阿修羅の牙   作:ダブルM

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第十六話 獰

一人の男が、バーのカウンターでウィスキーを飲んでいた。

ライフロイグの18年もの。

スコッチ。

シングルモルト。

そのスモーキーな香りが男の周囲を包んでいる。

氷を浮かせたグラスが、男の手で持ち上がるたびにからんと音を立てる。

グラスを拭くバーテンダーの後ろには古今東西の酒瓶が並んでおり、それが室内のほの暗い灯りに照らされ、星のようにきらめいていた。

 

「…なんでや」

 

グラスを持った男が、一口飲んだ後そうつぶやいた。

ガタイのいい。

いや、ガタイの良すぎる男であった。

白いTシャツがぱんぱんに膨らんだ筋肉で張り詰めている。

そでからエッジの浮かんだ極太の腕が出ており、相当に鍛えていることがうかがえた。

履いているジーンズからもまた、太ももの肉がみっちり詰まっていることがわかる。

男の名は大久保直也。

絶命トーナメント参加者であり、総合格闘技『アルティメットファイト』の王者。

表でも裏でも名の通った実力者である。

 

「なんで俺はこんなとこで野郎相手に酒飲んで愚痴こぼしとるんや…」

 

その大久保が、丸刈りに剃った頭を抱えながら言った。

 

「そりゃ、お前がお持ち帰りミスったからだろ?」

 

眼の前のバーテンダーが、カウンター越しにあきれたように答える。

肌を浅黒く焼き、短い髪を金髪に染めた青年であった。

整った顔立ちに、程よく鍛えられ無駄のない肉体。

モデルと言われてもおかしくないほどに、見栄えのする男だ。

男の名は氷室涼。

表の仕事はバーテンダー。

裏では闘技者を務める色男。

さっぱりした性格で、誰とでも男女問わず誰とでも付き合える明るさを有しているため交友関係も広い。

特にうなだれているこの大久保とはトーナメント以来意気投合しており、こうしてたまに大久保が店に飲みに来ることもある。

ライバルでもあり友人でもある関係。

だから、そういう男がしょうもない理由で酒を飲んでいても慰める事は無い。

ただ、軽口を叩くだけだ。

 

「いきなり連絡先教えてとか、ちょっと早まった感あるんじゃねえの?」

「いや、お前のせいや」

「は?」

「だって、あれやん。今回の女の子お前が集めたんやろ?」

「まあ」

「だったら、お前狙いやんけ。違うやつは克己んとこ行ってたし」

「知らねーよ。もともとはお前がしたいって言うから組んだんじゃねえか」

「お前がお持ち帰りせんかったら俺も今頃…」

「いつまで言ってんだよ…」

「はあ…今はこの酒だけが俺の癒しや。」

「まあここで一番高いやつだからな。癒されて当然だろう。」

「は?」

「だってお前、なんかいい酒くれって言ったじゃねえか」

「アホか!!誰も一番高い酒くれとは言うとらんやろうが!!!」

「癒されたろ?」

「お前から一番高いって聞くまではな…」

 

再び頭を抱えながら下を向く大久保。

ため息をつきながら、氷室は再びグラスを拭きながら大久保に言った。

 

「そういや聞いたか、あの話?」

「ん?」

「対抗戦だよ。地下との」

「ああ…俺んとこにも打診来たわ。」

「まじ?」

「マジ。断ったけどな。表の試合と日程が被っとって…」

「ふうん」

「お前んとこは?」

「俺は絶命トーナメントに参加してないからな。

打診は来なかったよ。」

「ほーん。まあそれはしゃあないな」

「出たくないわけじゃないんだが、メンツを聞いちまうとな」

「ほう?」

「阿古谷、今井コスモ、関林、ガオラン、初見…今決まってるだけでもこんだけのメンツだ。つい最近、若槻の相手も決まったって話だ。」

「勝ちに行くメンツやな…でも、あれか?やっぱメンツ決める基準はトーナメントの順位って感じかいな?」

「それも一つらしいぜ。後は参加者同士の因縁が――――」

 

氷室が言いかけた時、五人の男が入って来た。

どいつもみんな若く、大きく。

そして眼に力が入っていた。

 

