夜の帳が未だ上がらない早朝4時45分、作戦開始時間が近づいたのに合わせて、ウェルロッドはリュックサックを背負って安物の半透明なレインコートを着込むと、ジュラルミンケースを左手に持ってセーフハウスの扉を開いた。
まだ春を感じさせない冷ややかな風が彼女の肌を撫でる。軒先から一歩踏み出すと、夜半からの冷たい雨がプラスチックに弾かれてパタパタと音を立てた。気象班の予報では、低気圧は夜明けまでに通過し、8時頃には完全に晴れるそうだ。
暗視モードの視界に映る街並みは、歴史の教科書に載っていた中世ヨーロッパの街の絵を切り取って持ってきたようだった。
遠目には街を見下ろす古城、そのすぐ横に建つ大きな教会には、時の刻みを街に知らせる巨大な鐘が雨に濡れていた。
ウェルロッドの歩く石畳の道路には火の落ちた街頭が立ち並んでおり、その横に並ぶレンガで出来た家々を眺めていると、路駐している乗用車さえなければ映画の世界に迷い込んだかと思ってしまうほどだ。実際、昨日初めてこの街を訪れた彼女は、21世紀を折り返した時代のものとは思えない、と非常に驚いていた。
生存圏をE.L.I.Dに脅かされているようにはとても見えない風情あるこの街で、彼女は久方ぶりの大仕事に臨んでいた。
鍵となるのは期待の新人、ゲパードM1。狙撃能力も銃の威力も申し分ない。本人の無気力気味な態度を除けば、まさに求めていた戦力。……いや、むしろあの態度は好都合かもしれない。指揮官もあまりよくは思っていないみたいだし。
ぼんやりとそこまで考えてからウェルロッドはかぶりを振った。任務中だ、今はそんなことを考えている場合ではない。
表通りから裏道に抜け、壁に落書きのある少しガラの悪い小道を進んだ。先ほどまでのレトロスペクティブな雰囲気は消え失せ、この時代にありがちな風景が現れた。
ゴミを漁る野良犬や、生きているのか死んでいるのかわからない突っ伏した浮浪者を横目に15分ほど歩くと、目的の建物が見えてきた。小高い壁に囲われたそこは、街の景観を損ねるからと道路を挟んで住宅街から隔離されているかのように見えた。
雨天にも関わらず漂う異臭に顔をしかめたウェルロッドが辺りを見渡すと、汚れた作業着の中年男性が寒そうに傘をさして建物の中へ入っていった。時間通りだ。
「Charley, Charley, This is Whiskey. Over. (チャーリーへ、こちらウィスキー。送れ)」
『……Whiskey, This is Charley. Loud & clear, Over. (こちらチャーリー。感度良好、送れ)』
「Charley, This is Whiskey. I checked Croupier ring a bell. Repeat, Croupier ring a bell. (こちらウィスキー。ディーラーがベルを鳴らしたのを確認した。繰り返す、“ディーラーはベルを鳴らした”)」
『Whiskey, This is Charley. Roger that. Start to bet. (チャーリー了解。賭けを始めろ)』
「Charley, This is Whiskey. Roger out. (ウィスキー了解。交信終わり)」
物陰に隠れて指揮官との通信を終えたウェルロッドは、ゆっくりと建物へ向けて歩き始めた。
先ほどの中年男性は、建物の照明をつけると再び傘をさして外に現れ、ガラガラと音を立てながら大きな金属製の正面ゲートを開けた。明かりに僅かに照らされた敷地内には、3台のゴミ収集車が止められているのが確認できた。
粒こそまだ大きいものの、雨足は徐々に弱まりつつあった。