どれだけの時間が経っただろうか。廊下の隅にパイプ椅子を並べ、優佳子と忠輝は静かに真心の手術を待ち続けていた。二人の間に会話は無い、必要な言葉は再開して十分足らずの内に全て吐き出していた。忠輝と優佳子は肩が触れそうな距離でただ佇むだけ、けれど気まずさなどは感じなかった。二人にはこの沈黙に耐え得るだけの絆がある、優佳子は独り瞼を閉じたままじっと待ち、忠輝は天井を見上げ眉間に皴を寄せていた。
沈黙は思考を働かせる、だから忠輝は何か楽しい事を考えようと思った。
けれど楽しいという感情を覚えた事柄、その横には大抵真心の姿があって。忠輝はまた眉間の皴を深くする。
そうこうしていると廊下の奥――真心の手術をしていた大部屋の扉が独りでに開き中から政玄がゆっくりと姿を見せた。優佳子と忠輝は無意識の内に立ち上がり、「先生、真心は」と忠輝が問いかけた。
政玄は手に持ったままだった器具をベルトに差し込むと、「問題ねぇよ、今は【再起動中】だ、五分もすりゃ目が覚める」と言って後頭部を掻いた。その言葉に忠輝は胸を撫で下ろす、大丈夫と真心に言葉を掛けられてはいたが鵜呑みに出来る程忠輝は精神的に強くはない。
ゆっくりとパイプ椅子に再び腰を落とした忠輝を横目に、政玄は優佳子の前に立った。
「政玄さん、お久しぶりです」
「おう優佳子、久しぶりだ、災難だったな――なんて言葉しか出てこないのが何とも歯痒いが、事情はあの子から聞いているんだろう?」
「えぇ、大凡は端末で、直ぐにでもこの街から出て行こうと思います」
「あぁ、それが良い、時間は敵だ、検問が出来る前にさっさと出た方が良いだろうよ」
短いやり取りだった、それだけで大凡相手の要求している事が分かる。優佳子はショルダーバッグから一枚のチップケースを取り出し政玄に差し出した。彼はそれを受け取ると胸元のポケットから幾つかの電子キーを取り出した。手のひらに散らばったそれらの中から二つ程キーを摘まむと政玄は優佳子に差し出す。
「第三と第五倉庫だ、車種は適当だがそこそこ新しい、問題ねぇハズだ」
「……チップには一台分しか入っていませんが」
「老婆心って奴だ、お前さん達には随分世話になった、こんな事で恩返しになるとは思わねぇが……先立つモンは必要だろう、データの改ざんはこっちがやってやる、二台で分散した方が目も厳しくねェハズだ」
「――経過年数は変わらないでしょうに、けれど……ありがとうございます」
優佳子は電子キーを二つ受け取るとそれを胸に抱いて深く頭を下げる。政玄は「よせよせ」と言いながら恥ずかしそうに笑った。
「それで街を出た後はどうするつもりだ、アテはあるのか?」
「いつかはこうなると分かっていましたから、既に連絡を済ませてあります、街を出た後は東の方へ――【機械の国】を頼ろうと思っています」
「……成程良い案だ」
「最悪フェイスパーツを変える必要があるかもしれません、それに名前も、駄目そうなら国外逃避も視野に入れなければなりませんが」
流石に此処で顔を変えるだけの時間はねぇからな。
政玄の言葉に優佳子は頷いた。忠輝は二人の会話を聞きながら何とも言えない感情を抱いた、目の前の二人が本当に自動機械なのだと刃として突き付けられているようだ。しかし、機械の国と言うのは聞いた事が無かった。忠輝の知識不足と言う訳では無いだろう、恐らく彼らなりの暗喩か何かなのだと思った。
ともあれ、既に優佳子の中には逃亡する為の計画が明確に存在しているらしい。いつかこうなると分かっていた、彼女もまた真心と同じ事を言う。
「それで、問題は――」
優佳子は口を開くと不意に忠輝の方へと顔を向けた。
「忠輝がどうするか、です」
「……俺?」
政玄と優佳子が己を見る、二人の視線に肩を震わせた忠輝は瞠目し疑問符が口から出た。何故自分の話題が上がるのが、忠輝には分からなかった。
