黒の手帳は何冊目?   作:久聖

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時は待たない(後編)  ゲストなし

 さきの慇懃なボーイに出迎えられ、ホールへ踏みいった蘭子と青年のマスクの目穴越しの視界に、巨大な壁画が飛びこんできた。

 

 古代ギリシャの、オリンピアの祭典だ。本家の彫刻以上にひどく写実的で、それ以上にオープンだった。蘭子が短い悲鳴をあげ、青年が反射的に彼女の目を隠した。

 

 思春期の少女になんてものを、と胸で毒づきつつ、執事らしく蘭子を気づかう。

 

「お嬢さま、大丈夫ですか」

「わ……我は、我はなにも見てはおらぬ……」

「配慮が足りませんでした。レディファーストなど遵守したばかりに……」

「ま、まあよい。このくらいでおびえる我ではないわ……」

 

 顔を完全に隠す白い仮面の下で声は動揺しきり、震えている。青年は蘭子に目を閉じさせ、手を引いてゆっくり歩いた。二人に注ぐ視線もいくらかあるが、ほほえましい主従ということのほかに意識を傾けはしなかった。

 

 アール・ヌーボー様式の店内は、真鍮とクリスタルガラスのシャンデリアが投げかけるシャンパンゴールドの灯りによって、やさしげでかつ華やかな世界を作り出している。高い天井へ柱がしなやかに伸び、あるものにはアジサイやエゾギクのプリザーブドフラワーが飾られ、またあるものにはヤマトタケルの熊襲征伐図がかけられ、あるいはロキの石膏像がせり出している。

 

 無節操な飾りを取り払えば、ここも神崎さんの気にいりそうな建物なのに。青年のひそめた眉は、黒いベネチアンマスクのおかげでだれにも知られなかった。

 

「階段になっていますので、お足許にお気をつけください」

 

 ホールを横切って、一段上がった壁際、薄手のカーテンで区切られた個室が並ぶ区画をとおる。そのカーテンは膝の高さで断ち切られていて、目線を下げればなかにいる客の足が見える。親しげに会話をかわすどの個室も、聞こえる声は一様に低い。小声でもあるが、低音しかしていない。

 

 白いタイトスカートにデニールの弱いストッキング、白いサンダル……女性看護師と見える脚。淡い水色のアリスワンピース。網タイツと赤いハイヒール。ルーズソックスにぺしゃんこのローファー……。

 

 いぶかしむ青年の心を読んだのか、ボーイが肩越しに、感情の読めぬ笑顔で説明をした。

 

「こちらの個室は、大きい声ではいいづらいのですが、基本的に密会用の場になっております」

 

 密会。青年は頭の辞書にその意味を確認した。人目を避けてこっそり会うこと。とくに男女の間柄で使われることが多い。

 

 おなじく意味を思い起こし、自分たちに重ねたのだろう、蘭子の白磁の耳赤くなった。青年はといえばむしろすこし青くなった。白金高輪という土地で、声から察するに四〇、五〇代の男たちがする密会などといったら、秘密会議、密談のいいかえではないのか。うっかりでも聞いたと咎められれば危険極まりない!

 

 なぜ千川ちひろは我々をこんな万魔殿に差し向けたのか……。こんどは顔いっぱいに苦る青年だった。見ているものは、おそらくいなかったが。

 

 ともかく、後悔先に立たず、青年は覚悟を決め、とおされた個室で蘭子と向かい合って座った。さいわい壁は厚く、隣室の声は聞こえない。

 

 蘭子はひざにナプキンを広げ、メニューをながめる。饗されるコースの案内が書かれたものだ。姿勢を正して座ってはいるが、大柄な大人向けに作られたらしい椅子のため、腰掛けは浅い。若干おとなびたいでたちと合わさると不思議と子供らしく、かわいらしいものと三白眼には映った。ふだんの恰好だったら、ビスクドールのようになっていたことだろうと夢想する。

 

 現実には三秒ばかりで立ち返り、蘭子が落ち着いてテーブルマナーを実践できているらしいことを見て取ると、彼もメニューを開いた。ホタテ貝柱のコキーユ、鮎のテリーヌ、牛フィレにフォアグラなど、いかにもという料理に食材が居並んでいる。

 

 蘭子が不安げに口を開いた。

 

「この宴の供物はポセイドンのはからいかデメテルの祝福か、その、未曽有の代償を伴う贄なのでは」

「ご心配なく。このくらいは平気ですよ」

 

 きょうの出費は、とうぜん経費として申告できるはからいである。しかし答えて、メニューへふたたび視線を落とすと、彼の胸にも一抹の不安が湧いて出る。服のレンタル代金に、この一応高級店のフルコース代金の領収書。はたしていくらになるだろうか?

