃないかって。ちゃんと、会議で遅れるって連絡くれたし、これから出るっていってたのに……」

 

 待てども待ちびとが来ない不安に涙を流し、信じるべきを信じきれなかった不義理で顔を背けた。蘭子の行動のわけは、そういうことだったという。

 

 ただ怒っていてくれたほうがずっと良かった、などと思えば己の身勝手さにまた頭の位置も視線も下がりだす。罪悪感は背中からおおいかぶさってくる……というのを実感しながら、青年は肺の空気を入れ替える。

 

「神崎さん、悪いのはあなたをこんなに長い時間待たせた私です。だれだって不安になって、怒ったり帰ったりするほどの時間です。ですから、それで私を疑うのはなにも悪いことではありません。まだなのかと、何度もメッセージを送っても来るところをあなたは耐えていてくださいました。ご自分を責めないでください。それほどに思いつめてまで、私を待っていてくださって、ほんとうにありがとうございます」

 

 深く甘い色をした瞳を見つめて彼は熱をこめた。頭を腰よりも下げ、最も伝えたい言葉を口にする。

 

「……ほんとうに、ほんとうにごめんなさい」

 

 息を二度め吐き出しきっても背中は重たかった。その背を羽根のようにやさしく声が撫でる。頭をあげてと。

 

 上体を持ち上げたが、彼の背中におぶさっているものは重たく、完全には起こしきれない。蘭子と目の高さが合った。また目を潤ませている。ステンドグラスからこぼれてきた光が赤い瞳に映って、ラズベリーソースのようだった。

 

「あなたは怒ってはいないといいますが、私のせいであなたが傷ついたことは事実です。その償いをさせてはいただけませんか。なんなりと……お申しつけください」

 

 怒っていないことを承知で私的な罰を求めるとは、なんと自己中心的な考えか……。おそらく神崎さんはなにもいわない。償いかたは……彼女が喜ぶことは、自分で考えなければ。

 

 自己嫌悪のしわを額に刻みつつほぐそうとした思考の糸は、しかし、凛とした声で断ち切られる。

 

「ならば……いまいちど贖罪の調べを。神に背き、我が名のもとに奏上せよ!」

 

 きちんと謝りなおせと……。神に背き……? 蘭子の言葉の解釈に、まだ時間を要する青年である。顔を上げると蘭子の頭越し、聖堂の奥に、キリストの磔けられた十字架が見えた。

 

「承知しました。こちらへ、よろしいですか」

 

 ん、と短く返事をして、蘭子は白いフリルに包まれた胸をそらして、右手を差し出した。謝罪する場所までのエスコート。それは青年が思うほど、居合わせた数人の信徒には、奇妙な光景とは映らなかったようだ。

 

 バージンロードまで連れ出し、蘭子と遠い十字架との間に彼は立った。大柄な青年はすっかり、少女の視界から救世主の姿を隠してしまう。きらびやかな装飾を背負った彼を、蘭子はまぶしそうな笑顔で見つめている。

 

 そして、神に背いた青年の、堕天使のための償いがはじまる。

 

「神崎さん」

 

 呼びかけた瞬間、蘭子は片頬を膨らせ、むくれてしまった。なぜだ。三白眼を見開いて沈思する。

 

 呼びかけかたが悪かったということはすぐ理解がおよんだ。どう悪かったのか、どう呼ぶべきなのか。無意識に彼は首に手をやっていた。困ったときの癖である。

 

 フルネームで呼ぶべきだったのだろうか。だが“ざ”のあたりでもう薄紅色の頬を膨れさせていたから、そうではないのだろう。同様に、敬称のちがいでもない。呼ぶべきはちがう名か。

 

「ローゼ……」

 

 これもちがった。蘭子は両頬とも膨らせる。フグになる前に正解にたどり着かねばと、彼は大真面目に思った。

 

「……蘭子さま」

 

 膨れていたほほがしぼんで、相好をくずした。こわばっていた青年の表情筋と肩もゆるむ。

 

 そういうことならばと、彼はその場に片膝をついて、こそばゆそうな顔を見上げた。

 

「本日は、蘭子さまとの約束をたがえ、おやさしきお心をひどく乱してしまいましたこと、ここに深くお詫び申し上げるとともに、このような過ちをけして繰り返さぬことを誓います」

 

 ここで手を差し出されたなら、その甲にキスをするくらいのつもりになっていた青年であるが、蘭子はそうはしなかった。

 

「ふ、ふふん、魔王の顔も三度まで。これで二度目ということを忘れるな。アッハッハッハッハ!」

 

 鼻声で短く高笑いをして、蘭子は歩きだした。その背に青年は考える。

 

 魔王や堕天使を自称しているが、じつのところは、天国のどこかでうっかり足を滑らせて落ちてきた幼い天使が、帰り方がわからずに強がっているのかもしれないと。

 

 ……上半身で磔刑の救世主を振り仰ぎ、青年は胸に手を当てた。

 

 神さま、この子はとうぶんそちらにはお返しできませんが、やましいことはなにもありませんので、どうか私にバチを当てたりしないでください。

 

 教会のドアを半開きにして夕闇を背負う蘭子のもとへ、彼はいつもどおりの歩調で足を進めた。

 

 

(続)

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