けものフレンズR Remember 作:mono(もの)
1
晴れ。早朝。
空から見下ろす地上は薄く白く、雪におおわれている。かぶさる白の下に森の緑が見える。また急な岩肌を隠すほどには、雪はつもっていない。丘の起伏と変化があるのだ。朝の光に黒い影が長くのびる。静かではあっても、空高くからどこを飛んでいるのかを見失うほど、寂しい下界ではない。
そう、早朝だ。これから時間をかけて太陽は高くのぼるだろう。それは彼女の動物としての記憶が知る、雪の地の太陽のありようと、そして伸びる影のありさまとは、異なってくる。サンドスターが日の光を弱めてくれても、それでも、湖に照りかえす太陽はまぶしく、雪はあまりに明るい。だから彼女はここジャパリパークでは早朝に好んで空を飛ぶようになったのかもしれない。
森、川、丘、平原。川にかかる橋。橋の先の道。その道を走るちいさな影。彼女が向かう先に建屋がある。今はもう働く研究員もいない、ヒトのための施設。めずらしいことにその扉の外に立つ一つの影がある。しばらくするとその影は建物の外周を沿って動き出した。
2
朝の空気のなかをイエイヌは走る。4つ足で飛ぶように。彼女の日課だ。天気のいい朝の光は、地をかけまわれと、彼女を突き動かす。そして彼女は走ると、悩みを忘れていられる。木々の横を通りすぎる。道の端や草木の上や影に残る雪。冷たい風が気持ちいい。どこまでも、いつまでも走りつづけられるような気がする。…待てるような気がする。
白い息。イエイヌは施設にたどりつく。コンクリートの頑丈な建物。イエイヌは習慣として入口の扉の足もとのにおいをかぐ。おそらく今日も変わらないことを知るだろうとか、もはや頭に思いうかべることもなく。ところが、
――――ヒト!?
イエイヌが止まる。2秒。左右を見て、もう一度入口の足もとのにおいをかぐ。どっちに?左だ。低い姿勢のまま4つ足の走りに移る。
イエイヌは外壁の角を右に曲がる。建物の影が伸び、薄暗い。整備されていない土の上は、雪が残っていた。足あとだ、たどる。地上の奥にはだれもいない。足あとは外階段に続いている。イエイヌは階段をかけあがることにした。尻尾がバランスをとる。カンカンカン。金属音が響く。
(まだ近くに?においの残る朝のうちに、はやく……っ!)
施設の2階テラスの椅子に腰かけ、ぼんやりとおもむくままにスケッチブックを取り出していた少女の耳に金属音が入る。何かが来る?体が逃げ出すことを決めた。屋内へ入ると薄暗い。椅子に引っかかって、少女は手をつくためにスケッチブックを落としてしまう。少女は隠れるために拾わずに奥に向かう。
施設の2階、その場所はかつての休憩スペース・オープンテラスであった。中には食事を供するための設備や物置が残されていた。
外階段を一気に駆け上がったイエイヌは、臭いを頼りに少女が腰かけていた椅子にたどり着いた。白い息。弾む胸。
(やっぱりヒト、たぶん子ども、女の子。ちょっとの間ここにいました? それもさっきまでいて…。)
確信が、あるいは安堵が彼女を少し冷静にさせる。どこへ向かったのかは、落ちている見慣れぬもの:同じヒトのにおいのするスケッチブックが答えをくれる。奥だ。そしてなぜ奥へ向かったのかのヒントも。ずっと走ってきたから、まだ胸は弾んでいる。においを辿っていけば、隠れているとしても探しあてる自信はある。ずっと離れるように移動していたとしても、追いつける自信もある。けれど、
(びっくりさせました・・・?)
ヒトの女の子。においで具体化されたイメージが、彼女の動物としての深い記憶に働きかける。落ちつこう。どれだけうれしくても、ステイ、ステイ。そう教わったはずだ、そう仕込まれたはずだ。
うまれたばかりのフレンズだって、そうじゃないか。おびえてしまったり、そういうこともあった。
イエイヌは、少女がたぶんいると思う方向から目をそらし、細める。
「もし、もしもし」
遠吠えではなく呼びかけるように、ワン、ワンワンと吠える。暗い室内に響く声。
「落としましたよー」
スケッチブックをかかげて吠える。うらがわに文字。女の子の名前?それとも?もし文字が読めたら、ここで名前を呼ぶことができたのだろうか?そうすればもっと安心させられるだろうか?
