あいえす城御前試合 作:徳川さんちの忠長くん
一部差別用語が含まれております。ご注意下さい。
織斑千冬を見て、女は思った。
──いっしょに、踊りましょう、と。
踊る。踊る。幻惑に踊る。
イベリアの地に棲みつくジプシーの女は、釜の上で妖艶に微笑う。彼女の血族は土地の者共と血を混じえ、その身体には金の髪と碧の眼が備わっている。
踊る。踊る。幻影と踊る。
女は鳥の様に舞う。カルラ、迦楼羅。遠き地の神の名を持つ女の正体は、果たして聖鳥か邪蛇か。揺らめく姿は、陽炎だ。
踊れ、踊れ、幻覚と踊れ。
──アレーナの中央で、カルラは踊る。
スペインはマドリード。沈まない国よろしく、太陽がさんさんと降り注いでいる。
万来の喝采が向けられるのは、一人の女。
顔半分を仮面で隠し、青の騎士服を纏った女性。彼女の美貌もさることながら、それにも増して目を引くのは、黒色のつば帽子、左手に握られた銀の針。しかし、何よりも目立ったのは右手で振られた、赤マント・ムレータ。彼女達のトレードマークだった。
闘技場の門が開く。瞬間、賑やかしたる男達によって、一頭の益荒男がカルラに嗾けられた。彼は獣の様だった。彼は真実猛獣だった。
カルラの額から、目元、鼻筋にかけて、冷や汗がたらりと抜ける。女にとって、ここでの踊りは珍しくないことだったが、今回のお相手は中々どうして、格別だ。
女の眼に映るは、雄々しくいきりたった二本の角。コロッセオに差し込む光によって、その図体は黒光りした姿を観客達に見せていた。お預けを食らった獣は、頭に血が上り、ふんふんと鼻息を漏らす。今にも女にむしゃぶりつかんばかりだ。
その様子を見たカルラは、全身をぶるりと震わせる。それは怯えか、怯懦か? 否、快楽と武者震いだ。目の前の雄は、女の同業者を幾人も再起不能にしてきた。彼女とて男の肉体を胎に食らえば、同僚達の後を追うだろう。彼はまさしく、悪魔の名を冠されていた。
だが、仮面で隠された半分で、女の口元は大きく裂けて上がる。彼女にとって、これは三割仕事で、七割趣味だ。生死の境目、薄氷の上で踊る。地獄の釜の蓋でステップを刻む──そして相手を釜の底へと叩き落とす。自分の命をチップとして誰かを陥れるのは、酷く楽しい。
悪辣な女の享楽だった。
カルラ・ヴェイユ、二十八歳、狂人。
ディアブル、八歳、狂牛。
出会って数秒。年齢差、二十。異種族。僅かばかりの逢瀬が始まる。
セーフティーが外され、猛牛は自由の身と化した。会場を包む声援が一層大きくなる。猛牛は、自然においては味わうことのない爆音を聞いて、幾度か目のパニックを起こす。身体ごと首を振り、血走らせた目を辺りに向ける。敵は何処だ、何処だ?
狂乱する悪魔に対し、女はセオリーよろしく赤布をひらりと右面で緩く振り、半身に構える。
「さあ、いらっしゃい?」
冗談半分の軽口を交えながら、女は身体をくねらせ、舌先をちろちろと動かした。左足靴のつま先をコツ、コツ、コツと地面につけて、全身にビートを刻む。
ひらひらひら、ちろちろちろ、コツコツコツ。
以心伝心。音と動き、二種のカルラの挑発が通じたのか、猛牛は顔中の血管をいっそう赤く染めた。後ろ足で砂を掻きながら、足りない脳で猛牛は考える。
──あのニンゲンは酷く、不快だ。前に潰した奴らと比べてもなお!