「忠輝、此処まで真心に付き添ってくれてありがとう、病院に連れて行かないで匿ってくれたのは本当に助かったわ、けれど――貴方はまだ成人もしてない、それに貴方は人間、まだ引き返せるわ、万が一関係が露呈しても私達に脅されていたとでも言えば問題無いもの、此処からは私達と別れて家に帰りなさい、元の生活に戻るのよ」
「―――」
それは何と言えば良いだろうか。忠輝が考えていた選択肢の一つ、即ち真心や優佳子から目を背け社会に屈服して生きる退路。常に頭の片隅に存在していた逃げ道の一つだった。それをまさか優佳子さんの口から奨められるとは思っていなくて、思わず口を噤む。
確かにその道は安寧へと続いているだろう、彼女の言う通り忠輝が黙して管理局に偽りを述べれば今まで同じく何事も無く、あらゆる出来事を【自分とは関係無い】と断じて生きて行く事が出来るだろう。今まで通りに、何の進歩も変化も無く。
そう思って忠輝は。
静かに首を横に振った。
「……いや」
その道は安寧へと続いている、元の生活に戻れる、それはきっと本当だ。
けれど――此処で安寧を選んだ後の生活は、今までと同じ何かじゃない。
「忠輝……」
優佳子が何か言葉を紡ごうと口を開く、きっとその口から紡がれるのは説得の言葉だ。けれと忠輝はそんな彼女を手で遮って真っ直ぐ優佳子を正面から見つめた。ここだけは言葉で飾ってはいけないと思った。ぐっと拳を握って腹に力を籠める、喉元以上に足へと力を込めて確りと二本の脚で地面を踏み締めた。
「多分、優佳子さんの言う通りにすれば、俺は今まで通りの生活に戻れると思います、優佳子さんの優しさは理解しているつもりです、けれどそれは俺の世界を知らない、外側の人間から見ればの話なんです………居ないんですよ、此処で逃げたら、【優佳子さん】も、【真心】も、俺のこれからの世界に」
それは恐ろしい事だ、許容できない欠損だ。
忠輝にとって真心と優佳子は家族と言える人間なのだ。優佳子はもう一人の母親で、真心はもう一人の自分、ある意味片割れと言っても良い。そんな存在が居ない生活がずっと続くと思うと吐き気がする。当たり前の存在が隣にないなんて、そんなの口が裂けても今まで通りの生活などとは呼べないだろう。その未来はきっと空虚で、寂しくて、まるで永遠に覚めない悪夢を見続けている様な世界だろう。
「十七年共に生きました、真心が俺の成長に合わせて何度も中身を取り換えたとも聞きました、俺は微塵もアイツを疑っていなかった、今だってそうだ、自動機械だ何だと言われたって少しもこの感情に揺らぎはない、そりゃあ驚いたし、動揺もした、けれど選ぶべき選択肢を間違える程、俺の心は弱くない」
後悔はしたくない。
いや、違う。きっとどちらの道を選んでも己は後悔するのだろう。十年後、二十年後、やはり人間社会と決別するべきではなかったと、従順であれば良かったと、そう思う日が来るかもしれない。
けれど、ただ一つ言える事がある。
今、この瞬間彼女達と別れる道を選んだとしたら、自分は未来永劫その道を後悔し続けると。一生己の片割れと、もう一人の母親を見捨てて生きているのだと、その罪を背負って生き続ける事になる。それだけは忠輝の心が確信していた、きっとそうなる、必ずそうする、忠輝と言う人間の核は彼女達で構成されているのだから。
「良いの、忠輝?」
聞き慣れた声が耳に届く。その声は優佳子でも、政玄でも無かった。
忠輝が声のする方へと視線を向ければ廊下のずっと奥、薄く開いた扉から顔を覗かせる一人の女性。忠輝は少しだけ驚いた表情を見せ、釣られて政玄と優佳子が振り返った。
「真心……!」
「ん、やっほ、お母さん」
真心だ、どうやら再起動が終わったらしい。彼女の服は此処に来た時と同じで、そのまま腹部を抑えながら真心は廊下へと足を進ませた。真心の姿を視界に捉えた優佳子は小走りで彼女の前に急ぎ、そのまま勢い良く真心に飛びつく。真心は正面から優佳子を抱きとめると、そのまま照れ笑いを浮かべて抱擁を返した。
