阿修羅の牙   作:ダブルM

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今回は小説版餓狼伝の設定を取り入れています。


第十五話 泉 

対抗戦第五試合、愚地独歩VS初見泉。

ここに決定。

 

その知らせを初見本人から聞いた松尾象山は、顎を手に当ててつぶやいた。

 

「いいね」

「だろう?そういうわけだからよ、松尾さん。ちいと話を聞いてくれねえかな」

「――――」

「もちろん、あんたの席は用意してあるよ。乃木のおやっさんが天下の松尾象山ならば、と喜んでね。」

「ふうん」

「納得―――いってないかい?」

「うん」

 

太い男は顎から手を放し、腕を組んで笑いながら言った。

 

「だってね。あの乃木さんが泉君をよこしてそれで終わりなのかなあ、と思ってさ」

「さすが」

「長い付き合いだからねえ、彼とは。二葉会潰した時もきっちりもみ消してくれたし。」

「―――――」

「で、話って?」

「ああ――――。いくつかあるんだが、いいかい?」

「いいよ」

「よし、まず一つ目なんだが―――あんたの印税の取り分を上げたい。いくつか本出してたろ?」

「ふうん。」

「二つ目――――北辰会館のイベントの告知を、乃木出版が格安で請け負う。」

「そりゃあ、いいねえ。大会なんかを大々的に打ってもらえればこっちとしてもありがたい。」

「だろう。」

「で、条件は?」

「それはだな――――」

 

初見がにやりと笑ったところで、館長室に軽く。

木を叩く音が聞こえた。

ドアがノックされている。

 

「失礼します」

「失礼します」

 

同時に、二人の人間が部屋に入って来た。

盆を持つ若い空手着の女性と、その女に負けない美貌を持つ男だった。

黒く、艶めいた長い髪の毛に怪しく輝く唇。

切れ長の瞳と長いまつげ。

男らしからぬ怪しい色気を出すこの男の名は姫川勉。

松尾象山の懐刀にして北辰館ナンバー2の実力を持つ男である。

 

「お茶です」

「わるいね。ていうか君結構かわいくない?」

「へ?」

 

声をかけられた女性が、きょとんとした眼で泉を見た。

 

「ちょっと泉くん、何してんの」

「いやいや。松尾さんこそ何言ってんの。

俺はただ目の前の真実に対して持論を述べただけだぜ?」

「そういうのがやりたいならそういう女の子がいる店でしなさいよ」

「あ、もしかして松尾さんそういうのがやれる店行ったことあるの?」

「あっちゃだめかい君ィ」

「ダメじゃないけどね。

でも、そうかあ。それで出張する時もあんま人連れて歩かないんだ」

「独りが好きなの」

「あの…」

「ああ、すまないね。こいつセクハラオヤジだからさ。」

「ちょっと松尾さん、それないんじゃない?」

「私がきっちり言っておくから、君はもう出て行っていいよ」

「し、失礼します」

 

女性は少しおびえながら、太い男と泉の前に茶を置き、そそくさと館長室を後にした。

松尾象山は、ため息をつきながら泉の方を向いた。

 

「やっぱろくなことがないじゃん」

 

松尾象山が出された茶をすする。

同時に泉もそれをすすった。

 

「お邪魔でしたかね」

 

姫川が言った。

 

「いいや、むしろ来てくれてありがたいくらいさ」

「で、条件って?」

「そうだな――――それを話す前に、姫川。お前さんもちょっと座ってくれよ。」

「私も同席する、ということでしょうか。」

「そうだよ。」

「かしこまりました。」

 

そう言って、姫川は泉の対面のソファーに座った。

松尾象山は、いまだマホガニーの机の上に腰掛けたままだ。

 

「ま、単刀直入に言おうか。」

「はい」

「姫川。お前さんの持つ“離桜”と”淡水”。こいつを譲ってほしい。」

「―――――」

「んで、松尾さん。あんたにはこれを黙っていてほしい。」

「なるほどね」

 

姫川は何かを考えるように口を閉ざしている。

対照的に、松尾象山は朗らかに言った。

 