豪と嘶き、猛牛は標的に向かって一心不乱に突き進む。その目の先には、ひらひらと振られる一枚の布。
「────」
数々の理不尽を貫いてきた彼の一対の角は、布を通り越して、奥に隠れるニンゲンごと、突き通した。と、猛牛は誤認した。
「──ふっ、と」
パートナーとのダンスの様に、黒牛に密着しながらも、女は紙一重でその突進を避ける。右手の赤布は破られない様に上に振られ、角の先端から頭、胴体の上をするりと撫ぜた。
と、同時。赤布に隠された針、左手のエストックが、陽光を反射して顕となる。
すれ違いざまに、女は手首を二度動かした。
左目直下と、鼻の外皮。二箇所に銀閃が差し込まれた。破られた血管からどろりとした血が吹き出て、エストックを赤く染める。
一交差。このやり取りは、カルラの完勝だ。けれども、その肉体の造り、耐久がまるで違う。一度でもボディーブローを受けたなら、女の舞台は崩落するだろう。
両雄は再び向き合う。赤布に隠された銀剣の先端からは、敵手の命がぽたぽたと零れ落ちる。だが、そんなものは知らぬと、猛牛は目を赤く滾らせる。心の臓の弱い者は、最早立つことさえ許さぬ。そう主張せんばかりのおびただしい野生だった。
カルラは全身をぶるりと震わせた。
まごう事なき、笑顔が浮かんでいた。
二交差、三交差。四度五度と繰り返される二人の交わり。
添え物の黒牛をよそに、赤布をはためかせながら女は踊る。
額、耳、目元、鼻先、頰肉。ちくりちくりとエストックに刺されたその顔は、黒と赤のコントラストで彩られていた。すれ違いざまに胴を撫でるカルラに対し、猛牛の怒りの火種はより一層激しく燃え盛る。観客の声援を浴びながら、カルラと猛牛はクルクルとワルツを披露した。
ウノ、ドス、トレス。ひらり、きらり、ぐしゃり。躱して、突き刺して、傷つける。
テンポよく、しかして確実に、牛の生命が削られていく。
この瞬間が、カルラにとっての一番の報酬なのだ。僅かなミスで死に至る恐怖の中で、他者を痛めつける快感。命を天秤に乗せた時特有の、ひりつく様な感覚はカルラに生を実感させる。
テンポを刻みながら、紙一重の回避で牛の角をグレイズさせる女。陽光に炙られながらの死闘は体力、精神力を加速度的に奪っていったが、その顔は喜色満面。気力だけは際限なく湧き上がってきた。
一方で、怒りは募るばかりだが、度重なる出血によって最早最大限のパフォーマンスを発揮できない猛牛。彼にとって、この場で踊る事は本意ではない。理不尽に受け続けたダメージによって、その敢闘精神に陰りが見えてきた。
猛牛の目に怯えの色を見たカルラは、手を振って闘技場端の係員に軽く合図を送る。
「──カルラ! OKだ!」
数秒後、カルラに対して返答がなされる。女は、エストックをしゃんと振って、それに答えた。
十二時の鐘がなる。二人だけの舞踏会はそろそろ閉幕。
会場のアナウンスが、観客を煽る。それに合わせ、女は血塗られたエストックを高々と太陽に向けて突き上げた。
会場のボルテージは最高潮の盛り上がりを見せる。古代ローマのコロッセオと聞き違えんばかりに、老若男女問わず、人々は蛮声を上げる。
いよいよフィナーレ、ファエナの時間だ。
猛牛は命を搾り出して女へと駆け込む。顔の急所をひたすらに針で突き刺され、疲労が蓄積しきった益荒男。彼の演舞は、これから先は見る影もなく衰えるだけだろう。
だから、カルラは速やかに引導を渡す事で、彼の最期に華を添えるのだ。
土煙を上げながら向かってくる猛牛に、カルラはいつものように回避するのではなく、顔に向かってムレータを投げつける事で答えた。
ばさりと牛の顔に赤布が絡みつき、視界を閉ざす。
「お疲れ、様」
生じた一瞬の間隙、女は余さず使い切る。