けれどそのイエイヌの心配は杞憂だった。反射的に逃げ、そして柱のかげに隠れた少女は、今はもうイエイヌの行動をのぞいていた。落としたスケッチブックをかがげる姿は、その少女にとって味方だと信じる十分な根拠になっていた。
「ありがとう」
「はいっ」
声をあげた少女をイエイヌはとらえる。ふたりは歩み寄る。少女は薄暗い視界の中でも、イエイヌの歩くたびに揺れる尻尾と、頭の上の耳と、まだ弾む胸とをとらえる。そして真面目な、でも嬉しそうな笑顔も。
「どうぞ」
「ふふ、ありがとう」
少女はイエイヌからスケッチブックを受けとる。ありがとうがうれしい。
……静かな雪つもる森の中、忘れ去られた施設の奥で、二人は出会った。
イエイヌはスケッチブックを持つ少女の手をかぎ、足元をかぎ、首元をかぐ。少女の目に映る、耳、耳、尻尾。
「あなた、ヒト…ですね、会いたかったぁ~!」
イエイヌは少女に抱きつく。わ、と少女は声をあげ、けれど反射的に抱きとめてくれた。そして撫でてくれた。うれしい。
「わわわ、よーしよしよし。…うんヒトだよ。あなたは?」
「はっ。そうでした。わたしはイエイヌです」
ヒトの質問が本能的にイエイヌの理性を戻させる。イエイヌは抱きつくのをやめる。両腕をすっと伸ばし、両手を少女の抱えるスケッチブックに触れ、首をかしげる。
「イエイヌちゃん」
「はい」
名前を呼ばれた、うれしい。
「あたしは、…あれ、あたしのなまえ?」
不安げな顔を少し見せ、その後何かてがかりがないか、少女は持ちもののスケッチブックとバッグを見やる。イエイヌも目でスケッチブックをうながす。少女はスケッチブックの裏側を見やる。
「と、も、え?」
かすれた文字を少女が読み上げる。
「ともえさん?」
「…。うん、あたしはともえ。はじめまして、イエイヌちゃん」
少女は少しの間をおいて、けれど元気よく自己紹介をした。
「はい、はじめまして、ともえさん」
3
「ここどこだろう?」
ともえは施設の中と、そしてテラスとを見やる。そしてテラスへ向かっていく。興味をもったものにまっすぐに近づいていくともえをみて、子どもだなと、そんなことをイエイヌは思う。ともえは記憶が定かではないようだ。それは生まれたばかりのフレンズにはよくあることだった。
「せつげんちほーのわたしのなわばりです!」
ともえは日のあたるテラスに出て、少しまぶしそうにしながらイエイヌをふりかえる。イエイヌはほこらしげだった。
「ほうほう、おじゃまします」
「いえいえ~。ほら、あの火山。あそこからサンドスターが出ます。そして動物に当たってフレンズが生まれます」
テラスからは遠くキョウシュウエリアの火山が望める。けれどサンドスターは最近降ってはいなかった。火山を両手で望遠鏡を作り覗いたり、四角く切り取ったりしていたともえは、フレンズと聞いてイエイヌに振りかえる。
「フレンズ?イエイヌちゃんも?」
「はい」
生まれた瞬間を覚えているわけではない。イエイヌも、元の動物のときの記憶の多くを忘れている。ヒトといたこと。ヒトに仕えていたこと。幸せだったこと。待つように言われたこと。それらを覚えているだけだ。イエイヌはともえも同じなのかな、と思う。
「あ、なんか思い出してきた、フレンズってそう、ともだち!それで、耳とか、尻尾とか、動物のかわいいやつ!」
「はい!」
さすがヒトである、たくさんのことを覚えているのかもしれない。
「少し待てば、ともえさん、いろいろ思い出すかもしれません」
「うん、ありがとう、イエイヌちゃん」
ありがとうがうれしい。と、
――――グゥ
おなかのなる音がした。
「なっちゃった」
ともえは恥ずかしそうにおなかをおさえる。
「まずはおいしいものを食べましょう、ついてきてください」
「うん」
イエイヌは笑顔で外階段へ向かう。ここは彼女のなわばりで、そして朝夕の散歩のコースだった。
ふたりは階段を降りる。と、ともえは階段をすべり落ちそうになり、慌てて手すりをつかむ。そんなともえをイエイヌは心配そうに振りかえる。慎重にふたりは階段を降りていく。
「ちょっとお待ちくださいね。いま掘りますから」