「私のとこに銭のメリットをくれる代わりに、こいつを私に黙っていろと。」

「悪くないだろ?」

「いいよ」

「さすが、太っ腹」

「そういうのは盛られた方が悪いもんだしねえ。

それに、そういうのがあった方が試合がやばくなって楽しそうだ」

「これで松尾象山のOKは取った。あんたはどうだい、姫川」

 

少し考え込む様子を見せた後、姫川は泉に言った。

 

「その前に一つ聞かせてください。」

「なんでも」

「―――――古見製薬と、宇田川ですか?」

「大正解。」

「なるほど―――情報源はどこかと思っていましたが、合点がいきました。」

 

すっきりとした顔で姫川が言った。

それもそのはずである。

この、”離桜”と”淡水”は格闘技”スクネ流”の秘伝。

その”スクネ流”の使い手たる姫川とその一族しか知らぬことであるはずなのだ。

 

「宇田川がうちのおやっさんにちらりと以前話していたらしくてね。

そこから古見製薬に聞いてみると、東製薬が当たったわけだ。」

 

スクネ流とは、結論から言えば天皇の御傍守として作られた宮中専門の格闘技である。

そしてこの流派、基本的には武器を使わない。

もちろん使えなくはないが、なぜ基本的に使わないかというと儀式や宮中行事のような重要な出来事の際でも働けるようにするためである。

基本的に祭事に武器を持ち込むことは厳禁であるが、暗殺を狙っている輩が天皇家から武器を奪って躍り出たり、隠し持った武器で襲い掛かることがないとは言い切れない。

そこで、武器を帯びられないような時でも天皇のために十分な働きができるようにと培われた技術体系である。

 

故に、基本的には素手。

だが、この御傍守というのはそれだけでは終わらない。

天皇を守るという仕事柄、毒見役も兼ねていたため、薬に対する知識とこれを操る術にたけていた。

それに加えて天皇家を仇なすものには先に仕掛けて殺してしまう――――要は暗殺も積極的に行っていたのだ。

素手専門で、薬に関する造詣が深い連中がどう暗殺するか。

容易に想像ができる。

『毒』だ。

”離桜”と”淡水”とはスクネ流の技名でもあり、そのまま『薬』の名前でもあるのだ。

 

「国内大手の製薬会社古見製薬と親しい乃木出版。

特に拳願会の派閥でも同じ乃木派とくれば、情報を仕入れるくらいわけないってこった。」

 

そしてこの御傍守が明治維新で天皇の元から離れ、『くすりのあづま』として会社を興した後、昭和に入って『東製薬』に名前を変えた。

この東製薬に婿入りした男、姫川源三の息子―――それがこの、姫川勉である。

故に、乃木と泉は姫川の元を訪れることに決めたのだった。

 

「あんたにも見返りはある。

もし譲ってくれるなら、ヤクザに追われているあんたの親父、源三を乃木出版が保護しよう。」

「――――」

「なんなら闘技者にしてもいい。おやっさんはそう言ってたぜ。」

「なるほど」

「ま、おれとしちゃどっちでもいいんだがね。やれることはやっておきたいっておやっさんがさ。」

 

来る煉獄との吸収合併をかけた対抗戦のために、拳願会での発言力を増しておきたい。

その相手として、地下闘技場のスターの一人である武神に勝つことは乃木出版として押さえておきたいポイントだった。

むろん、毒殺では意味がない。

殺さずに試合で勝てるような、毒。

殺すためではなく勝つための毒。

そういうものを欲しいがために、乃木は以前から松尾象山と交流のある泉を派遣したのだった。

 

「わかりました。そういうことならば”離桜”と”淡水”をお譲りしてもよろしいのですが―――」

「ですが?」

「しかし、それだけでは私自身にメリットがありません。」

「まあね」

「父は父として、感謝はしております。

ですから、この私からも一つお譲りするための条件を付けくわえさせてください。」

「なんだい」

「この私と試合をしていただく、というのはどうでしょう。」

「あー、やっぱり?」

「やっぱりです。」

「俺、対抗戦控えてるんだけど」

「はい、存じております。」

「だったら――――」

「ですので、練習試合ならばどうでしょう。」

「――――」

「お互いに本気ではなくけがをさせない。

急所にはいれない。そういう試合形式ならば、問題ないのではないでしょうか」

「お前さん、結構やる気だね」

「それはそうでしょう。」

「―――――――――」

「あの絶命トーナメントでベストエイトに輝いたレジェンドにして、五代目牙とまで目された男が目の間に居るのですから。」

「うーん」

 

