阿修羅の牙   作:ダブルM

14 / 16
第十四話 策

木の床板を擦る小気味いい音が響いている。

裸足の踵が床を踏み込む音。すべる音。

荒い呼吸。

何組もの肉体が道場の中で同時に乱取りをしているのである。

道場の奥には神棚が祀られている。

そこの前で筋力トレーニングを行っている者もいる。

ヒンズー・スクワット。

腕立て伏せ。

道場の端の方でダンベルを持っている者もいる。

歯を食いしばってやっている人間もいた。

むっとするような汗と男の匂いが立ち込めている。

昨日今日でできた匂いではない。

何年にもわたって積み重ねられてきた匂い。

床、壁、柱――――部屋のありとあらゆる構造物にこの匂いがしみ込んでいそうであった。

トレーニングをしている人間はいずれも若い。

10代後半から20代前半だ。

神心会本部道場。

太陽が真上に来る、もっとも暑い時間だ。

夏の熱気が中に入り込み、より一層道場の中を蒸し暑くさせている。

どれくらい続けているかわからないが、スクワットを続けている男の足元には水たまりができていた。

赤道近くの島国かと思うくらい、道場の中には熱気と湿気がこもっていた。

人の肉体が創り出す熱が部屋の温度をあげているのだ。

時折乱取りがとまったりする。

克己が門下生の面倒を見ているのだ。

その克己の眼が玄関に止まった。

玄関のところで、一人の男が立っているのだ。

奇妙な男であった。

美男子ではないが、妙に印象に残る顔である。

細い目に、ゆるやかなカーブを描いた口元。

普通にしているだけなのだろうが、愛嬌のようなものがその目と口元から漂っている。

どこかとぼけたような、ひょうひょうとした様な顔だ。

どちらかといえば細面でひょろりとした体躯をしている。

年齢は20代くらいだろうか。

しかし実際の年齢が10代と言われても30代と言われても驚きはしない。

若さと老成さがその表情の中には含まれていた。

男は袴をはき、上には柔術のような道着を着ている。

克己に驚きはない。

知っている顔だ。

 

「金田さんだな。」

「はい。三日ぶり、ですかね。」

 

金田末吉。それが男の名であった。

克己はその名を呼びながらゆっくりと近づいていく。

金田がくつを脱いで道場にあがる。

 

「よく来てくれたよ。」

「とんでもないです。あのような席でこんな頼みごとをしたというのに―――」

「いいっていいって。女の子摑まえるよりももっと素敵な男を捕まえちまったんだからな。」

 

克己が笑いながら言った。

何故金田が克己の元を訪れたのか。

その理由は、ここに居ない男にあった。

 

「まさか門下生の女の子に呼ばれて行った合コンパーティに絶命トーナメントの参加者が三人もいるとはねえ」

「僕は数合わせで呼ばれただけでしたけどね…」

「それでもさ。」

「ハハハ…」

「で、氷室はどうだった?」

「あとでライソが来ました。お持ち帰り成功だそうです。」

「やるねえ。んで、こっちに来たことは氷室に伝えたのかい。」

「死ぬなよ、と。」

「ハハハ。そんなに危険な場所じゃないさ。」

「―――――」

「もっとも、それは金田さん次第だけどね♡」

「これはこれは。怖いですねえ。」

 

金田が、来た時と変わらない顔で笑った。

 

「よォーシ、お前ら!!!あれ持ってこい!!!」

 

克己の声と共に道場生達が数人奥の扉の向こうに消えていった。

それ以外の者たちはぞろぞろと、道場の端に移動していく。

呼吸の荒いもの、荒くない者。

汗がすごいもの、すごくないもの。

みなまばらではあったが、それぞれ道場の端で正座をしていた。

道場の中心に大きな空間が空く。

そこに、先ほど消えた道場生達が戻って来た。

皆、その手に台車を持っている。

何が始まるのか―――

そう思っている金田の前で、道場生達が積み荷を降ろしセッティングを始めた。

背丈ほどもある大きい氷。

5センチ四方の角材。

分厚い板。

二つのコンクリートブロック。

その上に、橋のようにかけられた細い針金。

 