「氷室、居るか?」

 

そのうちの一人がそう言った。

 

「俺だけど?」

 

男が親指で店の外を指さした。

 

「ちょいと面かしな」

 

そういって男たちは、氷室の返事を待たずに出て行った。

氷室はそれを聞いても顔色一つ変えず、丁寧にグラスを拭いていた。

 

「なんや、面白そうなことになってるやん。」

 

大久保が、笑いながら言った。

 

「まあね。」

「なんやあれか?あいつらの女ともめたんか?」

「ちげーよ。ありゃこの辺りを縄張りにしてる反ぐれさ。」

「ふん?」

「ショバ代を払えってうるさくってな。

むろん、払う理由なんて何一つないしマスターはそういうのが嫌いだから払わなくていいって言うんでね。」

「なるほどなあ。ほんであれか?払わんかったら嫌がらせするぞー、的な?」

「そう。で、こないだ店ん中で騒ぎ立てるからよ。『丁重に』お帰りいただいたってわけ。」

「あーーー。そら呼び出し食らうわ。」

「そういうわけなんで、ちょっくら行ってくるわ。

お前も来いよ。」

 

グラスを拭き終えた氷室が大久保に向って言った。

 

「イヤや言うても行くわ。こんなおもろそうなことほっとけるかい」

「お前は暴れんなよ?万一スキャンダルでも食らったら面倒だ。」

「わかっとるわかっとる。俺はただ目の前で起きる喧嘩を『たまたま』みかけた一般人いうことにしとくから。」

「わかってんじゃねえか」

 

キャップを深めにかぶりながら席を立つ大久保。

氷室の背中をばんと叩きながら外に出た。

 

 

氷室が外に出ると五人の男達が待っていた。

辺りは店の明かり以外に光と呼べるものがほとんどなく、男達の顔ははっきりとわからない。

しかし、それはこちらも同じであった。

大久保がわざとらしくキャップを深めにかぶって遠目から見ているが、ばれている様子はない。

 

「こっちにこいや」

 

男の一人が顎をしゃくりながら歩いて行った。

 

「へえ、いいとこ知ってんじゃん。」

 

氷室が笑いながら言った。

ここはビルとビルの間の路地。

人の気配はこの路地にない。

一人の男がポケットから銀色に光る、長いものを出した。

がちゃりがちゃり、という音が路地に響く。

アーミーナイフである。

刃渡りも30センチくらいはあるだろう。

同時に、後ろの男達もバットや鉄パイプ、メリケンサックなど各々の武器を取り出してきた。

 

「おい。なんのことかわかってんだろうな?」

 

それに対して、氷室は何も言わなかった。

ただ、口元をゆがめて笑った。

笑いながら、散歩でもするように歩いて。

 

「――――――」

 

男の眼の前に立った。

男は虚を突かれたように、眼を丸くした。

それと同時に、こめかみと額に血管が浮き出てくる。

 

「野郎ッッッ!!!!!!」

 

男はいきなりナイフを突き出してきた。

遠慮はしていない。

本当に殺すつもりでついている、そういう動きであった。

氷室はそこから動かない。

男のナイフを避けようともしない。

ただ、左の腕がぶれた。

男にはそういうふうに見えた。

何をされたのかはまったくわからなかった。

ただ、男は意識を手放し膝から崩れ落ちた。

そして膝立ちになったあと、顔から地面に倒れて動かなくなった。

大久保はそれを氷室の後ろから見ながら、にやりと笑った。

 

「「「「!?」」」」

 

男達が動揺する。

氷室は止まらなかった。

動きを止めずに、もう一人の男の顔面に拳を打ち込む。

これも男には見えない。

それもそのはずである。

氷室涼、25歳。

その格闘スタイル、『ジークンドー』。

最速最短を突く崩拳が可能にするハンドスピードを、驚異的な身体能力を持つ氷室が行えばそれは閃光となる。

最速と言われるミドル級のボクサーのハンドスピードが平均10m/秒なのに対し。

この男の崩拳のハンドスピード、実に平均15m/秒。

闘技者の中でも上位を誇るこのスピードを、チンピラ崩れに見切れるはずもなく。

見えないまま顔面が跳ね上がり、ビルの壁面に頭をぶつけて気を失った。

 