苦笑いしながら明後日の方向を向く泉。

そんな泉に対して、姫川はくすりと笑いながら言った。

 

「そういえば…あなたはむらっけがかなりある選手と聞いております。」

「ああ、そうだな。こればかりはどうにもならねえ」

「だからでしょうか。」

「あ?」

「調子が悪いから私に拳を当てることができないと。

投げることができないと。そう考えておられるのでしょうか?」

「―――――」

 

初見の雰囲気が、変わった。

獅子だ。

軽薄な男の内側から、闘争を望む獣がガワを食い破って出てきた。

そういうふうに、姫川と松尾象山には感じられた。

 

「お前さん程度なら、今の調子でも問題ねえよ」

「うーん」

「―――――」

「とはいえ、ですよ。

調子の悪い時には格下相手にさえ苦戦するあなたが渋っていたのですから。」

「今はそんなに悪くねえさ。」

「―――――」

「繰り返しにはなるが、この調子なら問題ねえよ。お前さん程度ならな」

「本調子でなければ、おそらく当たらないと思いますが。」

「言うじゃねえか――――」

 

ゆらりと、歪んだ熱気を身にまといながら初見が立ち上がる。

それを見た象山哂って言った。

 

「決まりだな。じゃあ、今から下の道場に行こうか」

 

――――――――――――――――

 

「…マジか?」

 

道着姿に着替えた初見が言った。

肩で呼吸をしながら、同じく道着姿になった姫川を見ている。

姫川は構えもせず、ただそこにたたずんでいた。

初見は、獣が唸るような呼吸をしている。

 

「牙ですら、もうちょっと当たってくれるんだがな…」

 

顔面に届く。

そう確信して出した拳であった。

胴にぶち当たる。

そう思って出した蹴りであった。

そう言う攻撃がことごとく空を切っているのである。

これまでにも攻撃が空を切ったことは何度もあった。

しかし、それは肉体がその事情を呑み込んでいる。

相手がきっちりかわしていたからだ。

初見ほどの達人になると攻撃を外すことなどめったにあることではないが、相手も一流ならないわけではない。

だがその場合は眼や身体が相手の動きを追っているので理解はできる。

何が起こったかくらいは理解できるのだ。

だが、これは。

牙に龍弾を打ちまこれた時以上に不可解であった。

初見泉は今の状況を理解できていない。

何が起こったのか。

かわされる―――というよりは、当たらない。

この優男がギリギリで見切ったようにも見えるし、自分から外したようにも思える。

初見の人生で一番理解のできない空振りの連続であった。

 

「フウ―――――」

 

初見はゆっくりと呼吸を整える。

呼吸が正常なものに戻ってくる。

挑発されたとはいえ、手心を加えたのは事実であった。

当てるつもりではある。

当たってもケガにはならぬよう、自分もケガをせぬよう。

そう言った意味での手心は加えていた。

しかし――――

本気で当てにいっている。

 

「面白くなってきやがった。」

 

初見は笑った。

笑いながら、もう一度構えた。

自信に満ちた、本気の面構えだ。

 

「もう一度だ。」

「―――――」

「何したかわからねえが、そのすかした面が気に入らねえ。

次は当ててやる。」

「いやです」

 

だからこそ、姫川の言葉が理解できなかった。

 

「―――は?」

「いやです、と申し上げました。」

「いやいや待て待てって。ここまでやっといてそれはないんじゃねえのか?」

「『だから』です。」

「何?」

「本気になった初見泉に”淡水”は効きませんからね」

「まて、お前――――」

「淡水とはそういうものです。」

 

姫川がきっぱりと言った。

 

「地下と拳願会が対抗戦を行い、初見泉が訪れてくる。

そうなった時点でこうなることは予想できていました。」

「――――」

「故に、身をもって味わってもらうことでその効力を確かめてもらおうと思ったのです。」

「―――なるほどね。やり口は気に入らねえが。」

「申し訳ありません」

「あんまり申し訳ないと思ってねえだろ」

「はい」

 