(これはもしや―――――)

 

そう、金田が思った時一人の男が奥の扉から出てきた。

剥げた頭。

太い頸に、傷だらけの貌。

黒い眼帯。

神心会の道着。

空手界の太陽、愚地独歩である。

その独歩がゆっくりと氷の前に立った。

その様子を道場生と金田が固唾をのんで見守る。

2秒か、3秒くらい経った折だろうか。

独歩が氷に右の拳を当てた。

柔かい、まるで凶器とは思えないほどに丸みを帯びた拳だった。

殴ったわけではない。

拳の部分を押し付けるようにくっつけただけである。

その状態から

 

「カッ」

 

息吹と共に、独歩の足首が道場の床板を踏み抜く。

同時に腰が切れ。

その動きが背中に伝わり。

背中を通して伝わった力が腕。

腕から拳につながり――――――

 

(こ、拳を押し当てた状態からあの分厚さの氷を!!??)

 

氷塊を砕き散らしめた。

それだけでは終わらなかった。

背を向けたまま独歩は後方に足をだした。

右の足刀による後ろ蹴りである。

 

「シャッッッ」

 

その右脚が、設置されていた角材をまるでバターか何かのように切断した後。

 

「シュッッ」

 

右拳で門下生の持つ板のど真ん中を拳が貫いた。

試し割用の板を割ること自体は珍しい事でもない。

空手の経験者ならそこそこ誰もがやれることであるし、金田とて造作もなく行える所業である。

だが驚くべきは、試し割用の板を割るのではなく貫いたことである。

独歩が拳を抜いた後の板が、まるでドーナツのようにぽっかりと丸く穴が空いているではないか。

凶器である。

金田はそう思った。

ここまで鍛えられた人間の拳は、もはや人体に非ず。

刀剣とか、銃弾とか。

そういうものと同列に扱える代物であると思った。

そういう貫通力を持った拳を人に打ち込んだとしたら――――

金田の頬に冷たい汗が流れる。

そんな金田の心中を知ってか知らずか。

独歩が飛んだ。

高い。

助走もなしに、2メートル以上は上に飛んでいるだろう。

齢50、体重100キロを超えた男の身体能力とはとても思えなかった。

そして、勢いが乗ったまま独歩は左の手刀を下に振り下ろし―――――

 

「ぬんっ」

 

一本の針金を切断せしめた。

 

「すっげえッッ!!!!」

「さすが館長ッッッ!!!!!」

「武神パねえッッッ!!!!!」

 

門下生たちが口々に賞賛の声を上げる中、独歩は拳を構えたまま金田に向き直っていった。

 

「愚地独歩です…」

「どうよ、金田さん。」

 

横に居る克己が金田に向って話しかける。

この克己は期待しているのだ。

絶命トーナメントに参加したこの男が果たしてどういう反応をするのか。

驚くのだろうか。

興奮するのだろうか。

どういうリアクションをしても称えるものに違いない――――

 

「ぶっ」

 

故に、金田が発言したその言葉は完全に克己の予想の範囲外であった。

 

「”武”というよりは”舞”。舞踊に近いですね。」

 

金田がいつもの笑顔のまま、とんでもないことを言い放った。

道場生達が凍り付く。

一体この男は何を――――

そんな空気を読もうともしないまま、金田は克己に向ってもう一言加えた。

 

「しかし、武神ともよばれる方がなぜ動きもしない石や木を…?」

 

克己は口を開くことができない。

自分の脳内で期待していた反応とはまるで逆方向であったこともそうだが、一番は金田の正気を疑っていたからだ。

天下の神心会道場、その門下生と愚地独歩の目の前。

敵地であると言っていい。

そのど真ん中で、あろうことか象徴的人物に挑発するなどというのは――――

 

「なんだァ?てめェ……」

 

―――独歩、キレた。

克己も、門下生たちも口を開くことができない。

独歩が喧嘩をするモードに入っているのでおいそれと口出しをすることが憚られるということもあったが。

それよりも先に、道場生達の脳裏に去来した思いがあった。

期待と言ってもいい。

道場(ここ)で。

眼の前で。

 

(((((殺人が見れる!!!!????))))

