――何事もうまくいってしまう人生は味気ない。
伽奈は目標のために最適で最短で最小限の力配分を行えば、ありとあらゆる分野でトップクラスの実績を残すことが出来た。
同時にスポーツにしても勉強にしても、他の人たちがわざわざ非効率な方法を取るのか理解できなかった。
無駄な過程を行っていた人に率直な意見を伝えたこともあったが、その度に反感を買ってしまった。意味がわからなかった。ただ、アドバイスをしているつもりだったのだが。
『完璧超人だからって調子に乗りすぎ』
『上から目線で正論をぶつけてくる性格ブス』
と、陰口を叩かれることもあった。
完璧だから調子に乗っている? 全く論理が成り立っていない。
正論を伝えることの何が悪いのか。どうして間違ったことを正しているだけなのに責められばならないのか。
物事に取り組めば、すぐに結果を出してしまう。結果を出せば、やっかみが増える。助言をすれば、心ない誹謗中傷が待っている。ああ、そうか。
――物事にかける情熱など、いらないのか。
それ以来、伽奈は傍観者でいることにした。冷めた目で世界を眺める伽奈はこれからも無難に日々を過ごし、苦難もなく無難な人生を過ごしていくのだと思っていた。
そんな退屈な時間を浪費していた時。すっかり冷めきってしまった伽奈に転機が訪れた。
生徒会に所属している伽奈が野球同好会の部に昇格するための審査担当として同好会のメンバーと関わりを持ってからである。
その中でも、不器用で愛想のない同級生の倉敷舞子も参加していることに少しだけ関心を持った。関心を持った理由は舞子が自分と似ていると思ったからだ。
最初は無愛想な態度を隠そうともせずに練習に参加していた彼女であるが、ある日を境にやんわりとした笑みを浮かべることが多くなった。
その瞬間が最も見られるのが、ピッチング練習時であった。今がちょうどその時である。
「っ!」
舞子はみだれのない美しいフォームからキャッチャーに向かって、ド真ん中に速球を投げ入れた。
キャッチャーミットからはバシンと気持ちの良い音がこだまする。
「先輩、ナイスボールです! また同じコースにお願いします!」
「ん」
キャッチャーからの賞賛の声に冷静な表情は保っているも、口角はほんのりと上がっている。舞子が数球投げた後、キャッチャーは立ち上がって彼女に指導を施す。
常に他人と距離感を保っている彼女とは思えない。自らの体を指導のために触られても文句ひとつ言わずに受け入れているのだ。ましてはそのキャッチャーは同性ではなく異性なのだから驚きだ。
キャッチャー――この同好会の監督である彼と話している舞子は感情の機微に乏しい伽奈でもわかるほど嬉しそうだ。彼を暖かな目で見つめている彼女はとても満たされていた。
――私も投げたら、彼女みたいな感情を抱けるのだろうか。
じっと見ていてしまったのが祟ったのか、視線に気づいた舞子は眉を吊り上げ、整った顔で睨め付けてきた。美人が怒ると迫力があるというのは、どうやら本当らしい。
「……何よ」
「なんだか、楽しそうだなと思って」
「はあ? 言いたいことがあればはっきり言えば?」
「もう言ったけど」
「……何なの!? アタシが気に入らないってこと!?」
またか、と伽奈は内心うんざりした。そんなつもりは全くないのに。
まあ、陰口を叩くよりもストレートに啖呵を切ってくれるほうがましだ。相手が自分に対してどんな感情を抱いているのか一目瞭然なのだから。
