あいえす城御前試合 作:徳川さんちの忠長くん
織斑千冬を見て、女は思った。
──これは天命である、と。
北京から宿州へと向かう列車の中で、男ははっと目覚めた。
うつらうつらとした寝ぼけ眼を手で擦りながら、男は空気を入れ替えようと窓に手を掛ける。
窓の外、さぁさぁと流れる黄河を見下ろしながら、男はふと思索に溺れた。
中国全土より、選りすぐりの武芸者を集めよ。
全人代より発布された勅命を受けた時、男の頭には、一人の老婆が浮かんでいた。
男には、武術のことなぞ、とんとわからない。二十年ほどそれらを齧った男であったが、その実、武術の真髄には、一寸たりとも近づけたとは思えなかった。それでも、テレビで見た織斑千冬の剣が、神域に達しているということは、朧げながら理解できた。
仕事柄、武術家と呼ばれる人間を、男は多数知っている。しかし、織斑千冬に勝てるであろう女武術家、となると、大陸を離れ、華僑の者共に手を伸ばしたとしても、結局は宿州に住む、一人の老人しか頭に浮かばない。
やはりかの虎、老黄しかおるまい。男はそう結論づけ、窓を閉じた。
四時間ほど列車に揺られて、男は、宿州の寂れた農村部に立つ。
北京のごみごみとした喧騒と比べて、ここはしんと静まり返っていた。
久しく感じたことのない静けさに、いささか薄ら寒い物を感じながら、男は目的の家屋へと向かう。
一面に広がった菜の花畑を抜けて、男は件の住居へと辿り着いた。
一見すると、周辺の家々となんら変わりない茅葺き屋根の家。だが、庭先に置かれた数体の藁巻き──うち一つは中程から切断されている──と、玄関先の箒立てに、箒に混ざって立て掛けられた棍や棒が、一種異様な様相を見せる。
男はまっすぐ玄関に向かい、扉をがんがんと叩き始めた。
「老黄、いらっしゃいませんか!」
反応がない。殆ど無意識に、男は扉に手を掛けた。ぎぃ、と軋んで扉が開く。老婆の齢は、既に七十を超えていたことを、ここに来てようやく男は思い出し、ぞっとした。
「老黄! 老黄! ご無事ですか!」
思わず屋内に怒鳴り込む。武芸者を捜しに来て、老衰した女を見つけるなぞ、笑い話にもなりはしない。一抹の不安を抱えつつも、男は家中を探し回った。
その不安は結局のところ杞憂で、恐らく書斎だろうか、武術書の類が納められた部屋で、男は小柄な人影を見つける。
「ご無事でしたか。心配しましたよ……」
声をかけられ、ぽかん、と男を見つめるこの老婆、名を阿蘭。黄 阿蘭という。
腰は曲がり、顔は皺くちゃ。自身を訪ねる者の声が聞こえないほどには、耳が遠くなり、目も緑内障に半ば冒されていた。
百人が百人、最早死を待つのみ、と断じるような、弱り切った老人。
だが、その眼は爛々と輝いていた。
中国武術会で、老黄、或いは老虎と呼ばれる女だった。
今でこそ老虎などと呼ばれる阿蘭であったが、その生まれは貧農の娘であった。
七人兄弟の末っ子の阿蘭には、二人の兄と四人の姉がいる。阿蘭が物心ついた時には、身体の弱かった彼女の母に代わり、姉達に面倒を見てもらっていた。
阿蘭の家は大層貧しく、子供達がまだ産まれていない頃から、彼女の両親は爪に火を灯すような暮らしをしていたという。
その為、阿蘭を含めた子供達がすくすくと成長することは、彼らの家計を食いつぶしていくことに他ならなかった。
幸いにして、阿蘭の四人の姉達はすこぶる器量良しであったために、しばしば彼女らの土地の地主や、都の方の役人の下へ奉公に出ることで、僅かばかりの金子と、多少食いつなげるだけの穀物を得ることが出来ていた。
当然ながら、阿蘭もまた、姉達と同じように奉公に出ることが期待されていたのだが、彼女はひとつ、重大な問題を抱えていた。
というのも、彼女は姉達のように器量良しで美しいというわけではなく、有り体に言ってしまえば、醜いと言っても差し支えなかったのである。
ろくに食を取れぬ生活であったからか、阿蘭の身体は小さく小柄で、鶏ガラのように痩せ細っていて、目の周りは落ち窪んでいた。その上幼き頃にぶつけでもしたのか、鼻が多少曲がっているという有様である。髪こそ姉譲りの美しい長髪を二つ括りにしていたが、その実この髪は、かつら用に売却することを目的とした、言わば財産であった。
