「あ、青虫。……きりたん、虫籠持ってきて」
「カゴですか?」
ずん姉さまのそんな声を聞いて、前々から不思議に思っていた疑問が解消された。
去年くらいからだろうか。使われもせず、玄関のところにポツンと置かれた空っぽの虫籠があるのに気づいていた。
わざわざ聞くまでもないと思っていたけれど、どうやら今わかるようだった。
「それって玄関の奴ですか?」
「そう、それ。お願いしていい?」
「はーい」
その日はたまたま、休みなのに朝早く目が覚めたから、ずん姉さまの枝豆の手入れを手伝うことにした。
じりじりとした暑さを増す前の、夏の朝の独特の空気。たまには外に出るのもいいかな、と気の迷いを覚えていたところに青虫出現の知らせを受け、やっぱり家の中がいいと思い直しながら籠を持ってきた。
ずん姉さまが芋虫の乗った葉ごと切り取り、虫籠にしまっている様子を見ながら私は聞いた。
「飼うんですか? 自由研究ならとっくに終わらせてますけど」
「まだ夏休み始まってないのに……」
「先手必勝と言うやつです。それで、どうするんですか、その青虫」
「ああ、これはね、葵ちゃんにあげるの」
「葵ちゃん?」
確か、ずん姉さまの友達だっただろうか。
「葵ちゃん、芋虫を育てるのが趣味なんだ」
「へ、へえ……」
それを聞いて苦笑いを浮かべるしかなかったけれど、ずん姉さまの表情も似たようなものだった。
*
『はーい、今行きまーす』
インターホン越しに可愛らしい声が聞こえる。
虫かごをぶら下げて、ずん姉さまとともに葵さんの家までやって来た。
枝豆の手入れを終えた後、ずん姉さまが電話をかけると、直接見たいと言って来たそうだ。
「あ、ずんちゃん。こんにちは」
「こんにちは。それで、こっちが――」
「妹のきりたんです。よろしくです」
「はーい、よろしく。初めまして、琴葉葵です」
そんな形式通りの挨拶を終えて、さっそく葵さんの家にお邪魔する。
「葵ちゃん、茜ちゃんはいるの?」
「お姉ちゃんは――何だっけ、友達と壁をのぼりに行くって」
「壁? ……ああ、テレビで見るやつ?」
「そうそれ。名前忘れちゃったけど」
「あの、茜さんと言うのは……」
「あ、私のお姉ちゃん。双子だよー」
「そうなの。本当にそっくりなんだよ」
「中身はあんまり似てないけどね。……さて」
小さな時からそのままなのか、『あおい』と平仮名で書かれたプレートがついた扉を葵さんが開けた。
「ようこそ。狭いけどね」
中はきっちりと片付いていた。部屋の大きさは六畳くらいだろうか。勉強机と、本棚と、ぬいぐるみが乗ったベッドと、部屋の真ん中の机と、それから――。
ずん姉さまから受け取った虫籠をしげしげと眺める葵さんの背後。部屋の一角に、沢山の虫籠が置かれた棚がある。
その中にいるのは色とりどりの芋虫たちだ。
「さて、なにかなー」
「青虫だと思うんだけど」
「うーん……確かに青虫と言えば青虫だけど、モンシロチョウじゃないよ、この子」
「え? そうなの」
「うん。体の横に模様があるからね。これを見ると分かる。それに、枝豆――ダイズについてたんでしょ? だったら多分ヨトウガだよ。結構厄介な害虫だから、後で対策しといた方がいいよ」
「あ、そうなんだ。ありがとうね」
「いいっていいって」
そんな二人の会話を横目に、籠の中をのそのそと動く芋虫たちに眼が吸い寄せられた。
緑色で平べったい体にピンクの線があるもの。枝分かれした黄色い棘を褐色の体から無数に生やしたもの。体を折り曲げて四つもある眼玉模様を見せつけているもの。ナメクジの眼のように飛び出た二本の棘を頭に持つもの。緑の体に黒い縞模様と黄色い斑点があるもの。一際大きく、お尻に尻尾のような突起があるもの。テントウムシのような模様の頭と、白黒の縞になった体をもつもの。赤と黒の毒々しい色の体に、たくさんの棘が生えたもの――。
「興味ある?」
「――えっ」
知らず知らずのうちに、かなり近づいて見ていたようだ。声に振り返ると、驚くくらい近くに葵さんの顔があった。ニコニコと笑っている。