そんな喧嘩腰の舞子を見かねたのか、慌てて彼が仲裁に入ってくる。てっきり舞子のことをフォローするために優しい言葉をかけるかと思いきや……逆に彼女をしかりつけた。
「落ち着いてください。今のは倉敷先輩が悪いです」
「……何よ。アンタはアイツの肩を持つわけ?」
「はい。どう考えても理不尽ですから」
ここまではっきりと否定されると思っていなかったのか、舞子の目は視点が定まらずに泳いでいた。
「客観的に見て、九十九先輩に落ち度はありませんよ。ただ見ていただけなんですから」
「でも!」
「でも?」
「……何でもない。少し頭を冷やしてくるわ」
彼の前でバツの悪そうな顔になった舞子は伽奈を再び睨むと、休憩スペースに向かっていった。想定とは違った彼の対応はとても年下とは考えづらい大人な対応であった。元々個人的に興味があった彼にますます関心が湧いてくる。
「申し訳ありません。私のせいで練習の邪魔を」
「いえ、気にしないで……いや気にしますよね」
テンプレの常套文を口にしかけた彼はわざわざ言い直した。ここにも彼の気遣いが見て取れる。続いて彼は舞子がいない間に必死になって彼女を擁護した。
「その、倉敷先輩は決して悪い人じゃないんです。無愛想に見えてとても面倒見がよくて、人に誤解されやすいくらい不器用だけど優しい人なんです。俺も普段からすごくお世話になっていて、だから……」
「大丈夫です。私は倉敷さんに対して悪印象は持っていませんから」
「ああ、良かった」
俯瞰的に世界を見てきた伽奈だからわかる。目の前で胸を撫でおろす彼は雑草のようにわんさかいた偽善者たちとは一線を画している。彼は良くも悪くも愚直すぎる人だ。
彼は気まずい空気に耐えかねたのか近くに置いてあった茶色のグローブを持ってくる。
「そうだ。九十九先輩も一度投げてみますか?」
「え?」
「楽しそうだと思っていたのなら、是非やってみてください」
彼は持ってきた右利き用の汎用グローブとボールを手渡すと、伽奈との距離を離す。そのまま彼は座り込んで、どっしりとした構えで伽奈の球を迎え入れる準備をした。
「いいんですか?」
「大丈夫です! 先輩の肩は先ほど付き合って頂いたキャッチボールで温まっていますので! 思い切り投げてきてください!」
伽奈は以前動画で見たピッチングの基礎の動作を脳内でトレースして、投げた。風を切る音と共に回転が程よくかかったボールは彼の構えた位置にズバッと決まった。
「ナイスボール! もう一球続けていきましょう!」
確かに気持ちいいのかもしれない。全力で投球するのも、狙った場所にボールが行くのも……普通の人は楽しいのかもしれない。
しかし、何でだろう。こんなもんかと冷めた気持ちでこの競技を捉える自分がいた。ある程度投げ終わった後、彼は困った表情で伽奈に近づいてきた。
「あまり楽しくなかったですか?」
「いえ、楽しかったです」
「嘘ですね。案外、九十九先輩ってわかりやすいところもあるんですね」
嘘だと断言した彼は伽奈に対して、苦笑いを浮かべた。
何故、見抜かれた。変わり者の友人から表情筋が死んでいると言われている自分の表情からはわからないはずなのだが。
「そりゃそうですよ。無意識で持てる力をセーブしているんですから。楽しい訳がないじゃないですか」
――無意識で力をセーブしている? 私が?