 

「舞踊だァ?」

「お怒りですかね、愚地さん」

 

ゆっくりと、独歩が金田に向って歩いていく。

武道的な、しっかりとした歩みではない。

血に飢えた獅子がゆっくりと餌に近づくような。

そういった歩みであった。

 

「上等だ…」

「―――――――」

「踊りか…

踊りじゃねえか…」

「―――――――」

「その身で確かめてみるかい?」

 

愚地独歩が前に出てきた

金田の正面に立った。

恐ろしく真剣な顔でにらんでいる。

子供のようなとてつもない無垢な眼であるような気もした。

あらゆる修羅場を体験しつくした人間の眼のような気もした。

 

「――――」

「あ?」

 

鬼が下りた。

そう言えばいいのだろうか。

やる眼だ。

金田にはそう感じられた。

そして、それは間違いではなかった。

 

「シッッッッ!!!!!!!!」

 

左の刻み突き。

眼で追える速さではなかったが、金田は回避をすることに成功した。

独歩が動くより先に動いていたのだ。

何故こういったことが可能であるのか。

それは、金田が予測の達人であるからだ。

 

 

金田末吉、27歳。

地味な見た目とは裏腹に拳願会でも大物食いとして知られているこの男は、あらゆる意味で闘技者として異質な男であった。

まず、身体が弱い。

金田家の次男として未熟児のまま生まれたこの男は、幼少の頃から極度の虚弱体質であった。

物心がつく前に大病を患い二度死にかけたことがある。

大きな手術であれば、小学校に入る前に4回した。

幼少時の金田の肉体と風貌を見るに、どこからどう見ても闘技者となりえる存在ではなかった。

小さく、痩せた身体。

細い手足。

青白い肌。

勉学においては特に後れを取った事は無い。

進学校で学びながら、塾に通いつめる毎日。

そこは問題ない。

しかし、幼少の頃は、どこでも身体の強いものが跋扈する。

弱いものは常にその下風に立たねばならない。

残念ながら、ここではどうしても後れを取ってしまう。

これはある程度体が出来上がり、高校生になった後も変わらなかった。

持久走では常に最下位であるとか。

女子に腕相撲で敗けるとか。

ある意味、どこにでもいる身体の弱い少年であった。

それ故ほかの者から軽んじられることが多かった。

しかし、というべきか。

だからこそというべきか。

「強いやつに勝ちたい」

そういう想いだけは誰よりも強かったのだ。

故に、金田は努力をした。

身体的能力を補うための努力―――すなわち、予測。

先読みと言ってもいい。

ひたすら人間を観察し、相手の動きを完全に予測。

攻撃を見切って自分の攻撃を当てる。

これが金田の持つ『強さ』となった。

 

 

 

「グハアッッッ!!!!!」

 

その強さが今、圧倒されていた。

動きは読めている。

現に金田の脳内では独歩の動きの軌跡が見えている。

 

「どうでェ、ボウヤ。」

「ハアッ―――ウグッ」

「オイラの空手。まだ、踊りだと思うかい?」

(バカなッッ――――動きは読めているはずなのに…ッッッ)

 

だというのに。

 

(なぜ…動けないんだッッ!!???)