初対面の人がこんなに近くにいるのは心臓に悪い。かといって、下がれば芋虫たちの籠にぶつかってしまう。
私はしどろもどろになりながら答えた。
「えっと、その、ハイ。少し」
「葵ちゃん。きりたん、ちょっと人見知りするところがあるから――」
「あ、ごめんごめん」
葵さんはすっと身を引くと、私に手を合わせて謝った。別に謝るようなことではないと思ったので、身振りでお構いなくと示しておく。
「あんまり、興味を持ってくれる友達もいないからさ。つい」
「ええまあ、ですよね……」
女子高生で芋虫好き、という人はなかなかいないだろう。しかもこんなにたくさん飼っているとなればなおさらだ。
「ずんちゃんみたいに気持ち悪がらずにいてくれるだけでもありがたいよ、ホント」
「いや、私もちょっと」
「えぇ、まじでー」
気安い会話だ。ずん姉さま自身がそこまで虫を苦手にしていないのもあって、仲は良いようだった。
「小さい時はこれのせいで友達減っちゃったし、お姉ちゃんにも大分怖がられたから。自分の部屋を持てるようになってからは思う存分育てられるようになったんだ」
そう言って葵さんはベッドの柱をぺしぺしと叩く。
その柱は少し不自然だった。てっぺんが真っ平らだし、芯を通すような穴が空いている。
「このベッド、もともとは二段ベッドなんだよね。それぞれの部屋に分かれるときに下の段をもらったの」
「へえ」
「ま、部屋を分けるきっかけは芋虫だったんだけど」
「へ、へえ……」
強いな、この人。
「でも今回は残念でしたね。蝶じゃなくて蛾だったわけですし」
「うーん、あんまり違いはないんだけどね。この子みたく、蛾の幼虫なのに毛虫じゃない子もいるし、その逆もそう。そもそも蝶と蛾は、カブトとクワガタみたくはっきり分かれてるわけじゃないから」
「そうなんですか?」
「うん。それに蝶でも蛾でも、私には関係ないからさ」
「え?」
「ちょっと待ってね」
そういうと葵さんは虫籠をより分け、奥にあった一つを取り出した。
そこに入っていたのは緑色の蛹だ。いわゆる蝶の蛹と言えば一番イメージしやすい、背中に突起があるもの。安直に言えばトランセルのような蛹。
「これあげるよ。芋虫のお礼」
「え? でも……」
「いいんだよ。ね、ずんちゃん?」
「うん。あのね、きりたん。葵ちゃんは――」
*
その日から、学校帰りに虫籠をのぞき込むのが私の日課になった。
「まだですかねえ」
「蛹でいるのは大体二週間って言ってたかな? もうちょっとかもね」
「そうでしたね」
蛹は緑色のままピクリともしない。その中では急速に体が作り替えられ、蝶として羽ばたくための準備が着々と進められているはずだった。
とはいっても、完全にドロドロになった後にゼロから作られるわけではない。すでに幼虫のころから羽根の原型となる部分はあって、着々と準備を進めていたのだ。
まあ、これはつい先日聞いた受け売りなのだけれど。
私はランドセルを部屋に置くと、ずん姉さまにいってきますと言った。
「今日も葵ちゃんの家?」
「はい!」
「ずんだもち――は昨日あげたばっかりだし。うーん……」
「手土産、毎日は要らないって言ってましたよ」
「そう? ううん、せっかくだから別のお菓子か何か……でも今はちょうど良いものがないなあ。謝っておいてもらえる?」
律儀なずん姉さまも素敵だ。わかりました、と返事をして背を向けた。
「いってらっしゃい。ああ、それと」
「はい?」
「もし芋虫を買うなら、枝豆に着かない子にしてね?」
「いえ、今のところその予定はないです」
「そう? ならいいんだけど……」
ここのところ、毎日のように葵さんのところに通って芋虫を眺めている。そのついでに葵さんが話してくれることが面白く、印象に残っているのだ。
芋虫の頭は小さく、一番前の節に見える部分だけであること。
ほかの昆虫と同じく、頭と胸と腹に体が分かれていること。
胸に当たる部分の六本の胸脚が本当の足であり、残りは腹脚や尾脚という追加の足であること。
