翼が見ていたのは1年前のリトルシニアのとある試合の動画。動画はバックネット裏から撮影されており、臨場感がはっきり伝わってくる。マウンドには翼の同級生の男子が普段の穏やかで優しい性格とは別人の自信に漲った表情で闘志を燃え上がらせていた。
「1年前もずっと見てたっけ」
目元が緩み切ってうっとりとした翼が注目――いや執着している男子は大きく腕を振り上げ、恵まれた体躯から鋭く右腕を振り下ろす。速度表記が無くともわかる速度、球威共にあるストレートに打者は身動きすら取れずに三球三振に倒れる。
「何度見てもほんとすっごいなあ……!」
続く打者は内に切り込むスライダーで空振り三振。次の打者はストレートのタイミングを大幅にずらすブレーキの利いたチェンジアップで凡打に打ち取る。
その試合の投球内容は打者27人に対して奪三振20個。被四球被安打0の完全試合であった。
この結果が弱小チーム相手ならまだ現実味を帯びているかもしれない。しかし、全国大会3回戦で尚且つ優勝候補筆頭のチーム相手にこの投球内容である。全国屈指の猛者が文字通り手も足も出ない数十年に一人の天才。
その相手と翼の在籍していたクラブチームは決勝で戦うことになっていたのだ。
チームメンバーは自信を喪失し、自チームの監督までも球数を多く投げさせてマウンドを降ろすしかないと弱気の発言をしていた。
翼もまた体をぶるぶると震わせた。その様子を見たチームメイトの一人は『いつも能天気な有原も怖いものがあるんだな』と冗談交じりで話しかけてきたが、そうではなかった。
(彼と戦えることが楽しみで仕方なかったんだ)
運命的ともいえる1年前の試合を改めて思い浮かべた翼は彼と試合をした過去を振り返る。
※
――野球は中学まで。
翼は女子と言う理由だけで甲子園には出られず、スカウトも来ない現実に悔しくて悔しくて涙し、葛藤した上で野球人生のエピローグを完走しようとしていた。だけど、どこか胸にはしこりが残ったままで諦めきれなくて。
しかし、これほどの強敵と全力を尽くして戦えるのであれば完全燃焼できる。そして、ゆくゆくは彼が甲子園に出場したらマウンドの彼に伝わるぐらいの大きな声で応援しよう。
その後、彼がプロに入ってからも球場に駆けつけて、彼のプレイに一喜一憂するのだ。そんな自分の姿を想像すると笑みが零れ落ちる。
この頃からある意味では一目惚れだったのかもしれない。
いよいよ、決勝戦当日。翼は興奮からあまり眠ることが出来なかったが、寝不足感はなく過去一番に集中力が上がっていた。間違いなくベストコンディションである。
普段は信仰していない神様、そしてはるばる遠くから応援に駆けつけてくれた自分の親友に感謝を捧げた翼は相手チームを前に帽子を脱いだ。
「よろしくお願いします!」
両チームが礼を交わし、相手チームが配置につく。もちろん、相手投手は憧れの男の子だ。
近くで見た彼は動画よりも肩幅が広くがっしりとした体で……動画よりもかっこよく見えた。
(いけない、いけない!)
思わぬところで集中力を乱されかけた翼であったが、自チームの先頭打者に投げられたボールを見て、一瞬で桃色の考えが吹き飛んだ。
今まで対戦してきた投手とボールの質が違う。最初に投げられたストレート一球で翼を含めたチーム全体に畏敬を抱かせた。
(本当にあの球が打てるのかな……)
一瞬、脳裏をよぎる言葉を頭を左右にぶんぶん動かし、無理やり振り払う。
一番、二番ともにストレートでの三球三振。全試合登板してきたピッチャーとは考えもつかない圧巻のピッチングであった。マウンドの彼は落ち着いた表情で右肩をグルグルと回している。その姿からは傲慢な態度は見られず、油断も隙もない立ち姿であった。
「有原。あのストレート、思った以上に手元で伸びてくるぞ。少しタイミングを早めにとったほうが打てるかもしれない」
「そっか。アドバイスありがと!」
『三番、ショート、有原さん』
アナウンスが流れ、目を閉じた翼は胸の前でバットをぎゅっと握りしめてバッターボックスに向かう。
「お願いします!」
バッターボックスに立った翼はヘルメットを調節し、憧れの投手と本当の意味で相対する。彼は翼を見て目を細めたが、ワインドアップで勢いをつけ、すぐに第一球を放った。外角低めのストレート。監督からの指示もあり、一球目はじっくりと目で追った翼。
(速い! でも、まだ目で追える速さだ)
キャッチャーからボールを受け取った彼は間髪入れずに二球目を放つ。今度は真ん中高めのストレート。
翼は目を見開き、鋭くバットを振るった。バットは空を切り、ツーストライク。キャッチャーミットの爆音からただ速いだけではないことも直に伝わってくる。
そして、三球目。遊び球なしの渾身のストレート。剛球はインコース高めに向かって伸びてくる。
「……っ!」
それを翼は全力でバットを振りぬいた。ヒット性の打球は三遊間を抜けそうになるも、相手のショートの立ち位置に阻まれ、惜しくもショートゴロという結果になった。
(すごい! 本当にすごい球だよ!)
