何かを演じて生きる、世界という舞台、私という役名、役割は、世界が決める。
ナザリック地下大墳墓に所属するNPCの中で、見た目が人間か亜人種に近い者達、もしくは人に化けられる者達には、現在、ある制度の利用が推奨されている。
それは『外の世界体験制度』。
誰が命名したのかそのシンプルな名前の通り、ナザリック地下大墳墓の外をナザリックの者達が体験できる制度である。その制度を利用すれば、人間もしくは亜人種として、密かに護衛をつけて偽りの身分で外界で暮らす体験ができるのだ。
これは当然、モモンガとウルベルトが発案し、作り上げたものである。
ナザリックの者達が反逆の意志を持つことが限りなく0に近いと解り、そして外の世界をアインズ・ウール・ゴウンが支配しNPCの身分偽装や護衛が容易くなったため、その制度は設けられた。
ナザリック地下大墳墓の者達には、広い世界を知り、学び、アインズ・ウール・ゴウンをより良くするために成長せよ、と、それらしいことを言って何とか納得させたその制度は、制定されてから長い年月をかけて徐々に利用者数を増やしていた。
それは経験と長い時間が齎した変化でもあり、そして彼らの分かりやすい欲望の現れでもあった。
なにせ、利用した者は帰還後に直接、至高の御方々へと体験し学んだことを話す機会に恵まれる。しかも、至高の御方々と報告者しかその空間にはいないという、被造物としては贅沢すぎるような空間で。
ナザリックの者達からは下心ありきで利用されているようなそんな制度だが、モモンガ達にはまた別の目論見があったため利用してくれるだけ有り難い話であった。
その目論見とは、最低最悪の事態を想定しての備えである。
想定し得る最低最悪の事態は、絶対に避けるべきであり、訪れてほしくない未来でもある。だが、未来の保証は誰もしてくれない。
アインズ・ウール・ゴウンに敗北は許されないが、その可能性は未来永劫にあり続けるのだ。
モモンガ、ウルベルト、たっちの敗北と死亡。その可能性は、未来永劫に存在し続ける。
更には、復活が不可能である事態。その上で、ナザリック地下大墳墓の消滅が起きた場合とて、決して0%ではない。
だからこそ、その最悪中の最悪の事態に備えてモモンガ達は可能な限り外の世界をナザリックの者達に見せることにしたのだ。
最低最悪の事態が起きた時に、もしもナザリック地下大墳墓のNPC達が生き残ったら、高確率で後追い自殺をしてしまう。仮に、強く命令して生きてほしいとモモンガ達が願っても、その時に外の世界を知らぬのでは結局は生きていけぬのだ。
そのため、外の世界で、人間や亜人種が、どのように生きているのか教えるために、モモンガ達はその制度を駄目元でも制定したのだ。
彼らが外の世界を知り、独りでも生きてゆけるようにと。
そして某日、その制度を利用しようと思うと口にしたのは、意外や意外、シャルティア・ブラッドフォールン。
最も利用するはずがないと思われた、吸血鬼の戦乙女であった。
その日、たっち・みーは、本を片手にナザリック地下大墳墓の第六階層に独りで来ていた。
お世話係や護衛係に何重のクッションを挟んで断りを入れた彼は、独りの休日を満喫する予定だったのだ。
日頃身に纏う鎧を脱ぎ武器も身に着けていない彼は、今日はゆっくりと過ごそうと思いたち片手に本を持っていた。
陽光の下で草花の香りを感じながら読書と洒落込もうと、のんびりした思考の聖騎士は軽やかな足取りで腰掛ける場所を探して足を進める。
そんな彼の視界にふと入ったのは、純白の大きなガゼボ。そしてそこにいる、気の合わない仲間の彼と、ダークエルフと吸血鬼だった。
性格の不一致を極める彼一人だけなら無視しても構わないであろうし、彼も気にしないだろう。しかし彼の相手している彼女達は別だ。
仲間であり部下であり監視対象でもあり今はいない仲間達の子供のような存在という、何とも濃い関係性のナザリックの者達。
無視されたと勘違いされ変に気落ちさせてしまうのも問題かと判断し挨拶だけでも済ませようと、たっちは足をそちらに向けた。
「こんにちは、お疲れ様です、ウルベルトさん、それから、シャルティアと、アウラとマーレも」