胸脚は成虫に引き継がれるが、それら追加の足はなくなってしまうこと。
尺取り虫が特徴的な這いずり方をするのは、他の幼虫に比べて腹脚が少ないからだということ。
そしてまた今日も。
「おじゃまします」
「はいはーい。いらっしゃい、きりたん」
「今日は茜さんは……」
「今日は友達と原宿行くって。タピオカミルクティーでも飲んでるんじゃない?」
「そうですか」
なかなか会えない。葵さんとは対照的に、友達とあちこちに出かけるタイプのようだった。
しかし、言いたくはないのだが……。
「あの、毎日のように来ちゃってますけど、大丈夫ですか? 他のお友達とか……」
「ああ、いいのいいの。気が向いた時に時々遊ぶようにしてるから。今はきりたんと芋虫見てるのが一番楽しいからさ」
「そうですか。ふうん……」
何というか、許されている。
友達と何週間も遊ばなくても、そのあとで気まぐれに混じっても、それでも許される人。そんな気がする。
「今日は帰りにいい子を見つけたんだよ」
そう言って鞄から小さなケースを取り出す葵さん。何でも時々、学校帰りに公園に寄っては芋虫を捕まえてくるのだとか。そのためのケースを常に鞄に忍ばせているそうだ。
強いなあ。
「今日は――じゃじゃーん。ナミアゲハ。いわゆる普通のアゲハチョウだよ」
「おお、リアルキャタピー……」
緑色の体色に、大きな一対の眼玉模様。例のポケモンのモチーフになったのが丸わかりな形だ。
しかし、そう考えると不思議なことが一つ。
「バタフリーってモンシロチョウでは……?」
「気にしたら負けだよ」
そう言いながら芋虫が乗った葉をこちらに差し出してくる。
「そろそろ、這わせてみる?」
「え? いいんですか」
「うん。色々と注意事項は伝えたし、そろそろどうかなって」
「お、おおう……では」
こんな時ばかりは和服の袖がもどかしい。左手で
そっと、葵さんが葉の上から芋虫を追いやる。
芋虫の歩みは波打つようだ。後ろの腹脚で踏ん張って体を伸ばし、前の胸脚で行き先の足場を捕まえ、体の後ろを手繰り寄せる。節々に分かれた体が滑らかに連動して動きながら前へ前へと進んでいく。
こそばゆい感触とともに芋虫が掌に乗った。
「おおう……」
「とりあえずは遊ばせてみて」
慣れない場所に出たと思ったのか、芋虫が首――胸から上を左右に振って周囲を探るようにする。胸脚が掌のあちこちをつついてきて何だかくすぐったい。
一番注意しなければいけないのは、構いすぎないこと。
人間の力でむやみに芋虫をつつけば怪我をさせかねない。それに気門に手の脂がついてしまうと呼吸できなくなることもあるそうだ。
だから移動させる時も体の側面に触れるのではなく、手ですくうようにして歩かせ、自分から乗るようにする。それが一番刺激が少ないのだと葵さんは言う。
「この子が、あの蛹になるんですね」
「そうだね。この子はもう終齢幼虫、つまり蛹の一歩手前だからもうすぐだよ。で、アゲハチョウの幼虫は特に見た目の変化が大きくてね」
この話をしようと決めていたのだろう。葵さんがスマホを差し出してきた。アゲハチョウの幼虫についてまとめたサイトが表示されている。
「卵から孵ったばかりの一齢幼虫はちょっとトゲトゲしてるんだよね。それで脱皮して、二齢から四齢は特徴的な姿になるんだ」
「いや、これ……鳥のアレでは」
「そう。鳥のフンにそっくりな色になる。そうやって擬態してるって考えられているみたい。で、最後に四回目の脱皮をするとこの子みたいになるんだよ」
「芋虫も大変ですねえ」
「鳥に食べられたらおしまいだからね。だからこの子にも武器がある。一回だけなら多分大丈夫だから、前に教えた通りやってみて」
「はい」
軽く、頭の上を指で撫でる。そして素早く手をひっこめた。
芋虫は刺激に反応し、体を反り返らせると黄色い角のようなものを伸ばした。こうなるとますますキャタピーじみた姿になる。
