女子野球部内の小動物的な存在である
目線の先にいたのは誰にでも明るく快活な女の子で女子野球部の仲間でもある有原翼。そして、幼少期からずっと茜が想い続けていた相手であるお兄ちゃん――彼であった。
幼少期に引っ込み思案で周囲に馴染めなかった茜を唯一気にかけてくれた男の子がいた。自然と茜はその男の子のことを”お兄ちゃん”と呼ぶようになった。
お兄ちゃんといる時間は茜にとってかけがえのない時間だった。仕事の帰りが遅いお母さんに甘えられない分を思い切り甘えて、一緒に笑いあって遊んで。彼と一緒にいることを思えばひとりぼっちでも全然平気であったし、彼さえいれば他に何もいらないとまで思っていた――いや、今でも思っている。彼のことを忘れたことなんて、一日たりともなかったのだから。
だからこそ、翼に誘われて野球部に入ろうと決意した日。彼と顔合わせをした茜の本能が刺激された。
――あの男の子は茜のお兄ちゃんだ!
なんて運命的な出会いなのだろう。ずっと想い続けてきた彼と一緒の高校になるなんて。
だけれど、本能だけでは確信を抱けない。彼がお兄ちゃんであるという保証はどこにもないのだから。
しかし、練習を通じて話をしている内に茜は彼の話し方や癖を想起して彼がお兄ちゃんであることを確信した。
この時ほど翼に感謝した日はない。翼のことを自分と彼を結び付けてくれたキューピットなのではないかと本気で思ったほどだ。
けれども、キューピットが茜の目に余る行動を取り始めた。
茜は休み時間に彼の様子を見に来るのが日課になっていた。引っ込み思案である茜は遠目で彼のことを見ているだけで幸せな気持ちになれたのだが、最近は毎回翼があらゆるところで彼に絡んでいる。満面の笑みで会話を途切れさせずにひたすら話しかけている翼に苦笑して相槌を打っている彼。翼の幸せそうな顔を見た茜はパーカーの袖の部分をぎゅっと握りしめた。
――お兄ちゃんも休み時間は黙って過ごしたいはずだよ。お兄ちゃんは静かに過ごすほうが好きだもん。
彼とよく遊んでいた公園で黙って綺麗な夕焼けを二人きりで見ていた頃を茜は思い出す。彼はそこまで口数が多い方ではない。無理をして話さなくても心は通じ合えるものだと茜は思い込んでいる。
容姿は女子である自分から見ても可愛いが、うるさくて無遠慮な翼は彼のストライクゾーンからは大幅に外れているに違いない。野球はとても上手なのに人の感情の部分に関しては暴投している。
――有原さんは全然わかってない。あ、茜が一番お兄ちゃんのことをわかっているんだから!
ひと通り彼のことを考えて気持ちが落ち着いた茜は敵に成りえない翼に憐れみの感情を向けつつ、教室を去っていた。
だが、茜の懸念事項はまだまだ終わらない。
放課後の女子野球部の練習中、再び茜は許し難い現場に出くわす。
「あの、監督。送球が逸れることがあるので、どうしたらうまくいくのかアドバイスしてもらえますか?」
「うん、わかった。野崎さんの場合はまだリリースポイントが毎回ブレているから、スローイングがズレるんだ」
「そうだったんですね。その、自分じゃよくわからないので……近くに来て教えてもらえますか?」
「了解。えっと、肩の位置はここでリリースするときは……」
「ここ、ですかね?」
「いや、違う。もうちょっと上の位置かな」
「……ふふ」
――野崎さん、お兄ちゃんにわざと体くっつけてるッ!
同時期に入部した同級生の女の子の
――ず、ずるい! あ、茜もお兄ちゃんと……じゃなくて! お兄ちゃんを誘惑するなんて許せないよッ!
夕姫は容姿もスタイルも自信がない茜と違って、両方とも普通の女子高生を遥かに超えている。一流の雑誌の専属モデルだと言われても違和感が湧かないぐらいだ。。
加えて、翼と違い外面の性格はおっとりとしておしとやかだ。何かの間違いで彼が茜以外を選んでしまうこともある。それは絶対に許されない。
「そうそう、そんな感じ。野崎さんは飲み込みが早くて助かるよ」
「……ありがとうございます」
しかし、茜が見込んだ彼は清楚な振りをした不埒な輩の誘惑を意図ともせず真面目な表情を崩さないで、本来の目的である指導を完遂させた。
彼にはバレていないようだが目論見が外れて、笑みが曇った夕姫の顔を見てスカッとした気分になった茜はキャッチボールを再開するのであった。
今一緒にキャッチボールをしている野球部の頭脳担当の
そして、部内で一番の常識人で気遣いに長けた
――茜にとって一番気をつけなくちゃいけない相手はやっぱり野崎さんだよね。有原さんも今のところは大丈夫だけど……たまにお兄ちゃんを見ている視線が怖いから要注意だよ。
そこで、ふと翼に目を向けるとこの世に存在するありとあらゆる黒色を凝縮したような瞳で彼と夕姫を凝視していた。向日葵のように誰にでも快活に笑う彼女とのギャップが激しすぎるのもあるが、純粋な恐怖が茜の体を縛り付ける。
負の感情に敏感な茜は練習中に熱くなった体が一瞬で凍えきってしまった。智恵に声をかけられ、一瞬でその表情を引っ込めたが嫉妬という単語で片付けられないドス黒い執着は狂気といっても差し支えないものだった。
――や、やっぱり一番警戒しなきゃいけないのは有原さんかもっ! で、でも茜だってお兄ちゃんのことは譲れないもんッ! だけど、このタイミングでお兄ちゃんのところに行くのは止めておこう……。
本当は今すぐにでも彼の元に向かっていきたいが、今向かっていったら自分は助からないかもしれない。茜は小動物の本能に従って、今日この場では撤退することに決めたのであった。
勇気の撤退。
むみぃはヤンデレ化しても返り討ちに合うぐらい貧弱なところがすごく可愛い。