「……無事でよかった」
「大袈裟だよぅ、少し事故っちゃっただけ、中も修理して貰ったし、皮膚も張り直したよ」
「馬鹿、忠輝が居なかったら今頃管理局の処理場よ」
「へへへ……ごめんね」
少しだけバツが悪そうな、そんな顔。
眼を伏せた真心は優佳子の肩を叩いて抱擁を解くと、そのまま下から言葉を紡いだ。
「ねぇお母さん――忠輝を、機械の国に連れて行っては駄目かな?」
それを聞いた優佳子は一瞬目を見開き、それからきゅっと眉間に皴を寄せた。細まった目は笑顔からほど遠い、少なくとも良い感情を抱いている訳では無いだろう。優佳子は僅かに低くなった声色で、「それが、どういう意味か分かっているの?」と真心に問いかけた。
真心は一つ頷きを返すと、透明な瞳で忠輝を見る。
「うん……ねぇ、忠輝、本当に私達と来てくれるの?」
「あぁ、嘘は吐かない」
「もう、人と一緒に暮らす事は出来ないよ? やっぱりナシは通用しない、忠輝は人の世界を捨てて一生機械と共に生きる事になる、全部が全部偽りで、ただの【歯車】だって理解した上で一緒に居られる?」
「――言っただろう、自動機械か人間か何て、そんなものに大した違いはないんだ」
忠輝はそう断じる。例え人間でないとしても、心を持った機械は人足り得る。人でなくとも【人】なのだ、忠輝の中であの無機質なパイプ椅子と真心を同列に並べる事など出来ない。そんな思いを込めて真心を見返せば彼女は暫く忠輝の目を見つめた後、不意にふわりと微笑んだ。
「優しいね、忠輝は」
いつか聞いた、同じ抑揚で彼女は言う。
何となく、言葉以上の意味が含まれている気がした。
「――おじさん」
「……ふぅ、結局真心の言う通りになったか」
真心は政玄に声を掛ける。視線を向けられた彼は仕方ないと言わんばかりに肩を竦め、廊下の脇に退けられていた段ボール、その中から小さなケースを取り出した。肌色の樹脂で固められたケースは小さく、政玄はそれを忠輝に手渡す。手渡されたケースは予想以上にズシリと重かった、中に何が入っているのか想像もつかない。
「政玄さん、これは?」
「開ければ分かる、ある意味人間社会との決別に必要な道具だ」
人間社会との決別? ますます以て良く分からない。
いや、きっと分からない様に言いまわしているのだろう。忠輝は疑問を呑み込みながらその場に膝を着き、ケースにゆっくりと手を掛ける。蓋は施錠されている訳でも無く簡単に開いた。
中に入っているのは黒い金属製の何か、衝撃吸収材を指で払いながら取り出すと確かな重さが腕に伝わって来た。光にかざすと光沢も見え、形は非常に見覚えがある物体。けれど所々異なる点がある。ずっしりとした重さに黒光りする表面、握る手にぎゅっと力を籠めないと落してしまいそうだった。
「……
「いんや、ちげぇよ、ソイツは昔の人間が使っていた骨董品だ、光銃なんてモンが無かった時代、鉄の塊を火薬で飛ばして武器にしていたンだ、昔は拳銃って呼ばれていた」
「拳銃、ですか」
持ち手の横にあるボタンを押しながら底に手を出してみろ。忠輝は政玄の言葉に頷き言われた通りの動作を行う。グリップの横には丸い小さな出っ張りがあり、それを親指で押し込むとカションと音が鳴って何か細長い部品が落ちて来た。本体から引き出して見ると、何やら細長いフレームの中に金色の物体が見える。それは幾つも上に重なって階層を作り出していた。光銃の構造とは異なるが何となく用途は理解した、これは恐らく光銃で言うエネルギーパックだろう。
「その中に入っているのが弾丸だ、光銃で言うパックだがコイツは弾倉と呼ぶ、そこにある数だけ撃てるって事だ、火薬で飛ばす分光銃とは違って反動がある、扱いには気を付けろ」
そう言って政玄はケースの入っていた段ボールから弾倉と呼ばれたパーツを三つほど忠輝に差し出した。取り出した弾倉を本体に押し戻しながら、忠輝は政玄から予備の弾倉を受け取る。火薬を爆発させて物体を飛ばす何て危険じゃないんだろうかと思ったが決して口には出さなかった。