ウルベルトが腰掛ける場所から反時計回りに視線を移しながら、たっちは声を掛けた。
そして、彼らのどこか暗い雰囲気を察して何か仕事の打ち合わせ中だったのではないかと懸念する。
「すみません、何か話し合いの途中でしたか?」
「いえ、俺もオフですよ。可愛い子供達の悩み相談を受けていたんです」
「悩み相談?」
鸚鵡返しで尋ねた彼に、悩み相談をしていた吸血鬼がその偽りの美貌を困り顔にして悩みを口にする。
「……『外の世界体験制度』を、利用してみたいのでありんす」
シャルティアのその言葉に驚いてしまい、思わずたっちは何も考えずに口走ってしまった。
「えっ。いや、シャルティアには無理じゃないか?」
「たっちさん、気持ちは分かるけど言い方。シャルティアが凹む」
指摘され、泣きそうな顔でしゅんとするシャルティアを見てたっちは慌ててフォローする。
「す、すまない、シャルティア! だが、ほら、得手不得手というのが誰にでもあるだろう?」
謝りつつも、結局できるとは口にはしないたっちに、しかし周りの者達も苦笑で同意する。
「それで、私達が呼ばれたんです」
「だいぶ前だけど、僕達は外の世界を体験しましたので……」
ダークエルフの双子が語り、たっちはそう言えばと話では聞いていたことを思い出す。たっちが帰還するより前の出来事のため詳細まで丸暗記はしていないが、彼らなら何も問題なさそうだと思ったことは、たっちは覚えていた。
「そう言えばアウラとマーレは制度体験者だったな。確か……、学生だったか?」
「はい、魔法学院の生徒に扮しました」
「え、演技がけっこう大変でした」
アウラがニコニコと笑顔で答え、困り顔をしてマーレも返答する。その姿は成長したとはいえ、まだまだ学生、もしくは若手の魔法研究者として学園に潜り込めそうな様子だ。
「えぇ? あんたは絶対に私より楽だったでしょう、いつも通りだったじゃない!」
「えぇっ、そ、そんなことないよぉ……!」
眉を下げる弟を揶揄い終えたところで、アウラがシャルティアにねぇと声を掛けた。
「そう言えばシャルティア、その見た目年齢だと、たぶん私達と同じ魔法学院の生徒として転入ってことになると思うけど、先生を先生として敬えるの?」
「なっ、なんで私が、私より弱い下等生物を敬わなきゃいけないのでありんすか!?」
「そういう設定だからよ!」
アウラのまともなツッコミに納得いかないという顔をするシャルティアを見て、たっちはやはり無理な話ではないだろうかと思ってしまう。一日どころか授業一つ受け終わる頃には潜入が失敗してそうだと、口には出さないが考えていた。
「そもそもさ、シャルティア、偉そうにしたら駄目なんだよ? 実際どこに潜むことになるか分からないけど、全員と対等にね」
「はぁ? そんなの無理でありんす!」
「そ、その口調も変えないといけないかな」
「……それは、たぶん大丈夫であり、です」
随分と慣れ親しんでしまった口調は問題なさそうだが、肝心な所がてんで駄目そうな彼女の様子に周りはだいぶ諦めモードが滲んでいた。
彼女自身があまりにも集団に溶け込むには厳しい気質を持ってる上に、護衛が彼女を全く止められないのだ。問題と問題と問題しかないような事態だ。
口には出さないが珍しくたっちと全く同意見なのであろうウルベルトも、腕を組み悩ましげにしていた。
「うーん……、貴族制度があった頃なら世間知らずの貴族の娘って設定で誤魔化せたかもしれないが……」
苦し紛れにウルベルトが呟いたが、それは無理だと分かっている口調であった。
「貴族制度が廃止されて久しいですからね。下手したら、まだ奴隷を飼っている貴族の末裔と思われて通報されかねませんし」
「だよなぁ……」
乗りかかった船だと、たっちもガゼボ内のガラス製の椅子に腰掛け一緒に考え始める。しかし、シャルティアの見た目年齢から必然的に潜入先は絞られ、また吸血鬼の戦乙女の被虐趣味や性質を考えるとどこに潜入させるのにも躊躇してしまう。
かなりの難題であった。
「少なくとも学生は止めましょう。もう日帰りで良いんじゃないですかね」