「次、行くぜ。」

「――――ッッ」

「上段の正拳突きだぜ。投げるなり折るなり好きにしな。」

「言われずとも――――!!!????」

 

まただ。

独歩は右の正拳を放つと言っている。

嘘ではない。

金田の脳もそう言っている。

先読みは当たっているのだ。

当たっているのに―――

 

「~~~~~~~~~ッッッ!!!?????」

 

独歩の拳が消える。

反応できない。

なぜか身体が動かない。

金田の視界が白く、ちかちかと光る。

それと同時に、鼻っ柱に強い衝撃が走った。

余りの痛みに首ががくんとゆれ、鼻血と共に涙が顔から噴き出す。

 

「オヤ。」

「――――――」

「当たっちまったねェ。」

(う…動けないッッ)

「何故かわせないか、わかるかい。」

「――――――」

「オイラはね、今見せたような基本の技を50年以上。毎日千本やっているんだ」

「――――――」

「それができるバカなら誰だってこんなことはできる。」

「ぐ―――――」

「次は中段だ。大サービスで言っといてやるが、右の前蹴りだぜ。」

(わかっているッッ、そんなことはッッ)

「かわすのは自由。

今日は調子わりぃなァ~~とか思ったら防いでもいいよ♡」

(しかし…ッッ!!!)

「そら」

 

まただ。

また、独歩の脚が消える。

まるで透明人間か何かが自分の手足をすり抜けて攻撃しているような、そんな錯覚さえ覚えてしまう。

透明な独歩の脚が、金田の腹部に直撃した。

その時、金田の脳裏に浮かんだものは独歩の脚ではなかった。

刃物だ。

鋭く研いだ、日本刀のような鋭く尖ったものが自分のどてっ腹に突き刺さっているのだ。

 

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!!???」

 

この苦痛をどう表現すればいいのだろう。

叫びたかった。

転げまわりたかった。

言葉にならない。

というより、単純に声が出なかったのだ。

生暖かい熱さを持った液体が、自分の体内から急速に駆け上がってきて、口元付近にまで到達している。

武道家として、みじめに床を這いずり回ることだけはしなかったものの、完全に金田の動きは止まっていた。

そんな金田を見て、独歩は笑っていた。

笑ったまま、動いた。

 

「まだまだいくぜェ」

「――――――ッッ」

 

動いたのだが、金田には独歩が動いたようには見えなかった。

どういう動きをしたのか。

独歩の姿がいきなり膨らんだのだ。

次の瞬間、独歩がいきなり間合いに入っていた。

拳の構えた位置をそのままに、右ひじを曲げながらすっと前に出たのだ。

拳の位置はそのままであるため、金田には独歩が近づいたかわからなかったのだ。

わからないといっても一秒にもみたない間、コンマ数秒とかその程度である。

だが、そのコンマ数秒が致命的であった。

 

「貫手」

「おぐっ」

「手刀。」

「ガッッ」

「顔面」

「ぐ―――――うん」

 

独歩がひとしきり打ち終わり、再び両者が向かい合った。

独歩は汗一つ流していない、綺麗な顔。

しかし、笑っていない。

対する金田は、凄惨であった。

眼が腫れあがり、鼻からの血が止まらない。

右頬がナイフで切られたようにぱっくりと割れており、そこからピンク色の肉が見えていた。その裂け目も、奥からあふれる血でたちまち埋まっていく。

口元から血が出ていることから、内臓も痛めているであろう。

しかし、笑っていた。

細い目をかっと開き、牙をむき出しにして笑っていた。

 

「金田――――――おめえ」

「―――――うん、いい。」

「―――――――」

「うん、うん。ナルホドね。」

「―――――――」

「ようやく、わかってきましたよ」

 

独歩は答えない。

真顔のまま、金田の下腹部―――金的に向って前蹴りを放つ。

独歩は先ほどから何も変えていない。

何かを工夫したりだとか、さっきよりゆるくやっているだとか、そういうことは何もしていない。

だが。

 

「ね?」

 

攻撃が当たらない。

異様なかわされ方であった。

独歩が動く前に動いているのだ。

タイミングやリズムでたまたま手で防げたりするとか、

目が慣れてきたとかならまだわかる。

しかしこれは――――

 

「結構理解(ワカ)ってきたかな~~~って感じでしょ?」

「――――――」

 

独歩は口を開かない。

代わりに、その顔面に向って拳を突き出す。

躱される。

右のロー。

躱される。

踏み込んでの頭突き。

間合いを外される。

右の正拳、と見せかけた左の下突き。

これも、横に体を捌いてかわされる。

 