そのまま、返す拳で隣にいる男の側頭部に右脚を叩きこむ。

男はうめき声も立てずことりと地面に倒れた。

 

あとずさりするもう一人には右のリードブローを顎にお見舞いし。

意識を失ったそいつは、糸が切れた操り人形の如く倒れ伏す。

残った一人も逃げようとしたが、

 

「よっ」

「おげっ」

 

背後から股間を蹴り上げられ、悶絶。

 

「あがっ、あががが」

 

急所を押さえながらその場でのたうち回って、ついに動かなくなった。

ナイフの刃が見えてから5秒も立っていなかった。

 

「こんなもんかな」

「ほー、やるやんけ」

「だろ?なんかあったら正当防衛ってことで頼むわ。」

 

そう言って、大久保と路地から出ようとすると、出口をふさぐように立つ一つの影があった。

小さい。

160にすら満たないであろう、小柄な男であった。

身体はベージュのコートでおおわれているが、その小さく細い顔と首同様、腕も足も細く、小さいと思われる。

その顔には深く、年輪のように皺が刻まれている。

高齢の、小柄な老人。

それが、氷室と大久保の男に対する第一印象であった。

 

「―――なんだい、見てたのかいじいさん。」

「うん。通りかかったときにチョっとね。」

「なら、見てた通りだぜ。こっちは素手、向こうは武器ありで複数人。

どっからどう見ても正当防衛ってやつだ。」

「よく言うぜ、あんちゃん」

 

くすりと、老人が笑った。

 

「下手な武器なんかよりもよっぽど危険な身体と拳持っといてよォ。

正当防衛騙るってのは、ちょっと無理があるんじゃねえのかい?」

「―――――」

「ま、通報はしないから安心なさい。いいもん見せてもらった礼ってことじゃな。」

「――――じいさん、なんかやってるね?」

 

氷室が、汗をかきながら言った。

運動によるものではない。

この、成人男性どころか子供か女性ほどの身の丈しかない老人。

にも拘わらず、氷室の脳裏にはこの老人と巨大な虎が被って見えていた。

その獣が、凶悪な爪と牙をむいてこちらを見ているのだ。

自然と、氷室の口に強烈な笑みが浮かび、白い歯が見えてくる。

 

「あ、わかる?」

「それも、相当やってるね?」

「まあまあ、やっとるかもね。」

「それとさ…なんだかわかんねーけど、じいさん。

あんた、俺になんかしかけてるよな?」

「バレちゃった?」

「そらそうやろ――――というか、趣味悪いで『達人』」

 

後ろから見ていた大久保が、呆れながら言った。

 

「いくら暇やから言うても、あんたほどの男が喧嘩自慢相手に腕試しに行くんは感心せんで。『渋川剛気』センセ。」

 

老人―――渋川剛気は、そういわれてにやりと口元を歪ませた。

 

「バカ言っちゃいけねえぜ、ボウヤ。」

「―――――」

「こんないい火種を見つけたんだ。

このまま燃やさずに黙って帰るわけにはいかねェだろう。」

「――――らしいで、氷室?」

 

大久保がそう言い切る前に、氷室が構えていた。

右手右足前の、氷室のいつもの構えだ。

 

「光栄だ。」

「―――――」

「あの伝説の『最大トーナメント』のベスト4。」

「―――――」

「達人とやれるってんなら、逃す理由はねぇ。」

「―――――」

 

達人は答えなかった。

こたえないまま、少しだけ腰を落とした。

 

「いいのかい…」

 

氷室が、かすれた声で言った。

 

「いいぜ…」

 

渋川が答える。

それっきり、二人は黙った。

2人の唇が動かなくなる。

大久保も、静かにそれを見ている。

 

「シャアッ!!!!!!!」

 

いきなり、突っかけた。

氷室が気合いと共に、右の崩拳を渋川の顔面に放った。

当たればよし。

当たらなくてもよし。

次の連携につないで休ませない。

そういう心づもりで撃った拳であった。

だからだろう。

 

