あいえす城御前試合 作:徳川さんちの忠長くん
少々エロチックな内容です。
織斑千冬を見て女は思った。
──その一太刀、さぞや気持ちよかろう、と。
モスクワ駐屯地に併設する、ロシア正教会のシスター、ダリア・コトフは、その日、一人の信徒、友人を迎えることになっていた。
軍基地に併設されたこの教会では、立地的な都合上、訪れる信徒もその大部分が軍人である。告解の際も、暴力を生業とする事や、他者を殺害する事への懺悔が主であった。神への願いもまた、自身と仲間の安全など、現実に根ざしたものが多い。
昨今の風潮の煽りを受けて、極めて異例ながら、神父の代わりに教会で奉仕することとなったダリアにとって、彼女たちの告解を聴くのは、最早日常的なものと化していた。
礼拝堂の中を掃除していたダリアは、ふと壁掛けの時計を流し見る。
短針は三を指し示していた。
建物の外では、雪煙がひょうひょうと舞っていた。
「そろそろ来る頃かしら……」
清掃道具をてきぱきと片付けながら、ぽとり、と声を漏らして少し。
ぎぃ、と扉を軋ませ、一人の女が神の家に立ち入ってきた。
まず目につくのは、180を超えんばかりの身長と、腰まで垂れ下がった美しいブロンドの髪。ついで、左の眼下から頰にかけて通った、薄い切り傷の跡だった。
雪と土、汗にまみれた軍装を纏ったその女は、粗野な風体であったが、そこには妖しい色気が同居していた。
名をエレーナ・ソコロフというこの女こそ、今話の主役である。
シスターからタオルを受け取った軍装の女は、「あぁ、どうも。ありがとう」と労をねぎらい、重ねて申し訳ないのだが、と前置きして、一つの要望を口にした。
「みぞれに濡れた服がダボついてかなわん。替えの服はあるから、シャワーか何か貸してくれないか?」
シスターがエレーナに目をやると、なるほど確かに。軍服はぐっしょりと濡れていて、小さなタオル程度ではどうにもならないほどだった。
自身の
大層粗放な
──ああいった男勝りなところが、年若い女達の気をひくのだろうか?
そのようなせんなきことを考えて、軍装の行く先を目で辿ったダリアは、はぁ、と深々と嘆息した。
シャワールームへ向かう床には、ぽたぽたと滲み出た雪が、小さな水溜りを成していた。
水溜りを除かんと、物置に雑巾を取りに行ったシスターだったが、その時ふと視界に入った洗剤を見て、そういえば、と昨晩の事を思い出した。
「そういえば、シャンプー切れてたっけ……?」
洗髪剤がなければ、エレーナも困るだろう。
そう思い立つやいなや、ダリアはシャンプーの替えを持ち出し、シャワールームへと足を運ぶ。
脱衣所には脱ぎ捨てられた衣類がごちゃまん、としていて、女のズボラさが滲み出ていた。
「エレーナー。シャンプー切れてませんでしたー?」
「ん? ああ、確かに切れてるな。すまないが持ってきてはくれないか?」
エレーナとしては、適当に脱衣所にでもおいておいてはくれまいか、と意図してそう頼んだのだろう。
だが、このダリアというシスター。生来そそっかしいところがあり、同性特有の気安さもあってか、何処ぞの朴念仁よろしく、シャワールームへと一気呵成に踏み込んだ!
「はい! そういうと思って、持ってき────ッ!」
ダリアは思わず息を飲んだ。
中で水滴を滴らせていたのは、金色の髪をした男装(?)の麗人────では当然ない。
そこにいたのは、あいも変わらず、無骨な女だった。いくら友人とはいえ、シスターがその女の裸体を正面から見たのは──当然ながら──初めてであった。
そして、そのからだには、無数の刀傷、打撲痕があったのである。
もともと見えていた顔面は勿論、肩も、胸も、両の腕足も、腹部も、いや股の先から太腿に至るまで、まるで場末の芸術家がむちゃくちゃに筆を振り回し、色をつけたかのような、そうそうたる有様だった。
とてもではないが、安全安心を謳うISの試合で受けた傷とは思えない。
シスターは何事かを言おうと思ったが、意に反して、口はぱくぱくと動くばかりだった。
傷だらけの女は、ああ、と深く溜息を吐くと、
「済まない、ダリア。目に悪い物を見せてしまった」
と謝った。シスターは何事かを言おうと一瞬画策し、
「どうしたのよ、その傷! 何があったの!?」
出てきたのはそんな、敬語も忘れた、つまらない言葉だけだった。
「──悪い。ダリア。頼む。その事も話すから、告解室で待っててくれないか」
エレーナはダリアにそう頼み込む。
男勝りな彼女らしからぬ、縋るような言葉だった。
告解室にて待つダリアの脳裏には、先ほどのエレーナの裸身が浮かんでいた。
美しさ、妖艶さより先に、痛ましさを感じさせる体だった。暴力にはめっきり縁のないシスターは、彼女の将来──とりわけ女としての幸せが心配になった。
「済まない、待たせた。よろしく頼む」
ダリアの教会の告解室は、信徒の様子が見えるようなつくりとなっている。向かい側に、パンツルックの女が現れるのが見て取れた。ここに来てダリアは、目の前の女が男らしい服装を好む理由が、自身の傷を隠すためではないかと勘ぐった。
信徒の話を聴く、という原則を忘れて、シスターは軍人に詰問した。
「どうしたのよ、あの傷! 何? 誰にやられたの!? そもそもどうしてあそこまで傷つくの!? ISって安全じゃなかったの? というか私知らなかったわよ!」
「ああ、うん、そうだな。ファンデーションとかで意外と隠せるんだよ、これが」
最近はいいもの売ってるよこれが……、などとピントのズレた答えを返すエレーナを見て、ダリアは噴火した。
「だーかーらー! さっさと訳を言いなさい! 訳を! どうしてそんなに怪我しているの!」
「ええと、あー、そのー、なんだ、うー──あまり気持ちのいい話じゃないぞ。ドン引きしたりしないか?」
男らしい女が見た事も無いほどに優柔不断になっているのを見て、ダリアはただただ呆れた。
──そこそこいい友人をやっていると思っていたのは、自分だけだったのか?