 

「お飲み物はなにになさいますか?」

 

 青年がうつむいているうちにウェイターが来ていた。蘭子の注文したのとおなじものを、彼も頼む。ぶどうジュースである。

 

「む? 葡萄酒ではないのか?」

「……はい、このあともまだ、あなたを寮まで送らなければなりませんから」

「わ、我は我が為に友の禁欲など求めては……」

「こういったことは大人のマナーです。酔っていてはあなたをきちんとお守りできなくなってしまいますので」

 

 蘭子はまだどこか腑に落ち切らない様子だった。お酒は大人の人生唯一の楽しみだとか、飲まないと死ぬだとか、そんなことはないのだが……。青年はベネチアンマスクを外し、なるべくやさしい顔を作った。無理をしているわけじゃないことを示そうとしたわけだが、表情の固い彼にはそれこそ苦しいものがあるのだった。

 

「救世主の聖血をもって我が友の心を煉獄より解き放たんとしたのだが……」

「すみません、そのお気づかいだけで救われます。神崎さんが食事を楽しんで、それに正しいマナーも身につけていただければ、私は満足ですよ」

「祝福なき者に、我を照らすことはできぬ……」

 

 同席者が沈んでいては楽しめない、とはもっともである。そこまでいうほど無理をして見えたということで、その点を宿題と積んで、青年はいっそうおだやかに努めてこたえた。

 

「ご心配ありがとうございます。他愛のないことですから、お気になさらず。フルコースを楽しみましょう」

 

 まだ蘭子は不承不承といった面持ちだ。これ以上はどうしたものか、さすがに弱った青年に、カーテンが開いて救いの手が差し伸べられた。

 

「失礼します。お飲み物をどうぞ」

 

 ぶどうジュースである。コップではなく、ワイングラスを携えて。ウェイターの去りぎわ、彼がそっと頼んでおいた演出だ。

 

「おお、甘美なる蜜のよそおいか!」

 

 蘭子が喜色を浮かべる。それを見てとった青年の顔に赤い視線が注がれ、怪訝だった表情がついにやわらいだ。

 

 さて、と一つ区切りをいれて、青年はマナーの教養書を、マナー違反ではあるがテーブルの隅に置いた。

 

「乾杯をしましょうか。ワイングラスはぶつけないように」

「うむ」

 

 蘭子は大げさにうなずいて見せる。上機嫌のさまに、彼も肩の力が抜ける。

 

「本日は、情けなくも予定していたとおりにはいきませんでしたが、それでも、ついて来てくださったあなたの……」

 

 忍耐力、とつづけようとして青年は思いとどまった。迷惑をかけておいて“よく我慢しました”はありえない

だろう。

 

「あなたの……、やさしさに。乾杯しましょう」

 

 締まらないな。そうは思っても、蘭子の笑顔にたしかに救われた気持ちがした。

 

 

 

 テーブルマナーは同席者を不快にさせないためのもの。すべて本のとおりにする必要はない。食器の置きかたや肉の切りかたなど、不変の真理のようなものもあれば、ワイングラスの持ちかたやナプキンの使いかたなど、時勢とともに変わるものもある。

 

 蘭子の所作のよさには彼も目を丸くした。わずかな講座できちんと身になっている。むしろ、彼こそ手習いになりそうに思うほど。

 

「これしきの呪文、会得は造作もなきこと」

 

 そういって、黒薔薇に包まれた胸を反らして余裕を見せるのである。

 

 料理の味は素晴らしく、二人は舌鼓を打った。青年などはきょうようやく、幸せだなという思いをいだくにいたった。計れば二時間になんなんとする、短い至福の時だった。

 