「!?」

 

眼の前の空間から突如として人間が消えた。

その事態に頭がついていかず、拳が空を切る。

 

「ほ」

 

わずかに聞こえた声。

背後から。

いつ。

何故。

そう言った考えが脳裏に浮かぶ。

浮かぶのと同時に、振り向いた。

振り向きながら、拳を振るった。

左のバックブロー。

鋭利な刃物を思わせるその鋭さは、描いた軌跡がきらめいているようにさえ見える。

 

「つ~~~かま~~~~えたッ♡」

 

だが、その腕が達人に届くことはなかった。

左手首が、渋川の左手にとらえられている。

 

「アカンッ!!!!離れろッッ!!!」

 

大久保が叫ぶ。

言われる前に振りほどこうとする氷室。

だが、遅かった。

 

「ほいなッ」

 

地面が、起き上がった。

起き上がってきて、そのまま氷室の顔面にぶつかった。

現実にあり得ることではない。

あり得ることではないが、少なくとも氷室にはそうとしか感じられなかった。

あまりにも鮮やかに投げられたせいで、重力とかそういったものを一切感じないのだ。

じくじくとした痛みが自分の顔面のあらゆるところからにじみ出てきている。

だが、まだ負けてはいない。

鼻血は止まらないが、戦闘不能というほどではない。

そう思って地面に手をつき、立ち上がった。

 

「~~~~~~~~~~~~~~ッッッ」

「あちゃ~~~~~~」

 

否。

立ち上がろうとして、しりもちをついた。

大久保が、頭を手で押さえながら天を仰いでいる。

しかし、氷室の眼にそんなものは映らない。

曲線だ。

あらゆるものがねじ曲がり、柔かくなっている。

コンクリも。

大久保も、

ゴミ箱も、

達人も、

どれも。

脳への衝撃で視界に映るすべてがドロドロに歪み切り、まともに見えているものは何一つなかった。

――――なんだ、これは。

あっけにとられているところに、渋川が近づいた。

軽く、散歩でもするようにゆっくりと歩いて行った。

 

「ドロドロかな、兄ちゃん。」

 

歪み切った渋川が、白く裏返った眼で言った。

 

「こっからはえれえことになるぜ…」

「ッッッ!ラアッ!!!!」

 

歪む視界のまま、無理やり立ち上がり右の拳を振るう。

蹴りはできなかった。

震える視界のまま平衡感覚を保ちながら、攻撃するにはこれしかない。

 

「ハハ…」

 

だが、これこそが達人の狙いであった。

達人の身体が自分の右拳をすり抜けて、その外側に居る。

腕を取られていた。

触られた感触すらない。

いつ掴まれていたのかもわからなかった。

その後、何が起こったのかもわからなかった。

わからないから自分に加えられてくる力に抵抗する術がない。

 

―――――蹴り、だったと思う。

 

後日、金田に氷室はそう言った。

それはまさしく的中していた。

渋川は、氷室の右ひざの後ろを斜め横から蹴ったのだ。

ひっかけるように、踵で。

右ひざが曲がり、身体が前に泳ぐ。

というより、泳がされた。

そして、そのまま胸から地面にたたき落とされた。

 

「グブッッ」

 

腹ばいにされ、氷室の口から血が噴き出る。

右腕が一本の柱のようになって上に持ち上げられている。

右肩―――右腕の付け根に渋川の左ひざが乗っているのだ。

完全に右腕を極められていた。

靭帯がぎりぎりまでのばされている。

一体どういう技をかけられてこうなったのか。

氷室にはわからなかった。

ただ、右腕の中から異様な音がした。

分厚い布を一息でひきちぎるような。

ばりっとも。

びりっとも。

ぶちぶちっとも聞こえた。

 

「~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッッ!!!!!!」

 

渋川が、氷室の右腕を一気に折ってのけたのだった。

 

「ほいッ」

 

達人はそのまま立ち上がり、氷室の後頭部に足刀を叩き込んだ。

氷室はそれっきり、動かなくなった。

大久保がそれを確認し、氷室に近寄る。

渋川は、何もしない。

 

