「煩わしき太陽よ、堕天使の翼に包まれてそのさだめを終えるがいい」
地上八階。浅草の街を見下ろすランドマーク、“新凌雲閣”のスタッフ専用フロアでは、撮影機材を運ぶ音がひっきりなしに往復している。そのせわしなさに背を向けて、大窓のブラインドに作った隙間から柿の実のような夕陽を見下ろし、神崎蘭子は含み笑いをする。演技過剰なそれは、丸い夕陽をおなじ仕草で眺める大柄な青年の鼓膜を揺すった。
彼にとってはとうに聞き馴染んだ声であり、この一時間ばかり待っていたものでもあった。逆三角形の三白眼の目許をひとつやわらげて、声のしたほうへ向ける。
「あれっ……」
「どうか? 我が友」
青年は一瞬戸惑った。彼の印象にある神崎蘭子は白や黒のゴシックロリータに赤や紫の鮮やかな色を差して、銀を紡いだような髪をゆるく巻いたツーサイドアップにした、まだあどけない一四歳の女の子だった。しかしそこにいるのは一七か八か、背こそ彼の胸ほどまでだが大人びた少女に見えたのだ。
「いえ、なんでもありません。……いい衣裳です」
疑問符を浮かべたのも一瞬、褒められて腰に手をやり胸を張るさまは、いかにも蘭子である。前髪のボリュームをおさえ、サイドテール一本にまとめて胡蝶蘭のかんざしで留めている。
身につけるのは真夏の昼の薄雲色をした生地に、パステルカラーの花が咲き乱れる着物。浴衣ではない。本紫にむらなく染まった無地の袴を七分丈に裾上げして、飾りベルトの三本ついた、エナメルのブーツを見せている。
「これぞ我が眩惑の一翼の威力」
「たしかに、ふだんのあなたを知っていると意外ですね。もちろん、そういった装いも魅力的だと思います」
「うむ。……わ、我が友も、な」
きょうはここの屋上、地上一一階の庭園で鈴虫の鑑賞会が催される。そこで風情のために、スタッフも着物か浴衣の着用が義務づけられた。洋服用のスタッフ腕章で左の袖を不恰好にくびれさせた男女が、そこかしこで機材の運搬や段取りの確認をしている。
この青年もまた、大学卒業とともにタンスにしまいこんだままにしていた浴衣を引っ張り出してきた。藍地にトンボを白く染め抜いたもので、数年ぶりにもサイズが合わぬということがなく着られて大きく安心したものである。
そしていつもどおりの洋装で来た蘭子のお召し替えを待っていた、というわけだ。
「うん、シンプルな服だと一瞬わからないわね。新しい子を連れてきたのかと思っちゃったわ」
背後の楽しそうな声を蘭子と青年は振り向いた。その動きがどこかぎこちなく見え、声の主、川島瑞樹は小首をかしげる。夜会巻きにした亜麻色の髪が、落ち着いた照明に艶を放つ。
「おはようございます、川島さん」
「はーい、おはよう」
瑞樹は声のトーンを一つ高くした。それは男性との会話だからではなく、蘭子同様の女学生スタイルをしているからである。瑞樹の着物は白と紫の矢絣模様、袴は濃い緋色のシックなものだ。裾は長くとっているが、足許はやはりブーツを履いている。
この日は鈴虫鑑賞会がニュース番組の時事のコーナーで取り上げられる予定になっている。蘭子はそのゲストに以前から呼ばれ、川島瑞樹は急病のリポーターの代打として、こちらは大急ぎで駆けつけてきたのだ。
……青年は蘭子の背をかるく押した。以前、彼女が川島瑞樹に不名誉な二つ名をつけたことを詫びる機会とみたのだ。当の蘭子はそれがかっこいいと思っていたようで、不承不承という表情である。
「い、いにしえのサバトの折、我が言霊が不浄なる調べを……」
「神崎さん。これは、ふつうの言葉で……」
「ふふ、わかるわ。気にしなくていいのよ」
瑞樹の返事で青年は目を丸くした。自分がまだ必死に頭を回転させてついていっている蘭子の言葉を、微笑みながらわかってしまうのか。……本当に?