これは臭角。文字通り独特なにおいを放つ、身を守るための角だ。角と言っても、普段は頭と胸の間にしまわれている。眼玉模様を目に見立てると、鼻の上から飛び出しているように見えるのだ。
「おお……」
「やっぱり、ちょっと感動するよね? ネットや図鑑で調べた通りの動きを、実際の虫が見せてくれるとさ」
「そうですね。ホントにこうするんだ、すげーって思います」
「ふふふ。さて、そろそろこの子はおうちに入れてあげよう」
葵さんは、芋虫を持ってきた枝ごと虫籠に入れる。蝶は自分の子供が食べられる木に卵を産む。だから、本当は芋虫がついている葉ごと持ってきてしまうのがいいと言っていた。
とはいえ人の庭や公園の植物を切るのはいけないので、同じ木から落ちている葉をこっそり拾うくらいにしている、とも。
「さて、あげた蛹はどんな感じかな」
「ピクリとも動きませんね。言われた通り、触らないようにしてますし」
「そっか。うーん……確か、十日くらい前に蛹になったはずだから……今週末くらいかな? もし蝶になったら連絡してよ」
「はい」
そんな風にして、毎日を過ごし、ずん姉さまやイタコ姉さまは一歩離れたところから見守られているのを感じつつ。
その日がやって来た。
*
先ほどから、蛹がピクピクと動いている。すでに体を作り終え、外に出る準備を終えていると言うことだ。
葵さんの予測通り、週末の朝。ずん姉さまも枝豆の手入れをする手を止めて見に来ていた。
「この子は……アゲハチョウだっけ」
「はい。ナミアゲハですね。いわゆる普通のアゲハチョウです」
「蛹は結構小さいのに、あの大きさになるんだよね」
「ええ。羽がかなり大きいですからね」
そんな会話をしながら待つが、思ったより話は続かない。
それもそのはず。葵さんからの受け売り情報はほとんどが幼虫についてだからだ。
蝶が羽化した後、どんな風に過ごすのか。天敵は何なのか。オスとメスがどんな風に出会い、卵を産むのか。
それを私は知らない。
「あ――」
穴が、開いた。
「え?」
おかしい。
背中が割れて、蝶が蛹を脱ぐはずなのに。
穴が開いた。暗くて中身は見えない。しかしこれは。周りからかじられて、穴が大きくなっていき――。
「見ちゃダメ!」
間一髪、蛹の中が見える前にずん姉さまの手が私の眼を覆った。ずん姉さまは後ろから抱き着くようにして、それを私に見せまいとした。
それでも、「ひぅ」という声とともにずん姉さまの体がビクリとしたのを背中で感じ、分かってしまった。
望まないものが生まれてしまったんだ。
*
「うん。うん……そうみたい。ああ――逃がしちゃった。ああ、そう? うん、わかった。それじゃ、またね」
ずん姉さまは憂鬱そうな顔で電話を切った。
「葵ちゃん、ゴメンって言ってたよ。時々ああいうことが起きるんだって」
「そうですか……」
空っぽの水槽がぽつんと机の上に置かれている。
ずん姉さまは私の眼を覆ったまま居間から追い出し、その間に虫籠の中身を捨ててしまった。
結局、あの蛹の中身は――。
「その……私もごめんね。いきなり目隠ししちゃって」
「いえ。私にショッキングなものを見せたくなかったんですよね。わかります。だから……ありがとうございました」
「そう? ならいいんだけれど」
思ったより私が落ち込んでいないと思ったらしい。「庭にいるから、何かあったら呼んでね」と言うと、ずん姉さまは軍手をはめながら庭に出て行った。
「……さて」
疑問がある。
スマホを手に取りながら、頭の中を整理する。
果たして、これは予想外の出来事なのだろうか?
あれほど芋虫の飼育に詳しい人が、この事態を予想しないことがあるだろうか? ショッキングな出来事だからと、小学生には話さないようにしていただけだろうか?
あの人が。
あの人が、そんなお節介をするだろうか?
それに、気になることも言っていた。
『そっか。うーん……確か、十日くらい前に蛹になったはずだから……今週末くらいかな? もし蝶になったら連絡してよ』
もし、とはどういう『もし』だろうか?
