沙代ちゃんごめんね
プロローグ:始まりの夜
ショリ、ショリ、ショリ。
寺の御堂の裏、台所の近くに作られた薪置場の脇で刃物を研ぐ音が小さく空に溶けていた。
音の発生源には少年が脇の水桶から手で水を掬って砥石にかけ、再びテンポよく砥ぎ、また水をかけることを繰り返していた。
一研ぎ毎に包丁が鋭さを取り戻していくことに少年は少し嬉しそうにしながら、最後に水桶の水を思いっきりをかけてやれば陽光に反射し輝く、鋭さを取り戻した包丁がそこにあった。
「
幼子がなみなみと水の入った桶を引きずるように持ってきた。溢れた水の染みが井戸の方から点々としている。
「おお、ありがとな
「
それは良かったなと奏多が桶を受け取ると着物の袖を振り回しながら染みの付いた道をはしゃいで戻っていく。寺の表ではこの寺の孤児たちの保護者である行冥が掃除をしていた。
腕に子供がぶら下がっていたりおぶって居たり肩車していたり大きな行冥を覆い尽くさんばかりに子供が群がっているが、微笑を絶やすことなく、子供を構いながらてきぱきと掃除を遂行している。奏多に近い歳の子供は箒を持って手伝っている。
「さて、貧しいなりに美味い飯を食わせてやらないとな」
そんな光景を眺めながら砥ぎ終えた包丁を持って夕食の準備のため奏多は台所に戻るのだった。十一人の結構な大所帯なので準備は早めに開始する必要があるのだ。
奏多は孤児である。
物心ついたころには既にこの寺で暮らしていた。親代わりに育ててくれたのは盲人の行冥だ。正直奏多としては実は目が見えてるんじゃないのか? と思うのだが本当に見えていないらしい。
台所を任されるようになったのはいつごろからだったか、たしか行冥が珍しく窯の水の分量を誤って硬いごはんが完成した時だったろうか。食事の準備を手伝わせてほしいと頼みこんだのだ。
最初こそ失敗したり焦がしたりで同い年ぐらいのタマにぐちぐち文句を言われたり包丁で指を切ったりだのしていた。一時落ち込んだりもしたが、正月に記念品としてやけに切れ味のいい包丁を行冥からプレゼントされた。
どうやら近所の地主からもらった物らしく、その地主から、実は行冥が奏多の為に有名な鍛冶師の包丁を譲ってもらったのだと聞いた。奮起した奏多はその包丁を手足のように自在に操るまでになった。
「タマの奴どうしたんだろ」
「何もないと良いんだが……」
準備を終えて皆で夕食の時間なのだが、一人だけ居ない。この辺りでは夜に鬼が出ると言われていて行冥も日が暮れるまでには帰ってくるよう自分含め子供に言いつけているのだが、タマが居ないのだ。
「お兄~お腹空いたよ~」
もう子供たちも辛抱が無理そうなので先に食べることにした。窯に残った米は握り飯にして包み、タマが遅れて帰ってきて食べられるようにしておいた。
「今日も美味しい食事をありがとう、奏多」
優しげな微笑と共に大きな手で頭を撫でられ奏多は気恥ずかしいのか顔を赤くした。これでも子供の中では年長側で大人な意識があるので子ども扱いされると恥ずかしいのだ。それも大人の行冥からすると背伸びをしているだけの子供に見えてなお微笑ましいのだろう。
「まあまだまだこれから美味くなっていくよ! 最終的には日本一の料理人になってみんなに美味い物バンバン食わせてやれるまでになってやるからな!」
「フフ、期待しているよ」
「もっと美味しい物? 食べたーい!」
「割と無茶を言うなあ奏多は」
「おお任せとけ! 食わせてやるぞ! いつかな! あとそこの疑問持ってる裕輔! そんなこと言うと食わせてやらんぞ!」
「ええ―! 奏多勘弁してくれ!」
「とりあえずタマには罰として風呂釜水汲みの刑が決定してるから明日は楽に風呂に入れるぞ」
「わーい!」
そんな感じで騒ぎながらも片づけを終えて風呂に入り、布団を十一人分敷いた。
すっかり日も暮れてもう寝る時間である。いつもの習慣通り藤の花の香を焚く。なんでもこれも鬼が嫌って寄ってこないらしい。
「タマ帰ってこないね」
「いつの間にかひょっこり帰ってくるでしょ」
「おい、寝ない悪い子は鬼に襲われちゃうぞ~」
「怖い! おやすみなさい」
そう脅かしつけて皆が眠りにつく。明日にはタマも帰ってきて何時もの朝が待っている。当たり前すぎて意識していない日常が待っているはずであった。
バキャン。
「ぎゃっ!」
何かが折れる音と共に目が覚める。そして続く悲鳴。夜目の効く奏多の瞳が、子供たちのだれかを掴んでいる姿が見えた。
夜盗か、と跳ね起きる。他の子達も異変に気づき起き出して悲鳴を上げた。
「うっ!?」
「あぐっ!?」
裕輔と竜司の声だ。夜盗が入ってきたところの近くで寝ていた。お堂の中でも台所近くで寝ている奏多は起き上がり台所に走った。
「皆!危ない 私の側に!!」
「あああ!」
「嫌だ! そんなの信じられない!」
「目が見えないのに何ができるっていうんだ!!」
「みんな!?」
台所から包丁を取り出したところで行冥が叫んだ。だが、だれもそれを聞かず逃げ出す。包丁を持って奏多が戻ってみれば、行冥の背後ろで伏せて泣く沙代が居るだけだ。
「奏多、私の後ろに!」
行冥に無理やり後ろに庇われる。足が震える。恐ろしい。
四人が、床に倒れ伏している。いや、倒れているんじゃない。死んでいる。首がない。腕がない。胴体に穴が。
外から断続的に悲鳴が響く。それが三度続いて、静かになった。
手に持つ包丁はあまりにも心もとない。壊された入口を注視していたらゆったりとそれが現れた。
夜盗などという生易しい物ではない。鬼だ。
鬼が本当に居たのだ。
「おう、残りの三人は逃げずに居たみたいだなぁ」
「なぜ、藤の香が焚かれていたはずだ」
鬼は下衆な笑みを浮かべた。
「そうだなぁ、取引って奴だ。お前らは売られたのさ」
「取引……?」
「今日襲った"勾玉のガキ"がなぁ、命を助ける代わりにお前たちを差し出したのさ」
勾玉のガキ。
勾玉のガキ?
