阿修羅の牙   作:ダブルM

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第四話 拳

二人の男がいた。

場所は、タイの首都・バンコクにあるホテルの最上階。

広いレストランの中心部の席で、何やら高級そうな酒と料理が机の上にところ狭しと並んでいる。

窓からは、近年目覚ましい発展を遂げるバンコクの明かりがこれでもかというほどきらめいている。

 

「スマナイね…急に呼び出した上にこんなお願いまで聞いてもらって」

 

男が言った。

黒い肌に、高価そうなジャケット。何やら年代物のジーンズ。

重そうな体躯で、体全体に少し丸みがある。

その体躯は脂肪による丸みもあるであろうが、鍛えられた男のそれであった。

50代後半ともいえる年配の男であった。

巻いた髪に、目元をサングラスで隠している。いや、隠さざるをえない。

この男こそ、全世界の誰もが知る元・スーパーチャンピオン。

ボクシングの神様。

『マホメド・アライ』であった。

 

「気に病む必要はありません。我が王からは快諾を頂いております。

それに俺は陛下の剣であると同時にボクサーです。」

 

対面に居る、浅黒い肌の男がぐいと酒をあおりながら言った。

紺の上下のスーツに白いシャツ、赤のネクタイ。

額には頭部を一周するような金のアクセサリを巻き、

長い黒髪の下の部分を数珠で縛り、肩に垂らしている。

年齢は20代半ばから後半くらいに見える。

怒っているわけではないが、能面のように表情が変わらない。

若さというよりも老成さ。妙な落ち着きがその表情の中には含まれていた。

並みならぬ死線を潜り抜けたに違いない、そういう雰囲気が感じられる男であった。

 

「この世にあなたの頼みを断れるボクサーなどおりませんよ。Mrアライ」

 

八頭貿易代表闘技者。

『タイの闘神』、ガオラン・ウォンサワット。

その人であった。

その男に、神が頭を下げていた。

 

「だが、すまないと思っているのは本当だ。こんな一家庭の事情に突き合わせてしまってな…」

「仕方のない事です。」

 

ガオランが、アライを見ながら言った。

 

「”あの”ジュニアに『生殺の領域』を教える…ボクサーでは私にしかできないでしょう。」

 

ガオランがグラスに注がれたぐっと酒をあおる。

 

「親子とならば、猶更です。」

 

アライもまた、グラスの中の酒を一息に流し込んだ。

 

「甘ったれた息子を叩き直してやりたいという気持ちはある。チキンと罵倒し、檄を飛ばしたことも殴り倒したこともある。」

「――――――」

「しかし…それと同時に、そんな厳しい世界から息子を開放したいという気持ちも同じくらいある。」

「―――――」

「そんな息子から『チャンピオン』の領域に行きたいと言われてしまうとね…難しいものだ」

「『チャンピオン』…”バキ・ハンマ”、ですか?」

 

ガオランが口に出したバキ・ハンマという男―――いや、少年を拳願会で知らぬものはいない。

無法地帯『中』でも手を出すことはタブーとされている地上最強の生物“オーガ”『範馬勇次郎』の息子にして地下闘技場のチャンピオン。

企業があの手この手でオファーを出しても断られる。

そうかといって闘技者を送り込めば『伊達』にして返される。

アメリカ大統領を素手で誘拐する。

最近ではド派手な親子喧嘩が世界に生中継されたことにより、その存在が全世界に知ら〆られることになった。

久我重明、オーガ、アンチェイン、J・ゲバルと並ぶアンタッチャブル的存在。

拳願会ではそういう存在であるらしかった。

 

「強かった…体も小さく若いのに、覚悟もできている。」

「―――――」

「命のやり取りにためらいはないんだよ。まだ18やそこらの10代(ティーン)だというのに」

「さすが…というべきなのでしょうか。」

「どうかね?」

 

アライが、妙に真顔でガオランに尋ねた。

 

「どう、とは?」

「ボクシングであれなんであれ。素手の格闘技において身体能力が高く、基本的には体重の重いものが有利だという事だ。君はどう思う。」

 

「それは間違いではないでしょうが――――」

 

言ってからガオランは黙った。

体重100キロのボクサーと60キロのボクサーが戦った場合、よほどの実力差がない限りは100キロの方が勝利する。パンチの重さが違うのだ。体重が違うという事は往々にして体格も異なるので腕の長さもまた変わる。

ボクシングが体重制を採用している理由がこれである。

プロボクシングの階級は全17階級。そうでないと、体格の勝るものが著しく有利となるからだ。

 