「たっちさん、やけくそになってませんか?」
「やけくそではなく、最初に言った通りシャルティアには向いてないと思うだけです」
「……まぁ、確かになぁ」
きっぱり言い切った彼に対し、珍しくウルベルトも間を空けてから同意を示した。結局のところ、そこに帰結してしまう事実は認めざるを得ない真実だったのだ。
項垂れる銀髪を見て、ウルベルトは慰めの言葉を掛ける。
「なぁ、シャルティア、無理はしなくていいんだぞ? ご褒美の帰還後の俺達とのお喋りが羨ましいなら時間を見繕ってやるし……」
「そっ、そうじゃないのでありんす!」
声を荒げ、至高の御方の言葉を遮ってまで泣きそうな顔で否定した吸血鬼の乙女に、驚きの視線が集まる。
「わ、私も、成長したいのでありんす……。成長して、もっと、もっとお役に立ちたいのでありんすえ……。それに……、」
「シャルティア……」
ご褒美狙いだと決めつけてかかったことを反省し、ウルベルトは謝罪しその頭を撫でる。
そして彼は一つの案を思いつく。少し悩んだが、しょんぼりしているシャルティアを見て結局、彼はその案を口から出した。
「……シャルティア」
「ウルベルト様……?」
きょとんとしながらシャルティアは、目の前で突然魔導王陛下の執事としての人間の姿に化けたウルベルトを見詰める。
「メイドに扮して外の世界を体験しよう」
「ええ!?」
「そ、それは無理じゃないですか、ウルベルト様!? シャルティアがメイドなんて!」
素っ頓狂な声で止める周りを宥め、ウルベルトは聖騎士を指差した。巻き込まれた哀れな聖騎士を、若干ざまあみろなどと思いながら。
「御主人様役はお前だよ、たっちさん」
「えっ」
「俺とシャルティアが兄妹の従者役、貴方は遠方から来た坊ちゃん。どうですか、これなら完璧でしょう?」
ウルベルトに肩を抱き寄せられたシャルティアが黄色い悲鳴をあげ、親切心から巻き込まれたたっちが固まっていた。
「…………え?」
間抜けな聖騎士の声が零れ、その手からは本が落下した。
冒険者都市ベイロンの冒険者組合に、そこには似つかわしくない服装の二人組が入ってきた。
片方は、銀髪を後ろに撫でつけ釣り上がった金色の瞳を愉快そうに捻じ曲げた、美しい故に少し不気味な執事服の男。
片方は、目深に被ったフリル付フードで顔はよく見えず、流れ落ちる美しい銀糸と黒のシンプルなエプロンドレスからメイドと分かる少女。
しかし彼ら二人組が目立ったのはその様相故でなく、片方が執事ルドー、魔導王陛下の執事だったからであった。
「こんにちは、伝言に参りました」
彼らを迎えに慌てて奥から飛び出て来た組合長に、来訪者は口角を上げてにこやかに伝える。
歪んだ笑みなのに美貌であるため少しばかり奇妙に感じる彼に、曖昧な愛想笑いを返し組合長は深々と頭を下げる。
「わざわざ陛下の執事様からお御足を運び御報告頂き、有難う御座います。どうぞ奥の部屋へ」
「一介の執事にその様に謙らないで下さい。このまま立ち話で構いません。簡単な言伝ですので」
左様ですかとすぐに納得し立ち話で済ませようとした組合長は、何故かメイドの少女に睨まれたように感じ、ちらりとそちらを盗み見る。しかし、隣の執事から肩を抱かれると少女は顔を俯かせてしまったために、真偽の程は確認できなかった。
「本日、魔導王陛下の紹介で剣技を教える予定だった騎士が来れなくなったのです」
その報告に驚いた後、何かトラブルでもあったのかと心配そうにする組合長に、執事はますます口角を釣り上げ、笑い混じりに返答する。
「ご安心を。唯の食中りです」
「食中り、ですか?」
「えぇ、その辺の樹液でも拾い舐めしたのでしょう」
「は? 樹液、ですか?」
「身内ネタのジョークです、お気になさらず」
「は、はぁ……」
困ったような顔をして曖昧に笑う男に、にんまりとした笑顔を一切崩さずに執事は言葉を続ける。
「それから、これは私の妹、名前はティアと申します」
そう言って、執事ルドーがフードを外し、顕になった少女の顔に、周りからどよめきが起こる。
「兄である私が言うのも何だが……、美人だろう? だから、ついつい構って甘やかしてしまって、ティアも全く兄離れができていないんだ。私も今でも過保護になってしまう。そのせいか、少し世間知らずで人見知りになってしまったんだ」