「あ~~~~~、こらあかんわ。腕折れとるし、かんぜんに伸びてもうとるわ」

「――――」

「ええもん見せてもろたわ。」

「そりゃ、よかったわい。」

「ほな、達人ははよ行き。俺が救急車呼んどくさかい」

「いや、ワシが呼んどくわい。やったんワシじゃし」

「そんなもんか?律儀やなあ」

 

そういって、渋川は懐から携帯を取り出した。

シンプルな、電話だけかけられるタイプのものだ。

 

「あーーー、救急車?今新宿の路地裏で~~~」

『―――――』

「うん、そう。場所は、そう。」

『―――――』

「人数は―――二人。金髪の男前と、坊主のでっかいのが倒れとるんじゃよ」

「…なんやて?」

「だから、そういうことじゃよ」

 

携帯の電源を切りながら、渋川が振り返った。

 

「おめえさんともやろうって意味以外、あるわきゃねえだろうが」

「ほ~~~~。おもろいこと言うじっちゃんやなあ~~~~」

 

大久保が、キャップを後ろに放り投げて構えた。

 

「そういう挑発は、乗らんとあかんよなあ」

 

手を下に構えた、総合の構えだ。

掴むこともできるし、投げることもできるし、殴ることもできる。

そういう構えである。

ここで、達人も構えた。

左脚だけを前に、身体は正面を向き。

両拳を握り腕を下に出している。

 

(とはいえ、どないするかな…)

 

臨戦態勢ではあるものの、大久保はプランを決めかねていた。

自分の方がはるかに大きく、リーチもある。

そういう意味で打撃で行こうかと最初は考えたが、即座にこのプランを脳内で却下した。

 

(ジークンドーやっとる氷室でさえあれや。

俺が打撃戦しかけても、ええ感じにはならんやろうな)

 

ならば。

組み付いて投げる。

寝技になる前に、コンクリの地面にたたきつけて終らせる。

 

(そこにフェイントやらなんやらを入れて―――決まりやな)

 

じりと、渋川が姿勢を崩さずにじり寄った

大久保も、それに合わせて下がる。

 

「どうしたい、兄ちゃん。」

 

渋川が、口元を歪ませながら言った。

 

「いやー、達人相手はかなわんなあ。」

 

大久保は、わざとらしく返した。

だが、口元には怪しい笑みが漂っている。

 

「かなわんけど…」

 

下がりながら、ちらりと横を確認する。

確認して、もう一度笑った。

 

「これはどうやッッッ!!!」

 

咆哮。

それと達人の視界に青い何かが膨らんできたのは同時であった。

身体ではない。

ゴミ箱だ。

路地裏にある、生ごみがため込まれたゴミ箱を渋川に向けて蹴り飛ばしたのだ。

生臭いにおいと共に、箱の中身が飛び散る。

ぶつかるだろう。

そう感じた瞬間、大久保は前にでた。

 

「頂きッッッ!!!」

 

ゴミ箱もろとも組み付こうとする。

リーチの長い大久保ならば十分その裏に居る達人ごと抱え込める。

そう思い、組み付いた。

 

―――――――!?

 

組み付いた、はずであった。

だが、自分の腕の中にあるのは空気だけだ。

ゴミ箱は、路地の入口付近で音を立てて地面に落ちた。

どこに。

右、ではない。

左、でもない。

下。

下か。

達人がその小柄な体を更に小さくし、大久保の視線の遥か下。

まさに足元にいた。

その身を伏せ、道に出っ張る岩のように大久保の脚を体で払う。

 

「うおッッ」

 

勢いがついている、故にかわせず。

前のめりにつんのめった。

しかし、さすが総合王者というべきだろうか。

つんのめりはしたが、なんとかバランスを保つ。

保って上体を起こそうとしたとき脊髄に衝撃が奔った。

 

「ガッッッ!!!!????」

 

背骨。

その中心部から神経が鋭い痛みを訴えている。

振り向かずともわかった。

一本拳だ。

拳からはみ出すように立てられた中指で、背後を突かれたのである。

意図しないうちに背筋が伸びる。

 

「ほれ」

 