「蘭子ちゃんが私にそんな顔するようなことっていったら、ね」
刺さった棘はしっかり憶えているらしかった。二人は揃って深々と頭を下げる。その二つの頭上で手をひらひらとさせ、瑞樹は花のかんばせを保っている。
「だから、いいの。あんまり深刻にされると、こっちもマジみたいじゃない。まあ、でも、そうねえ。プロデューサーくんには、監督責任というのがあるわけだから?」
そういって瑞樹は黒い野球帽を差し出した。夕雲を描いたネイルが黒地によく映える。
「“すずむしゃくんの兜”。これかぶって雰囲気出してくれない?」
「なんの雰囲気ですか」
などと口答えのできる立場ではなく、彼は瑞樹の示した“兜”……黒い野球帽に半透明のフィルムとプラスチックの棒とを二つずつ取りつけて鈴虫のようにしたものを頭に載せた。
「これでよろしかったのでしょうか」
“かわいい”とご満悦の瑞樹に対し、蘭子は短い眉を寄せて固まっていた。極端な二つの表情で迎えられ、青年は蘭子寄りの顔をした。
「あはは、もう、よろしいよろしい。お姉さん赦しちゃう! ほら暗い顔してないで。似合ってるわよ、男前っ!」
「ありがとう、ございます……」
頭を下げるとフィルムがガサガサと安っぽい音を立てる。鈴虫の翅のこすれる音はオスからメスへの恋の唄だというけれど、これを快く思うひとがいてくれるだろうか? ……そういえば階下で大笑いしていたカップルは、これをかぶっていたかもしれない。そんなことを思い出して、青年は渋面を深めるのをどうにかこらえた。右手はつい、首のうしろをさすってしまうが。
蘭子は手許のパンフレットで“すずむしゃくん”の解説を読み、なお眉をひそめる。いわく、侍に憧れた鈴虫が浅草観音さまへの誓願によって人間になった、八歳の少年。鈴虫振興会の広報担当。三頭身のシンプルな顔をきりりと引き締め、兜という名の野球帽がトレードマーク。
「……」
「さ、蘭子ちゃん。きょうの収録、がんばりましょっ!」
「神崎さん、ご心配なく。上ではこれは脱ぎますので」
戸惑いがちに、蘭子は頷いた。
新凌雲閣。大正時代に姿を消した凌雲閣……“浅草十二階”という名前で知られるランドマークが現代によみがえりました。先代とおなじ赤レンガ造りの威容を誇る一二階建て。正八角形のフロアをエレベーターと螺旋階段がつらぬき、内装は当時のようすを忠実に再現します。
一階から七階までは名店街、九階と一〇階はレストランフロアとなっております。八階はビル関係者の専用フロアのため、一般のかたの立ち入りはできません。一一階は屋上庭園。季節に合わせた催事を行っております。中央には二階建ての尖塔があり、先代とおなじく展望スペースになっております。近代化しつつある浅草・吾妻橋を、大正ロマンに浸りながら見渡してみませんか?
……鈴虫鑑賞会に撮影場所を用意するまで、台本に集中する蘭子の邪魔にならないよう、青年はこの建物のパンフレットを読んでいた。頭に戴いていた騒がしい帽子はすでにない。彼自身が落ち着かないこともあるが、先のように蘭子のお気に召さないこと、そしてきょうの主役たちの歌の邪魔になることが理由である。
もっとも、かごのなかの彼らがどれだけ歌っても来てくれるメスはいない。つがいができればそれきり鳴かなくなるから、死ぬまで独り身である。
虫売りも買い手も、なかなか残酷なことをするな。などと青年も己が身の上を虫にかさねて思いはしたが、さてもういちど省みれば、年頃の少女で似たような真似をしているのだった。苦いものを口の端に浮かべていると、ADが蘭子を呼びに来た。撮影開始である。
「みなさんこんばんは! リポーターの川島瑞樹です」
「闇夜に棲まいし我が下僕たちよ、我、神崎蘭子が今宵この勝利の塔の頂上に至れる幻獣たちの宴に導きの灯を燈そう!」
金色の夕陽のなかカメラのフレームに収まるのは、壇上のガラスケースと女学生に扮した二人のリポーター。そして遠巻きにスマートフォンのカメラを構える見物人たち。