拳願試合でもそのような光景はままある。体格に優れたものが小さいものを身体能力のゴリ押しで屠ることなど特に珍しい事でもない。

しかしガオランは一人の男の事を思い出していた。

西品警備保障代表闘技者、コスモ・イマイ。

身長171センチ、体重68キログラム。決して恵まれた体格ではないが、それでも阿古谷やアダム・ダッドリーと言った体格に優れた闘技者を屠って来たのだ。最近は寝技以外の打撃でも体格に勝るものを倒していると聞く。

 

「身体能力。それ自体は決定的な要素ではないでしょう。」

「それはもちろんだ。しかし―――」

 

アライはまだ手を組んだまま言った。

 

「ジュニアのことですね。」

「うむ」

 

言って、アライは組んでいた手をほどいた。

 

「率直な感想を申し上げるならば―――ジュニアの身体能力はずば抜けています。

特にハンドスピード、反射神経が輪をかけてすさまじい。その点においては、私が知る闘技者の中で彼に勝るものはいないでしょう。付け加えるならば、バキ・ハンマに対してもそう劣っているとは思えない。」

「ふむ」

「それでも差がつくとするならば―――やはり覚悟の差でしょう。私が闘った印象からは、そう感じました。」

「――――どのような世界にも天才というものはいるものだ。」

アライは、窓の外を見つめながら言った。

「しかし、君も知っていようが往々にして大成する天才とは僅かだ。」

「――――」

ガオランは無言でうなずいた。

 

「天才は『脆い』」

 

アライはきっぱりと言った。

 

「敗北の味を知らずに勝利の味を当然と思う。それが天才の足元に口を開けている落とし穴だ。」

 

言ってからアライはガオランの方に向き直った。

 

「私は何人ものボクサーを見てきて、そう思う。敗北を知らぬ天才よりは敗北してもなお立ち上がる凡才が勝るのだ。乏しい才能。低い身長。

それでもなお絶望を断固拒否し、戦い続けた男が天才を抜くのを何度も見てきた。

何故だろうね。」

「――――――」

「天才には『感動』がないからだ。ジャブの練習一つとってもそうだ。

天才はすぐに覚えてしまう。何日か、もしくはジムに来た瞬間から驚くほど綺麗に左が撃てるようになる。それを一日に百回か二百回もすれば自分のモノにしてしまうだろう。

だがただの男ではだめだ。二か月で天才が通り過ぎてしまう所を一年も二年もかけてしまう。時にはそれ以上。ジャブを放つだけで何千回何万回を繰り返すとこもあるかもしれない。ただ、左手を前に出すというだけのことをだよ。」

「はい」

「ある時、ふいに手がきれいに前に出る。体勢を崩さずに。それまでと同じ場所を打っているはずなのに。これまでとはまるで違う感触が手に入る。これだと思う。その時に―――ああ、これだと思う。」

 

アライの声が少し高くなる。

 

「その時の感動の深さが、恐らくそのボクサーの一生を決めてしまう気がするんだよ。」

「――――――――」

「もちろん最初のスパーリングでボコボコに顔を腫らす。

しかしまたジャブ、ワンツーを繰り返して練習する。ただの男は天才が一か月で覚えることを1年も2年もかかって覚える。そうしたらそれを一生忘れない。

そうしてついに勝利を得る。天才が最初のスパーリングで味わう勝利を、ただの男は何カ月もかけて得る。そうしたらそれを一生忘れない――――」

 

アライは口をつぐんでガオランを見た。

ガオランは無言でアライの次の言葉を待った。

 

「ボクサーと言ったって所詮は初めてうまくミットを鳴らしたあの感覚を覚えているか。

初めてボロボロになりながらスパーリングを制した時の事を覚えているか。根っこのところはそんな単純なことだろうと思うよ。」

 

ガオランがぽつりとつぶやいた

 

「貴殿はどうなのですか。Mrアライ」

「私はそういう意味だとまだまだ現役さ。今だって一ラウンドだけなら世界チャンピオンだ。――――君を含めてな。」

 

にぃ、と口角を吊り上げがら目を見開く。どう猛さを隠さない笑みを向ける。

ガオランを見た。

 

「―――話を戻そう。天才と凡人の話だったな」

「はい。」

「しかし、まれにその感動を有する天才が居る。

感動し、その感動を持続したまま努力をしてしまう天才がいるのだ。」

「――――」

「バキ・ハンマは、まさにそのタイプだろう。それに楽しみながら日々を修練として生きている。範馬の血というこの世で最高の才能を預かりながら、それにおぼれず尚そこに感動と楽しみを見出して努力することができる。楽しまない、感動がないものが勝てるわけがない。」