中国人、小柄で貧乳、ツインテールと要素を抜き出せば、かの偉大なる鳳嬢と似通ってはいたが、美しさ、愛らしさという観点では似ても似つかぬ存在であった。
さて、この阿蘭。幽鬼さながらの見た目に違わず、大層寡黙で、必要なこと以外話そうとしない性格であった。反面、体格に似合わず、体力はある方なのか、農耕、家事炊事洗濯といった日々の仕事も淡々とこなしていて、女の働き手としては十二分に優秀であった。阿蘭の両親は、彼女が不器量であったことから、彼女の行く末をしてはいたものの、その働きぶりを考えるに、何処ぞの農家の倅が貰ってくれるだろう、とちょっぴりほっとしていた。
そんなこんなで阿蘭14歳。
阿蘭の両親が、そろそろ頃合いだろうと同じ年頃の農家の倅に渡りをつけはじめた時分。
この頃、阿蘭は農耕の際、何処かしらかちらちらと視線のようなものを感じるようになっていた。
別段特別なことをしている、という事もなく、ましてや彼女の見た目に惹かれる、という事も考え難かったので、自分に視線を向けられることを、阿蘭は大変不思議に思っていた。
学のあるわけでもない阿蘭であったが、自分でわからないことはとりあえず人に聞いてみよう、と考えるほどの知恵はあった為、奉公から戻っていた二人の姉に聞いてみることにしてみた。
「姉様、姉様。最近何処からか視線を感じることがあるのですが、何か心当たりはありませんか?」
ところでこの姉達。阿蘭にはあずかり知らぬことではあったが、いくつかの欠点を抱えていた。
まず、この姉達は大変器量が良い。生まれが生まれなら、ヒロイン枠を狙える程度には器量が良かった。その為、奉公に出た先の地主や役人を見事に誑し込んで──本人達曰く大恋愛の果てに──妾の座に収まるほどであった。そして彼女達は皆一様に天然であった為、正妻との間柄も
次に、姉達は皆、末妹の阿蘭を目に入れても痛くないほどに可愛がっていた。
阿蘭の手が化膿したと聞けば、やれ奉公先から医薬品をかっぱらっては治療し。
阿蘭の股から血が出たと聞けば、やれ奉公先から小豆や米をかっぱらっては赤飯を炊いて祝っていた。
そんな姉らに、視線を感じるなどと相談を持ちかけた阿蘭。彼女達の目には、悪い虫にせっつかれて震える美少女(当社比)の姿が映っていた。
「阿蘭ちゃん! 阿蘭ちゃん! 危ないですから明日はお家でゆっくりしてましょうねー」
「でも畑の面倒を見なくちゃ……」
「大丈夫よ阿蘭ちゃん! 私たちが代わりにやっておくからねー」
「姉様達土弄りの経験なんてありましたっけ……?」
「もちろん無いわよー。何かあったら近くの男手に頼んでみるから大丈夫よ、きっと」
えぇ……。
無知無学の阿蘭といえども、それはどうなんだろう、と思いはしたが、そこは偉大なる儒教精神。年長者の言うことにはとりあえず従っとけ、とばかりに姉達に一日任せることにした。
心配ごとの無くなった阿蘭は、そのまま飯を食って、歯を磨いて、風呂に入って、寝た。
基本姉二人に挟まれていた。
「で、どうするの?」
「戦いは数よ、姉上。かの孫子もおっしゃっているわ!」
阿蘭が寝静まった後、姉二人は阿蘭に付き纏うストーカー(仮)の対策を考えていた。
無論、この二人も恋愛ごとに関わらない事については、とんと知識が足りなかった。その為、人頭集めてローラーを掛ける、というゴリ押しを行う事にした。
「うちの阿蘭ちゃんがこわがっているんですぅー。どなたか助けてはいただけないでしょうかー?」
「どうかよろしくお願いしますー」
軽い呼びかけを行った。
凄く集まった。妻子持ちまで集まった。
腰の曲がった老人が、どうれ儂も、と言わんばかりにすくりと立ち上がった。
夕刻。
即席の青年団を携えて、一人の男が現れた。
筋骨隆々で顎髭、口髭を蓄えた、むくつけき男だった。
「それで、貴方は、いったい誰なのー?」
「某は、王龍。黄 王龍というものであります」
王龍と名乗るその男、山賊のような風体をしていたが、話してみると、一端の知性を感じさせる男であった。
過保護な姉達も、問題ないだろう、と判断するほどには理知的な男だった。
姉の許しを得て、阿蘭は王龍に話しかけた。
「王龍さん。何故、私のことを見ていたのですか?」
「ふむ……。正直に申しましょう。某は、貴殿のその類稀なる精神と肉体に、非常に興味を惹かれております」
──お帰り願おうか?