「……」
兄の言葉を証明するかの如く、少女は俯きどこからも視線を逸した状態で黙り込んだままである。
「それでは、黄金の輝き亭に私達はいるので何かあれば気軽にご連絡を。騎士殿の具合がすぐに良くなるようなら講義をするが、芳しくなかった場合は体調が落ち着いた頃に一旦帰ることになるかと思う」
「畏まりました。集まった冒険者達には私共から説明しておきましょう」
「お手数をおかけ致します」
「とんでも御座いません」
組合長に頭を下げたルドーに少し遅れて、少女も辿々しく頭を下げた。
頭を上げて、少し乱れた銀糸を整えた彼らは、少女の方はまたフードを目深に被り、お大事にという優しい言葉を掛けられながらその場を去って行った。
組合の外に出て、舞台が整ったことに、ウルベルトはひとまずの安堵の息を吐く。
魔導王陛下の執事、それが溺愛してる妹となれば自ら藪蛇を突く馬鹿は現れまい。噂話は勝手にまわってくれるだろうから、周囲からシャルティアに関わるなど馬鹿な真似をする者は一先ずいないだろう。
「……あっ、あんな場所で立ち話をさせて、挙げ句の果て、御方に、あ、あ、頭を下げさせるなんて……!」
「ティア。病弱で世間知らずでお淑やかなティア。怖い顔をしたら駄目だぞ」
「っ! は、はい……、申し訳ありません」
頭を撫でられながら諭され、怒りに歪ませていた顔を直ぐにしょんぼりさせた少女を金の瞳が横目で伺う。
後はシャルティア自身の問題かと、ウルベルトは見た目だけは繊細なその肩をぽんと軽く叩き、頑張れと応援の言葉を送った。
晴れ渡る青空。高い高い空に登り詰める雲達。風は優しく頬を撫で、芽吹く新緑が鮮やかで眩しい。
そんな麗らかな場所で、悪魔と吸血鬼は洗濯物を干していた。
『主人が独りになりたいと言い出し部屋を追い出されやることが無くなったので手伝いたい、病弱で世間知らずの妹にも良い経験になると思うので……』
そんな言い訳を並べ立て、美形と魔導王陛下の執事という立場をふんだんに活かし、ウルベルトとシャルティアは宿の手伝いをしていたのだ。
大きなシーツを物干しロープにばさりと引っ掛けるのは、背が高い銀髪の美丈夫。いつものキッチリ着込んだ執事服姿ではない。上着は近くの柵に引っ掛けられ、シャツとベストだけで、袖も雑に捲くられている。
隣では銀髪の少女が、くちゃくちゃに丸められまとめられている山盛りになった濡れたシーツを解し、絞り、シワを延ばしつつ隣の男に渡すべく待機していた。
男はその妙に端正な顔の口角を釣り上げ鼻歌でも歌いそうに楽しそうにしていたが、少女は不服そうな顔を上手く隠せずにいた。
「お疲れ様、ルドーさん、ティアちゃんも」
「ありがとうございます」
「あ、ありがとう、ござい、ます」
そんな彼らに、シーツの波の向こうから女性がにこやかに声を掛ける。宿で働く女は籠に山盛りの野菜を抱え、簡単に挨拶を済ませると当然すぐに宿の裏口へと向かって行った。
「至高の御方に何と言う態度……!」
「ティア、演技は大事だぞ、モモンガさんも似たようなこと言ったことなかったか?」
ぎくりとして我に返った様子の少女が、今度は力無く困ったように零す。
「弱いふりでありん、……ですか、ルドーさー、に……、兄様」
「弱いふりというか、仲間のふりだな。拷問も洗脳も魔法も便利だ。だが絶対じゃない。万が一の時に使える手札は残しておくこと、自分の手札は見せないこと、これで面倒は増えても、不利になることはないだろう?」
「し、しかし、時間がかかることになりんすよね?」
恐る恐る問い掛けた彼女に笑いかけ、怒ってもいないし不機嫌でもないことをアピールしながらウルベルトは答える。
「あぁ、だが、時間は私達には無限にある。それに、“無理に話させる”のと、“自ら望んで無警戒に話す”のでは情報の質が違う。それに何よりも、街に住んでいる者達の意見を聞くには拷問なんて手段は選べないからな」
「……。申し訳御座いません、おそらく私はあまり理解できていない、です……」