バットから伝わってきた衝撃に体全体が痺れている。そうだ、このワクワクする感覚!
野球はこうじゃなきゃ楽しくない。痺れと痛みを感じつつ、翼は彼を見てより一層笑みを濃くした。そんな翼の楽しそうな顔を見た彼もまた釣られるように口元を緩めた。
1回裏、2回表の攻撃は両チーム三者凡退。そして2回裏の攻撃の先頭バッターは彼だった。
左バッターボックスに立った彼に投じた初球。低めに入った決して甘くないスライダーを膝を折りたたみ、アッパースイングで掬い上げた彼はバットを放り投げ、小さく拳を握りしめた。
打球は弾丸ライナーでバックスクリーンに直撃した。文句なしの特大アーチで相手チームに先制点が入る。
(打者としても超一流なんだ……!)
ホームベースをしっかりと踏みしめた彼は歓声を上げたチームメンバーに頭や尻を叩かれ、揉みくちゃにされている。楽しそうに野球する彼とチームメンバーを見て、相手に点を取られたのに翼は微笑みを浮かべてしまいそうになる。
相手チームは元々無名のチームで彼がチームに入ってから全国大会に出場している。ワンマンチームと揶揄されているものの、絶対的エース兼4番打者がチームを牽引し、それに答えるために実力以上の成果を周囲のメンバーが出し、結束力は高くなっている。
そして、両者無得点が続き4回表。またしてもパーフェクトピッチングを続ける彼相手に二度目の打席が回ってきた。
これまでの球種は8割型ストレートのみ。極まれにチェンジアップを投げる程度で決め球のスライダーは解禁していない。
そのことを不思議に思っている翼ではあったが、まずは目の前に立つ強敵に対してどのようにすれば打てるのかを考えるのが先。
「よしっ、ばっちこーい!」
大声で気合を入れる翼に応えるかのような豪速球でツーストライクに追い込む。そこから翼は当てるのすら難しいストレートをカットし続け、初めてフルカウントまで追い込んだ。
(だんだんと慣れてきた! 次は必ず打つ!)
雑音が消え、翼には彼の姿しか見えないほど集中力が高まっていた。人によっては翼からオーラが立ち上っているように錯覚した者もいるほどだ。
ここで初めて彼はキャッチャーのサインに対して、首を振った。二度ほど首を振り、ようやく頷いた彼はワインドアップからボールを放つ。
ボールは真ん中低め。先ほどの速球と同じ速さで翼に向かっていく。
(今度こそ捉えた!)
「っ、そんなっ!」
バットは無常にもボールを捉えることが出来なかった。バットから逃げるように急激に曲がったボールはバットを通り抜け、キャッチャーミットに吸い込まれていった。
彼が今投げたのはストレートではない。ストレートとほぼ同じ速さのスライダー。
これまでの試合では普通……といっては彼に失礼かもしれないが、キレのあるスライダーを投げてきたが今のは超高速スライダーで全くの別物だ。
これでスリーアウトチェンジ。唖然とする翼を一瞥し、彼は翼に向かってグローブを前に突き出して、ベンチに帰っていった。
一方、翼はふるふると体を震わせながら、チームメイトの元に戻っていく。
「有原! 元気出せ! あそこまで粘れているのはお前ぐらいだって!」
最早、チームメイトの慰めの言葉なぞ聞いていなかった。全く見当違いも甚だしい。
翼は落ち込んでなんかいない。天に舞い上がるほど嬉しくてしょうがなかった。
あれが彼の本当の決め球だろう。それを自分だけに使ってきてくれたのだ。自惚れではなく、彼は有原翼という選手を明確な敵として認めてくれた。女性だから男性だからという訳ではなく、有原翼という一個人を認めてくれた。それが何よりも嬉しくてしょうがない。
(野球、やめたくないな。彼とずっと野球していたいな)
野球は中学までと決めていた翼にとって正真正銘最後の試合だ。しかし、何故だろう。動画で何度も見ていたとはいえ、会ったばかりの人とずっと一緒に野球をしたいと強烈な感情を抱いてしまったのは。
5回表。先ほどホームランを打った彼が長打を捨て、来たボールをカットして四球で出塁する。そこから連打を浴びた翼のチームは更に点差を広げられる。
更にヒット性のライナーが出るも、翼が猫のような動きでダイビングキャッチをし、飛び出していたランナーをそのまま刺しゲッツーに抑え込む。