「――――」

「思うに、ジュニアの不幸は、才能がありすぎたということかもしれん。

この私にさえ、特に苦労することなくテンカウントを聞かせてしまうのだから。」

「それを不幸というと、世の闘技者が怒りそうですな。」

「うむ」

「それに少なくとも、ジュニアはバキ・ハンマが持っていないものを一つ持っています。これは外に代えがたい。」

「なにかね」

「あなたという、慈愛溢れる親ですよ。」

ガオランは言った。

アライを見る。

「甘い―――とは言わんのだな。」

「『生殺の領域』―――たとえボクサーであれ。親ならば。

たとえ闘技者であれ血を分けたものならば。教えることができぬのは当然でしょう。」

「―――」

「なればこそ。陛下の剣として死線をくぐったものとして。

1ボクサーとして貴殿を尊敬するものとして。

明日も、ジュニアの『教育』を行いましょう。」

「――――ありがとう。」

 

アライは下を向きながら言った。

 

「――――ありがとう。」

 

 

午前三時、タイのとある山中にガオランとマホメド・アライジュニアが対峙していた。

 

ジュニアは動かなかった。

ただ、両の拳を持ち上げて構えた。

良い構えだ。

 

「そう…それでいい。」

 

対峙したガオランが言った。

鼻骨骨折。

第四歯及び第二歯欠損。

右中手骨骨折。

右肋骨五番完全骨折

左肋骨七番骨折。

全身に打撲多数。

これが今のアライジュニアの状態だった。

 

「万全とはほど遠い。しかしそれでいい。」

「――――」

「あの怪我がなければ。

体調が良ければ。

調子が良ければ。

言い訳はいくらでもできる。

だが、命を賭けてやれば二度目はない。」

「――――」

「その命を賭けた死線を乗り越えてこそ―――生殺の領域に踏み込めるのだ。

自分の命をかけてこそ、見えるものがある。」

 

教育を任されたガオランがとった行動。それはゲリラ戦だった。

タイのとある山中にジュニアを『置き去り』にし、ランダムな時間差でガオランが襲い掛かり叩きのめす。その間の食料は自給自足。けがをしようが何をしようがお構いなし。

いつどこから襲い掛かるかも告げない。

戦争のような真に命のかかった勝負では言い訳などなんの意味も持たない。そんな事をするくらいなら一分一秒でも自分の『命』と敵への対処を考える。ジュニアが生殺の領域に踏み込むには、こういう『抜き差しならない状況』に追い込むしかないと考えたガオランの決断であった。

 

「オキャアァッ!!!」

 

ジュニアが吼えた。

頭の中が真っ白になっていた。

頭だけではない。体もだ。

すべてが消し飛んでいた。

何もない。

 

空腹。

緊張感。

何もかもが消え去っていた。

その中で“負けたくない”

それだけを思っていた。

こんなところで無様に。

あのチャンピオンにリベンジするために。

あの怪物・ジャックに、あのドッポ・オロチに、あのゴーキ・シブカワに。

彼らを叩きのめすために。こんなところでガオラン・ウォンサワットに負けていては何も始まらない。

ない。

それは激しい怒りだった。

自分に対して?ガオランに対して?バキ・ハンマに対して?

わからなかった。

ただ、激しい怒りと殺意が彼の中で燃えていた。

その怒りがあらゆる苦痛を凌駕した。

その時、脳のどこかで何かがはじけたような気がした。

きいん、と音の様でもあった。

その感触がはっきりとわかった。

わかった刹那、痛みが消えた。

嘘のように痛みが消え、クリアな意識が戻って来た。

意識しないうちにステップを踏み始める。

良く動く、自分の肉体が。

脳が何かを出したのだ。極限状態に陥った時に出す脳内麻薬・エンドルフィン。

それがジュニアの体を動かしている。

 

「ヤリマスッッッ!!!!!」

 

ジュニアは自分からガオランに突っ込んでいった。

軽い。

気持ちがいい。

この男をぶちのめす。

それだけだ。

ほかにない。

その結果こいつが死んだとしてもそれはそれだ。

自分が死んでもそれはその時のことだ。

きらめくような闘志の塊だけがあった。

 

「オキャアッッッ!!!!」

 

ジュニアはもう一度叫んだ。

 

 

蝶のように舞い、

蜂のように刺す。

それがボクサー、ガオラン・ウォンサワットの知るマホメド・アライの戦い方であり、ジュニアにも共通する戦法であった。

それ自体は変わっていない。いないのだが

 

(打たせずに打つ――――どころではない。)

 