阿蘭はそう考えた。おそらく二人の姉もそう考えただろう。
それを悟ったのか、男は慌てて付け加えた。
「阿蘭殿。貴殿には武に関する天稟の才があります!」
天命。
阿蘭の人生のうち、三度天命を知る機会があった。これがその一度目であった。
王龍について行かねばなるまい、阿蘭は自然とそう悟った。
王龍は都に居を構える武術家で、有望な弟子門弟を探して各地を放浪していた最中だという。
その晩、王龍を携えて、阿蘭は両親を説得しに掛かった。両親ははじめ渋い顔をしていたが、最終的には出奔を認めてくれた。王龍の持つ金子に目が眩んだともいう。姉達は、「阿蘭がそれでいいならそれでいい」とだけ言った。
ワクワクしていた阿蘭は、そのまま飯を食って、歯を磨いて、風呂に入って、寝た。
二人の姉はぴったりと左右に寄り添っていた。
翌日。
善は急げとばかりに、阿蘭は旅立つこととなった。
いってきます。いってらっしゃい。
簡素な礼だった。
王龍と共に都へと向かう。そんな阿蘭の背に、声が投げかけられた。
姉だった。
──阿蘭! 一番凄くなりなさい! 私たちみんなが分かるくらい有名に、凄くなりなさい!
──わかった! 一番になる!
阿蘭は上を向いて駆け出した。二度とは振り返らなかった。
しばらくして、都に移り住んだ阿蘭を待っていたのは、生家と変わらぬ家事炊事である。
数日経って、阿蘭はこれで良いのか、と王龍に尋ねた。
王龍曰く、お主はまだ武家での生活に適応しておらぬ。しばしの間は慣れることから始めよ、とのことだった。
なるほど、とは思ったものの、そこは14歳。反抗期!
好奇心に押されて、家事の合間に、阿蘭は道場の方をしばしば盗み見に行った。そこでは、弟子門弟の者共が、素手での組手を交わし、或いは武器を持って型に励んだりと、それぞれの修練を重ねていた。
こっそりと見ていた阿蘭は、一人こう思った。
──あれ? なんだか私でもできそうな気がする?
15歳。阿蘭は正式に武の門を潜ることとなった。
「では、阿蘭。これより、我らと共に武の道を歩む事を赦そう。懸命に励む事だ」
「──はいッ!」
大の男たちに混ざって、型を修練し、多種多様な武具の使い方を学ぶ小柄な少女。異様な光景であったが、不思議と馴染んでいた。
「よろしくお願いしますッ!」
成人男性との組手。小さな体格という優位を活かさん、と懐に潜り込もうとする少女。しかし、所詮は子供の浅知恵。容易く見切られ、がしり、と組み付かれる。
「参りましたッ!」
他の門下生に勝てぬ阿蘭。その原因を思い切って聞いてみる。
「私って、どうして勝てないんだと思います?」
「どうしてって、そりゃ、こんなにちみっこいからに決まってるだろ」
「──ならッ! どうしたら大きくなれますかッ!」
「飯食って風呂入って寝るッ! ガキの成長なんて、そいつで十分よッ!」
なーんだ。いつもやってることじゃん。
悩みが解決してスッキリとした阿蘭は、そのまま飯を食って、歯を磨いて、風呂に入って、寝た。
月日は流れて30歳。阿蘭の基礎は完成しつつあった。
「体」が出来上がりつつあった。
「先に開展を求め、後に緊湊に至る。阿蘭。某はかつて、はじめにそう言ったな」
まずは大きく動いて一撃の威力の向上に努め、後ほど小さく引き締めて精密さを学ばせる。
王龍は、自身が経験した事を、弟子達にも徹底させていた。
「お主は既に緊湊に至っている。無手は言うに及ばず、武器術も十分練り込まれておる」
「ありがとうございます」
「うむ。だがしかし、未だお主は、某の教えの域を出ておらん」
王龍は白髪の混ざりはじめた口髭を撫でながら、「守破離」という言葉は知っているか、と阿蘭に問いかけた。
「はい。日本武術の教えですね。
教えを『守』る。教えの枠を『破』る。教えから『離』れる。
この三つを成してこそ、出藍の誉れである、と」
「そうだ」
幼き頃は無知無学だった阿蘭も今や三十路。師の影響もあってか、それなりに知性を身につけていた。
「お主は『破』から『離』へと変わりつつある。そろそろ某の教えを超える時だ。その為に、お主は一つ、技を身につけねばなるまい」
「それってもしかして──」
中国武術の深奥、その一つ。
鍛え上げた「体」に練り上げた「技」が合わさった時に昇華する奥義。つまりは切り札。
誰かに教えられたものなぞ、所詮は猿真似。
歩んだ武の道の先にある、武芸者その人を表す技。
称して──
「──────」
──『絶招』。
王龍の話を聞いて暫く。
自分の絶招とはなんぞや。
阿蘭は、悶々と考え事をしていた。考え事をしていた。考え事を……。
「んー! わからん!」
生来考える事を得意としていなかった阿蘭。いずれ見つかるさ、とばかりに放り投げて、飯食って、歯を磨いて、風呂に入って、寝た。
阿蘭40歳。いよいよアラフォー!