外階段を降りた先、イエイヌはともえのバッグの半分ほどの大きさの紙袋を掘りだした。袋をあけて、じゃぱりまんを2つ取りだし、ひとつをともえに渡した。
「どうぞ」
「ありがとう、いただきます」
ふたりは階段に腰かけて、そしてともえはじゃぱりまんをほおばる。冷たい、けれど。
「おいしい!」
「うれしいです~。もぐもぐ」
イエイヌもじゃぱりまんを食べる。おいしい。
「もぐもぐ」
「もぐもぐ」
「ごちそうさまでした」
「はい、ごちそうさまでした」
そう言って顔を見合わせて、ふたりはなんだか楽しくて、笑いあってしまった。
4
じゃぱりまんを食べたともえは傍目にも元気がわいたようで、雪の積もる草花だ、空だ、山だ、と視線を変えながら建物の入り口へ向かっていく。
「この中の、カプセル?でおきたんだ」
ともえは扉をあける。外が明るくなってきたからこそ、建物の中は薄暗い。
「カプセルですか?」
イエイヌにとって意外だった。扉から出てきたことは臭いで予想はしていたが、中になにか、それこそヒトが関わるような何かがあったとは。ヒトの施設だと知って、だからこそなわばりとし、こまめにヒトとのにおいや手がかりを探してきていたのだ。ただたしかに、施設の中にある数々のヒトの物体は、彼女にとって機能や意味が理解できるものではなかったわけだが。
「そうこれ」
「あいてます!」
そう、開いていた。ともえが1人中に入っていられる程度の球状の物体が、開いていた。そしてサンドスターが敷きつめられて、光り輝いている。中からはともえのにおいがした。イエイヌはこれまで、開くようなものだと全く思わなかったし、もちろんヒトのにおいは何度嗅いだってしなかった。中のサンドスターで生まれたのか、それともずっとヒトが中にいたのだろうか。
「それで、出かけなきゃって思って」
イエイヌにとって、それは少し気にかかる言いまわしだった。イエイヌ自身の、ヒトを待たなければ、という想いを言葉に変えた形に似ている気がした。
「ここがともえさんのおうちでしょうか?」
「…ここが、あたしの、おうち……ではないと思う、うん」
ともえは改めていろいろと球状の物体の周りと施設の壁と、天井とを見まわす。記憶が定かではないことをふまえると、むしろはっきりとした否定に近かった。
「生まれたフレンズは過ごしやすいちほーを探してそこで暮らします。ともえさんはヒトのおうち。ここはヒトの”びょういん”です。違うのかもしれません」
サンドスターの敷きつめられた球状の物体なら、中で落ち着いて眠れるのかもしれないが、建物としては寒いし、暗いし、イエイヌは少なくともここに住みたいとは思えなかった。
「そっか、住むところを探す旅か、うん!」
「わたしはヒトのおうちで暮らしてます、いっしょに行きましょう!」
両手をにぎり胸元で構えたともえに、すかさずイエイヌが声をかけ、ともえの手首をつかむ。言葉に出したら、抑えていたものがあふれたかのように。けれどイエイヌの表情や言葉に必死さが宿るよりも前に、
「すごい!行ってみたい!」
ともえもまたイエイヌの手首をつかみ、そして握手に変わる。
「はい、案内します!」
その手を軽く引く形で、イエイヌは施設の入り口に向かう。ついていくともえ。手のぬくもりが、イエイヌに、無事にともえをおうちへ案内せねばと決意を新たにさせた。そうだ、新しく生まれたフレンズには、他にも教えてあげたほうがよいことがいくつかあるのだ。
雪の残る道をともえとイエイヌは歩く。最初はついていっていたともえだったが、おうちの方向を聞いてからは先を歩き出していた。というのも、
「イエイヌちゃん、あの白い山って雪かな?」
見えるもの、聞こえるものがともえにとって新しいもので、興味をひかれて仕方ないからのようだった。
「そうです、ゆきやまちほーですね、キレイでちょっとさむいです」
「おぉー行ってみたい、あっちの緑の山は?」
「向こうはさとやまちほーですね、おやさいを作っていて、じゃぱりまんになります」
