もしも、自分の家族と翼が生命の危機に瀕しており、どちらかしか助けられないとしたら――智恵はきっと翼を助けるだろう。
1年前のあのリトルシニア全国大会決勝。あの日から翼は変わってしまった。
あの大会後からは智恵や同級生、そして自らの家族にすらまともな会話が出来なかった。
いたたまれない状態にあった翼であったが、全国大会からちょうど1カ月経過した日。不気味なくらい翼は元通りに戻った。
けれども、長年の付き合いになる智恵にはわかってしまった。
――今の翼はどうしようもなく、壊れている。
人を騙す才能なんてない翼が女優顔負けの演技で普段通りの彼女を演出している。顔に張り付けた完璧な笑みは瞬間接着剤を使ったかのように常に一定であり、普段彼女が怒るであろう場面で顔をムッとしたように見せるようにしている。
まるで翼を模したAIロボットのようだった。
だが、そんな彼女にひとつだけ残された想いがあった。それは決勝戦で戦った彼のことである。
雨が今にも降ってきそうな曇天の日の帰り道。翼は黙っていれば美少女と評される整った顔を智恵に近づけて、一ヶ月分の会話を取り戻すかのように饒舌に語り始めた。全ての内容が彼に関する内容であったが。
「本当に彼はすごいんだ! ストレートは速くて伸びがあって重たいし、高速スライダーはこうグググイッ! と手元で変化するんだ! あれは直前まで見分けがつかないよ! バッティングも欠点がないし、甲子園でもエースで4番だね! きっと彼なら今からプロに入っても大活躍できるよ! プロ入り1年目で20勝超えしちゃうかもしれないね!」
「そ、そうなんだ。でも、彼はもう……」
仮面の笑顔を脱ぎ捨て、心からの喜怒哀楽を表現して彼の凄さを智恵にマシンガントークで伝える翼であったが、智恵の言いかけた一言で急変した。
「もう、何?」
「だから、彼はもう肩を壊して……」
「ああああッ! 違う! 違う違う違う違うちがうちがうちがうッ!」
「ひっ、つ、翼!?」
突如、目から光を失った翼は爪を立て頭を掻きむしりながら、激しい貧乏ゆすりをするように右足を地面に何度も何度も小刻みに踏みつける。喉の奥から悲鳴が漏れた智恵は親友に考えたこともなかった恐怖心を抱いた。
「私は彼のことをずっと応援するんだもん! 地方大会でも甲子園でもプロ入り後もずっと! 大怪我なんてするわけない! 肩が治らないなんてことはない! もう投げられないなんてことない! 私が最後の対戦相手になるわけない! 彼は、私の! 私の夢なんだから!」
ポロポロと涙を流す翼を智恵は正直なところ理解しきれていなかった。
たった一戦しか戦っていない相手。もちろん、プライベートの関わりも一切ない相手だ。いくら途轍もない才能を持った選手とはいえ、それだけで気が狂うほど想い続けるとは到底思えない。
だが、『夢』という単語を耳に聞き、ようやく翼が執着する理由の一端が垣間見えた気がした。
――翼はきっと彼に自分の夢を託していたのだ。
甲子園に行くという夢。
プロ入りし、活躍し続ける夢。
野球に携わり続けることへの夢を。
その夢の象徴が自分の目の前で無惨に散ってしまった。その現実を受け入れることが出来ないのだ。
「そんなの嫌! いやだ、嫌! ちがうちがうちがう違うの! 違う、違う? 違うって何が? どう、違うんだろ? あれ、ともっち。私、何の話していたんだっけ」
「……ぴょん太焼きを一度に何個頬張れるかって話だったよ。翼ったら、しっかりしてよー」
「そうだったっけ? ごめんごめん!」
時の流れがトラウマを解決するなんてテレビの番組でもよく言われているが、翼の症状は時の流れだけで解決できる物なのだろうか。智恵はそんな楽観的な考えには至れなかった。
案の定、半年以上経過した後も翼の症状は治る気配が皆無であった。不幸中の幸いなのは、ヒステリックになる瞬間は智恵の前だけであるということか。
厄介なのは自分から彼の話を振り、自分から情緒不安定になってしまうことだ。こうなってしまうと、話を受け止め続けるしか翼を抑えることが出来なかった。そして、翼の支えに成れない自分に自己嫌悪する日々が続いた。
こうして翼が歪なまま中学校を卒業してしまったものの、ひとまずは無事に二人そろって同じ高校に通えることになり安心した智恵は春休みに新生活の準備をするために街中に買い物をしていた。
「あっ……!?」
その時、智恵は見つけてしまった。
ある意味で一番会いたくて、ある意味で一番会いたくなかった人物――彼であった。すぐに声を掛けなければとひと際高身長が目立つ男子の目の前に走って追いつく。
「あ、あの!」
「……ん? どうかしましたか?」