そこで、左手を掴まれた。

同時に、己の両足が地面から離れる。

離れて、そのまま壁に向って顔から自分の身体が飛んで行った。

このままでは―――

とっさに手の平を顔にかぶせるように置いた。

 

「ッッッッッ!!!!」

「ほう、受け身とりよったか。」

 

受け身と呼べるようなものではない。

しかし、かろうじて顔面から壁にたたきつけられることは避けた。

 

「さすがやなあ、達人」

 

大久保が、振り向きながら言った。

唇から血が一滴流れた後、微笑が浮かぶ。

薄刃の刃物に似た、触れれば切れそうな笑みであった。

自分が今までやってきたレスリングなどとは違う。

関節というより、人体の反射につけこむような技だ。

 

――――おもろいやんけ。

 

大久保はそう思った

いいだろう。

この男を試してやろう。

自分はそういうつもりで達人の喧嘩を買ったのだ。

腹を決めた途端、怖い色の光が大久保の眼に宿った。

自分から行く。

そうと決めた瞬間、大久保の身体が動いていた。

打撃。

下から突き上げるアッパーだ。

達人はどういう動きも見せない。

ただ、じっと大久保の事を見ている。

そして、そのアッパーが当たる直前。

大久保が大きく身をかがませた。

打撃から、瞬時にタックルに切り替えたのだ。

 

打→掴。

 

これこそが大久保の真骨頂。

総合格闘技とは文字通りあらゆる攻撃手段を持つ格闘術。

打撃。

掴。

投。

絞。

すなわち、その攻撃は変幻自在。

単独の技術で及ばないなら、複合で挑む。

打撃を警戒した渋川に、組み付いていく。

瞬間的な切り替えを行い、相手の反応の間に合わないうちに決める。

 

(今度は、かわせんやろッッ!?)

 

フェイントを入れたところで、大久保が狙いに言ったのは足。

達人の脚を、片足タックルで取りに行ったのだ。

今度は、自分が地面を這うようにしているので先ほどのような体当たりは食らわない。

そう思い、そのまま足をつかんだ時。

 

「!!!????」

 

大久保の身体が後ろに吹っ飛ばされた。

何が起こっているのか理解できなかった。

理解できないまま、コンクリートの壁面に体を思いっきり打ち付けていた。

 

「ホッホーッ♡よ~~~~く飛んだのう」

 

この場に本部以蔵が居れば、こう言っただろう。

あれこそがまさしく、本物の合気であると。

理屈は単純だ。

危害を加えてくる相手に対し、己の力を加えて相手に返す。

それは大久保も、今理解(わか)った。

何をされたのかということはわかった。

しかし。

こんな。

こんな技術があり得るのか。

こんなほれぼれするような、恐ろしい技術があるのか。

 

(か、完全やないか…)

 

どろどろに回る視界と、震える身体を起こし走り出す。

打 即――――

 

「ほいッ」

 

これも、吹っ飛ばされた。

立ち上がる。

襟をつかむ―――ふりをして、離れる。

離れたところから、ロー。

 

掴 離 打

 

「いかんなあ」

 

速くはない。

達人の動きは早くはないはずであった。

しかし、気付いた時には達人は己の伸び切った膝に手刀を合わせている。

完全なタイミングだ。

膝があり得ない方向に曲がる。

 

(折―――――――――――)

 

そう感じたと同時に、大久保は己の身体が渋川を軸に回り始めているのがわかった。

 

――――達人に、投げられている。

 

大久保の、この日の記憶はここで途切れた。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――

 

渋川は、大久保が完全に白目を剥いたのを確認する。

息はしている。

しかし、意識はない。目の前で手を振っても反応はない。

それを見た達人は―――

 

「じゃ…逃げよッ」

 

―――走り出した。

一目散に、路地裏から。

闘争が始まれば、即座に現場から脱出(エスケープ)。

誰恥じることのない、法治国家『日本』での喧嘩術である。

 

「こんなことしてたら捕まっちまうぜ。

対抗戦の前だってのによ…。」

 

 

――――――――――――対抗戦第六試合。

渋川剛気VS若槻武士。

決定。

 




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