びょういんからおうちまでは、歩きやすい道が続いている。ヒトのものだからだろうか。と、ある木の根本の臭いをかぐイエイヌ。異常なし。朝と同じくセルリアンのにおいや痕跡のないことを確かめる。そうした彼女の動きを見て、あらかた見える風景について聞いていたともえの興味がイエイヌに移る。
「イエイヌちゃんを知りたいな。そうだ」
ともえはそう言って、その自分の言葉で何かを思い出したのかカバンを開けだす。ともえがカバンから取り出したのは、使い込まれた本だった。
「動物図鑑だよ」
表紙に書かれている文字を読んだからか、それとも記憶がはっきりしているのか、ともえはそう言った。イエイヌは頭のいいフレンズが実際に本を読んでいるところを見たことがある。そして本来はヒトの持ちものであったことも知っていた。ともえは彼女らフレンズより、慣れた手つきで本を読んでいるように見えた。
「イエイヌ! ヒトと共にいきる動物。ヒトが見ているものを一緒に見ることができる。長く走りつづけるのが得意。群れを作って狩りをする。薄いにおいをかぐことができるだけでなく、コミュニケーションもできる。汗で体温を下げるのが苦手で、呼吸で体温を下げる。考えることも覚えることも上手。たいせつなともだち」
ともえが読み上げ、イエイヌもそのともえの視線の先を追っていく。
「イエイヌちゃんすごい!」
「なんか、照れちゃいます」
得意なことを誉められるのは、うれしい。
「ヒトのたいせつな友だちなんだね」
「はい、わたしイエイヌはヒトと一緒に暮らすフレンズです」
誇らしげにイエイヌは答える、けれど。
「でも、ヒトはパークにいなくて、おうちでずっと留守番をしていました」
ヒトはいた、はずなのだ。それはアフリカゾウが教えてくれた。そしていなくなってしまっていた、いや出かけていった。戻ってくるつもりであっただろうと。ただアフリカゾウも彼女自身が、ヒトのフレンズを見たことはないと言っていたけれども。
「寂しかったね…」
ヒトはパークにいない。子どもであるともえにとって、本来危機的なことを意味する情報でもあるかもしれなかった。けれど哀しげなイエイヌへの同情が勝っていたのだろうか、ともえはそう告げる。
「でも、いいんです、ともえさんに会えましたから」
イエイヌは涙ぐんでさえいた。その涙をともえは見る。
「わたしもイエイヌちゃんの友だちだよ、会えて嬉しいよ」
明るく、当たり前のように、ともえはそう告げた。
5
雪の残る道をともえとイエイヌは歩いて。橋の袂で川の水を飲んで、休憩して。また歩いて。二人の影が少し短くなって。けれど日が完全に昇る前に2人はイエイヌの住むヒトのおうちのエリアにつくことができた。ヒトのエリアを示すアーチをくぐる。
ともえにとっては長い距離だったのだろうか。言葉に出さないが、疲れを感じさせる呼吸と足の運びに変わっていた。もう先行もできていない。それを心配してイエイヌが振りかえると、ばつが悪そうにともえは言った。
「ずっとあそこで寝てたからかな。もっと歩けたと思うのに」
「もう少しです、ゆっくり休憩しましょう」
ともえはあそこで生まれたばかりではなかったのか。フレンズ化以前の記憶が夢のように感じるのか。イエイヌにとって、ともえがヒトであるならば、元々そこはこだわるところではなかった。ただイエイヌの知識の中では、ヒトはイエイヌの自分と同じく長い距離を歩くあるいは走ることを得意とする動物であった。ずっと寝てたから、あるいは生まれたばかりだから、力が落ちていて十分に動けないならば、なおさら守らなければならないと考える。
もう少しの言葉通り1階建ての小さな家の集まる集落が見えてくる。家の日陰には雪が残っている。びょういんと異なり、小綺麗だ。イエイヌが住んでいるからだろう。
「どうぞ中へ」
イエイヌは家の扉を開けてともえを中に促す。
「おじゃまします、イエイヌちゃん」
ともえも家に入る。
「ささっ、あちらのいすにすわってください」
「…ふうー」
背の高めな丸テーブルの周りに3脚の椅子があった。ともえはその1脚に座って、足と手を伸ばす。ともえは、ベッドを見て、窓を見て、天井を見て。それからスケッチブックとペンを取り出していた。