あのうち何人が神崎さんを目当てに来ているのだろう。青年はまぶしさに細めた三白眼で野次馬を見やる。撮影をしている、芸能人がいる、そんな理由がほとんどであろうことは想像に難くない。三割程度だろうか。渋くした表情が見える位置にいた一部の野次馬は、少しだけ縮こまった。……それでもスマートフォンを構えたままでいるが。
「地を満たす精霊たちの共鳴、天に捧ぐ調べよ」
「全部でなんと二〇〇匹の大合唱、ほんとに素敵よね。あ、合唱っていったけど、みーんなソリスト。歌声を競いあってるの」
このコーナーは、二人の女学生が鈴虫を話題におしゃべりをするという構成で書かれていた。しかし青年にも、野次馬にも、おそらくスタッフにも、あまりそのようには見えない。
「孤独なる魂の叫びであったか……」
「しかも、ぼくのところに来て~っていう、熱烈な愛の歌なのよ。人間だって魅了しちゃうんだから、すごいわよね」
「そうであったか……。では想い満たされしときは、無上の音色が天地の狭間を」
「残念ながら! パートナーを見つけた鈴虫くんはもう鳴かなくなっちゃうの。かの文豪、小泉八雲も、それを残念がっていたわね」
取り巻く目が見ているのは女学生と女教師のコンビだ。律儀な青年は心のなかで瑞樹に頭を下げた。これは服の柄や髪型や見た目は問題ではなく、蘭子が質問をして瑞樹がそれに解説するという脚本のせいである。こうなったのは蘭子に説明させると“例の、よくわからない言葉”に変換されて視聴者に伝わらなくなるから、というわけで、もう一人、どこにいるかわからない構成作家にも低頭しきりの彼であった。
「ペットの鈴虫は野生じゃ生きていけないから、最後にお嫁さんを探しに行け、なんて草むらに放しちゃだめ。責任をもって最期まで面倒を見てあげてね」
「囚われしはエデンという獄牢か……」
二人の話は青年に、先の連想を思い出させる。プロダクションというかごに囚われた少女たちと、囚えている自分たちを。
いつかは、シンデレラプロジェクトのかごを私は開けてやらねばならない。それは、まだしばらく先の話ではある。先の話だが、それまでにあの子たちが、独りでも輝けるように育てていかなくては。……そう、アイドルは虫とはちがうのだ。
「こんなふうに愛の歌にかこまれてると、ワルい女になっちゃったみたいね。もちろん、心地はいいんだけど。ふふふ。蘭子ちゃんはどうかしら」
「うえっ!?わ、わたし……否、我は……、幾束の花よりもただ一輪、至上の赤き薔薇を望むがゆえに……」
収録が終わり、蘭子と青年は和装のままかるい夕飯をとってから一階に降りた。
「我が友よ、太陽滅びし塔の街に翼を翻さん!」
「もう八時を回っていますから、長居はできませんよ」
鷹揚に頷く蘭子だったが、散策ルートを考えようと彼がスマートフォンを取り出したとたん、薄紅の頬を膨れさせる。
「どこか、行きたい場所が……?」
「今宵はこの翼、風にあずけんと……」
気ままな散策がお望みらしいことは察しがついた。とはいえ浅草の大通りは夜でも賑わい、はぐれれば危ない。
「わかりました。ただし、私からはなれて歩くのは禁止です。私の腕がとどく範囲に、かならずいるようにしてください」
「心得た」
「それから、虫除けはちゃんと使いましたか。まだ悪い虫も飛んでいますから」
虫除けスプレーを渡してふとずらした黒の視線の先には、川島瑞樹がいた。二人を見てニコニコ笑う彼女もまた、撮影のときの衣裳のままだ。
「ど、どうかされましたか? ……川島さん」
「ううん、どういう会話してるのかしらと思って」
「いまの表現に他意は……」
「わからないでもないけど」
少女のようにいたずらっぽい顔をすると、こんどは蘭子のほうを向く。
「これからパパとお出かけ? ……『ひと聞きが悪いし私はそんな歳じゃありませんよ』って顔ね。わかるわ」
すぐさま切り返した瑞樹にせりふを取られ、青年は口ごもった。苦い顔をしていると、瑞樹はいっそう楽しそうになる。
「まだ若いのにこういわれちゃうと、意外にこたえるでしょ」
「はい……」
