練習試合当日。晴れて部に昇格した里ヶ浜高校女子野球部は対戦校である清城高校に赴いた。
内野は黒土で丁寧に均され、外野の瑞々しい天然芝、多くの野球専用の練習器具と里ヶ浜とは比べ物にならない練習環境が整っていた。腐っても元名門校である。
グラウンドの中央に両選手が集まり、キャプテン同士が握手を交わし合う。
「里ヶ浜高校女子硬式野球部、キャプテンの有原翼です! 今日はよろしくお願いします!」
「清城高校女子硬式野球部、キャプテンの神宮寺小也香です。本日は有意義な試合をしましょう」
「……はい!」
翼は天真爛漫で野球が大好きな少女の顔を作り、小也香の目を覗き込んだ。そして、小也香の奥に潜む微かな敵対心と嫉妬心を直感的に悟った。ああ、この女も少し彼に優しくしてもらっただけで勘違いしている害虫だ。
身内にも色目を使う雌猫がたくさんいて対処しきれないが、野球は最低でも9人いなければ成り立たないゲームだ。甲子園に行くという夢のためには仕方ないと割り切っている。
しかし、チームメイト以外の凡骨は話が違う。彼に纏わりつく羽虫は迅速に駆除しないと。封じ込めない闇が表面に出てきそうになるが何とか抑えつける。
――いけない。彼が好きな私は心の底から野球が好きな私なんだから。
龍との勝負の最中にかけられた自分だけを想った彼の暖かい言葉、そして優しく背中に寄せられた大きな手の感触。今でも思い出すと体が火照って臍の下がむず痒くなり、自宅は勿論のこと、外でも油断すれば手を疼く部分に移動させてしまいそうになる。
『翼はさあ、彼氏作ろうとか思わないの?』
『彼氏? 考えたこともなかったよー』
『もったいないなあ。翼なら黙っていればどんな男でも捕まえられそうなのに』
『黙っていればってどういうこと!? でも、私には野球があるから今はいいかな」
野球しか興味がないと自他ともに思っていた。友人たちが色恋沙汰で盛り上がっている最中、実感が湧かず適度に相槌を打つことしか出来なかった。
けれども、今は違う。一人の男の子のことを想うだけでこんなにも興奮して、渇望して、幸せな気持ちになれることを身をもって体験した。もう野球しか知らない有原翼には戻れない。
――憧れの彼が望む有原翼になりたい。
そうすれば、彼はより一層自分のことだけを見てくれる。優しく包み込んでくれる。一緒に夢を追いかけてくれる。ずっと一緒にいてくれる。
――彼の傍にいるのは私だけでいい。心と心が繋がっている私だけでいい。
※ ※
1回の表。先攻となった里ヶ浜の1番バッターの中野綾香は小也香のストレートをボテボテながらもなんとかバットに当て、俊足を生かした内野安打で出塁する。
2番の阿佐田あおいには大振りのスイングで1球目は空振りを取るも、2球目で内野の意識を逸らせたバントを鮮やかに決められ、得点圏にランナーを進められる。
開幕からピンチの場面。続く3番打者――リトルシニア全国優勝経験者の有原翼が深い集中力を持ってバッターボックスに入ってくる。
小也香は程よく力の抜けた自然なフォームと堂々とした立ち振る舞いに噂通りの強打者であると身を引き締める。何せ彼女はリトルシニア強豪チームで男子を差し置いて3番を張っていた猛者だ。
女房役の花が出したサインはアウトコース低めのストレート。サインどおりに投げた球を翼はじっくり見送る。2球目に求められたのはインハイ高めのストレート。体に近い球を投げたのに彼女は微動だにしないまま、ただボールを目で追っていた。
あっという間にツーストライクに追い込んだものの、嫌な見逃し方をされている。
3球目は振ったらラッキー程度の釣り玉。当然、翼はただ見送るのみ。やはり釣り玉で振ってくれる甘い相手ではない。
続く4球目には初めて投げるチェンジアップで凡打に打ち取ろうとするも、見てから軽くファールゾーンにカットされる。
カウントは未だピッチャー有利の1-2。しかし、ジリ貧になっているのはバッテリー側の方だった。ストレートでもチェンジアップでも翼相手ではアウトを取れそうにない。故に、手札を一枚晒すしかなくなった。
『小也香、ここは決め球で勝負をしよう』
『わかりました』
キャッチャーとサインで意思疎通した小也香が投じられた5球目。それはストレートとは明らかに球速の違う球。かといってチェンジアップではない。グイっと横斜めに鋭く落ちるボール。
「いきなり落ちた!?」
「……カーブ、いやスライダーよ!」
里ヶ浜のベンチからどよめきが起こる。この前に来てくれた彼にも見せたことがないスライダー。この球は小也香の自信と誇りがふんだんに詰め込まれた一球だ。そう簡単に打てる球ではない。
だが、意表をつかれたはずの翼は驚きもせず小也香の決め球を見て、嗤った。
翼のタイミングの取り方は確実にストレート待ちだったはず。にもかかわらず、強固な足腰と体幹でバランスを崩すことなくアウトコースに逃げる球を柔らかくも非常に鋭いスイングで合わせた。
――カーン!
