あいえす城御前試合 作:徳川さんちの忠長くん
あいも変わらずリスペクト。
少しセクシャルです。
織斑千冬を見て、女は思った。
──ああ、あれが次の『顧客』か、と。
完璧な人生などと言ったものは存在しない。
完璧な絶望が存在しないように。
女の人生なんてのは、まあそんなものだ。
台所でスパゲティーを茹でているのは、モニカの『事業』の一環だった。背中の先では五十路を越えた一人の男が、M・J・Qのレコードを聴きながら葉巻を咥えている。
漂ってくる煙に辟易としていると、スパゲティーが茹で上がった。すぐさま
皿に乗せられたそれを持っていくと、男は彼女を見やって、ニヤリと笑った。
「やぁ、
「ええ、そうね。
彼らにとって、これは『事業』の前の
「じゃあ、先にシャワーでも浴びてきなよ」
晩餐を終えるや否や、男は彼女を急かす。
それじゃあお先に、と言い残し、モニカは『仕事道具』を持って、バスルームへと歩いて行った。
清めから戻ると、男は既にベッドに横になっていた。女が思わず、
「貴方はシャワー、浴びないの?」
と問いかけると、男は笑って、
「ああ、ぼくは
と嘯く。やれやれ。苦笑したモニカは、せっかく纏った薄衣を惜しみつつ、男の方へと擦り寄った。
部屋では橙色の光が幻惑していた。
「大丈夫?」
「ああ、よかったよ。
女が──儀礼的に──心配事を口にすると、男は女への賛辞を返す。モニカは男の右肩にしなだれかかり、一つ提案した。
「ねぇ、わたし。マッサージも得意なんだけど、どうする?」
そりゃあいいや! 男が快諾すると、女はベッドから腰を浮かせて、男の体に向き直って座った。
頭頂部、肩、二の腕、手のひら、肩甲骨、腰、尻、太もも、足先。全身を丹念に揉みほぐす女の細白指は、鍵盤を奏でるモーツァルトのようだ。天上の調べを受けて、男の意識はゆったりと微睡んでいく。
「次は首元だけれど……」
女の声を聞いても、既に男は夢の中。
軽く頰を撫でてそれを確認したモニカは、ベッドの脇へと手を伸ばし、女性用の『化粧ポーチ』から、薄い布に巻かれたそれを取り出した。
それは、アイスピックではない。ただ、アイスピックに似た形状をしているだけだ。
女の手のひらにすっぽりと収まる大きさで、先端では蜂の針が深く銀色に煌めいている。女は針先のカバーを外すと、一度男の首元に、そっと触れた。そのまま彼女は男の背中に体重を乗せずに馬乗りになる。モニカの心臓は、どくりどくりと、全身に命を運んでいた。
モニカはメキシコの『個人事業主』だ。
ある女が剣に、またある女が機械工学に
「出来る」女のモニカは、首に添えていた手を離すと、はっと息を止め、心を定め終えてから、握ったその手を優しく振り下ろした。ピックのお尻に向けて。
パワーアシストなんて要らない──何故なら柔らかな針は、簡単に折れちゃうから。
ハイパーセンサーなんて要らない──何故なら彼女の指は、何よりも繊細だと知っているから。
PICなんて要らない──何故なら彼女の腕は、星の重力に逆らってないから。
ISなんて要らない──何故なら
首元をするりと抜けた針は、人間の血管のなにか重要なところをも貫き、そのまま男の心の臓を停止させる。
びくり、と男の身体が隆起した。男の筋肉の生涯における最期の仕事は、モニカの二つの太ももに微かな振動を伝える事だった。
モニカはふぅ、とようやく人心地着くと、愛用の『仕事道具』を薄布で軽く拭い、そのままそれを包んだ。近くに置かれた『化粧ポーチ』に、役目を終えたそれをしまい込むと、彼女は
──これで、半分かな。
机の中、本棚の陰、壁の切れ込み。男にとっては一世一代でも、女にとってはもうそれは
「薬の隠し路に、お金の隠し場所、裏帳簿……うわぁ、軍へのタレコミなんかもやっちゃってる……」
女の口から思わず出たのは、
もう動かないこの男は、彼女のお得意様である、とある
ただ、うん。出る杭は打たれる。
男は仕事はできたけれども、政治の方に疎かったらしい。古株達の目に留まった彼の元に、そうして送られてきたのがモニカだった。
上昇志向の強かった男だ。何かあると思い探ってみれば、やっぱりそうだ。
組織に対する背信が、ざくりざくりと出てくる。やれやれ、強欲さは身を滅ぼすらしい。
女は嘆息してそう思った。
全ての『事業』を終えたモニカは、ビジネスバッグに書類を詰め込み、男の部屋を後にする。ふと気になって食卓の方に目を向けると、スパゲティーの入った大皿が無かった。彼が片付けてくれていたらしい。「ありがとう」、感謝の気持ちを込めて、女は男の大好きだったレコードをかけてあげた。
どうか安らかに眠れますように。
テニスシューズを履いた女は、今日の『仕事場』を後にする。
遺された
「こんばんは、御嬢さん」
女が『事業』の成果の報告に向かったのは、とある小さな酒場だった。店内に据えられたFMからは、軽快なオーケストラの音が流れている。──ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。昔関わったことがあったっけ?