 食後の紅茶でカップの持ちかたを確認して、ついにマナーの自習から解放されると、蘭子の口からは堰を切ったように言葉があふれる。学校の話、好きな番組、苦手なこと……。

 

 彼もまた饒舌になっていた。店内にひそむ英雄たちの神話、今後のプロモーションの方向性。話は、ティーカップが乾いてもつづいた。

 

「神崎さん、大丈夫ですか?」

 

 話しこんでいるうち、蘭子は瞼を重そうにして、姿勢をだいぶ崩していた。二三時を過ぎている。蘭子が暮らす寮だと、とうに消灯している時間だ。

 

「すみません、いまからだと門限を過ぎてしまいます」

「構わぬ、きょうはたのしかった。……あ、ご、ごちそうさまでした」

 

 折り目正しく、眠気でぐらつく頭を下げる。立ち上がるのに手を貸しながら、青年は思った。わざわざマナー指導などせずに、ただ食事を楽しむだけでよかったのかもしれない。そうしたら、もはやいいわけは立たなくなるが……。

 

 個室からの帰り道におかしな調度品が見えないことは確認しながら来ていたので、こんどは蘭子は目を開けて歩くことができた。

 

 だが忘れていたか、眠気で朦朧としていたか、蘭子は下り階段で中空に足を踏み出した。

 

「ひいっ」

「お嬢さま!」

 

 “神崎さん”と“お嬢さま”の呼び分けを無意識にできたことについて、なにか思う暇は彼にはなかった。

 

 左半身で蘭子の体を受け止める。その拍子に外れそうになる仮面を、うしろから回した右手でおさえる。右手はすぐ、細い右肩をつかんで仰向けに引き、右腕でその背を支える。腰を支えていた左手は膝の下にとおし、横抱きにして持ち上げた。

 

 鮮やかな機転に、ホールから歓声と拍手が湧く。気取る余裕はしかしなく、肘から先は自由な(蘭子の脚が細いおかげである)左手を小さく振って彼はどうにか応えると、逃げるように出口へ急いだ。

 

 ボーイはタクシーを呼ぶと申し出たが、青年は断って少し離れた大通りまで歩くことにした。店の近くでは勘ぐられるかもしれない。私たちは雲の上のことなど知りません。いや、この幼い堕天使が住んでいた雲は、淀んだ色のものではなくて、ちゃんと真っ白いもののはずですから……。

 

 だれに聞かせるでもないいいわけの道すがら、上弦の形にゆるんで見下ろす三白眼を、なかば閉じかけた赤い瞳がのぞく。

 

「プロデューサーは、きょう、楽しかった……?」

 

 声はすっかり眠そうだ。

 

「はい、私も充実した時間をすごさせてもらいました。あなたの笑顔が、たくさん見られましたから」

「よかった……」

 

 きょう、最大の笑顔の花が咲く。

 

 蘭子はずっと、彼のおだやかならぬことを気にしていたのだ。強面の青年はようやく気がついた。

 

 マナーは同席者を不快にしないためのもの、か。口のなかでつぶやいた。マナーができていなかったのは、私のほうというわけだ。

 

「わたしもお酒が飲めたら、もっとよかったのかな。わたしよりも、おとなのひとと行ったほうが……」

 

 歳に釣り合わぬ艶めいた唇からこぼれる言葉に、思っただけのつもりであろうとは考えつつ、それでも彼は返事をした。

 

「あなたが大人になったら、もう一度行きましょうか。こんどは、ワインで乾杯をして」

 

 蘭子は目を丸くし、頬を赤らめた。口を何度か開閉させ、白い指をさまよわせる。息を一つ飲みこんで、鼻から蒸気を噴くと、平時の澄まし顔を彼へ持ち上げる。

 

「この次は、規律の魔導書は持たず」

「若いひとの話題も、勉強しておきます」

「暗夜の理を、よりながく制してみせよう」

 

 六年も先の約束。すでに大人の青年にはそう長くもない時間である。しかし……。

 

 神崎さんにとっては長い時間にちがいない。青年は胸にひやりとするものを感じた。

 