顔にかかった赤布を尻目に、女は腰を落として牛体に肉薄し、その肩口を掠め刺し切った。肩の骨の間を通った銀の針は、奥底に隠された大動脈に突き刺さる。エストックが振動し、内部で軽くかき混ぜられ事で、猛牛の命をかろうじて繋いでいた蜘蛛の糸はずしゃりと掻き切られた。それはまさしく、致命の一撃だった。
牛が最期に感じたのは、敵手の労いの言葉と、肩先を走る灼熱。
勢いよく吹き出した鮮血はその黒体を四肢に至るまで赤く染め上げる。肉体を伝って足元に溜まった血液は、黄泉へと渡る赤い靴の様に見えた。
──場末の酒場で、カルラは踊る。
太陽が西の山の奥底へと隠れ、街は人工の灯りに彩られる。
昼間のカルラは闘牛士だが、夜のカルラは可憐なる蝶だ。ダウンタウン、ネオン街の片隅で、女は歓声を向けられていた。
此度の仕事着はジプシーの民族衣装。エキゾチックな踊り子の服。
演劇台の上で、独り女はスカートをはためかせて踊る。赤布がひらひらと宙を舞い、酔漢達の注目を集めた。酒に酔った男たちの視線を一身に浴びて、カルラは手を捻り、腰をくねらせ挑発する。
踊りというのは、肉体操作の一つの極致だ。体一つで美を表現するには、自身の肉体を百パーセントで使いこなせなければならない。その修練は、武の極北へと至る旅路と同一だ。武人が全身を凶器とするように、頭の頂点から足の指先まで、その全てを余さず掌握してこそ、一流の踊り子である。
カルラの技量は、いうまでもなく一流だ。
時に舞台上で、くるくると可憐に回って舞う女は、花も恥じらう少女の様で。時に床に倒れ伏し、はしたなくスカートをたくし上げる女は、淫らに観客を誘う情婦の様で。可愛らしさと美しさを同居させたカルラは、浮ついた観衆を手玉にとって、艶めかしく薄氷で踊る。
踊りは彼女の人生と共にあった。流浪の民の末裔たる彼女にとって、まさしく芸は身を助ける。遠く離れた極東の地で、忍者と呼ばれた技能集団がそうしたように、彼女たちもまた特異な技能を発展させてきた。舞踊は、その中の一つである。大衆に受け入れられるため、権力者に取り入るため、武器を持って戦う際の型とするため。踊りは、芸術表現の他にも様々な利用価値を持つ、万能ツールだった。ジプシーという被差別民族の生まれたるカルラは、他者に先んじるために、そういった技能を必要とし、身につけていた。
音楽の切れ目、カルラは台を降りて観客に微笑を振りまく。
馴染みの客と言葉を交わしながら、一杯のカクテルを受け取るカルラ。果実混じりの酒を呷りながら、知り合いたちと談笑に耽る。
ふと見渡すと、珍しいものを見つけた。それは酒を呑むのも忘れ、妖艶に踊る女に溺れていた、一人の新参者だった。
面白い、とカルラは酷薄に微笑う。自身に群がる男たちからするりと抜け出た女は、すぐさま若者の元へ近づくと、あわあわと慌てる男にしなだれかかって、耳元で囁いた。
「──いらっしゃい、お客さん?」
吐息と混ざった声に、顔を赤く染める男。女はその様子にクスクスと声を漏らした。他人を弄ぶのは、酷く愉しい。この若者は、カルラにとって揶揄いがいのある男だった。
カクテルを呑み干し、グラスをテーブルの上に返すと、女は男の鼻先をちょんとつついた。
そのほっそりとした指はひんやり冷たかったが、男の茹だった顔の温度は、ますます上がった。
「呑み過ぎないように、注意しなさいな?」
笑い混じりに、女は冗談を口にする。男の顔は真っ赤に染まっていた。無論、酒が回ってのことではない。
男を揶揄って遊ぶカルラ。彼に向けられた助け舟は、ピアノの伴奏だった。お仕事の再開だ。ありがとね、と女は声を漏らし、男の額に軽く口付ける。そのままカルラは男にニコリと笑みを落として、再び舞台へと舞い戻った。