それらしきものはいくつか見つかれど、これだ、という技は思いつかなかった。
「老黄ー。ごはんですよー」
十年のうちにめっきり老け込み、王龍は稽古場に立つ事も少なくなっていた。
彼のことを、阿蘭は第二の父のように思っていて、その為か彼の介護も修行の合間に行なっていた。
「老黄ー。いないんですかー?」
いつもなら、呼べば来る。来なくとも返事を返す。不審に思った阿蘭は、彼の部屋の扉を開けた。
そこには、ただ、一枚の文が遺されていただけだった。文には、「黄の名と道場を阿蘭に残す。道を極めよ」と、たったそれだけが記されていた。
文を読んだ後、阿蘭の心は凪いでいた。
彼女の頭では、王龍が自身を訪ねてから今日までの記憶が、ぐるぐると駆け回っていた。
半ば無意識に、阿蘭は道場へと向かう。そこはがらん、としていた。
神と、祖霊、そして師に対して深くお辞儀した阿蘭は、一人藁巻きの前に立つ。
「──────ッ!」
阿蘭の中で、なにかが「カチリ」とはまる音がした。
無言のままに道場を後にする。
彼女の背には、半身を失った藁巻きが寂しく揺れていた。
最早戸惑う事もなく。
阿蘭は飯食って、歯を磨いて、風呂入って、寝た。
14の頃を思い出した。
道場主となった阿蘭、50歳。
「技」に関して、一応の完成を見た阿蘭は、後進の育成と、自身の修練に励んでいた。
女だてらで道場主を務めることに茶々を入れる輩もいたが、そこはそれ、力こそ正義の業界だった。
代わり映えのしない生活を送りながらも、阿蘭はこれでいい、と思った。
末期の時まで武の道を進む。
阿蘭が知った二つ目の天命だった。
60歳。阿蘭、遂に干支を一周する。
この女は俗世を知らぬ。
この女は色を知らぬ。
だが、この女は武を知っていた。
この歳にして漸く、武の「心」とやらを悟りはじめていた。
中国武術会に老虎あり! などと囃し立てられようとも、その心、最早動じない──
──つもりだった。
70になったある日。
最近世間が騒がしいな、と思いつつ、阿蘭は珍しくテレビを見ていた。女の「体」は最近
なにやら、スポーツ大会でもやっているらしい。酒の肴にでもなるだろう、と女は軽い気持ちで見ることにした。
初めに興奮した。
ついで歓喜した。
そして絶望した。
まごう事なき神域の剣士がそこにいた。
女には最早彼女との立会いすら望めなかった。
自らに失望した女は、生家跡地へと戻り、ひっそりと自らの武を慰めた。
そして今に至る。
顔なじみの男の話を聞き、女の顔には、じわり、と笑みが広がった。
体の不調。耳の不調。目の不調。
それらを丸ごと解決できる、ISなる機械鎧があるらしい。嘘か真か、隻腕隻眼の女さえも立ち回れると男は語る。
見た事も、聞いた事もなかったが、もとより中国武術は武具術も含む。たかが具足程度、使いこなせると確信していた。
脳に血流が回る。
心臓がばくり、ばくりと鼓動を奏でる。
丹田は今にも爆発しそうだ。
老虎はだん、と大地を踏みしめた。
阿蘭が生涯受け取った、最後の天命だった。
彼女は武に狂っている。
彼女は老衰の果てに、「体」を欠いていた。
彼女は機械鎧を持ってして、「体」を補う術を得た。
彼女は「心」「技」「体」研ぎ澄ませし、老境の武芸者である。
中国代表、中国武術家。
老