ふう、と一つため息を吐いた後、泉は言った。

 

「終わった後で言うのもなんだが…ここには松尾さんもいるけど、いいのか?」

「問題ありません」

「私は以前くらってるからね。原理も説明してもらっている。」

「――――――」

「ええ。ですので、お譲りすることも含めてあなたには一度話しておきたいと思うのですが、よろしいでしょうか?」

「話してみな」

 

初見がポケットに手を突っ込んでいった。

 

「淡水というのはスクネ流の技の名前なのですが、それがそのまま毒薬の名前である、というのはもうご存じでしょうか」

「いや。毒薬ということだけしか知らねえし、効果もよくわかっていねえ」

「その淡水を、さっき泉さんが飲まれたお茶の中に入れておきました。」

「何――――?!」

「この淡水をのむと、人は短時間の間極めて暗示にかかりやすくなるのです。」

「姫川、てめえ、まさかさっきのは。」

「はい。暗示をかけさせていただきました。」

 

だからか。

初見は心の中で理解した。

妙な挑発をすると思ったぜ。

普通なら勝てないという所を当たらないというのはちょっと変わっているなと思っていたが、こういうことか。

勝てないではなく、『当たらない』。

より具体的な暗示をかけることにより、淡水の効果をより高める。

そのために、挑発をしていたのだこの男は。

だが―――

初見は顎に手を置きながら言った。

 

「それだけか?」

 

姫川が答えた。

 

「はい。それだけではありません」

「いくら暗示にかかりやすくなるっつっても、薬を飲ませてまで拳が当たらねえよってだけのものじゃねえだろ」

「はい。ですので二度目はお断りさせてもらっています。」

「―――――――」

「この淡水、薬の作用にプラスして相手の心の隙をつくことが重要だからです。」

「心の隙、ねえ」

「ええ。淡水を成功させるためには、実は三つの要素が必要になってくるのです。」

「三つ」

「今申し上げた薬の作用と心の隙、それに加えて使う側の体捌き。この三つです。」

「なんとなく、わかりかけてきたぜ」

「この淡水、まっとうな本気の勝負の折にはほとんど効果がありません。」

「―――」

「まず第一に、当たらないといったこちらの言葉を強く意識させる必要があるからです。

むきになってくれればいいのですが、聞き流される可能性もあります。

ですので、相手の集中力が高い本気の殺し合いの折などには効果が薄いと思います。」

「―――――」

「それにいくら暗示と言っても動かない対象物が相手では意味がありません。

例えば、この床などがその典型と言えます。

打つ方はゆっくり対象物を確認して拳を移動させればいいだけの話ですから。」

「そりゃ、そうだわな」

「ですので、これは催眠術に近いものと考えてもらえれば結構かと思います。」

「催眠術?」

「はい。例えばの話ですが、いくら催眠術をかけたところで一人の若い女性に駅前で服を脱げと言っても脱ぐでしょうか」

「普通は脱がねえよな。この俺でもホテルや路地裏がいい所だわ」

「それは催眠術ではなく話術でしょう」

「そう?」

「そうです」

 

はあ、と姫川はため息をつきながら言った。

 

「話を戻しますが、いくら催眠術をかけると言ってもそれはおのずと常識の範囲内での出来事になります。

身体を硬直させるなどは身体的作用に働きかければできますが、精神や常識を改変するといったことは難しいでしょう。」

 

姫川が口にした通り、催眠術をかけるにはその行為をおのずと相手の常識の範囲内に入れる必要がある。

例えば女性に服を脱がせるならまずは暑いね、と暗示をかける必要がある。

暑いのだから、上着を脱ぐことは自然である。

次に汗をかいたのだから、流そうかという。

汗をかき、風呂に入るのは当然。

だから風呂に入るために服を脱ぐのも当然―――このようにして常識を誘導するのである。

 