その疑問を解決するために、私は空っぽになった虫かごを睨みながら電話をかけた。
*
「いらっしゃい、きりたん」
「……どうも。お邪魔します」
いつものようにインターホンを押して、いつものように軽い返事の後にドアが開く。そうして重苦しい訪問は始まった。
「ごめんね、ハズレの蛹を渡しちゃって。結構ショックだったと思うけど――」
「葵さん」
「ん?」
「ちょっとお聞きしたいことが」
「お姉ちゃんのこと? 出かけてるよ?」
「ああ、今日もいないんですね……ではなく」
それも気になるが。
「単刀直入に聞きます。あの蛹がダメなものだって、知っていたんじゃないんですか?」
「……ふうん。きりたんは私が意地悪でそうしたって考えてるんだ」
「意地悪、とまでは。でも、わざとだと思ってます」
「微妙な違いだなあ、それ」
困ったように葵さんは笑う。まん丸の眼がすっと細められて、この人に独特な表情になる。
「話は変わるけどさ、中身は見たの?」
「いえ。ずん姉さまに目をふさがれたので」
「まあそれも当然か。ずんちゃん、優しいお姉ちゃんだしね。うちのお姉ちゃんもそうするかも。自分は虫苦手なのにね」
葵さんはパソコンの前に行くと、椅子を引いて手招きをした。
「さっき見られなかったものを見せてあげるよ。気になってるでしょ?」
「それより、質問に答えてください」
「これを見てくれたら、正直に答えるって約束するよ」
「……約束ですよ」
私は椅子に座るとマウスに手を添えた。表示されている動画のタイトルは――『アゲハヒメバチ アゲハチョウの蛹から誕生』
「誕生っていうのとはちょっと違うんだけどね。これが一番見やすいから選んだんだ」
「ハチ、だったんですね」
動画の再生ボタンを押した。今朝見たのと同じ光景が動き出す。
椅子の背後から葵さんが語り掛けてくる。
「多分ね。ハエとかも寄生するけど。ハエならもっと変色が目立つはず」
「確かに……色は変わっていませんでした」
「多分このアゲハヒメバチだと思うんだよね。このハチはアゲハの幼虫に卵を産み付ける。ハチの幼虫は芋虫の体内で生まれて、内側から食べていくんだ」
「うへえ……」
「でも殺さない程度に、だよ。それで蛹になったら一気に乗っ取る。蛹の中を食べつくして、自分も蛹になって羽化する。それで最後にはアゲハの蛹に穴を開けて出て行くんだ」
「とんだお邪魔虫ですね」
そんな風な会話をよそに、動画は進んでいく。
今朝の続きだ。蛹に空いた穴はどんどん広がっていき、ついには長い触角が特徴的なハチが頭を出した。
そして十分な大きさとなったところで外へと飛び出て来た。全身を映そうとカメラが追いかける。
触覚もそうだが、ミツバチやスズメバチとは印象がかなり違う。細かいところを見ればキリがないのだろうが、少なくとも見慣れたものではない。
もし、アゲハチョウが出てくると期待に胸を膨らませているところでこのハチが出現したら、驚かずにいられるだろうか。
「さて、もうこんなもんでいいかな」
動画は途中だったが、本題は終わったと言うことだろう。背後から葵さんがマウスに手を伸ばし、動画を止めた。
「どう思った?」
「どうと言われても……まあ、ワンクッション挟んだので、あまりショックではないです」
「それならよかった。でもね、ずっと育てて来た芋虫の蛹からこいつやハエが出てきたときのショックったらないんだ」
「そう、ですか」
「だから、一度見せておこうと思って」
「……なるほど」
それが答えか。だとすれば、葵さんは――期待しているのだろうか?