「……さあ、帰りの車を探しましょう」

 

 

 

 日付が変わろうとするころ、二人を乗せたタクシーは女子寮の門扉の前に止まった。門扉の鉄柵の向こうに老婦人が立っている。車中からの連絡を受けていた、この寮の管理人だ。車中から頭を下げる青年をみとめて、安心三割の顔をした。

 

「お嬢……神崎さん、寮に着きましたよ。神崎さん」

 

 神崎蘭子は髪をほどき、頼もしい右肩にもたれて寝息を立てている。呼びかけてもゆすっても起きる気配がない。……彼のやりかたがひどくやさしいせいもあるが、そこへ思い至る前に彼が行き当たるのはこうだ。きょうはずいぶんと疲れさせてしまったから、無理に起こすのもかわいそうだ。

 

 自分のかばんを肩にかけ、腕に着替えをいれた紙袋をとおして、蘭子を横向きに抱きかかえる。日傘を左の手首にかけ、ハンドルの小さい蘭子のバッグは、持ちかたを迷ったが左手に持った。

 

 レストランの階段で抱きかかえたときより熱く、完全に眠りこんでいるのがわかった。今夜は私がいるからともかく……。黒く細い視線が無垢な寝顔に注ぐ。ひとりで遅くに帰るような日があると、心配ですね……。

 

 老婦人の先導で、燕尾服の黒い執事はお嬢さまを部屋へと運ぶ。腕のなかから、おだやかな寝息が彼の耳朶をくすぐる。何度もつられて視線を落とす。その寝顔はどの瞬間にも安らかだ。ほほえましいばかりの玉面に、だが、しだいにありもしない不安を覚えはじめた。

 

 ほんとうに百年の眠りに落ちてしまってはいないだろうか。ひそひそ話より少しだけボリュームを上げて、眠り姫に語りかける。

 

「あした、ちゃんと朝に起きて、ドレスとマスクを持ってきてください。昼間お借りしたハンカチは洗って、あさってお返しします。そうだ、ダンスレッスンもありますからね。お忘れなく」

 

 約束の時間は六年後ですよ、神崎さん。……胸のなかで念を押す。

 

 心の声はさておき、口から出た言葉への返事はない。返るのはすうすうと静かな寝息だけだ。老婦人は振り向きもせぬ。不意に心細くなった彼は、意味もなく呼びかけた。

 

「わかりましたか、神崎蘭子さん」

 

 かすかに、彼女の桜色の唇が動き、青年の名を呼んだ。肩書で呼ばれることに慣れていた彼は、こそばゆそうに目を細める。

 

「起きているのですか?」

「こよいの、しゅくさい……、よいしれよ……」

 

 気の早い夢のなかで、楽しんでいるらしかった。六年後の世へ、彼も心を飛ばす。このような、いや、これ以上の顔をしてもらえたら、どんなにいいだろう。

 

 蘭子をベッドに横たえ、彼女の荷物を置いて部屋を出た。管理人がしっかりと鍵をかけ、また無言で青年を外に送り出す。なにもいいはしなかったが、さきのタクシーは彼を待っていた。

 

 去りぎわ、今後はこのようなことのないように、時間は厳守ですよと叱られたのが堪え、しかし不思議と楽になった思いを彼はした。

 

 晴れわたった夜空はネオンで藍色に照らされ、小さい光点をまばらに灯している。涼味を帯びた風が広い背中を押す。青年も家路につくときだ。

 

 タクシーのなかで、時刻は〇時を回った。てっぺん越えちゃいましたね、遅くまでお疲れさまです……。そんな会話から、初老の運転手が懐かしそうに話す。

 

「子供は寝ちゃうとなかなか起きてくれませんよねえ。あたしなんてうちの子が小さいころは、寝顔しか見てなくて。たまに休みの日になると“知らないひとがいるー”だなんてねえ」

 

 あしたもし……。運転手の自虐が、眠い彼の思考をショートさせた。もし神崎さんが目を覚まさなかったら、女子寮は深い茨に鎖されて、私は寝ずの番をするのだろうか。百年も生きてはいられないから、六年で目覚めてもらいたいものだ……。

 

 

(了)

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