シーツをウルベルトに渡し、また丸まった塊をほぐす作業に戻りながらシャルティアは溜息を吐く。
「至高の御方々はまことに凄いです……。ペロロンチーノ様も、何を考え、一体どのように戦っておられたのでしょう」
「いやー、アイツは頭使うより結構直感頼り派……、あっ」
「え?」
「あー……、いや、えっと……」
ついうっかり素直に話してしまいウルベルトは頭を抱える。
しかし、直感が鋭いというのは強ち嘘ではない。
ペロロンチーノは何故か、ネカマやネナベを嗅ぎ分けるのは上手かった。それに調子に乗ったネトゲの姫が近々炎上しそうな雰囲気を察する謎のスキルも持っていた。
勿論、そんな役に立たないスキルの話だけでなく戦闘時にも妙に勘の働く男であった。
なんとなく胡散臭いと感じる嗅覚を持ち合わせており、そこは軍師たるぷにっと萌えも時折参考意見として使っていた程だ。
「ま、まぁ、何と言うか……、感性という奴だな。ペロロンチーノさんは理屈抜きで強かったんだよ」
「さすがはペロロンチーノ様でありんす!」
思わずといった風に、自身の創造主をキラキラした瞳で賞賛するシャルティアに、ウルベルトは安堵の息を吐く。
しかし、これでペロロンチーノは帰還した時には賢ぶる必要はないのだと思えば、ウルベルトは若干帰還するかも分からぬ仲間のことを羨ましくも思ってしまう。
「そういえば、前に相談してくれた時のことなんだがな、成長するだけじゃなく、それにって言ってたよな」
存在しない仲間への勝手な恨み節は適当に切り上げ、シーツを洗い紐に引っ掛けながらウルベルトは思い出して問い掛ける。そして横目で彼女が暗い顔をしたのを見て、話題の選択を誤ったことに気が付いた。
「いや、すまない。言いたくないなら、言わなくていいぞ」
「い、いえ、そのようなこと……」
言葉では否定しつつも、逡巡する素振りを見せ、そして吸血鬼の乙女は、まるで恋する乙女かのように睫毛を伏せ口を開いた。
「……ずっと、考えてしまうのでありんす。ウルベルト様がご帰還された時の、……あの事件から、ずっと、私は……、ペロロンチーノ様がご帰還され、もしも、もしも、……モモンガ様を、ペロロンチーノ様が」
「シャルティア、自分が言えた立場じゃないが、考え過ぎだ。ペロロンチーノさんと私とモモンガさんが仲が良かったのはお前も知るところだろう」
「はい……、ですが、不安でありんす」
ウルベルトが、シーツを地面に落とし、シャルティアの細い肩に手を置く。しかし彼女の俯いた顔は沈んだままで、声も弱々しく震え続けた。
「私は、……結局決めきれないのでありんす。今、モモンガ様とウルベルト様にもしものことがあった時、私は、どちらの、誰も味方もできないでありんす」
ぎゅっと、小さく白い手が握り締められる。ウルベルトは唯それを見ていた。
「だから、外の世界に来たでありんす。以前モモンガ様が成長の機会をお与えになってくださったのも、外の世界でありんした。だからまた、何か、学べるのではないかと思って……」
「シャルティア……、いい子だな」
ウルベルトは、そう声を掛けるしかできなかった。
彼女が利用した制度の目的、そしてウルベルト達が提示した可能性と彼らに求めること。それらを思えば、ウルベルトが彼女にこれ以上声掛けすることも、提示することもできない。
シャルティアがシャルティアの意志で、決める道を、見守るしかできないのだ。
「ルドーさん、ティアちゃん、これ、よければ食べて。ご主人様も、お腹の具合が良ければどうぞ」
シーツを干し終え、土で汚したのも魔法で綺麗にして、仕事を完遂した執事とメイドが部屋に戻る途中、またもや笑顔の女性が彼らに話し掛けてきた。彼女の手には大きな皿があり、そこにはミートパイが三切れ載っていた。
少し冷めたそれをウルベルトは丁寧に受け取り礼を述べ、続いてシャルティアもメイドらしく、ウルベルトの真似をして礼を口にした。
「一応、これもメリットだな。相手の善意で何もしないでこっちに利益がくる」
部屋に入り、ウルベルトはシャルティアに皿を差し出す。
シャルティアはそれを一瞥し、そして手に取り口に入れた。
「……あんまり美味しくないでありんすね」