「九十九先輩の投球、すごく綺麗で整っていました。動画の見本をそのまま再現しました?」
「はい」
「でも、そのフォームは一般向けの最適なフォームであって、先輩には適していないフォームです。例えば、投げ方はこうギュンとグイっと肩を下して、グググッと肘をこんな風にやってですね……足はこうギギっって投げる感じです」
「……倉敷さんに教えるときと違って、随分適当じゃないですか?」
擬音だらけな表現で普通の人だったらまず理解できない内容だ。正直、人によっては馬鹿にされていると捉えるかもしれないアバウトすぎるアドバイスだった。
「たぶん九十九先輩ならこの方がわかりやすいかと思いまして。俺も言葉を考えるよりもこういった教え方が一番楽なんです。それじゃもう一度お願いします!」
熱心なのはいいことだが、どうせ大して変わらないだろうと思ってしまう自分の熱意の無さに呵責を覚える。だが、アバウトすぎる説明も自分なら理解できるし、せっかく部外者の自分に対してここまで真剣に教えてくれているのだ。彼に教わった通りにもう一度投げてみるのも悪くない。
「ふっ!」
――何だ、コレは? 力の伝わり方が全然違う。肩や肘に余分な力が入らず、足の踏み込みも少し修正するだけでこんなに異なるものなのか。
過去一番の力を出し切った。そう思えた会心のピッチングに対して、彼はあろうことかヤジを飛ばしてきた。
「全然ダメです! 先輩はこんなもんじゃないはずです! 腕も足腰もなっていませんよ! こうです、こう!」
――言ってくれるじゃないか。
成果を出したのに、面と向かってダメ出しされた経験なんて一度もなかった。これが凍えた伽奈の心をみるみるうちに溶かしていった。
どのように投げたら彼を納得させられるのか。見返せるのか。伽奈は明確に自分の才能をフル活用しようと努力し始めた。感覚だけに頼るのではなく、試行錯誤しながら伽奈は錆び付いたギアをどんどん上げる。
「ふっ!」
――ズバーン!!
ギアが最高潮に達したとき、伽奈は渾身の一球を生み出すことが出来た。肩で息をしつつ、どうだと見返すと彼は満足気に頷いた。
「……ようやく楽しんでくれましたね」
「何故、そう思うのですか?」
「だって、楽しそうに笑っていますから」
「え?」
口元に手をあてると確かに三日月型に口角が吊り上がっていた。長年体験することが出来なかった達成感。体の奥底から湧き上がってくる活力。生きているという実感。
ああ、なるほど。これが満たされるということなのか。これが楽しいという感情なのか。
人が欠落していた感情の余韻に浸っているところに、物凄い剣幕でこちらにズカズカと歩み寄ってきた女がいた。先程からずっと遠くから様子を伺っていた舞子だった。目尻をひくつかせ、怒りを沸点ギリギリで留めているのが見て取れる。
「ちょっと。何で九十九さんがアイツを座らせて投げているのよ……」
「彼から言ってきたんだ。投げてみないかって」
「ああ、そう。なら、もう邪魔だから早く出て行ってくれる?」
彼女からかかってくる圧が先程とは全く違う。これは怒りだけではなく、明確な敵意だ。落ち着かない様子で組んだ腕の肘を人差し指でつつき、ワナワナと唇を震わせる。
また身に覚えのない怒りを受ける羽目になるとは。とりあえず謝っておけばなんとかなるだろう。
「邪魔とは随分とひどいんじゃないかな。でも、気に障ったのなら謝るよ」
「……ああ! ほんとにムカつく! 何もわからずに謝られたところで腹が立つだけよ!」
「それじゃあ教えてくれないかな? 何でキミが怒っているのかを。その上で謝るよ」
「本当に人を煽るのが得意なようね……!」
舞子が今にも掴みかかってきそうな距離まで詰め寄ってくるも彼が合間に立って、無理やり衝突を防いだ。すると舞子の理不尽な怒りの矛先は彼にも向かう。
「やめてください、倉敷先輩!」
「アンタもアンタよ! 九十九さんは生徒会から来た審査員で部外者でしょ! アンタがそこまでして真剣に教える必要なんてないじゃない! それとも、何? 九十九さんのほうがアタシよりも伸びしろがあって上手だったから教えがいがあった? だから、アタシのときより指導に熱が入っていたんでしょ?」