それでこんなものを見せるだなんて。中途半端は許さないつもりなのかもしれない。
なら、こちらもハッキリ言わなくてはいけない。
振り返って言おうとしたが、葵さんが椅子の背もたれに体重をかけているせいで回れない。止まった動画を映したままのモニターをぼんやりと眺めながら、言う。
顔を見上げるのは少し怖いから。
「葵さん」
「はいはい」
「私、芋虫を飼うつもりはないですよ。……今のところは」
「……そっか」
「この二週間で色々聞きましたけど、本当に手間がかかるみたいですから。決まった餌をあげて、フンを掃除して、おまけにこういう寄生虫にも気を付けて。私にはちょっと難しいです」
「そっかー。残念」
葵さんが椅子から手を離そうとするのを感じた。離れてしまう前に急いで付け加える。
「それに、葵さんのところに来れば、いつでも見れますから」
一瞬浮いた椅子がまた沈んだ。
「……めんどくさがりだ。いけないんだ」
「葵さんの方がお姉さんなんですから」
「だからってさあ。それに、いつでも見れるわけじゃないんだよ? 季節や場所、もちろん運にもよるし」
「葵さんがとった芋虫が見たいんですよ」
「調子良いこと言っちゃって」
頬をぷにぷにとつつかれた。カチンときて、頭上の後ろにあるはずの葵さんの顔めがけて両手を伸ばした。が、かわされた。
椅子の重みはなくなった。葵さんと、自分の分が一緒に。
「よけないでくださいよ!」
「今グワッてしようとしたでしょ、グワッて!」
「いきなり頬をつつくからですよ!」
「だからってアレは――」
つかみ合いになる寸前、がたがたという音が私と葵さんの気を引いた。二人そろってそちらを見る。
一つの虫籠の中で、蝶が羽ばたいていた。
「これって……」
「キアゲハだよ。もしきりたんがショックを受けたときは、お詫びであげようと思ってたんだけど、今朝から羽化を始めててさ。今ちょうど、羽が乾き終わったみたい」
「わざとショックを与えた人の言うことですか……」
「それはごめんって」
「全くもう……」
この籠でも芋虫や蛹の時は十分だったのだろうが、蝶には少し狭いだろう。かといって、葵さんの部屋にもっと大きな籠はない。
葵さんはキアゲハの入った籠を持ち上げると、私に差し出した。
「あげようか?」
「いいえ。蝶は自由に飛んでいるほうが好きですから」
「だよね。私もそう思う」
葵さんは窓を開けると、虫かごの蓋を取り外した。蝶が待っていたと言わんばかりに飛び出す。
葵さんと、どちらからともなく笑い合う。
「あおいー!」
その時、葵さんにそっくりの声が窓の外から聞こえた。それに葵さんを呼んでいると言うことは……。
「あ、お姉ちゃんだ」
「この蝶、葵が逃がしたんか? えらい人懐っこいんやけど!」
「あ、ごめん。今逃がしたところ」
「うわっまだ来る」
葵さんに並んで窓から外をのぞくと、葵さんにそっくりな人がいた。買い物袋をぶら下げているのを見ると、帰って来たばかりなのだろう。
彼女、茜さんは自分に寄ってくる蝶から逃げ回って庭を行ったり来たりしていた。
それを見て何を思ったか、葵さんは蝶に向かって手を差し出した。
「おいでおいでー」
「いや、それで来るわけあらへ……あったわ」
「おお……」
思わず自分も声を漏らしてしまう。
茜さんを追いかけていた蝶は、葵さんが声をかけた途端に舞い上がり、差し出された指先にひらりと乗った。
それを見て葵さんはくすりと笑った。絵になる一瞬。
幼虫の時から可愛がっていたからだろうか、なんて思ってしまう。
「本当に来た。良い子良い子」
「すごいなあ」
なんにせよ、この人は強い。本当に敵わない。そう改めて思わされた。
そんな私の考えを知ってか知らずか、庭先から明るい声がかかる。
「おー、その子が例の友達かー?」
「そうだよー」
「そっか。あー、うち、茜言います。今そっち行くんで」
「あ、どうも」
私がぺこりと頭を下げた横で、蝶が今度こそ飛び立った。
高く、遠く、ひらひらと飛んでいき、茜さんが部屋にあがってくる頃には見えなくなった。
蝶の行方は分からない。どこかで卵を産み、その卵が孵った後に、葵さんに連れられてこの部屋にやってくるかもしれない。
きっとその時には、人懐っこい芋虫になっているだろう。
途中で列挙した幼虫たちは、順にベニシジミ、キタテハ、アケビコノハ、コムラサキ、キアゲハ、コエビガラスズメ、アオバセセリ、ツマグロヒョウモンを参考にしました。