そのシャルティアの返答に、思わずウルベルトは笑ってしまった。
そうして長閑とも感じられるシャルティアの外の世界体験生活は、ゆるやかに流れていった。
そんなある日、腹痛で寝込む騎士がいる部屋で大声があがる。
「いや、早すぎやしないか!?」
「私もそう思いますが、しかし、側で見守って甘やかしていても外の世界体験とは言えないですよ。一応見張、ごほん、護衛も付けてますから安心でしょうし」
「任せてください、ウルベルト様!」
いつの間にか話しは進んでいた様子で、肝心のシャルティア自身もやる気を漲らせ胸を張って主張している。もはやウルベルトが何か苦言を呈し今更止めることなどできない雰囲気だ。しかしそれでも、失礼ながら彼女を完全に信頼できず心配してしまう彼は、膝を床についてその可愛らしい顔を覗き込む。
「本当に、独りでお使いできるのか、シャルティア……?」
「任せてほしいでありんす! お金の使い方もバッチリでありんすよ!」
きっぱりと、自信たっぷりに堂々と言われてしまえばウルベルトにもこれ以上余計なことは言えない。彼女を信じ、送り出すだけである。そうだと解っていても心配なのも事実で、ウルベルトはシャルティアにせめての見送りの言葉を送る。
「いいか、上から目線で命令しないんだぞ」
「はい!」
「人間がぶつかっても寛大な心で許せ。スリとか、まぁ治安がいいから大丈夫だろうが、万が一いても、首を切り落とすとか手首を切り落とすとかも駄目だからな?」
「分かりんした!」
「寄り道とかしないで帰るんだぞ!? あと、無理だと思ったらすぐに帰っておいで。努力は認めるし褒めてやるからな!」
「ありがとうございんす!」
「ウルベルトさん、そろそろ甘やかし過ぎです」
心の底より吸血鬼の乙女を心配する悪魔と、そんな主君の気遣いに感涙する僕の横で、酷く冷めた言葉が飛び出る。さすがに呆れたといった風に、聖騎士は腕を組み冷めた眼差しで彼らを見ていた。
「馬鹿野郎、たっち!! 女の子が初めて独りで買い物に行くんだぞ!? そりゃ心配するだろ!?」
「実際危険に晒されているのは今市場にいる何も知らない無辜の民達ですよ」
たっちからの痛烈など正論の一言に、しかし過保護モードに入っているウルベルトすらも流石に反論できなかった。一言一句、聖騎士の言っていることは事実だ。ウルベルトが心配するところも、実際はシャルティアが失敗してしまい凹んでしまうことを一番に危惧していた。
「任せてくんなまし! この数日、ウルベルト様とともに人間どもと対等に過してみせた今、お使いぐらい容易くこなしてみせるでありんす!」
そう言って、自信満々な様子のシャルティアは独りで宿の部屋から出ていった。買い物かごと買い物メモを持つ一人のメイド、ティアとして。
彼女が出ていって少しして、無言で悪魔も聖騎士も息ぴったりで動き出す。遠隔視の鏡を悪魔が取り出し、設置された鏡の前に聖騎士によって二脚の椅子が置かれる。そのまま彼らは無言でそこに腰掛けそして、鏡に映る銀髪のメイドを見守り始めたのであった。
「ふふん、後は果物を買って帰れば完璧であり、んんっ、……完璧ね!」
買い物メモと、膨らんだ買い物かごを一瞥し、シャルティアは上機嫌になる。
人間が馴れ馴れしくしてくるのは、未だ癪に障る。だが、この数日間は挨拶やらを行って多少は慣れてきたこともあり、すぐに頭に血が上る程ではなくなった。
それに何よりも、あの偉大なる至高の御方たるウルベルト様が人間と関わる時に笑みを絶やさないでいるのだ。実際腹の中では人間どもに声を掛けられ虫酸が走り怒りで腸が煮えくり返る程に違いないであろうに、御方は笑みの仮面を貼り付けている。
(至高の御方々はほんにすごいでありんすえ……。配下の私も、見習ってこれぐらい耐えてみんせんと)
そこまで思考を巡らせて、シャルティアは少し俯いてしまう。
結局、我慢や振る舞いを偽ることは覚えられたが一番の目的は叶えられていないことを思い出してしまったのだ。
万が一のことがあったとして、自分はどうするのだろうかという迷い。真っ暗闇の道の先。それらは一切、何一つとて晴れていない。