「淡水も同様です。」

「なるほどね」

「先ほど淡水を成功させるには、お互い本気でやらない。そのうえで私が構えないといった状況が必要でした。」

「――――」

「本気ではない練習試合。そのうえで、私が構えずに脱力している。

そういう人間を『レジェンド』である初見泉が打つ。

わずかかもわかりませんが、無意識のうちにどこかでためらいが生じます。

そのためらいこそが重要なのです。」

「――――」

「そういう心の動きと薬と当たらないといった言葉。これらが増幅して、無意識のうちに拳を外そうとしてしまう。」

「――――」

「あとは受ける側がギリギリのタイミングで外せばよいのです。」

「そういうことか」

「はい。私が二度目をお断りしたのはこの心の隙が無くなるからです。

本気の初見泉が相手ではね」

「本気の松尾象山よりはましだろ?」

「かもしれません。しかし、危険なことに変わりはありませんから。」

「けっ」

 

吐き捨てるように言う初見に対し、松尾象山が正座しながら言った。

 

「しかしこれじゃあ不満が残らねえかい、初見くんよ」

「まあ、そりゃあ」

「そこでだ。薬の効果ももう薄いだろうし、いっちょここから試合をやるってのはどうかな?」

「へえ」

 

初見が目を光らせた。

 

「そいつは願ってもないが」

「条件はさっきと同じ。怪我せずに帰れば乃木さんだって納得するでしょ」

「ああ。」

「姫川、お前はどうでえ?」

「――――」

「姫川、こいつはいい女が股濡らして誘ってんのと同じだぜぇ。

はやくはやくって言ってんのにそいつを断るってのはよぅ」

「そういうことならば、仕方ありませんね」

 

姫川が、初見の方を向きながら言った。

 

「到底美女には思えませんが、お相手致します。」

「助かるぜ、松尾さん。理想的な展開だ。」

「何。私も以前姫川に似たようなことをされたからね。意趣返しさ。」

「やらなきゃよかったかな…」

 

ぼそりとつぶやきながら、姫川が一歩下がった。

刹那。

一瞬前まで姫川が居た位置を、黒い鎌が横薙ぎに抜けていった。

初見だ。

初見のミドルキックが空を切ったのである。

それと同時に、ふっと。

姫川が動いた。

上体と共に拳を前に突き出そうとしている。

右の拳で初見の顔面を打とうとしている。

打とうとしているが、実際にはそうしなかった。

フェイントである。

初見はそれがわかっているから反応しない。

本命は、脚だ。

右の前蹴りが初見の腹を狙っている。

初見が下がる。

そこで、姫川の脚が伸びた。

前蹴りのためにたたんでいた右の膝が円を描くようにして初見の頭部に襲い掛かったのだ。

それを見て初見は感心した。

通常このようなフェイントは回し蹴りのような、ミドルキックから変化する。

ここから脚を上に上げるか下げるかでハイかローに変るのである。

途中から軌道変化するので受けにくい技であるが、それを姫川は前蹴りで行ったのである。

 

(芸術的(アーティスティック)っていうのかね、こういうの。たまらんぜ。)

 

これはかわせず、左腕で受ける。

同時に、初見が右の脚で蹴りにいく。

どういう格闘技にもない蹴りであるが、そうであるがゆえにほとんど予備動作がなかった。

脚を上げると同時に蹴りに行っている。

狙いは左の軸足、関節。

当たる――――初見がそう感じた時には、もうそこに姫川の脚はなかった。

どこに。

速。

瞬間、本能的に初見は右のガードを上げた。

こめかみまで覆った、その瞬間に何かが爆裂したかのごとき衝撃が、初見の右腕を襲った。

姫川だ。

姫川が自身の右脚を着地させる前に、左足でハイキックを見舞っていたのだ。

しかも、それだけでは終わらなかった。

なんと姫川は、右脚を着地させるどころかその足でもう一発顔面にけりこんできたのだった。

たまらず両腕でブロックするが、吹き飛ばされる初見。

 

(マジかよ…空中で足のワンツースリーって…!!!)