智恵は自分が翼の友人であることを説明し、出会ったばかりの彼に現状を洗いざらいぶちまけた。途中でヒートアップした智恵のせいで注目の的になってしまったのを嫌ったのか、彼は途中で場所を変えるように促してきた。
今は翼と一緒によく遊んだ公園で夕暮れの中、二人でブランコに座って話している。そして、話している内になんと彼も同じ高校に通うことになっていることがわかった。
「そうか。有原さんも野球やめてしまったんだ」
「それだけじゃない! あの日から翼は翼じゃなくなっちゃったんだ!」
智恵は両手で顔を覆い、ずっと堪えてきた負の感情を出会ったばかりの人間に一気に吐き出してしまった。智恵だって辛かったのだ。でも、誰にも相談できなくて。翼がどんどん壊れていくのが怖くて、でも自分だけではどうしようもなくて。
「全部、君のせい! 君のせいで翼が壊れちゃったんだ! 君さえ、君さえいなければッ!」
「……それなら、俺は一体どうしたらいいんだ?」
感情のまま、理不尽な言葉の暴力を叩きつけてしまったことに智恵は発言した後に後悔し、青ざめた。
「ご、ごめんなさい! 私、なんてひどいことを」
「いいよ。それだけ河北さんが有原さんのことを大事に思っていることが分かったから」
彼は目を閉じてぐっと拳を握りしめつつ、喉の奥から絞り出すような声で智恵をフォローした。どんなに嫌いな相手でも平常時では絶対言うことがないひどすぎる言葉の刃を振りかざしてしまったことに、実際は自分すら情緒不安定になってしまっていたことを今更気づかされた。
気まずい静寂が公園内を包み込む。
「何か俺に出来ることはないかな」
もうすぐで夜の帳が降りてきそうな薄暗くなった空を見つつ、沈黙を破った彼はブランコを勢いを抑えめに漕ぎだしてポツリと言った。
智恵は他人よりも秀でた頭脳を巡らす。彼が翼に出来ること。それは彼女の生きる目標になってもらうことだ。
元々の翼の夢は甲子園に出場することである。それならば彼がコーチ、もしくは監督となり一緒に甲子園を目指すストーリーなんかどうだ。憧れの人物と一緒に、一直線に目標に走り続ける。そこで翼は物語のメインヒロインかつヒーローになるのだ。
間違いなく翼なら、憧れの彼を目の前にしたらそういった思考に辿り着く。後はそこに至るまでのプロットを自分が作り上げればいい。
「あるよ。手伝ってほしいことがある。手伝ってくれたなら――私は君の言うことをなんだって聞くよ」
――光明が、見えた。
智恵はその場で彼と連絡先を交換し、別日に何度か会って翼に関する情報共有と事前に演技指導を施していた。
彼を見つけた翼は絶対に彼と二人きりになろうとする。そういった場でありとあらゆるシチュエーションを想定し、一番困難である翼が壊れている状態の応対も全部考えて対策を練った。結局のところ、蓋を開けてみれば割りとイージーな内容だったのでほっとしたのであったが。
翼が去った後の屋上で智恵は自分の親友を取り戻してくれた英雄に精一杯の勇気を振り絞って、胸元にしなだれかかって誘惑したものの。
「結局は俺の意思でやったことだからさ。別に無理しなくていいよ」
「……いくじなし」
据え膳食わぬは男の恥。女の子が自分からアプローチしたのにバッサリと振り払った彼をジト目で見る。顔はピッチャーをやっていた経験からポーカーフェイスであったが、心臓の音は隠しきれていなくて鼓動が直接伝わってくる。
――なるほど。女の子に興味がない訳じゃないんだね。安心したよ。
あわよくば、ここで手を出してくれたのであれば深く彼を拘束できた。智恵の設計した計画ではそれが最高の結果だったのだが、なかなか思い通りにいかないものだ。
※ ※
まだ名義上は同好会ではあるが、野球部の練習を終えた智恵は機嫌がよい翼と談笑しつつ帰路についていた。相も変わらず会話の内容は野球と彼の内容ばかりであるが、翼本来の魅力がふんだんに含まれた表情を智恵に向けてくる。
「それでね! 監督ったら私のこと考えなしの野球バカっていうんだよ! 私だってちょっとぐらいは頭使ってるもん!」
「うんうん、野球のことに関してはね」
「もう、ともっちまで私のことバカにするんだー!」
彼がいることで翼は元通りになっている。しかし、だ。もし彼がいなくなってしまったら依存しきっている翼は一体どうなってしまうのだろうか。結末を予想するのは簡単だ。翼の薄氷一枚に守られた精神は二度と修復不可能になる。
智恵は翼のためなら何でもするし、何でもさせてあげたい。翼の夢は、自分の夢だ。
――だからこそ、夢を叶えるためにどんな手を使ってでも彼を決して逃がすわけにはいかない。
漆黒のドス黒い闇を抱えたチュリカスこと椎名ゆかりちゃんを作中に出したい。
しかし、彼女はアニメに出て来ない。何故だッ!