キャッチャーの花も、ピッチャーの小也香すら完璧に捉えられたと思った一振りは予想に反して、打ち損じとなりライトフライとなる。しっかりとライトが捕球し、翼を打ち取ることに成功した。
自分の失態に苦笑いを浮かべた翼はすぐに明るい笑みを携えて踵を返す。流れるまま、バッターボックスに控えている次の打者に耳元で何かを囁く。コクリと頷いたネクストバッターの東雲龍はバッターボックスに入り、クスリと鼻で笑った。
こちらを馬鹿にしているのが明らかにわかる見下した態度。実に憎たらしくて、腹立たしい。煽りの天才とは彼女のことを言うのだろう。
以前、龍とはバッティングセンターで顔を合わせたことがある。だが、龍と小也香は致命的にまでソリが合わなかった。私怨もあり、翼以上に打ち取ってやりたい人物だ。
無難にストレートでストライクを取り、その次の2球目。花のサインに頷いた小也香は全身のバネを引き絞り、渾身のスライダーを投げた。
「……話にならないわ」
――ガキーン!!
一閃。腰の粘りをふんだんに生かした翼以上のスイングスピードでバットを繰り出した龍は小也香のスライダーをお手本のように掬い上げた。右中間に打球はグングンと伸び、外野は追うことを諦める。
清城の絶対的エースから放った2ランホームラン。彼女たちの目を覚まさせるには十分すぎる一打であった。
※ ※
「あんなに曲がる球を捉えるなんて! 凄いですね、東雲さん!」
「うん! ほんと、すごいよね!」
夕姫の賞賛の声に翼は感激したように装うが、自分と同類の龍なら打てて当然だと思っていた。何故なら、小也香のスライダーは速度、キレ、変化量全てにおいて彼のスライダーの劣化版なのだから。
翼が打ち損じんでしまったのは、翼自身がスライダーという球種を神聖視していたためだ。頭の中でインプットされていた球とイメージがあまりにもかけ離れていた。なので、バットを出した位置がズレてしまったからだ。
打席に立つ前の龍にかけた一言は彼の半分以下、だ。その一言で察してくれた龍はイメージを補完し、投じられた球をうまく捉えたのだった。
――あの時の東雲さんが怒るのも無理ないかな。あんな球で彼と私の決め球なんて言っちゃった。うわぁ、すっごく恥ずかしいよ!
今思うと、自分が龍と対決した時に投げたスライダーも小也香と同じヘボ球だ。
確かに逆の立場からすると馬鹿にされているとしか思えない。今更ながら羞恥心が湧いてくる。
恥ずかしさから目を背けて我に返り、試合の様子を伺うとちょうど5番バッターの伽奈がストレートをうまく合わせたところだった。小也香の顔面近くに打球が飛んでいったが、体を仰け反らせながらもうまく捌かれてスリーアウトとなった。非常に惜しい当たりだった。全くもって惜しい。とても残念だが、これで攻守交替だ。
「倉敷先輩! バシッとお願いしますね!」
「……わかっているわ」
翼はグラブを持ってグラウンドに行くと、これが初試合で初登板となる舞子に声を掛ける。舞子は相変わらず素っ気ない態度を取っているが、試合前から気合の入れようは凄まじいものだった。加えて、恐らくプレッシャーに関してもチーム随一のはずだ。
ピッチャーというポジションは野球で一番重要なポジションだ。チーム力に大きな差があろうとも、ピッチャーが打たれなければ負けることは無い。
この試合の場合、チーム力では里ヶ浜は清城に誰がどう見ても負けている。勝つためには舞子に奮起してもらうしかないのだ。
そして、一番のプレッシャーの要因はチームメイトからの期待――ではなく、彼からの期待に応えることだろう。
あれだけ付きっきりで練習を見てもらっていたのだ。結果を出なさければ許されないと自分を追い込んでいるに違いない。
しかしながら、気持ちだけで勝てるほど野球はそんなに甘い競技ではない。
きっちりと実力で抑えてくれたのなら、それはそれで翼にとってもありがたい。このレベルの相手にすら勝てないようでは甲子園なんて夢のまた夢だからだ。戦力が上がることは望ましいことだ。
――彼の期待だけは裏切らないで下さいね、倉敷先輩。
舞子自身に思うことは多々ある。つっけんどんとしても、少しでもほっとかれると自分から彼に近づく。放課後にも何かと理由をつけて彼を連れ回す泥棒猫。彼といるときに見せる満足そうな顔。頭が割れそうになるぐらいの怒りと殺意を何度抑えたことだろうか。
でも、寛大な心で許そう。有原翼は野球に恋する女の子なのだから。とりあえず、自分らしく試合を楽しむことを考えようと翼は朗らかに微笑むのだった。