「きょうの撮影もね、みんな褒めるんだけど、“みごとな授業でしたよ”っていうのよ。私、蘭子ちゃんの同級生のつもりで用意してきたのに」
「あの台本でですか」
口を押さえてももう遅い。川島瑞樹は目許だけ怒ってみせている。……はじめのコンセプトでは彼女のいうとおりのものだったので、無理からぬことではある。
「クラスにひとりふたりいたじゃない、物知りな子って。それよ」
「それでしたか……」
心のこもらない返事に、目許の演技くささが消える。
「キミも私を先生だと思っていたでしょ」
「と、時の反逆者は人の心を読めるのか……?」
アンチエイジングよりはましな呼びかただろうか。青年はヒヤリとしたが、呼ばれた本人は“そうね”とにこやかだ。よけいな言葉が出ないように沈黙を保っていようと青年がこっそり一つ溜息を逃がした矢先。
「ではその真名は“読心の魔女”……」
「神崎さん」
「蘭子ちゃん」
川島瑞樹が手で“どうぞ”と促した。青年は少しかがんで蘭子の顔を覗いた。なるべく、隣に立つ妙齢の女性の顔を見ないようにして。
「いわんとしたその、字面はわかります……。ですが、音の……ひびきがですね。ひじょうにナイーブなものでして。ともかく、いまの言葉は少々、ひとの心をえぐりますので。時の反逆者にしておきましょう」
その落とし所もどうなのか? 妙齢の瑞樹の口の端が少しだけ引いた。どうたしなめたものかわからなかった気持ちの、ある意味では逃げ道であった。ふう、と声に出して息を吐く。
青年はといえばきょとんとした顔で応えられ、沈痛のなかにいた。十四の少女には理屈でもわからないだろう。むべなるかな。
「川島さんも、その……神崎は悪意があってのいったのではありませんので、どうか、ご容赦のほどを」
「うん……。いまのは私が読みきれなかったんだもの。いいわ。それに本気で謝られると、私も本気みたいじゃない……」
わりと本気のような声だった。
「ええと、その、……ごめんなさい」
自分がひとを傷つけたらしいことは察したのだろう。しょげる蘭子を、川島瑞樹が慈母の眼差しでつつむ。背はそれほど変わらないが、蘭子を抱き寄せる姿は大きく頼もしく彼には映った。
しかし、胸許に神崎さんの頭を抱いて撫でている姿は、親子のような……。男の身にできる慰めの限界と、余分で失礼な考えとが胸中に広がり、無意識に彼は一歩下がった。
「あらプロデューサーくん、どうかした?」
涼やかな声が青年の足を縫い止めた。川島瑞樹が花の笑みで彼を見ている。
「ど、どうもしていません」
「そう? やましくないなら堂々としてなくちゃ、怪しいわよ」
ほんとうに心を読まれた気がして胸を押さえる。そんな彼のようすに、背を向けている蘭子は気づくこともなく、回復した調子で瑞樹を見上げる。
「時の反逆者は次なるサバトへ向かうのか?」
「私はね、うーん、雷を封じ込めた生命の水を買いに行くのよ」
「いかずちを……?」
「ひょっとして、電気ブランですか」
「そう、楓ちゃんから頼まれちゃって。もうおそい時間だけど、まだやってるかしら……」
お詫びの印とばかり、青年は売店が夜一〇時まで開いていることを素早く調べて伝える。川島瑞樹はクスクスと笑った。
「ありがとう。それじゃもう行くわね、お邪魔虫しすぎちゃったみたいだし」
「私たちはそういうものでは……」
「わかってるわかってる。冗談にそんな反応しないのよプロデューサーくん。さっきもいったでしょー?」
笑顔で手を振って、瑞樹は浅草の街に消えていった。すこし遅れて、蘭子と青年も新凌雲閣をあとにする。鉢合わせて気まずくならないよう、神谷バーとはべつの方角に。
スマートフォンはかばんに押しこめ、土地勘もない街をそぞろ歩く。小さい女学生が白妙の袖を、黒紫の袴をひるがえす。そのたび、すっかり近代のものとなったはずの街が青年に、ガス灯のにおいを嗅がせオレンジのあかりを見せる。
写真を撮ろうとかばんのなかへ伸びる手を、青年は止めた。よく警官に見咎められる身として懲りていることもあるが、この大正浪漫の空気を写真では残せぬと感じたからだった。