「キャー! かわいい〜」
「どっちにしようかなぁ、悩んじゃう」
「どっちも素敵!」
「選べないわよね!」
キャイキャイとはしゃぐ声が不意に聞こえシャルティアは顔を上げる。
彼女の視線の先には、安いアクセサリーを売る露店の前にいる女の子が二人いた。紫色の水晶のネックレスと、金の細い腕飾り、それらを見比べ女の子達は楽しそうに選択を迷っていた。
彼女達がどう選ぶのか、どのように判断するか気になり足を止めたシャルティアだったが、思いの外女の子達は長考だった。なかなか煮え切らない彼女達に、シャルティアはついイライラしてしまい、そしてとうとう怒鳴りつけてしまった。
「ちょっと、どっちにするか早く決めなさいよ!」
「え、何……?」
「誰……?」
胡乱げな女の子達の顔に、身勝手極まりない話だがシャルティアはますますイライラしてしまう。ままならない事態。そんなもの、その手で全て粉砕してきた彼女の弱々しい理性が、徐々に血に溺れてゆく。
「イライラしていたから、ちょうどい」
言葉が途切れた謎のメイドに、女の子達は首を傾げる。メイドは頭をすっぽり覆うフリル付きのフードをかぶり直すように両手でこめかみを押さえ俯き黙っていた。
「申し訳ありません……、……あの、えっと……、私も少し、迷っていて……、その、」
上目遣いで様子を窺う可愛らしい顔をした少女を見て、打って変わって女の子達はテンションを上げた。頬を染め、眉を下げる困り顔を見て、盛大な勘違いをしたのだ。
「ヤダ……、もしかして恋の話!?」
「きゃー、かわいい!」
「こっ、恋!? そんなんじゃ、」
素っ頓狂な声を出し否定する姿も、勘違いしている女の子達には少女の可愛らしい照れ隠しにしか見えない。話は勝手に進んでゆく。
「うんうん、それでそれでー、迷ってるって何かな?」
「もしかして、素敵な人が二人もいるとか!?」
「そ、そうであり、です。どちらの方も比類なき御方……、素敵な方々。どちらも大事で……、私に選ぶことなんて……」
顔を手で覆い、女の子達は感極まった様子で前のめりでシャルティアの話を聞いていた。
「苦しい選択を迫られてるんだね……。どっちかを選んだら、片方を捨てることになるものね」
「あら、両方を手に入れても良いじゃない」
「ええっ、浮気?」
「バカね、片方は恋人、片方は友達よ」
「えー、それは成り立たないでしょ〜」
「やってみなきゃ分からないじゃない!」
意見が別れた彼女達を、ぽかんとしてシャルティアは見詰めていた。
「両方……?」
「そうよ、両方よ! 二兎を追う者は一兎をも得ず、なーんて言うけどやってみなきゃ分かんないじゃない。罠を上手く使ったり協力者がいたり魔法を使ったり、手段なんていっぱいあるわ。チャレンジよ!」
「え~、そうかなぁ。屁理屈だと思うよ~、無理でしょ~」
意見の食い違いから対立し言い合いを始めてしまった女の子達だったが、シャルティアはそれどころではなかった。彼女はまさに、目から鱗が落ちている真っ最中であった。
片方を選べばもう片方は選べない。そんなこと、一体誰が決めたのだろうか。いやそもそも、決まっていたとしてそれがシャルティアに一体何の関係があるのだろう。
残酷で、冷酷で、非道な、可憐なる化け物に、強いられるべきルールなどある訳がない。
答えはずっと前に出ていたのだ。どちらも愛しく大切であるという、揺るぎない答えが。
「人間にしては、良いことを言ったでありんす! 両方ほしい! それが私の答え! やってみなきゃ分からないでありんす!」
突如、人が変わったように叫び高笑いする少女を、市場の者達がぽかんとして見遣る。そんな視線など、当然意にも介さずに、シャルティアは、自身が出した揺るぎない答えを唯一忠誠を誓う御方々に伝えるべく駆け出した。
その顔は、とても晴れやかに、笑っていた。
「……めちゃくちゃなスピードで駆けて行きましたね、シャルティア。少なくとも人間には無理なスピードで」
「……荷造りと痕跡消去しましょう。変な噂と注目を集める前に」
「そうですね……」
一方その頃宿では、珍しく息ぴったりな悪魔と聖騎士が後片付けを始めていた。