監督の彼はこの試合一度も指示を出していない。ただ静かに自チームと相手チームを観察していた。
試合に出ている選手たちに労いの言葉はかけるも、それ以外は地蔵のように静観を貫いていた。
「なんだか浮かない顔だね。このままいけば勝てそうなのに」
「このままいけば、か。確かにそうだな」
采配によりスタメンを外され、ベンチから応援をしていた智恵が自身の微妙な表情を読み取ってくる。人をよく見ている智恵の前では意図して作ったポーカーフェイスは見抜かれてしまう。
監督たるものいずれは自分も彼女のような技術を身につけなければならないと思いつつ、試合を観戦する。
経験者である翼や龍を差し置いてピッチャーに任命した舞子は清城相手にエラーと四球でランナーは出したものの、3回まで被安打0と文句なしのピッチングを行っていた。
球種はストレートとチェンジアップのみであるが、緩急とコースを使ったピッチングで格上である清城打線を抑えている。
和香の配球選びも流石といったところだが、サインを出した場所に球を放る舞子の制球力も目を張るものがある。キャッチャーのサインに首を振らないため、投球テンポもよい。
そして、ピッチャーとしてかかせない相手を威圧する闘志や気の強さは里ヶ浜の中でも龍と比肩するだろう。身体能力や野球センスは置いておき、投手としての資質という一点において舞子は翼よりも上かもしれない。
が、2巡目以降のここからが本番。観察を終えた清城打線が暴れだす頃だ。試合前に伝えてあることを舞子が実践できるかどうかで今後の展開は変わっていくだろう。
彼女にはマウンドに立つ苛酷さをじっくりと味わってもらいたい。そして、翼や龍を除いた部員たちにも試合のプレッシャーを肌で感じ取ってほしい。
――今日は里ヶ浜ナインを完膚なきまでに叩き潰してもらう為に清城高校に来たのだから。
※ ※
――ここまでは怖いくらい順調ね。やってきたことは無駄じゃなかった。
本日の試合のマウンドを彼から任されている舞子はロージンバッグを手に取り、集中力を高めていた。
汗はかいているものの、息は上がっていない。スタミナもまだまだ十分にある。練習後にも体力づくりを行ったかいがあったというもの。
それに彼が付きっきりであそこまで熱心に、入念に、厳しく、時には優しく教えてくれたのだ。それに応えないでどうするのだ。
――アンタが指導者としても優秀だってことを私が証明して見せるから。だから、ずっと見てて。
だが、舞子の意気込みとは裏腹にノーヒットに抑えられていた清城打線は突如牙を剥いた。
4回表に投げた初球。アウトコース低めのストレートをレフト前に運ばれると続く打者にもあっさりとセカンドの頭を超える当たりを出される。
あっという間にノーアウト一・二塁。ボールも低めに集まっているし、球威は落ちていないはずなのに何故。
続く打者は相手チームのキャプテンである神宮寺小也香であった。
初球。投球モーションに入ったその瞬間、清城のランナーは二人とも走った。ダブルスチール。和香は慌てて三塁にボールを投げたものの、相手ランナーは悠々のセーフ。和香のフィールディングの拙さと肩の弱さに付け込まれた形だ。ノーアウト二・三塁と更にピンチが広がる。
続けて、1球外して続けた3球目。外角のストレートをうまく流され、強い打球がファーストの夕姫に向かう。
「……あっ!」
焦った夕姫はトンネルをしてしまい、走者一掃のツーベースとなった。
舞子は表面上冷静さを保ち続けていたが、内心はひどく揺らいでしまっていた。どうして打たれる。どうして味方はまともに守ってくれない。
ネガティブな思考に陥ってしまった舞子は咄嗟に陽だまりのように心を穏やかにさせてくれる存在に目を向ける。ベンチからマウンド全体を見ている彼の瞳は舞子の方を一瞬だけ捉えるも、すぐにマウンド上の選手全体に意識を集中させたようだった。
――いや、嫌だ。なんで、アタシを見てくれないの。アタシが不甲斐ないから? アタシのことだけを見てくれればもっと、もっとやれるのに。どうしてどうしてどうしてなんでなんでなんでなんでなんで――!