「新しき風は此方より!」
蘭子はときおり長い袖を夜風にそよがせて走る。離れないよう約束を破らせないよう、青年が大股でそのあとを追いかける。するとかならず曲がり角で立ち止まり、彼の追いつくのを待つのだった。
何度目かに曲がった先は、店もなく、街灯がポツポツと灯る道だった。
「次の角にしましょうか」
「い……否、この程度、障害たりえぬ……。が、その黒き翼にて我を幻術から守護せよ……」
角に着くたび曲がるルールで遊んでいるらしかった。青年が応じると、蘭子は袖を強くつかむ。そうすると洋服ならばいざ知らず、浴衣では肌脱ぎになるばかりか、帯までずれてゆるんでしまう。歩いているうちに脱げそうで、“いまだけ手をつなぎましょうか”と左身頃を直しながら持ちかける。驚き、紅潮する顔を伏せて戸惑い、蘭子は彼の左腕を、卒業証書の筒のように抱えるのだった。
手どころか全身ふるえているのを、手と手で繋ぎなおすとはいえふりほどくのも忍びなく、そのまま小さい歩調に合わせる。にじり足の青年が顔を上げると、明かりが二つ近づいてくるのが見えた。蘭子が悲鳴をあげて太い腕をひっぱる。
「自転車ですよ、神崎さん」
部活帰りか、ユニフォーム姿の少年が話しながら駆け抜けていった。わかりやすく息をつく蘭子に隠れ、青年もひそかに安堵していた。あの二人が警官で、また見咎められはしないかと冷や冷やしていたのである。……とはいえそれこそ怯懦というもの、怖がりの蘭子の寄る辺たるべく、ぐっと抑えこむ青年であった。
やがて二人は浅草寺の裏手に出ていた。もうひと歩きもしたらタクシーを拾おうか。そんなことを考えて言問通りの車を眺ていた青年は不意に左腕に当たる風が冷たくなったことに気づく。そこにつかまっていた蘭子が離れ、玉垣に引き寄せられていたのだ。
「神崎さん、あまり藪に近づくと蚊に刺されますよ」
「わ、わかっている。しかし……」
そういって、唇に白魚の指を立てる。青年も口をとざし、蘭子に近づく。耳を澄ましていると、藪のなかから虫の音が聞こえた。時期が早いのか、大通りに声が散るためか、あるいは彼らが収録での大音声に慣れたせいか、この草むらの合唱は二人の耳にうらさびしくひびいた。
「もう少し、歩いてみましょうか? もっと、よく鳴いているところまで」
「ふむ、まだ夢魔の訪れにははやい。新たなる楽園を求めようぞ」
元気のいいことをいって、蘭子はまた青年の左袖を取る。その仕草は、しかし、気取ってしたのではなく、もつれかけた脚のためだった。……青年はいっそう足の動きを遅くして歩くことにした。
人影も車通りもない細道を右へ曲がり左へ曲がり、浅草の街といえどやはり東京の一角であることを彼らは思い知る。緑地がまるで見当たらないのだ。
「次の角の先にもなにもなければ、大通りにもどってタクシーを拾いましょう」
夢魔にさらわれそうな蘭子はタイムリミットの提示に小さく身を跳ねさせ、頷いた。彼の腕をつかむほどの元気もなくなり、弱々しく右の手で袖先をつまんでいる。
はたして、角を曲がると、わずかばかり視界がひらけた。小高い丘に石段が連なり、途中に丹塗りの鳥居のようなものが見える。そしてその向こう側から、虫の歌が降り注いでくる。
「神崎さん、階段ですが、のぼれそうですか」
「ふっ、我が魔力は未だ尽きず」
強がる蘭子は頼もしい手を背を支えられ、一段ずつ夜闇と虫の声のなかへ上っていく。階段が終わるとふらつきながら、青年の数歩先で立ち止まった。暗い境内に蘭子だけが白く光るようであった。
「ここが……求めし楽園か?」
「はい、神崎さんのお気に召しましたならば」
「では妖精の宴を楽しむとしよう、我が友よ」
振り向いた蘭子の、まどろむようなおだやかな顔に、青年の心臓が跳ねた。
その濃い色の袴から、少しずつ、白い着物も薄く色づいた肌も、闇のなかに消えていってしまう、そんな気がした。蘭子はまた背を向けて、暗がりの奥へ進んでいく。さっきまで、街灯がつくる影にもびくびくして歩いていた面影は、夜闇のなかへ溶けて消えてしまった。