「これが人間社会との決別に必要な道具、ですか」
「おう、もし俺達側に身を投げるって言うのなら丸腰なんて論外だ、連中はあらゆる手を使って自動機械を狩ろうとする、そこに人間の協力者が居れば同罪だ、最悪極刑なんて事もあり得る」
「極刑――」
この国に於いて極刑とは終身刑を指す。もう数十年早ければ死罪もあり得たが、人口の少なくなった現在では総人口減少に歯止めをかける為死罪は廃止された。ある意味少なくなった人間の代わりを作るべく自動機械は生まれたのかもしれない。
「早々殺されはしないだろうが俺達自動機械は別だ、壊れても替えは効くし容赦はない、管理局の自動機械ならある程度三原則に縛られているだろうから基本逃げの一手で問題ねぇが【どうしようもない状況】っていうのは好む、好まざる関係無くやってくる、そういう時の切り札は必要だろう」
「……なるほど」
ある意味これを使ったら後戻りはできない、最後の鬼札という事か。確かにこれを使った時、本当の意味で忠輝は人間社会との決別をする事になるだろう。
忠輝はズボンと腰の隙間に拳銃を差し込み弾倉はポケットに突っ込んだ。使う様な機会がない事を祈るが、きっとそう上手く行く事は無いだろう。そもそも自動機械に火薬で飛ばした金属が効くのかという疑問もある、けれど素手で殴り掛かるよりは遥かにマシだった。
「撃てるか、忠輝?」
「……自分は、光銃すら撃った事がありません」
「まぁ、そうだよな」
「けれど――撃てます、撃ちます」
その言葉に幾千もの感情を織り込んで静かに拳銃から手を離す。シャツを降ろせば拳銃は見えない、ただの学生である自分が骨董品とは言え武器を手にした。その事実に何とも言えない恐怖と僅かな高揚感を憶える。
けれどその高揚感は武器を手にした事で自分が強くなった様に思ったとか、そういう訳ではない。単純に真心や優佳子さんを助けるための手段を得たと言う事実から来る高揚感だった。
「忠輝、一緒に来ると言うのなら、もうこれ以上煩くは言わないわ」
「優佳子さん」
「けれど約束して……その銃は、自分の為だけに使いなさい」
優佳子は最後まで忠輝が共に来る事に対し反対の表情を浮かべていた。申し訳なさそうな、悲しそうな、そんな表情だ。忠輝はそんな優佳子さんの言葉に一瞬目線を落として、それから「何故ですか」と呟いた。
「貴方には人を、自動機械を傷つける様な人間になって欲しくないの、だから自分の為だけにソレは使いなさい、私達は例えどこか怪我をしても直せるから、本当にどうしようもなくなって、忠輝の身に危険が及んだ時にだけ銃口を相手に向ける事を許します」
「それは……出来ません、俺は何処の名も知れぬ自動機械より、人間より、真心や優佳子さんが大事なんだ、だからその時が来たら俺は迷わず相手を撃ちます」
優先順位を間違えてはいけない、確かに誰かを傷つける事に躊躇いがないと言えば嘘になる。忠輝は本来争いとは無縁の穏やかな性格をしている、何も無ければのほほんと平凡に、平穏に一生を過ごす様な人間だ。
だから本当なら銃を扱う様な事など不得手も不得手、けれど自分が躊躇う事で二人に害が及ぶのなら。その誰とも知れぬ人間を、自動機械を、撃つだけの覚悟があった。
「……まぁ、そんなモンは使わないに越したことはないんだ、あくまで護身用だしな――一応怪我をしない様に扱いだけは憶えておけ、それと優佳子、検査の事を考えてダミーを創っておきたい、問題無いか?」
「……えぇ、そうね、お願いするわ」
優佳子さんは忠輝の言葉に悲しそうな表情を見せ、それから政玄の言葉に頷いた。ダミーとやらが何を指しているのかは分からないが、真心も手を挙げ「私も?」と問いかける。
「当然だ、坊主には倉庫を一室貸してやる、そこで弾倉一個分、練習して来い」
「練習?」
「拳銃の扱いだ」
そう言って政玄は親指で背後の扉を指示した。