「ちぃっ」

 

拳。

拳。

肘。

脚。

拳。

脚。

 

二秒。

克己だけが眼で追えるその攻撃を、金田はすべてかわしきった。

しかも、手を使った防御はない。

脚と体を使った体捌きのみでだ。

ごくりと、克己が唾を呑み込む。

あの伝説の絶命トーナメントに参加したのだから、その腕が疑いようのないものは事実だ。

克己としても、そこそこできると思ったから連れてきたのだ。

しかし、あくまでも『そこそこ』である。

これほどか?!

絶命トーナメントで一回戦落ち。

ガオランに惨敗したこの男が、これほどの水準(レベル)だったのか!?

三度、両者が向かい合った。

そこで、ようやく独歩が笑った。

 

「へえ。」

「―――――」

「勉強してやがんなァ」

「はは。武神の拳―――予想はしていましたが、これほどだとは思いませんでした。」

「――――――」

「ですので―――ここら辺にしませんか?」

「あァ?」

「独歩さん。あなたの攻撃はすべて見切りました。」

「――――」

「その、チョット言いにくいんですが―――」

「―――――――」

「これ以上やっても無駄かなあ、と」

「先読みか。オイラの攻撃のデータを研究して、それを解析することに成功した、と」

「そういうことです。ですので―――――」

「なんか勘違いしてやがんなァ。」

「え?」

「肝心要が抜けていやがる。」

「―――――」

「データ結構。最新のデータ結構。過去の積み重ね結構。」

「―――――」

「闘いってのはそういうもんじゃねェんだよ。」

「何を―――」

「数字や20年ばっかしのボウヤの脳みそじゃ辿り着けねえ境地ってもんがあるのさ」

「しかし現にあなたの攻撃は当たっていない。」

「試してみるかい。」

「試す?」

「オイラをさ。」

「それは、試しました」

「半端な技ならな」

 

言って、独歩は小さく笑った。

金田も、笑った。

頬に汗が伝う。

 

「今までの技が、本気ではなかったなら―――――」

「なら?」

「まあ、おいおい試していきますよ。」

「おいおいね。」

 

独歩が頷いた。

 

「おいおいです。」

 

もう一度、金田が笑う。

そして、ここで初めて金田が構えた。

 

「む」

 

独歩の表情が変わる。

左足を前に、身体は半身。

右拳は腰の横に備え。

左腕を上に曲げ、肘を突き出すようにしている。

50年以上武に携わって来た独歩ですらが見たことのない構え。

これこそが、金田の本気の構え。

 

『紅人流・陰陽交差構』。

 

対する独歩も、ついに構えた。

左手左足を前に、左右の手を上下に配置した天地上下の構えだ。

その構えを、金田は正面からまっすぐに見ている。

独歩は独歩で金田の全体像をぼんやりとみている。

どちらも動こうとしない。

金田が見ているのは独歩の眼であり、身体全体の動きだ。

予測パターンの中には視線や身体の反応なども含まれているので、それを見逃すまいとしている。

そして、それ以外の部分も観ようとしている。

闘う時には心の中にどう動くか、どう攻撃しようかというものも生じる。

これが生じれば、身体も動く。

挑発で相手を動かせる、というのもこれに近い行為だ。

その動きを呼んで先手を打ってゆく。

氷室と戦った時も、実際に軽く挑発をして氷室を動かせることに成功した。

しかしこの愚地独歩という男の肉体はどのようなものも発していない。

無、というものに近いのであろうか。

攻撃しようとか言う意思や、心が感じられないのだ。

それは草原の一角に無心に湧き出る泉のように。

ただただ、愚地独歩の肉体がそこにあるのだ。

怯えもない。

大気のごとき自然体であるように感じられた。

これほどか。

武神。

虎殺し。

空手界の太陽。

数ある異名は伊達ではないということが、今心で理解できた。

面白い。

金田は、その時自分でも意識しないうちに唇に笑みを浮かばせていた。

自分からゆく。

金田はそう決めた。

当身を行う。

自分が動き、相手が反応すればそれに応じて金田が予測を入れる。

 

(いざ、尋常に―――――勝負ッッ!!!)