 

しっかり足から着地したものの、その時には既に姫川も両足で立っていた。

芸術だ。

一も二もなく、初見はそう思った。

こういう美麗な男が顔に負けぬ、いやそれ以上に華麗な技を次々と放ち、しかもその威力も一流である。

ぞくぞくしてくる。

自分が画家であるなら、この一面を切り抜いて書き抜きたい。

女であるならば抱き着いてキスしたい。

そう思わせるほどの男であった。

 

そして、同じことを姫川も考えていた。

今出した技の数々、並の人間であれば既に終わっている。

それらすべてを初見で見切った上に、不意打ちに近い空中三段蹴りもしっかり防いできた。

この男は強い。

丹波よりも、

長田よりも、

藤巻よりも。

もしかしたらあの磯村露風よりも。

正確なほどはわからないが、少なくとも今の時点で底が見えないという点においてはあの男と共通していた。

底が見たい。

そう思った姫川は、初めて自分から近づいた。

 

「私の番ですかね」

「かもな」

 

じり、と姫川が近づき。

じり、と初見が下がる。

 

「ずるい…」

「野郎に言われても嬉しかねえな」

 

そうはいったものの、姫川の顔には微笑みが浮かんでいた。

素晴らしい技術だ。

そう思っているからである。

姫川が間合いに入ろうとする。

その一瞬前に初見がほんの少し下がる。

それだけのことであるが、姫川は手を出しあぐねていた。

初見が姫川のリーチギリギリの範囲を常に保っているからである。

無理に行けば、その瞬間逆に間合いを詰められカウンターをもらうかもしれない。

かといってゆっくり行けば、このように手を出せない状況を作る。

手を出すことなく、こちらの動きの大部分を封じてくる。

 

「とはいえ、このままじゃあ埒が明かねえな」

 

すっと、初見が手を下ろし構えを解いた。

そして、下がることもやめた。

一緒に姫川も止まる。

 

「それでは?」

「やっぱまだ俺の番ってことで」

「ずるい…」

「大人はずるいからね」

 

そして、ゆっくりと初見が歩きだした。

まるで散歩でもするように、普通に姫川に向って歩みを進めたのだ。

対する姫川は、下がらなかった。

下がらないまま。

 

「ヒュッ」

 

右の脚で蹴りこむ――――そういうモーションを見せた。

初見はどういう動きもしない。

ほんの少し、顔を後ろにそらしただけだった。

そこを、真下から。

ごう、という空気を割く音と共に何かがつきあがって来た。

左脚である。

右でのフェイントをかけた後、下から突き上げるように姫川が左足をけり出したのである。

これは読めていた。

そう思い、伸び切った足に手をかけようとした瞬間。

強烈な悪寒が初見の全身を襲った。

道場には自分も含めて三人しかいない。

にもかかわらず、いるのだ。

後ろから黒いローブをかぶった死神が、その鋭い鎌を自分の顎にひっかけている。

むろん、幻覚である。

実際に初見の背後に誰かいるわけではない。

しかし、強烈な死の予感というものがそのようなイメージを初見の脳内に映させていた。

ガードを――――

とっさに右腕を胸のあたりで構えた。

そして、それは正解であった。

先ほどの左足以上の速さで跳ね上がって来た右脚が、初見の腕に直撃していた。

ものすごい衝撃だ。

人間の脚というよりは、まるで革製の鞭。

異様にしなるこの脚が、もし顎に直撃していたならたやすく意識を刈り取られていただろう。

そう思った刹那―――――初見の頭頂部にハンマーが叩き込まれた。

 

(何

まさか

脚

凄

これ

虎――――)

 

脚だ。

蹴りあがった姫川の左足が、上から降りかかって来たのだ。

それはさながら虎の顎が、獲物に食らいつくかの如く。

虎の牙になぞらえた両の脚が、頭部を挟み撃つ―――――

虎王と呼ばれるものであった。

この神がかり的な技を見た後、松尾象山は笑った。

なぜか。

そのまま地面にたたきつけられるはずの初見が、立っていたからである。

たたらを踏んで、後ろに下がった。

頭部から血も流している。

息も荒い。

しかし、それだけであった。

 

「ひゅーっ…あぶねえあぶねえ。」

 

ダメージを受けてよろめいているだとか。

苦しんでいるだとか。

そういうのは一切ない。

呼吸も、この一瞬で整っている。

 