「――輩、先輩! 大丈夫ですか? ドンマイです! これからこれから!」
「――有原」
いつの間にかマウンドにまで来ていた心配そうな表情の翼に声をかけられ、ようやく舞子は我に返った。舞子が放心している間にマウンド上にナインが集まってきたようだ。どうやら和香がタイムを取ったらしい。
気づけばスコアボードはこの回清城側に4の数字が付いていた。打たれたことにも気づかずに放心して投げてしまっていた。なんたる失態だろう。
「ごめんなさい! そのまま捕れていれば失点を抑えられたのに……!」
「……別にいい。一番はアタシの責任だから」
「私からも。試合中に課題が浮き彫りになってしまってすみません。配球も組み立て直しますので、先輩は普段通りに投げ込んできてください」
「……ええ」
夕姫や和香の謝罪を生返事で返す。自他への不安と怒りがごちゃ混ぜになりつつも、舞子は条件反射的に会話をしていた。そこに一切言葉を選ぼうとしない龍が挑発してきた。
「倉敷先輩。変わりましょうか? これ以上投げても無意味でしょうから」
「意味があるかかどうかは東雲が決めることじゃないわ。アタシとアイツが決めることよ」
「いえ、貴女は彼の教えを何も学んでいないもの。貴女に費やした彼の献身と努力は全て台無しね」
「……ふう、はあっ」
舞子は大きく息を整えて、怒声を発さないようにした。イライラすることこの上ない。何故、龍に知ったような口を利かれなければならないのか。
雲行きが怪しくなったのをナインだけではなく、敵である清城ですら察してしまうほど、マウンド上は剣吞な雰囲気に包まれていった。
「アタシがアイツから何も学んでいない? 全て台無し? ふざけんな」
「事実でしょう?」
「――今すぐ撤回しなさい」
「ちょっと待って! そうだよ。東雲さん、ちょっと言い過ぎだと思う」
険悪なムードの中、翼が手をわたわたさせながら間に割り込んできた。自分たちの言い争いを困ったかのように眉を下げた翼は仲裁に入ってきた――かのように見えた。
「だって、倉敷先輩がわかっていない訳がないじゃん。あれだけ一緒にいたんだからさ。きっとこれから身を持って私たちに教えてくれるはず! 監督から時間をかけて教えてもらったことをね!」
翼は馴れ馴れしく背中を軽く叩いてくると、生暖かい眼差しでこちらを見つめてくる。
イライラする。イライラする。彼女たちの言動に。
イライラする。イライラする。明確な反論が出来ない自分に。
何より、彼に対して申し訳がたたない。歯を食いしばるも、ごちゃまぜになった感情が溢れそうになる。
投げるのが、怖い。一球投げることに彼と離れ離れになってしまう感覚に陥ってしまうから。
そんな状態で投げてもいい結果は生まれなかった。更に打ち込まれ、途中で龍とピッチャーを交換。龍も投手は本職でないながら、奮闘したものの結果は試合は5回コールド。里ヶ浜高校の初戦は大敗北で幕を閉じた。
※ ※ ※
清城高校と挨拶を終え、顔を暗くしたナインがベンチに戻ってきたとき彼は黙り込んでいた口をようやく開いた。
「皆、お疲れ様。試合全体の本格的な反省点は帰ってから行うとして……まずは倉敷先輩」
「あっ……」
彼はずっと落ち着いた口調で怒っている様子も見られなかったが、それが一番怖かった。舞子は彼の顔を見ないようにずっと俯いたままでいた。間違いなく失望された。間違いなく呆れられた。間違いなく、見捨てられる。また何もなくなってしまう。審判の時を待つ中、彼は予想だにしていない行動をとってきた。
「えい」
「ふえ?」
あろうことか彼は舞子の頬を人差し指でぷにぷにと突いてきたのだ。二人きりの時ですら、ここまで大胆な行動は取ってきたことはないのに。敏感な肌に触れられた驚きと嬉しさと羞恥心から舞子は顔を真っ赤にする。
「ちょ、え? ア、アンタ!?」
「そうそう、いつも通り怒ってください。いつも通り、いつも通り」
「やめなさい! 何すんの!?」
ずっと触れられているのもやぶさかではないが、衆人環視の元だとこれ以上はよくない。形式上の威嚇をすると、彼はいたずらっ子のように怖い怖いと言いながら離れていった。
続けて彼は普段は選ばない直接的な表現で舞子に問いかけてきた。
「どうですか、今日の戦犯である倉敷先輩。何が悪かったのかわかります?」
「……単に私の実力不足でしょ」