「引く訳ないでしょ! ……いや、内容によっては引くかもしれないけどさ、それでも、ほら、友達じゃない、私達」
雪のように白い頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
エレーナは目の前の女の照れを、きょとん、とした目で見つめた。
「そうか……、よし。言うぞ」
「はい、どうぞ」
すー、はー。すー、はー。
深呼吸を挟み、軍人は告げた。
「──実は、これ、私の
つまり、私──マゾヒストなんだ」
「──はぁ?」
シスターの目はまんまると見開かれた。
「はじめに自分の性癖に気がついたのは、そうだな。10歳くらいの時だったかな」
女の奇癖語りが始まった。
女はタイタニック級の乗りかかった船だ、とそれに付き合うこととした。
「小さい頃ってしょうもない悪戯とか、よくするだろう? まぁ私はよくしてたんだが、そうすると、当然、叱られるだろう? それで、先生だったか、近所の大人だったか……。詳しくは覚えてないけど、大人に頰を張られたんだ。
──で、それがまた、気持ちよく感じたんだ」
女は過去を思い出したのか、恍惚としていた。
女は早速船を降りたくなった。
「それからと言うものの、私はちょくちょくと悪戯をして、体罰を受けに行ったんだ。勿論絶対にやってはいけないようなことはやってないぞ。ただ、今思うと、ギリギリのラインを見極めるのはここで学んだのかもしれない」
女は武勇伝を語るかのようにしみじみと語った。
女はドン引きしない、と言う宣言を撤回する準備を始めた。
「思春期に入るにつれ、流石に悪ガキの真似事をする訳にも行かなかったからさ、私は合法的に愉しむ為に、そういう環境に身を置こうと決心したんだ。
──以前語っただろう? 私がやってる格闘技、システマ。この時に、近場の退役軍人がやってた道場に転がり込んだんだ」
女は当時を回顧して語った。
女は件の軍人に深く同情した。
「ただシステマってやつがなぁ……。私の目的からすると、少しばかり外れてたんだ」
女は語りだす。
そもシステマとは、技を修める武術ではなく、身体の動かし方の総体としての武術であるという。
システマとは、「一定に呼吸し続ける」、「心身ともにリラックスする」、「姿勢をまっすぐと保つ」、「常に動き続けて間合いをはかる」、という四つの要素からなる。
日本で言うところの合気道であり、相手が武器持ちだろうと素手だろうと、男だろうと女だろうと、とにかく無傷で勝つことを主眼としている。
「これがなぁ……。才能とでもいうべきか? そういうものはあったのか、システマの骨子ってやつをなんとなく身につけたんだ。
ただ、そう。試合に勝てども勝てども、私は気持ちよくない。一方的なサディズムは私の趣味じゃないな」
女は訳知り顔でそう話す。
女はなんだか悲しくなってきた。
「それで、当時の私は発想を逆転させたんだ。
──私がシステマに合わせるんじゃない。システマを私に合わせるんだ」
ユリーカ! まさに天啓!