「お湯にはっぱをいれたやつをお出ししますね、ヒトはおちつきたいときはそうしてたのです」
そう言ってイエイヌはお茶を用意しにいく。尻尾をふって。鼻歌交じりで。
「イエイヌちゃんを描いていい?」
「はい」
イエイヌは、絵をフレンズが描くことを知っていた。タイリクオオカミが描いたというマンガも見たこともある。
「ど~ぞ」
「いただきます」
ともえのカップに注ぎ、ついでイエイヌは自分のカップにも注ぎ、イスに座り、お茶を飲む。おちつきたいのはともえよりもむしろ自分なのではないかと思いながら。
「…ふう。すーっとするいいにおいだね。おいしい。ありがとう」
「いえいえ」
記憶に刻み込まれた光景。ヒトがにおいを楽しんでいたこと。彼女にとってにおいは、ものごとを判断するためのものだ。食べられる、食べられない。危険、危険ではない。そうではなく、におい自体には鈍感なヒトが、お湯の温かさや時間にこだわって、飲む瞬間のにおいを楽しむために引き出そうと努力している姿を見て、とてもとても不思議に思ったのを覚えていた。
「この辺りはずっと昔、何人ものヒトがいたんです。細かくは覚えていないのですが」
「うん」
「ヒトとわたしは一緒によく遊んでいました。楽しかった」
「うん」
「でも、ある日、みんないなくなってしまって。家にはそれでもヒトとわたしはいて。そしてヒトと家を守るんだと命じられたと思うんです」
ヒトを守ること、ヒトとのすみかを守ること。それ自体はそもそもイエイヌという動物にとっての使命であり、そのときに初めて言われたことではなかっただろう。
「うん」
ともえにとって、ヒトの情報は興味深いものであるはずだった。けれどともえは質問をしなかった。
「ずっと昔です。それに何か大切なヒトとの約束があったんです。でも忘れてしまった。きっと命令です」
イエイヌは、忘れてしまっていても自分にとって大切な約束だというなら、それはヒトの命令だったに違いないと思えた。深刻にならないように、どうしましょうね、と笑ってみて、
「…うん」
ともえはその命令を忘れたことを、咎めも許しもしなかった。ただ静かに聞いてくれていた。
「あたしも、いっぱい忘れちゃってるんだ。ともだちと大切な約束もあった気がする。えへへ」
「ふふふ」
もしかしたらずっと昔、ここの家々のどこかに住んでいたヒトの子どもが、ともえと友だちだったのかもしれない。ともえもこの集落にいただろうか?そこまでは記憶にない。もしかしたら、ともえこそが待っているこの家のヒトなのかもしれない、けれどそうではないかもしれない。
「この鞄を持ってパークに出かけたいな、出かけなきゃって思うんだ」
ともえはスケッチブックを見て、そう言った。
ヒトはイエイヌと同じくらいヒトとの約束を大事にする動物だと、イエイヌは知っていた。約束にかかわることなら、ヒトを引きとめることは難しいだろう。ほかでもないイエイヌがほかの親しいフレンズたちの近くに住むことをせず、これまで使命を守り続けてきたように。イエイヌはともえに、いつまでもここで一緒に暮らしましょうと、言ってしまわないでよかったと思った。
「あ、でもしばらくはここにいるよ!…いいかな?」
「もちろんです。ヒトのおうちですから。わたしのためにもいてください。…それにともえさんはパークを旅するには、力がおとろえています。教えることもあるんですから」
「わ、わ、なんだろう」
セルリアンがそうだ。そしてじゃぱりまんをもらえるようラッキービーストに会わせないといけない。イエイヌのためにヒトについて調べてくれているフレンズたちにも紹介しなければ。あるいは何か、ともえにとっての情報があるかもしれない。
「まずはいっぱい遊びましょう!」
「うん!」
焦ることもない。でも永遠でもない。ともえとイエイヌのいっしょの暮らしがこうして始まった。
6
脚のつかれが軽く取れるまでともえは絵を描くのを進めて、そして淹れたお茶が飲みきるころ、イエイヌは下絵を見せてもらった。たしかに自分、イエイヌである、すごいものだ。そしてともえはイスを引いて立ち上がり、遊ぶぞ!と両手を空に上げた。待ってましたと、さっとイエイヌは動いて、フリスビーを両手にかかえてともえに渡した。