 

そういう心づもりで踏み込んだ。

初段は顔面に左肘。

同時に独歩の身体が空気のように左に動いた。

力の入っていない、無駄のない動きであった。

同時に、独歩が左拳を金田の顔面に繰り出す。

金田が頭を下に動かし、空を切る。

すかしたのを確認した金田が右の拳を前に突き出した。

しかし、独歩の顔面までは若干距離がある。

その最後のわずかな距離を金田は埋めていた。

指だ。

右拳から人差し指を突き出して前に伸ばしたのである。

眼球。

独歩はそれに対してかわすことはしなかった。

逆に、自らの額を金田の指に向けて思いっきりぶつけた。

めきり、とも聞こえた。

ぐしゃり、とも聞こえた。

そういう音と共に、金田の人差し指がありえない方向に曲がる。

だが、金田は笑っていた。

激痛を意にも介さず、牙をむいて笑っていた。

独歩の右の足先蹴り。

左に躱し、もう一度右の拳を打ち込む。

だが、それよりも先に独歩の右足が戻っていた。

ローキック。

切られた?!

金田は瞬間的にそう思った。

衝撃というよりはむしろ斬撃。

金田の左足に巨大なアーミーナイフが食い込んだかのような痛みが走る。

だが、拳を止める事は無い。

独歩が頭部を数ミリ後ろにずらす。

それで、この拳は外れる。

そういうつもりのスウェーであった。

しかし、その数ミリを金田は再び埋めてきた。

親指を、握った拳から一本だけ立てて伸ばしてきた。

再び眼球だ。

だが、それも届く事は無かった。

とどくほんの数瞬前に。

独歩の左の下突きが、金田の腹部につきたてられていたからだ。

 

「いいねえ」

 

血を口から出しながらバックステップする金田に、独歩は笑って言った。

 

「えげつない技を使うじゃねえか。オイラもそういうのは嫌いじゃないんだ。」

 

金田が仕掛けた眼球への攻撃に対して言っているのである。

金田としてはもとより当たると思って出している攻撃ではない。

ここから、必殺の投げにつなぐための一連の動きの中にある攻撃である。

むろん当たれば良いが、そう都合よくいくことがないことなど理解している。

あくまで、これは布石なのだ。

 

「しかしまずいなァ…」

 

ぼそりと独歩が言った。

 

「何がです?」

 

金田が口元からあふれる血を拭いながら尋ねる。

 

「だんだん手加減ができなくなっちまう。」

「それはまずいですね。」

 

金田はそういって微笑んだ。

ずい、と独歩が前に出る。

金田も、前に出る。

互いの制空権が触れるか触れないか。

そういう所で、お互いの脚が止まった。

その時――――

 

「ひゅっ」

 

鋭い笛のような呼気が金田の口から洩れた。

このタイミングを計っていたのだ。

金田は踏み込みながら独歩の顔面に向って左の拳を突き出していた。

はずされた。拳が空を切る。

頭を沈めて独歩が金田の懐に入ってくる。

組める間合いであはるが、空手家の独歩が組んでくる事は無い。

それはわかっている。

パンチだ。

左の拳が金田のこめかみに向って飛んでくる。

鉤打ち。

フックだ。

身体を後ろにそらす。

かわした。

独歩が追いかけてくる。

こわい風が一瞬金田の肉体を吹き抜けていったようであった。

来る。

金田はそれを直感した。

データ通りではある。

右の顔面への正拳。

それが自分に襲い掛かってくる。

それは間違いない。

恐怖。

武神の右拳。

それが金田の顔面に届く直前――――否、届いてから金田は首を横にそらした。

独歩の拳に自分のほほを沿わせて、頸を回転させ衝撃を逃す。

自分はこれを待っていた。

機会(チャンス)だ。

右腕を両の腕で、抱え込むように捉え。

金田は身を沈めながら半身になった。

腰を入れ独歩の身体を上に跳ね上げ、肘を支点に投げる。

『紅人流・天地返し』

――――決まった!!??