どうでもいいことを振り返りながら、モニカは早速男に書類の類を渡す。
「はい、どうぞ。これでよかったかしら?」
渡された書類束をパラパラと流し見た男は、ふんと軽く鼻を鳴らすと、女に対して労いを言い渡す。
「ああ、ご苦労さん。確かに、受け取ったよ」
まぁ、君が仕損じるとも思ってはいないがね、そう目で伝える男。モニカはそれを無視して、身を翻そうとする。
「まぁ、待ってくれ、御嬢さん。少しばかり、話そうじゃないか」
「……今日の『仕事』は終わったはずだけれど?」
足を止めて、訝しげに口にする女。
それに対して、男は人生を語った。
「そう言うんじゃない。急いては事を仕損じる。あの若造もそうだろう? 老骨を労わると思って、少しばかり付き合っちゃくれんかね?」
「……わたしの時間は高いわよ」
「そりゃあ、勿論! 御嬢さん程の美人なら、わしも懐を惜しまんさ!」
クハ、と笑う男に体を向けて、女は席に着き直した。
「それで、一体次は、何の『仕事』なの? ……と言うより、こんな所でしてもいい話なの? 誰かに聞かれたら、不味いんじゃないかしら?」
「はっは、それは早計だよ、御嬢さん。睦言を交わすなら、静まり返った所ではなくて、雑踏の響く街角で、だ」
確かに。
バーの中にはそこそこの客がいるが、誰も他人になんて目をくれちゃいない。店内を奏でるオーケストラは、十分すぎる耳眩ましだ。
少しばかり感心するモニカを、男は揶揄った。
「やれやれ。御嬢さんは、そう、何だったか……」
「『個人事業主』」
「そう、『個人事業主』。それなんだから、わしに言われずとも、それくらい知っておくべきじゃないかね?」
「……反省するわ」
「うむ、結構」
娘を嗜めるような男。
「で、結局。何の話なの? まさかほんとうに世間話だとでも?」
話を戻した女。
それを見た男はコートの内ポケットをゴソゴソと
そこには、極東の戦乙女の姿が写っていた。
「……彼女がどうかしたの?」
「誰だか知っているかね?」
「ブリュンヒルデ」
「正解だ、御嬢さん」
軽快に言葉を交わしているが、女の背には、薄く汗が流れていた。
モニカはISに乗ったことがある。彼女の『事業』関連で、それに携わった男がいた。幾ら女しか乗れないISだろうと、業界全てが女なんてあるはずがない。
そこには女がいて、男がいて、人間の営みが広がっていた。それが世界だ。
女のIS能力はそこそこ。運と環境さえかみ合えば、代表候補くらいにはなれるかもしれない。だからこそ、モニカには剣客の領域が理解できた。
あれは、魔物だ。訓練を積んでモニカが『個人事業主』になった。ところが、あの女は『個人事業主』級の実力を最初から持っていて、それを更に研ぎ澄ませたもの。
そんな狂域をモニカは予感した。
そんな女に勝てるわけがない。例え、生身でも。
「……彼女って
変なジョークならよしてくれ! と言わんばかりに女は男へと確認する。
それを聞いて、男は軽く手を振った。
「いやいや、違うとも。何も彼女に御嬢さんをあてがうつもりはないさ」
「まぁ、そうよね」
「もっとも、彼女が
「……冗談よね?」
「そう、悪い冗談。イッツ・ア・ジョーク!」
正しく手玉に取られている。
憤慨する女を余所に、男は一口ギムレットを口にした。
酒も飲まずに何やってるのか。
女もメニューから目に入ったものを注文する。銘柄はキティ。今日は甘口。
「それでいいのかい? 子猫さん。いつもはもっと大人らしく──」
「『仕事』終わりよ、これで十分だわ」
「──なるほど、なるほど。これは失礼」
閑話休題。
「──それで、結局の所、わたしは何をすればいいのかしら?」
モニカは話を前に進めた。それを聞いて、男も同調する。
「──実の所、御嬢さんには、とあるISのお祭りに参加してもらうことになった」
「お祭り?」
「そうさ、みんな揃って集まっての世界大会」
第
愉しそうに語る男に、女は血相を変えて食いかかる。
「世界大会って! わたしが出るはずないじゃない! 『本業』に支障が出るわ! それに! あのブリュンヒルデに勝てると本気で思ってるの!? だとしたらあなたの目────」
「────御嬢さん」
トーンを落とした男の声に、女の喚き声はせき止められる。
「これは、もう、
「……」
聞き分けのない子供に言うように、噛んで含めるように。ただ男は
「なぁに。誰も彼女に勝てなんて言わないさ。あんなクレイジー・ガール」
「……そう」
「だからそう震えるんじゃない。わしも彼女も、怖くはないよ、御嬢ちゃん?」
「……わかってるわよ」
「なら、結構」
両者はグラスを傾ける。
口の中は、ほろ甘く、ほろ苦い。
「今回の興行には莫大な金が動く。それにうちの
「それで、わたし?」
「裏の方で、うちと取引のある
男は嗤って告げた。
「誰も君が勝つとは思ってない。だが、うちが
「力を合わせて優勝しろと?」
「それがベストだが、大事なのは馬の
男は口元を手で拭って、女の目を見て、薄くそれを歪めた。
「この大会が終わったら、御嬢さんをうちの
笑う。微笑う。嗤う。
男の前で、モニカは唇を噛み締めた。
彼女は『個人事業主』という建前である。
彼女はしかし、男に囚われている。
彼女はけして強くはないが、彼女の
彼女は自由を求める、一匹の子猫である。
メキシコ代表、
氷刺のモニカ。
こういう枠も必要かな、と。