拍手が観客席から巻き起こり、敵味方、観客ともに翼のファインプレーに感嘆する。ここで止めていなければビックイニングになっていた流れをせき止めた。
しかしながら、スコアは0-3。またしても完全試合で進められている投手相手に厳しすぎるビハインドである。
そして、最終回の7回表。ここをノーヒットで押さえれば二度目の完全試合達成という大記録を前に彼に急遽異変が生じた。
コントロールも抜群に良かった彼が初めてフォアボールを出す。2番打者にはボール先行でカウント3-0からの彼らしくない平凡なストレートをフェンスまで運ばれ、ノーアウト一三塁。ここでノーヒットノーランも完全試合も無くなり、ホームランで同点のチャンス。
ここで準決勝で逆転サヨナラ満塁ホームランを打った翼に打席が回ってきた。翼の得点圏打率は6割3分。チャンスには滅法強い選手であった。翼もそれを自覚している。
(たぶん、これが私にとって最後の打席だ)
野球人生最後になる打席に立った彼女は正面から彼を見据え、眉をひそめた。
(なんで、なんでそんなに辛そうなの?)
彼のチームメイトも心配そうに彼を見ている。タイムを取って集まってきた内野陣に対し、「大丈夫、この子だけは絶対に抑えるから」と此方に対して聞こえるぐらいの大きな声で言った彼は燃え盛る闘志と挑発的な笑みを持って、翼と相対した。
翼も心配は杞憂かと太陽に照らされた向日葵のような底抜けに明るい笑みを作る。
しっかりと翼に目を合わせた彼は全身に力が行き届いたダイナミックなフォームで翼に対して第一球目を投げた。
「ふっ……!」
今日の試合で何度も見た球威、速度がある彼のストレートを翼は初球から食らいつく。バットからは小気味よい音が響き、ボールはバックネット裏に直撃する。タイミングはバッチリと合っている。後は芯にミートさせれば確実にヒットが打てる。
そう確信した翼に投じられた二球目。
「……ひぁ!」
翼以外には投げないストレートと見分けがつかない超高速スライダーに思わず情けない声を出してしまう。これでカウント0-2。
ここで彼は先ほどの翼の打席と同様に何度も首を振る。5回ほど首を振った後、彼は大きく振りかぶった。
サインを盗み見た訳ではない。だが、翼には彼の意思が伝わってきた。
(三球勝負で球種はストレート……だよね。君との最後の勝負、絶対に勝って見せる!)
彼が繰り出してきた球は今まで見た中で一番速いストレート。だが、しっかりと見えている。ド真ん中でジャストミートさせればホームランボール。
翼は今まで費やしてきた野球への思いを全身全霊にバットに込めて、フルスイングした。
「ストライク! バッターアウト!」
(まだ隠し玉を持っていたなんて! 本当に、すごいや……)
翼のバットからは何も衝撃が伝わらず、初速と変わらない速度で手元で伸びてきた球は魔球とも呼ばれるジャイロボールそのものだった。
完敗だ。だけど、どこか清々しい気分だった。なぜか自然と涙が溢れて止まらない。最後に彼を見るとどこか悲しげに「ありがとう」と声をかけてきたので、涙を拭って「ありがとうございました」と返した。
自分の戦いはここで終わった。だけど、まだ試合は終わってない。
「まだまだこれからー! 一本打っていこー!」
必死に声を振り絞り、チームメイトの応援をする。できることは何でもやる。なぜなら、これが最後の大会なのだから。そう、この試合が彼にとっても最後の試合になるとも知らずに。
翼が倒れた後の4番打者相手に彼は振り被ることもせずにボールを投げた。ボールはキャッチャーミットに届くことはなく、マウンドから半分ぐらいの距離にポトリと落ちる。続けて投じられたボールはマウンド上にポトンと転がり、止まった。
それに伴って彼は右肩を抑え――苦しそうに呻き声を上げてマウンドに蹲る。
一斉に会場がざわついた。一体、彼に何が起きたのかと。
すぐに担架が持ち出され、彼はベンチ裏に引き下がっていく。会場はざわつきから誰一人言葉を発することが出来ない沈黙に包まれた。誰が見ても間違いなく故障だと分かる。
翼は目の前が暗転してモノクロと色のある世界を行き来していた。あの「ありがとう」という言葉は最後に対戦してくれてありがとうという意味だったのか。