「投げてもらえませんか」
フリスビー遊びならともえへの脚の負担は少ないだろう。そしてイエイヌは目一杯走ることができる。最高の解であるとイエイヌは自信たっぷりに思った。2人は家の外に出て、ともえはフリスビーを投げる。
「えいっ」
「はっはっはハグゥ!」
「すごい!」
ともえからの指示を受け、フリスビーを追いかけ、そして戻ってきたら誉められる。
「次を」
「じゃああっち」
ともえはイエイヌが視線を向けたところ、次投げてほしいところに、ほどよく変則的に投げてくれた。ちょっと遠い、ちょっと速い。そんな風に。ともえなりに自分の体を確かめているように。
「えいっ!」
「おお、取れた!」
「投げ方が上手なんですよっ」
その日はそんな風にけっきょくフリスビー投げを日が沈むまでして、くたくたに疲れた2人はその後ぐっすり眠った。
次の日は朝から細かく雪が降っていた。2人はびょういんへ向かうのとは別の散歩コースを進んでいった。ある木の根本を嗅いだイエイヌは、警戒して告げる。
「セルリアンです。気をつけて、ともえさん」
「うん。食べられないようにしなくちゃ」
臭いからはおそらく小型だと思われた。
「見つけました。隠れましょう。見えますか?」
「わ、赤い!」
予想の通り、小型のセルリアンだった。1体。道を横切っていく。近づいてはこない。
「あれは小型です。石も見えていますし、わたしでもきっと倒せます。もし気づかれたらですけど」
「あたしはとにかく逃げる」
「はい」
驚いてすくむということもなく、落ち着いてともえは答えてくれた。
「よく出てくる場所があります。わたしは臭いで調べます」
「あたしはほかのフレンズに聞いて覚えて、近づかないこと」
「そうです」
訓練は大事だ、と真面目なイエイヌは思う。幸いセルリアンはそのままどこかへ行ってしまった。
次の日とその次の日は風が強く、雪も降っていて、2人は家の中で過ごした。
「最近雪が多いです」
「よし、絵を進めるね」
その次の日の朝、ようやく風と雪は止んでいた。晴れている日が貴重かもしれない。2人は再びびょういんを調べに行った。
「やった、地図があった」
「なるほど、これが地図ですか」
前日に家でともえはスケッチブックに描いて見せていた。鳥のフレンズでもないのに、空から見ているようで、便利に思えた。ちほーと、ヒトの施設が簡単に書かれていた。
ともえは他になにか便利なものがないか探しつづける。2人は車庫にてバイクを見つけるものの、バイクは動くことはなかった。
「これ、乗り物かな?」
「またがって滑り降りたら速そうです」
「平らなところも走った気がする。あたしもイエイヌちゃんくらいの速さで走れたらなあ」
そうこうしていると日も傾き始めてしまった。2人は帰る。家につくと、さわさわと雪を進む音がする。
「ボス!二人分じゃぱりまんください」
じゃぱりまんを運ぶラッキービーストが家に来ていた。
「おお、これがボス、かわいい」
近づいていったともえをラッキービーストが見上げる。新しいフレンズのときそうであるように、じっくり見て。
「ハジメマシテ、ボクは ラッキービーストダヨ、ヨロシクネ」
そしてそうでないことをした。
「はじめまして、あたしはともえ、よろしくね」
「え?ボスってしゃべれたんですか?」
イエイヌは驚いた。というのも今までラッキービーストが話しているのを見たことがないからだ。ただ彼女にとって、ボスはボスで、おそらくヒトに関係するよくわからないものの一つという位置づけではあって、不思議なことをしているのはいつものことではあった。
「…ケンサクオワリ。シンキトウロク。ボクは サプライの ラッキービーストダヨ。パークガイドの ラッキービーストは サトヤマチホーニイルヨ」
「さぷらいのラッキービースト?」
「ココは研究エリアダヨ。サプライのラッキービーストはフレンズにじゃぱりまんを配ルヨ。パークガイドのラッキービーストはパークを案内スルヨ。」