「当たる直前に脱力し、頭部を自ら下に向けることにより衝撃を受け流したというわけですか。」

「ああ。」

「素晴らしい。」

「だろ?」

「楽しくなってきました」

「ああ。だけどよ、そろそろ『決め』だ。」

「―――――」

「お前さんには悪いが、おれは男と長々遊ぶ趣味はないもんでね。

そろそろ終わらせてもらうぜ。」

 

その瞬間、初見が前に出た。

一直線である。

フェイントも何もない。

ただ突っ込んできて当てる。

拳でもいい。

脚でもいい。

掴みでもいい。

そういう踏み込みであった。

そうであるがゆえに、姫川も迂闊にフェイントを出すことができない。

ロー――――×

ボディ――――×

ハイ―――――

フック――――×

正拳―――――

投げ―――――×

次々と脳内に現れる選択肢を潰していった結果、姫川がとった選択肢は。

 

「シッ」

 

顔面への正拳突き。

これであった。

渾身の右の拳が初見の顔面に放たれ、めりこんだ拳によって初見の頭部が後方にはねる――――

 

「!?」

(と思ったろ?ならねえんだなこれが。)

 

はずであった。

姫川には初見の頭が吹っ飛ぶのが見えた。

にも拘わらず、初見は拳の真横で陣取っており、完全にフリーの体勢を得ている。

極限のラインですか―――

姫川はそう思った。

誰もが死を確信するぎりぎりの間合いで回避せしめることにより、相手の意表を突く。

ミリ単位の見切りができなければ不可能な達人の技である。

初見の左ボディ。

とっさに左腕を下げ、右の拳を戻しガードをする。

だが、来ない。

来るはずの衝撃が来ない。

これは、まさか。

 

「バーカ」

 

気づいた時にはもう遅かった。

右腕が、初見の左手に掴まれている。

まずい。

このままでは。

攻撃を―――

右ハイ。

考えたわけではない。

とっさに出た攻撃であった。

左腕の外側。

死角に当たる部分から脚を伸ばして反撃を―――。

そういう心づもりでうった。

少なくとも、姫川はそう感じて撃とうとした。

 

「ッッッ!!!???」

 

しかし、うてなかった。

自分の身体が宙に浮いていたからだ。

脚を上げるのと同時に――――いや、最初から狙っていたのだろう。

あそこでハイキックを選択するのを完全に読んでいたこの男は、蹴らせておいてその軸足を狩りにきていたのだ。

軸足を払われると同時に、右腕が投げ捨てられるように放られ自分の身体が完全に宙に舞っている。

着地しようにも、勢いをつけて投げられているので体勢が変えられない――――!!

ダメ押しに、さかさまになったところで顎に手が添えられた。

 

(掌の上――――というわけですか)

 

ずん。

そういう音と共に、道場が揺れた。

姫川の身体が、頭から道場の床に落ちる。

 

「やるじゃねえか。受け身とりやがった。」

 

とっさに受け身は取れた。

受け身と言っても、頭と地面の間に手を挟むだけである。

だが、頭部が地面に落ちた果物のようにはじけることだけは防ぐことができた。

 

「初見流合気道『百会投げ』

ま、そうなるように投げたから当然だけどな。」

 

姫川の視界がどろどろに歪む。

初見も。

松尾象山も。

床も。

天井も。

直線のものは何もない。

全てがぐにゃぐにゃに歪んで廻っている。

 

「~~~~~~~~~~~~~ッッッ」

「だから言ったろ?お前さん程度なら今でも十分だってな。」

 

受け身を取ったにも関わらずこのざまだ。

本気で投げられていたなら―――――

ぶるぶると震える手を床につき立ち上がろうとするが、顔面が床とぶつかった。

それを見た松尾象山は、また笑った。

笑って、右手を上げた。

 

「それまで。」

「ふう。ありがとよ、姫川。おかげで、調子を上げることができそうだ。」

「今の調子はどんなもんだい?」

「80%くらいってとこかな」

「いいねえ。これは、対抗戦で本気の初見泉を期待していいのかな?」

「任せときな。この分なら、対抗戦には絶好調で持って行けるからよ――――」

 




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