頸動脈。ヘッドスリップでかわしたが、回避しきれず血が舞う。

リバー。受けるが、衝撃が響く。

テンプル、人中。どれも捌き、かわすが確実に狙っている。

人間を確実に撲殺するために、可能な限りの急所を狙ってきていた。

 

お返しとばかりにガオランがジャブを返す。

左腕をだらりと下げたヒットマンスタイルと呼ばれる、その状態から撃ちだすジャブは打点が非常に見えにくい。

ガオランは一呼吸の間にそのジャブを13発連打できる。フラッシュと呼ばれたガオランの代名詞的ジャブだ。

 

「―――――」

 

そのジャブが、今ヘッドスリップだけでかわされていた。

しかもそのうえで前に踏み込んでくる。

ガオランがローを放つ。

踏み込ませないための蹴りであり、同時に踏み込んでくる最中にはかわしづらい足をねらって打った。

空を切った――――ガオランがそう感じるのと同時にボディに拳がめり込んでいた。

ダメージはあまりない。鍛え抜かれた闘神の腹筋を一撃では貫くに足りないからだ。

しかし、それでもガオランは驚愕していた。

 

(踏み込んだか。)

 

一歩か半歩、もしくはそれ以下かもしれない。だが、今のジュニアはとにかく踏み込んできている。こちらの命を取ることに躊躇がないのだ。相手を殺るためなら自分の命さえもどうでもいいと思っている節がある

かつて、範馬刃牙は気絶するジュニアにこういった

 

『やられずにやる。相手から命を取ろうとしているのに自分の命を差し出していない。やられて当然だ。』

『飛び込んで来た時のあんたのような本物の覚悟を持たなきゃな』

 

それをジュニアは聞いていない。

いや、人伝手には聞いたことがあるのかもしれない。

ガオランもアライからその話は聞いていた。

今のジュニアがそれを考えているのかはわからない。

無意識のうちに実践しているのかもしれない。

本能なのかもしれない。

しかしガオランにとってはどちらでもよかった。

今のジュニアは、自分の命なんてどうでもいいと考えている。

どうなってもいいから相手を倒す、それ一点にのみ集中している。

 

故に、昨日まで直撃していたガオランの攻撃が空を切る。加えて、当たらなかった攻撃が徐々に当たるようになってきている。

 

(ここから先は、教育ではないな)

 

ガオランも目つきを鋭くした。

ジュニアは身体能力のみで戦っている。

スエキチ・カネダのように先を読むでもなく、アギトのように学習するでもない。ただ、予知能力じみた反射神経だけでこちらの攻撃に反応しているのだ。

それに加えてこの勢いだ。

ボクサーでもなく闘技者ではなく。

ガオラン・ウォンサワット一個人としてマホメド・アライジュニアを撲殺する。

そうでなくでは殺される。

そう思った。

 

ガオランのミドルキック。折れている肋骨に対する放ったそれに、ヒットしたのも委細構わずジュニアが右を放つ。

ガオランの耳元をひゅっ、とも、ごうっとも言う音がした。

クロス気味にガオランが左のフックを放つ。

同時に、ガオランの上げている右腕に衝撃。

カウンターだ。ジュニアの反射的カウンターを読んでいたガオランが事前に腕を上げカウンターを防御していたのだ。

一息に下がり、再びフラッシュを放つ。

今度はヘッドスリップでは近づかない。ステップとジャブの応酬となる。

ジュニアは本能的に察していた。次に近づけば、やられる。それこそがガオランの狙いなのだと。

 

故にジャブの応酬に応じる。そして

 

「―――――!」

 

徐々にガオランの被弾が増える。

フラッシュを持つガオランと言えど、相手は至近距離のカウンターを『見てから』反応し、カウンターを合わせてくるような化け物。

加えてリーチもハンドスピードも向こうの方が上と来ている。

そんな男とのけん制合戦は分が悪い。しかしガオランもそれは承知の上だった。少し、フラッシュの軌道とタイミングを変える。

 

「――――」

 

ジュニアの拳がガオランのフラッシュをパリングする。

いつでもやろうと思えばできた。しかし、体勢を崩すためにこのタイミングが必要だった。

踏み込み、右ストレートを放つジュニア。

閃光のような一撃だった。一発だけの速度でいえば、闘技者・御雷零よりも早い。

少なくとも人間の目に負える速度ではない。そういう一撃であり、完璧なタイミングであった。

その完璧な一撃を、ガオランはいなした。

肩で受け流すようにいなし、カウンターの右ストレートを放つ。

滅道の牙の意識を刈り取った一発。

 

(――――!!!)