「パークに出かけたいと思ったら、パークガイドのラッキービーストに会えばいいんだね」
「ソウダヨ。サトヤマチホーニイルヨ」
「ありがとう!」
断片的な情報を残して、ラッキービーストはまた雪の道をさわさわと進んでいった。
7
イエイヌは家のキッチンから袋をもってきて、そして入っていた最後の2個のじゃぱりまんを取り出して、1つをともえに渡した。さきほどラッキービーストから受け取ったじゃぱりまんを代わりに袋に入れていく。とりあえず8個ある。
2人はじゃぱりまんを食べる。明日はどんな天気かな。これからまた雪が振りそうです。そんな話をしながら。ラッキービーストってなんだろう。わたしたちはずっとボスって呼んでましたけど、おそらくヒトがつけた名前でしょうか。そんな話をしながら。
こんなにも、新しい出会いと明日を、楽しそうに望む目を見ていられるのか。
「あたし、さとやまちほーに行こうと思う」
じゃぱりまんを食べ終えて、ともえはそう切り出す。
「はい、ゆきやまちほーを越えていくことになります。ご案内しますね」
イエイヌは驚かずに、そう答える。
「いいの!?あ、でも」
ともえは驚いて、イスから立ち上がる。それはイエイヌが、家を守るのを使命と言ったのを覚えているからだろう。そう、1人ででも、行こうと思ったのだ彼女は。
イエイヌはイスを降り、ともえの前にひざまずく。ともえが主人であるかのように。けれど。
「ともえさんは、…たぶん主人ではありません」
ヒトの大人の男の臭いとシルエット、それが主人だ。あるいは傍らの黒い髪のヒトの女の子とも、ともえは違う。遠いあやふやな、けれどもきっと大切な記憶との齟齬を、忠実なイエイヌは無視できない。…シンキトウロクと、ラッキービーストがともえを新しいヒトだと、新しくじゃぱりまんを配る対象としたことも、過去の彼らではないことを示してしまっているようにも思う。
ともえも同じようにひざまずく。イエイヌと目線があう。
「あたしは、イエイヌちゃんのともだちだよ」
出会った日と同じ強さで、まっすぐにともえは言う。それは主人でないことの強い肯定だ。彼女なら、主人であったことを忘れることはないのだと、イエイヌはそう信じてしまっていいように思えた。
「はい。でもきっと、ずっと、待って、願っていたヒトです」
何日も、何年も、ただただ使命として、叶うことを知らずにヒトを待ち続けてきた。かつての記憶の主人ではなくても、ヒトと共に生きることができるのならば。イエイヌのフレンズとして、これほど幸せなことはないのだろう。
「うん。あたしはいっしょに来てくれるなら嬉しいよ。いっしょに行こう」
ともえはイエイヌの手を取り、立ち上がり、引き上げる。イエイヌは地に、家に、自分をつなぎとめていた心の鎖が、このともえと結ぶ手に変わったように感じた。だから、寂しさや畏れもない。
「はい、いっしょにずっと、かならずお守りします」
ヒトを守ること。それは確かにイエイヌが命じられたことであり、ヒトとのすみかを留守にしてもすべきことであるはずだ。
ともえに引き上げられたイエイヌの視界に、窓の外に降る雪が映る。部屋の明かりを反射して白く輝いている。最近の積雪だと、ゆきやまちほーを越えるのは、ともえ1人では心配だった。
雪はその翌日も振りつづける。2人は地図を見て、さとやまちほーまでのヒトの宿泊所を確認する。危険な道はどこか。イエイヌの昔話。ゆきやまちほーに住むフレンズの話を2人はする。
2人の旅の出発はさらにその翌日の、早朝。天気は晴れ。
「1週間ありがとう。これからもよろしくね」
ともえはイエイヌを描いた絵をイエイヌに渡した。
「わ、すごい!」
笑顔のイエイヌと、お茶を淹れるイエイヌが描かれていた。それと、文字。ともえが言うには、イエイヌの主人へ留守を伝える文が書かれているらしい。訪れたらわかるように、机の上に置いていく。きっとイエイヌの主人は見てくれるだろうか。
イエイヌの主人へ。ともえと出かけてきます。イエイヌ。
出会った日の朝のように、影が長く伸びる。
真っ白な道に並ぶ足跡。