「全然違います。俺が試合前に言ったことを忘れました?」
「どんな状況でも練習通りに投げろ……?」
「ええ。倉敷先輩が普段通りに投げていたら5失点ぐらいで済んでいたと思いますよ。打ち込まれていた先輩、腕の振りもフォームもバラバラですっかり弱気になっていて、普段の先輩らしくなかったです。いや、非常にガッカリしました。俺の教えたこと何も伝わってなかったのかなって。先輩との時間は全部無駄だったのかと思ってしまうほどでした」
淡々と自らの失態を告げられるも、思ったよりショックは来なかった。言葉は厳しいものの、彼の責める意が一切含まれない話し方もそうであるし、彼はずっと自分のプレイを観察して、あえて厳しいことを言ってくれているのだ。まだ、見捨てられていない。
「前にもいいましたけど、スポーツは技術よりも心の持ち様です。極論、マウンドに立つときは自分こそが絶対、自分こそが最強だと自信を持って投げればまず打たれないんですから」
「それはアンタだけでしょ」
「そこは突っ込まないでほしいところですが……倉敷先輩は技術の前にメンタル強化を早急に行いましょう。大丈夫、倉敷先輩はもっとうまくなれる。あなたは里ヶ浜のエース候補なんです。その自覚を明確に持って、次は投げるようにしましょう」
「……わかった」
「あと、3回までのピッチング。練習の成果が出ていて、流石でした! 次も期待してます!」
「……うん」
――ダメだ。一言、承認されただけで多幸感が全身をめぐる。いつから彼限定でここまでチョロくなってしまったのか。
「じゃ、続けて本日4エラーの野崎さん」
「は、はい……!」
舞子をいつも通りの穏やかな笑みで暖かく包み込んだ後、言葉を投げかける対象をエラーを重ねた夕姫に切り替えた。余裕が戻った舞子は夕姫の様子を伺うと、まるで死刑宣告を待つ囚人のように追いつめられている表情をしていた。自分も先ほどまでこんな表情をしていたのだろうか。
彼は真面目な顔で数秒夕姫を見つめていたが、すぐに頬を緩めた。
「この調子で失敗を重ねていこう」
「本当にごめんなさいっ! ……え?」
「今後、失敗はいい経験をしたと思うようにしよう。失敗しない人間なんてこの世にいない。いるのは失敗した後、くよくよ後悔し続ける人か怖くても勇気を持って前に進めるかのどちらかだと俺は思うんだ」
「……失敗しても、いいんですか? 失敗を怖がらなくていいですか?」
「ああ。失敗は悪じゃないよ。失敗しない人生とか俺だったらつまらなくてしょうがないね。だって、何も乗り越えるものがないじゃないか」
どこまでもポジティブに考えられる資質。人の心を掴んで離さない不思議な魅力。彼は呆れるほどに人の中心となるべき人物であると再認識した。全く自分とは正反対の人間だ。
「野崎さんに足りないのは翼のような積極性だ。もっと頭をからっぽにして、前に進むことだけを考えよう。大丈夫、野崎さんがそれでも心配なら俺がいくらでも付き合うから」
「監督……! はい!」
「いや、ちょっと待って! それ、私が頭からっぽって暗に言ってる!?」
「違った?」
「違うよ!?」
先程までの表情はどこへやら。夕姫は翼と軽く掛け合いをする彼に涙を流しつつも、熱に浮かされた表情で彼をひたすらに見つめていた。
――この女たらし。頭からっぽにして発言している女の敵を睨みつけたくなる。ムカつく。すごくムカつく。腹立つことこの上ない。
だけど、すごくかっこいい。ずっと一緒にいたい。好き、大好き。
「あっ……」
認めるしかない。倉敷舞子は残酷なほど優しくて頼りがいのある年下の男の子をこの上なく好きになってしまった。理屈じゃダメだってわかっている。母親の二の舞になってしまうことは自覚している。
愛想もなく、女の子らしさもなく、性格もよくない自分が彼女たちを相手に戦争するのはどれだけ無謀なことなのか、十二分にわかっている。
「……でも、アイツだけは絶対に渡さない」
この歪な感情は彼にとっても自分にとっても良くないものだと、本能で知っている。
しかし、もう彼無しでの世界は考えられない。また灰色の世界に戻ることは決して出来ない。何を犠牲にしても、必ず彼を手に入れる。
試合のフィードバックを続ける愛しい彼を視界に捉えながら、狂気の住人であることを認識した舞子は昏き覚悟とは裏腹の晴れやかな微笑みを浮かべたのであった。