そう思った時、信じられないことが起った。

独歩の身体が宙でくるりと一回転したのだ。

金田が投げたその力を利用し、独歩は体を縦に回転。

その勢いを持って、自らの両足で床の上に着地したのである。

背から道場にたたきつけられるはずであった独歩の肉体が、金田の前に立っていた。

しかも、ただ着地するだけなら背から落ちるはずであるが、正面を向いているのだ。

何故こういう事ができるのか。

それは、独歩が『予測』していたからだ。

金田が右腕を握りに来ることは、長年の戦いの経験で予測できた。

故に、差し出したのだ。

投げやすいように、読みやすいように自身の右腕を囮として差し出したのだ。

見事それに引っかかった金田が腕をつかんで投げる。

投げられると同時に、脱力していた腕を引き抜き、空中で身を翻す。

 

(自分から

投げられ

上手

武神

凄い

恐怖

これ――――)

 

これが、金田のこの日最後の思考となった。

 

「予測は何もおめえさんの専売特許じゃねえってこった。」

 

独歩が、倒れた金田の顔面から拳を引き抜きながら、歌うように。

楽しそうに言った。

それと同時に、めりめりとか、ばきばきとかいう音が聞こえた。

何かを力で無理やり引きはがす音だ。

 

「こういう時は、こうするんだったっけ?」

 

克己だ。

克己が、道場の奥にある戸板を引きはがして持ってきている。

 

「オウよ。道場やぶりは戸板に乗せて返す。」

「へえ。」

「慣習ってもんだ」

「―――――」

「運び出せ。」

 

―――――――――――――――――

 

 

「帰ってくんねえかな」

 

空手着を着た男が、目の前に座る男に嫌そうに言った。

マホガニーの机を椅子代わりに座り、嫌そうに言うその男はあまりに太かった。

太い肉体。

太い腕。

太い指。

太い脚。

太い頸。

太い顔。

太い唇。

太い鼻。

太い目。

太い眉。

そして視線までもが太かった。

肩幅が広い。

道着の下からせり出す胸板も、あまりに太い。

シルエットだけを見た人間が、羆と勘違いしてしまいそうな太い男。

この男こそ、空手団体北辰館館長にして愚地独歩と並ぶ空手界の生きる伝説。

松尾象山であった。

その松尾象山が今、露骨に嫌そうな顔をしていた。

対する男はそれを気にした様子もなく、口元に薄ら笑いを浮かべていた。

 

「まあそう言いなさんなって、松尾さんよ」

「君が来るとだいたい、ろくなことがないんだよねえ」

「今日は、いい話を持って来たんだって」

「そんなこと言ったってさあ。こないだ、君が来た時のこと覚えてる?」

「なんだっけ?」

「ほら、川口さん。受付の子だよ」

「あーーーー」

「大変だったんだからな?人妻ひっかけたのがうちの道場生だって話になって。

旦那さんが乗り込んできたり、弁護士とかから電話来ちゃったりしてさあ」

「あれはさ、しょうがないじゃん」

「何がしょうがないの」

「だってさ、かわいいんだもん。あんなに若くてかわいいとさ、指にリング付けてるとか気にならなくなっちゃうよね」

「ほら」

「ほらって。いやいや、今回はマジだって。マジにいい話。」

 

男が、手を振りながら言った。

無精ひげを手でこすりながら、象山の眼を見据えて言った。

 

「俺、対抗戦に出ることになったのよ。それで話があってね―――――」

 

男の名は初見泉。

対抗戦、第五試合の愚地独歩の対戦相手である。

 

 




この作品初ですが、次回に続きます。

追記)初ではないですね、二話のこと忘れてました。


誤字脱字報告、感想等お待ちしております。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。