数瞬の戯れ。呆気にとられ、呆然とした男の目に移ったのは、艶やかな女の後ろ姿。衣装は首筋から背骨に沿ってぱっくりと開いており、ランプで妖しく照らされた柔肌はみずみずしく輝いている。
女の色香か、酒の魔力か。酔いがまわって、酔いが回って。
男のまぶたがひとりでにとろりと落ちていく。久方ぶりに、男は
──どことも知れぬ場所で、カルラは踊る。
深夜、地下。お天道様が見ていない時間、場所。下品な電光に彩られた舞台には、一組の男女が上がっていた。
そこは、昼間のアレーナと比べてもなおいっそう騒がしく、血なまぐさい。強いて違いを挙げるなら、飛び散る血液が獣のものではなく、正真正銘人間のものである、という程度。
向かい合う二人は、同様の白服を着て、首元や胸部には防具を取り付けている。互いの手には、一本の剣、フルーレが握られていた。一見すれば、表舞台のフェンシングと然程変わりはない。
だが、たった一つだけ明確な違いがある。
それは勝敗が外部に依存しているか、否かだ。彼らの防具には、電子回路などという便利なものはつけられていない。幾度刺されようとも、ブザーが戦いを終わらせることはない。立会人はいるものの、彼がルールを監督することはない。必要であれば、目潰し、金的さえも許容するだろう。
お綺麗なレギュレーションなど存在せず、勝敗はひとえに、リザインか死しかありえない。タイミングを誤れば、纏うスーツは白装束と成り果てる。
ここに集まったのは、どいつもこいつも人の生き死にが見たい、腐敗した金持ちばかり。
世界中で開かれる機織りどもの催し事。これはその一つだ。闘鶏や闘犬のようなおままごとではなく、等身大のダーティーな賭け事。機業の顧客は、ワイン片手に人間が傷つけ合うのを観戦するのが大好きな連中ばかり。
狂っているという点においては、当然ながらそれは死合う二人も同様だ。カルラはここに、ひりつくような空気を吸いにやってきた。命を削って肉を突き刺す感触を得にきた。目の前の男が金に困ったか、戦闘狂かは知らない。だが、二人とも同程度には死狂っていた。
筋肉質の男と色鮮やかな女。単純に考えれば、男の方が優位だろう。が、そんなつまらない常識は、ここにいる誰一人として持っていない。
男だから? 巨漢だから? だから強い?
それも指標の一つだが、それだけで勝敗は決まらない。強い方が強い。それでいい。
シンプルな獣の論理が、会場を支配していた。
独特の緊張感、血を目前にした高揚感に、観客たちはガヤガヤと声をあげる。まさしく暴発寸前の会場に、舞台に上がった一人の男が冷や水をぶちまけた。
「────構え」
審判役の声が、会場に響く。それは小さな声だったが、会場のざわめきを駆逐し尽くした。
しんと静まりかえる場内。ゴクリ、誰かが唾を飲み込む音が、やけに大きく耳に残った。
フルーレを握るカルラ、彼女の左手は酷く汗ばんでいる。目の前の男も、剣先がちらちらと揺らいでいる。
──同じか、同じか。
男女は、たった一つの、同じ思いを共有した。
ここはまさしく薄氷の上だ。
「始め────」
カルラは幻の赤布をはためかせ、踊り始める。
踊れ、踊れ、幻想に踊れ。
彼女はジプシーの踊り子だ。
彼女は時に牛を、時に人を突き刺す剣士だ。
彼女は命の恐怖と快楽に溺れている。
彼女は地獄の釜が凍っても、薄氷の上で踊り続ける。
スペイン代表、フェンサー/踊り子。
薄氷のカルラ。
本文中でジプシーと表現されている箇所は、正確にはロマと表現すべきです。
音楽等の芸術表現の場合、グレーゾーンとされておりますが、ご不快に思われるかもしれません。お詫び申し上げます。
DQ4のイメージがなぁ……。
しばらく更新遅くなりそうです、ご容赦!