そんな訳はない。そんなはずはない。だって、彼は自分と違って将来有望すぎる選手で私が最後の打者になんてなってはいけない選手なんだから。
私との勝負のために野球人生が終わってしまった? そんな大怪我な訳がない。だって、私はこれから彼の勇姿を見に甲子園、そしてプロで活躍する彼を応援するんだから。
その後、後続で出た相手投手は彼とは雲泥の差であり、投手としての力は地方大会止まりであった。加えて、動揺の具合が相手チームのほうが大きかったため、7回表で5点を取り返し逆転。7回裏は三者凡退でゲームセット。翼のチームは見事全国優勝を果たした。
――そして、翼は野球をやるのも見るのもこれっきりにしようと決意した。
だからこそ、野球部のない高校で彼と出会ったのは奇跡だった。翼は入学式の直後、彼を屋上に呼び出して、あの後の真相を直接聞こうと思った。
「あの、さ。私のこと覚えているかな?」
「うん。決勝戦で対戦したよね」
「覚えてくれていたんだ!」
「忘れるわけがないだろ。対戦して熱くなった選手のことをさ」
「わ、私も! その、本当にすごい球だった。ストレートも速すぎるスライダーも、あと、その、肩の怪我は……」
翼をよく知っている親友が見たら救急車を呼びたくなるぐらい歯切れが悪く、目が泳いでいる翼に苦笑した彼は静かに翼が口にしてほしくなかった最悪の結果を告げる。
「あの後も肩が治らなくて、俺はもう野球は出来ない」
「そんな……」
翼はペタリとその場に座り込み、ポロポロと涙を流し、嗚咽を吐く。あの時のトラウマが蘇り、視界がグルグル回りだす。
思考が纏まらない中、右肩に温もりを感じた。ふと右肩に手を当てたら、そこにはピッチャー特有の大きくてゴツゴツした右手があった。肩に手を当てたまま彼は話を続ける。
「有原さんはまだ野球を続けている?」
「もう、やめちゃった」
「そうか。あのさ、すごい自分勝手なんだけど、有原さんには野球を続けてほしいんだ」
「え?」
「あんなに楽しそうに野球をする奴なんか有原さんぐらいしかいなかったよ。有原さんは野球が好きだろ?」
「……す、好きだったよ」
「俺も有原さんみたいにただ無邪気に野球がしたくなって、あの試合は限界以上の力を出すことが出来た」
「俺は野球をする有原さんが好きだし、もう一度有原さんが試合しているところを間近で見たい」
対戦した時と同じく、自分だけに向けられた熱量を持った瞳を前に翼は混乱した頭の中で、情報を必死に纏めていく。
彼が私が好き? わ、私も彼がかっこいいと思うし、好きだし! その野球人として! その彼が私が試合しているところが見たい? 私も彼にいいところを見せたいよ!
もっと私を知ってもらいたいよ!
翼にとって野球への情熱は全国大会決勝に置き去りにしてきた。しかし、ここで彼と一緒に野球をしたいという想いが再熱してきた。
彼と一緒に野球が出来たら、毎日どれだけ楽しいのだろうか。
どれだけ幸せなんだろうか。
どれだけ満たされるのか。
だけど、彼はもう野球は出来ない。一体どうすれば――。
翼は普段は使わない頭をフル回転させ、ひらめいた会心のアイディアを披露した。
「じゃあさ、私が野球をまた始める代わりに私の監督になってよ!」
「か、監督?」
「うん! 女子野球部の監督! ねっ、いいでしょ?」
「いや、この学校って男子野球部すらないし」
「これから作ればいいじゃん! そうと決まったら善はなんとやら!」
ガバっと急に立ち上がった翼は長らく忘れていた心の底から生み出した輝く笑顔で振り返り。
「私のことは翼って呼んでね! それじゃ、またね!」
彼と二人で目指す甲子園。なんて素敵な目標なのだろうか。そのためには数合わせとなるメンバーが必要だ。なかなか大変そうであるが、苦難があってこそ燃え上がるものだ。
新たな目標が生まれた翼は、彼のために野球をするこれからの明るい未来に胸を躍らせていたのであった。
※
泣き出されて一時はどうなるかと思ったものの、無事に元気を取り戻したみたいで一安心した彼。溜息を大きく吐いた後、屋上にショートカットの女子生徒が姿を現す。
「これで、よかったかな。河北さん」
「うん、バッチリだよ。約束通り、私のこと好きにしていいよ」
翼の大親友である河北智恵は身長差から必然的に上目遣いになりつつ、口元に手を当てたまま煽情的に彼の胸元にしなだれかかった。