「そういう訳じゃ……」
「アタシには踏み込んだ指導は一度もしなかったじゃない! ねえ、アタシもっと頑張るから。だから、アタシにも同じように教えなさいよ。悪い部分があったら言ってよ。足りないところがあれば、今からでも直すから。アンタの期待を裏切ることは絶対しないから……」
最初は彼に対しても語気を強めて怒りをぶつけていた舞子であったが、どんどん声が弱弱しくなり、最後は懇願するように瞳を潤ませていた。
まるで飼い主に捨てられそうになる子犬みたいではないか。自分と似た人間だと思っていた彼女はこんなに脆い人だったのか。
感情がないと揶揄される伽奈でもこの場を収めるには舞子の望む言葉をかけてやるのが一番いいと考える。それが人生をそつなく生きていくための処世術だろう。
しかし、彼も真っ直ぐすぎるが故に気の利いた甘い嘘をつくことが出来ない。
「……倉敷先輩には同じように教えられません」
「どうして……どうしてなの?」
「倉敷先輩と九十九先輩は違いますから……」
彼に拒絶されたと思ったのか、舞子は顔を俯かせ、双眸を真っ赤にさせた。乾いた土に彼女の流した雫がぽとぽとと染みを作る。舞子は嗚咽を交えながら魂を引き裂かれるかのような悲痛な声で叫んだ。
「違うって何……? 九十九さんと、アタシとの違いって、何よ……! 才能の、差? ああ、そう。そういう、こと。アンタも、九十九さんも、天才だものね……! 天才同士、通じ合うものもあったんでしょうね! だから、さっきもッ! アタシを悪者扱いして、アイツの肩を持ったんでしょッ!」
「誤解です、先輩!」
「もういい! 才能のない、アタシなんかには、分かるはずも、ないんだからッ!」
転びかけそうなくらい態勢を崩しつつ、舞子はこの場から逃げ出した。逃げる際に此方を一瞥した目は漆黒の憎悪に染まっていた。
特に気にすることなく、横にいる彼の様子を見るとさすがに混乱しているのかすぐには動けないようだ。彼女の姿がグラウンドから消えそうになった時にようやく我に返る。
「行ってください!」
「あ、あの」
「いいから、早く!」
「ッ! すみません!」
その後、彼は必死な形相をして、意図せず傷つけてしまった彼女の背中を追いかけていった。ああ、そうか。彼も同じなのか。
――彼も私と同じで人の心がわからないのか。
彼の場合は愚直で優しすぎる。故に人を癒し、それ以上に深く傷つける。人の心に寄り添っているつもりで真逆の行為を働く。なんて残酷な男なのだろうか。
きっと舞子はあの後、彼の心地よい
回数を重ねれば重ねるほど彼を摂取しなければならない時間は長くなり、心は醜い嫉妬心や猜疑心でいっぱいになっていく。そんな彼女が不憫で哀れで仕方がない。
「くふ……ふふふっ」
あれ、何故だろう。笑いがこみ上げてくる。とても笑う場面じゃないのに。笑いをこらえるのが辛い。この状況が愉しくてしょうがない。
異変に気づき、周りに集まってきたメンバーたちに表情を隠すように無表情を意識的に保つ。
ここ数週間、伽奈はずっと彼女らの活動を見てきた。外から見ていると鮮明にわかるのだ。彼女らの半数以上は彼といるときに一番輝かしい笑みを浮かべていたことを。そして、自分以外の人と話している時に見せる彼女らの黒い感情を。つまり、末期患者である舞子ほどではないにしろ……彼女と同じようになる素質を持った予備軍が控えているのだ。今日の舞子以上の反応が見られると思うと、想像するだけで心が震える。
ここなら感情を動かす何かを必ず探し出せる。彼に教わるのは新たな自分を発見できて楽しいし、愉しそうだ。
それに傍観者でいるのではなく自分も劇の一員に参加するのも面白いに違いない。劇は眺めるよりも直接関わった方が格別の臨場感を味わえるに違いないだろうから。
「ふふっ……」
欠落した感情を取り戻すために伽奈はゆっくりと愉しみに待つ。遠かれ近かれ訪れるであろう盛大でド派手な劇場の開幕を。
九十九くんのファンの皆様、誠に申し訳ございません。