アルキメデスもかくやとばかりに女は語る。
当時のギリシア人はこんな気持ちだったのか? と女は思う。
「いやぁ、まさに目から鱗。あの時ばかりは自分で自分のことが恐ろしくなったよ。ユーリィ・ガガーリン並みの頭脳じゃないかと思ったな。
システマは紙一重で避ける武術だ──それなら、もう一枚内側に踏み込ませてあげればいいんじゃないか、ってな。
好みの相手がいたら、適当に殴るなり、切るなりさせてあげる。で、限界までいったら逆襲する」
いやぁ、楽しかったなぁ。女は当時を思い出す。
神の血でも呑まねばやってらんない。女は無性に口寂しくなった。
「──で。当然バレるわな。道場主の爺さんに追い出された。その時には、私の方が爺さんよりも
それで、次の暴力的な受付先に、ロシア軍を希望したんだ」
そう語る女はどこか誇らしげだった。
こんなやつに守られてていいのか? 女は自国の安寧を憂いた。
「知っての通り、この頃からISが軍に配備され始めて、私もそれに配属されたんだけど。
──今でも思うが、あれはいいな。篠ノ之束ってやっぱり天災だわ。いくら斬られても撃たれても死なない! それでいて衝撃だけはきっちりと通る! 実物そのものって訳じゃないだろうが、十分
天災に対する、世界で最も阿呆な感謝を女は捧げた。
女は呆れて、じゃあなんでそんなに傷だらけなのよ、と問うた。
「それは、ほら、あれだ。肉と魚どっちが好きか? と聞くようなものだ。直接味わうのと、絶対防御越しに味わうの。どっちも
足し算を解くかのように女は答えた。
女にはその答えがフェルマーのように見えた。
「最近一番良かったのはそうだな……。日本のKGBから来た『霧纏の淑女』! あの子はすごく良かったな。槍で刺して、ガトリングをぶっ放して、最後には爆発だぞ? それに生身でもなかなかやる。木刀に慣れてるのか? いい打撃だった。見た目も青髪が映える美人で、少しサディスト。扇子を握ったこしゃまな小悪魔。実に好みだ」
国際親善を果たしたかのように女は語った。
最早国辱ではないか、女は思った。
女の性癖語りは、しばらく続いた。
「──それで? 今日告解に来たのもそのことなの?」
一段落つき、シスターは軍人に問いかけた。
長い段落だった。
「──そう、だな。ここだけの話なんだが、聞いてくれるか?」
意を決して、エレーナは問いかけた。
ダリアはゆっくりと、天を指した。
「ここをどこだと思ってるの? 神の家よ。秘密は守られるわ」
──当然、あなたの
シスターがそう告げる。軍人はそうか、と独りごちて、話し始めた。
「モンド・グロッソの決勝戦を覚えてるか? あれの埋め合わせを、近い将来やるらしい。──それで、上からの指示なんだが、どうもその大会に、私を出そうって、話らしいんだ」
「へぇ? いいじゃない。出なさいよ。私には誰が強いかなんてわからないけど、いいとこまでならいけるんじゃない?」
気楽に勧めるシスターの言葉に対し、軍人は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「つまり、それが、さっきの話と繋がるんだけどな──」
「……あなたまさか──」
「──織斑千冬の剣。凄く気持ち良さそうじゃないか? いや、ブリュンヒルデだけじゃない。世界中から集まった
「──っ、はぁーー」
シスターはがっくりと項垂れた。ブリュンヒルデ級のため息だった。
目を輝かせて自身の展望を語る軍人だったが、しばらくしてその目を曇らせて、こう続けた。
「──でも、やっぱりそれっていけない事だろう? 皆真面目なんだ。私ばかり愉しむ訳にもいかない。それに、もしバレたら祖国に迷惑がかかる」
まさしくその通り。
反射的に同意しかけたダリアだったが、ふと考えた。
──それで、いいのか?
自らの悪徳に悩む友人を、切り捨てて、本当に、それで、いいのか?
「本当はさ、よくない事だとはわかってるんだ。真っ当じゃない──」
「── 『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです』」
「──え?」
ここは神の家。答えは神が知っている。
「いいじゃない。今は、正しくなくとも。いずれ、正しくなれば」
「……」
「確かにあなたのそれは悪癖だろうけど、主より与えられたものだし、仕方ないわよ。大事なのは、これからどうするか、じゃない?」
ダリアはエレーナを見据えて、あっけらかんと言った。
「それに、バレなきゃいいじゃない。周りから見ても、普通そんなのわかんないわよ。もしバレそうになったら、強い人と戦うことが好きなんです! とでも言えば? そういう人たちの集まりなんでしょう? よく知らないけど」
「……」
「織斑千冬に斬られたい? いいじゃない。斬られた後、逆転、するんでしょ?
──『願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです』
チャンスが与えられたんだから、きっとそれは、正しい動機なのよ。主も仰っているわ! ……ええと、それに……」
「……ははっ」
エレーナはダリアを見据えて、笑った。
「──ダリア」
「……何?」
「いいやつだな、お前」
「仕事よ、仕事」
「試しに、私を殴ってみないか?」
「はぁ? い、や、よ!」
「『誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』だろ?」
「右も、左も、どっちも打たないわよ!」
彼女は痛みを愛している。
彼女は悪徳を自認している。
彼女は神と、神の使徒の愛に満たされている。
彼女は赦しを求める、主の
ロシア代表、システマ亜流。
被虐のエレーナ。
筆者はロシア正教に精通しておりません。
宗教観の誤りについては、ご容赦、あるいはご指摘頂けると幸いです。