「………そんな」
「嘘だ……」
嘘だ、信じられないとこの時二人とも思った。その隙を突かれた。
床板を割りながら跳躍した鬼の手が行冥の頭を掴んだ。メキリと頭蓋が軋みを上げた。数瞬もなく握りつぶせる物を嬲る様にゆっくりと締上げる。
「いいぜぇ、そう言う絶望した顔が――」
そしてその腕が二の腕半ばから両断された。
「は?」
切り落としたのは奏多だ。包丁を振り下ろした。無力な子どもと油断した鬼の運命がここで決定した。腹に包丁を突き刺しそのままの勢いで押し倒す。
馬乗りの姿勢でめった刺しにする。二度、三度、四度、五度、六度、七度、八度。
「舐めるなよ!! ガキ!!」
鬼の裏拳が直撃し弾き飛ばされ、包丁は壁に突き刺さり柄が割れ飛ぶ。奏多も弾き飛ばされたまま壁に全身を打ち崩れ落ちた。
「このガキが! 殺すのは最後だ! 他の奴らをむごたらしく食って絶望させて手足からゆっくり食ってや――」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
鬼の手が頭についたまま行冥が拳を叩きこんだ。顔面が大きくひしゃげる。
「なっぎゃっやめろ!」
殴られ顔面がつぶれそうになった鬼が、行冥の頭についたままの手を操り頭を握りつぶそうとする。それを腕力のまま無理やり引き剥がし、顔面を鮮血にまみれさせながら拳を振う。鬼の抵抗を無視しひたすら殴る。頭がつぶれ再生しようとするのさえ無視しひたすら殴り続ける。鬼の抵抗で体に切り傷がついても構うことなく殴り殺し続ける。床が陥没し拳がつぶれかけようと止まることは無い。沙代を守るため、奏多を守るため、行冥は全力を尽くした。
悪夢の夜が明けた。
ようやく日がさし、陽光を浴びた鬼の体が崩壊していく。騒ぎを聞きつけた人々がようやくやってきた時。そこは惨事であった。多くの子供が死に、生きているのは意識のない重体の奏多、無傷だが泣きじゃくる沙代だけ。
何があった、何があったと騒ぐ人々と警察に、沙代が泣きじゃくりながら口を開いた。
「化け物が……あの人がみんなを殺した」
たどたどしく吐き出された言葉に、その場にいた全員の目が行冥に集中する。
「違う! 私じゃない! 鬼が……!」
「嘘をつくな! お前が鬼だ!」
「待ってくれさ沙ーーー」
動揺したようにかぶりを振る沙代へ行冥が手を伸ばすがその場で組み伏せられ沙代は他の大人たちに庇われるように連れていかれてしまった。
「この人殺しめ!」
「違う、違うんだ!」
誰も行冥の言葉を信じない。物証たる鬼の死体は無い。行冥に鬼が付けた鋭利な切り傷は奏多が必死の抵抗をしたのだと誤解された。その奏多も意識不明の重体で誰も行冥を信じてくれない。
その嘆きをその場にいる誰もが信じることは無かった。
「……ここは……?」
「あっ先生! 目が覚めました!!」
目を覚ました奏多は診療所だった。警察の手配した診療所である。
「行冥、行冥は……!?」
「大丈夫、大丈夫ですよ、沙代さんは無事です。事件の影響がとても大きく、刺激をしないよう合わせることはできませんが無事です」
無理に起き上がろうとする奏多に医者はなだめるように沙代の無事を伝える。それを聞いて良かった、とベッドに体を落とす。
行冥は鬼に勝ったのだ。良かった。
「すいませんお世話になりました。行冥はどこに」
「安心してください、彼はしっかり死刑になりましたよ」
「は……?」
今度こそ奏多はベッドから飛び出した。医者の制止も聞かず、寺へと向かった。
誰もいない。壁に突き刺さった包丁を引き抜くと、こんなことになっても折れることなく、しかし放置されたせいで錆が浮いていた。
追いすがってきた看護師が、奏多が一か月近く眠っていた間に異例の速さで死刑が執行されたと伝えた。
なんで、と怒りたかった。なぜと泣きわめきたかった。だが死んだ命は帰ってこない。
そこでぶっ倒れ、再び診療所に担ぎ込まれてしばりつけられ安静にされ完治した後。寺に戻った奏多は空を眺めた。
これからどうすればいいか。皆目見当がつかない。恨むべき鬼は死に、原因を作った奴はどうせその鬼に食われたのだろう。
ただ一つだけしたいことがあった。
大切な包丁を食材を切る以外に使い錆びだらけにしてしまった。
その鍛冶師に礼と、そして謝罪をしたかった。包丁を送ってくれた地主に聞きに行かねばならない。
もう、ここにいる意味もない。だれも帰ってこないからだ。
前に進まねばいけない。行冥に生かされた自分にできることを見つけなければならないと思ったのだ。
だからまず、その鍛冶師に会ってけじめをつけたかった。