 

その一撃が、空を切る。

闘技者ならだれもが驚くだろう。

この距離、このタイミングのカウンターを交わしたことを。

そして、この距離、このタイミングで

 

「シュッッ」

 

ジュニアがカウンターを放つことを。

加納アギトでも、黒木幻斎でもこのような真似はできないだろう。

恐らく闘技者の誰もが不可能。現役時代のアライでさえできないだろう。

 

「――――ッッッ!!!???」

 

その一撃に、ガオランは踏み込んだ。

頭から突っ込み、頭からを流すのも気にせず前に出る。

反応してやったわけではない。戦略だ。

ジュニアの反応速度はすでに理解(わか)っている。明らかにあのアギト以上だ。

だからこそ、反応することは読んでいた。

 

恐らくカウンターは撃つだろう。

ならば、多少バックステップ気味に崩れた状態から撃つことになる。

その状態で顎や眼球のような顔面の急所を狙うにはフックのような攻撃は不向き。

残る選択肢は右ストレート―――――こうするしかないという方向に誘い込む。

パワー以外のあらゆる身体能力で勝るジュニアに対し『ボクシング』をしては万に一つも勝ち目はない。

こうしてガオランの『当初の目論見』通り、至近距離に至ることができた。

 

近い間合いでもつれ込むような形になった瞬間、ガオランは両手を相手の首方向に回す。

ムエタイでいうところの首相撲だ。

その型が決まった瞬間にガオランは膝を腹に打ち込む。

ジュニアの動きが一瞬止まった。

もう一度打ったところでジュニアのボディがカウンター気味に入る。

疾い。

ガオランが一度膝を繰り出す間にジュニアが三発ボディを入れてくる。

こうなると困るのはガオランの方であると、ジュニアは本能的に理解していた。

膝と拳。重さの違いはあるものの、ジュニアの拳の方が早く、そして正確に肝臓や胃に打ち込める。なんならテンプルでもいい。

無傷とはいかない。しかし、確実にやれる。こちらが殺されるよりも早く殺すことができる。

その予測通り、ガオランは首から手を離した。

 

(――――――――その瞬間(とき)を待っていたッッッ!!!!)

 

待望の左フックだった。首相撲から離れた瞬間の、真正面に気が向いているその瞬間に視覚外からの左フック。かわす手段はない。

 

(――――――――待ちわびたぞ。この瞬間(とき)を)

 

がつん、という鈍い音と主にジュニアは唐突に目がくらんだ。

当たったのはジュニアの左フックではない。

頭だ。

ガオランの額がジュニアの鼻頭にぶち当たったのだ。

ジュニアの上体がぐらりと揺れる。

ガオランの唇に強烈な笑みが張り付いていた。

強烈なパンチをジュニアの腹に叩き込む。

つうっ、

ジュニアの口から血が流れ出す。

そのジュニアの左側頭部目がけて下から跳ね上がって来たガオランの拳がぶつかった。

ジュニアの首が曲がった。

疾く、重い拳。

ジュニアが、腰から地面に沈んでいく。

腰から落ち、膝を突き、ジュニアは地面に頭から倒れこんだ。

これが、決着の一打となった。

 

「…見事。」

 

小さくつぶやきながら汗を流すガオラン。

勝ちはしたものの、綱渡りのような戦いであった。

一つでも読みを外せばこうなっていたのは自分だったかもしれない。

甘ったれたボンボンだった男がこうも化けるとは。恐怖と喜びがないまぜになった感情のまま、背を向けた。

背を向け歩き出そうとしたとき音が聞こえた

 

「―――――――――だ…――――って」

 

振り返る。初めて、ガオランの顔に驚愕が浮かんだ。

信じられないものをみたような顔だった。

 

「―…そ…―――…う」

 

ジュニアだ。ジュニアが立って、構えているのだ。

そして、おぼつかない足取りのままゆっくりと。

ガオランに向って歩を進める

 

「貴殿…」

 

立って、構えている。歩いてくる。

だが、それだけだ。

その目には光がない。

意識がないまま、歩んできている。

 

「―――――いつ…だっ―――――――…て」

「もういい」

「立ち…上が――――――――り」

「わかった」

「そし…て―――。た、た、――――か…」

 

ガオランにはできなかった。

闘おうとしている男の歩みを。

意識を失ってなお闘おうとする男を拳で止めることはできなかった。

 

「卒業だ。」

「――――――…う」

「これで、教育は終わりだ。」

 

優しく、ゆっくりと抱き留めた。

女のように、ふわりと。

ジュニアの歩みはそこで止まった。

 

 

 

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