眠すぎて、感覚が麻痺しているのですか。
私の袖は、もう必要ありませんか。
まさか、虫の声にほんとうに誘われてなんか、いませんよね。
大きい手だけが追いかけようとしたとき、その小さい背がふらついた。傾ぎかたが大きい。
「神崎さん!」
叫んで石畳を蹴る。次の瞬間には、彼は膝の力を失って崩れる蘭子を両腕で抱き支えていた。
「大丈夫ですか」
「む、夢魔の仕掛けし泥濘が……」
「もう、お疲れですね。帰りましょうか、このままお運びしますから」
「ヒュプノスの下僕はすでに退けたわ。永劫に等しい流浪の果てに辿り着きし約束の地、いま、しばしは……」
保護者としては帰りを促すところだが、彼は顔をほんの二秒困らせるにとどめ、蘭子のオムズカリを受け容れた。
「わかりました。では、一〇分だけですよ」
かばんのポケットからスマートフォンを出して、時間を見せる。蘭子が頷くのを見、横抱きにして本殿へつづく石段に運んだ。触れると夏とはいえ石は冷えていて、じかに座らせることはできない。それで彼はそのまま石段に腰掛け、蘭子の椅子になった。
腕のなかの少女は赤い目を丸くして見上げ、すぐに目を伏せた。眠たそうな白い顔の、赤みを帯びたのが彼の目にも見えた。
「すみません、あまりお体を冷やしてはいけないと思いまして」
「あ、ああ……。よきにはからえ……」
声の力はすっかり抜けていた。熱を持ちはじめた細い身体を彼は横抱きのまま抱き寄せる。いまに眠りこんで伸びきるだろうという予想ははずれ、蘭子は広い胸に丸くなった。
胸に耳をあてられていると、さっきまで相対していた川島瑞樹以上に心を読まれているようで、青年は小さく身じろぎをする。
いや、読まれて困るような心などない。独り頷いて、しっかりした腕で蘭子を包みなおす。そう、堂々としていればいい。私は椅子。余計なことは思わない。
「我が友よ、其方の魂の波動に乱れを感じる……」
「神崎さんに聞かれているせいですよ」
……などと正直にいうまでの度胸はなく、ここまでずいぶん歩きましたからね、とごまかした。蘭子の返事はそっけない。それは蘭子が鼓動から心を探るすべを持っているとか、幼いなりの女の勘とか、そうした理由からではない。彼にとっては幸いか、ただただ眠いからである。もっとも、当人は
「ご心配なく、深刻なことではありません。……それより、そうしていると私の胸がうるさいでしょう」
「地を満たす星屑の声よりも甘美なるは、黒翼の裡よりこぼれし福音の鐘……」
蘭子の言葉の意味をひもといたとき、青年の心臓は本人にもわかるほどの音を立てた。
「灼熱の息吹が……」
「すみません、すこし離れましょう」
そういいはしても彼は腕が震えて蘭子を動かせず、その胸に頭をぐりぐりと押しつけられた。それが拒否の首振りだと、気づくには長い時間を要した。
「な、なぜです」
「ことわる」
三白眼が天を仰ぐ。
そういえば、あのとき川島さんとなにか話していたな。まさか、この一連のことは、なにも知らぬ神崎さんさえ使って私に人誅を下そうという、彼女の恐るべきたくらみなのではないだろうか……。
「暑いのではなかったのですか?」
「……どうしてこんなにドキドキしてるのか、教えてくれたら離れます」
ふたたび心臓が跳ねる。しかしすぐに冷静さをとりもどす。演技がかった言葉は、蘭子の素直なものではないと直感できたのだ。
「川島さんから、なにか教わりましたね」
小さい体が、びくっと震えた。答えはそれでじゅうぶんだった。かるく息をととのえ、彼は言葉をつづけた。
「神崎さん。私は、自分の胸の裡がすべてわかっているわけではありません。言葉でそれを表現することも下手です。ですから、いまは、私の胸からじかに聞いてみてください。時間は……まだ、ありますから」
二つの腕に力がはいった。……青年の背中へ回った蘭子の右腕と、そして彼の左腕。虫の声はもう、聞こえなくなっていた。
(了)
※本作中の新凌雲閣は実在しません。