ひょろりとした、細面の男だった。
年齢は50代半ばくらいだろうか。
普通の顔をし、どこにでもありそうな眼鏡に無精ひげをはやしている。
着ているスーツもよくある仕立て屋で買ってきたであろう、変哲のない上下紺のスーツ。
一般的なサラリーマンの、標準的な姿。
よくいるオヤジ。
なんのオーラもない、くたびれたおっさん。
だがこの男、ひとたび仕事となるとがらりと印象が変わる。
大企業の取締役、権威ある一族の長、そういったものに対しても全く臆せず鋭い眼光をたたきつけて一歩も譲らない。
この男こそ半年前。一介のサラリーマンでありながら獅子奮迅の働きを見せ、乃木英樹を拳願会会長に押し上げた男。
フリーの闘技者を扱い、拳願試合に『派遣』する山下商事の社長、山下一夫である。
「ほ、本当に
その山下一夫が、信じられないものを見たという表情で、その男を見た。
大きいことはいい事だ――――――というが。
その男はあまりにも大きかった。いや、
座っている状態ですら、立った状態の山下一夫と並ぶほどである。
身長2メートル43センチ。体重201キロ。
異常な肉体を持つ男であった。
身長があまりにも高いこともそうだが、体重もそれに正比例するように伸びている。
通常このような肉体を持つ男は満足に動けないので体重が増えない。
例えば、身長の記録で人類史を塗り替えた『ロバート・ワドロー』の場合、身長が260センチの時点で体重が197キロであった。
いわゆる『巨人症』であり、余りに大きい体が足腰に甚大な負担をかける。そのため、彼の歩行には常に副木がかかせなかった。まともな運動などできるはずもないため、体重が筋肉により増えることもない。
だが、この男ときたら。
全身がガッシリとした、岩のような肉体を持っている。おそらく、体重のほとんどが筋肉で占められていることだろう。
拳願会、煉獄と並ぶ地下格闘技。
東京ドーム地下闘技場の最大トーナメント準優勝者。
ジャック・ハンマー――――本名、ジャック・『範馬』であった。
「徳川ノジイサンカラ聞イテルゼ。ガンダイと『ビグルート』社ノ代ウチダッテ?」
流ちょうな、しかしどことなく英語訛りを感じさせる口調でジャックは言った。
言いながら、ステーキを食べていた。
表面がカリッとよく焼けていて、それでいて中身は血が滴るようなレアの。
その上に鮮烈に光る赤いワインのソースがたっぷりとかかったそれを、大きな口で肉汁が零れだすのも気にせぬままかぶりついている。
「え、ええ…」
――――これで15杯目…一体どこまで食べる気なんだ…?
食すスピードも異常であった。ちらりと積み上げられた皿を見る。この高級料理店に来て、山下一夫が食べたステーキの枚数は一枚。
もちろん食事がメインの会合ではない。山下がこの男を誘ったのは仕事のためだ。過去に王馬が参戦した早食いバトルのように全力で食うわけではないが、だからと言ってこの食べっぷりは見ていて冷や汗を感じる。
山下にはこの男の口の中は胃ではなく、どこか別の空間が繋がっているのではないかと思えてきた。
「大歓迎ダ。」
歯に詰まった肉を楊枝でかき出しながら、ジャックは答えた。
数秒前に運ばれて来たステーキの皿は既に空になっている。
「自分から切り出しておいてなんですが…よろしいのですか?
あなたはあの地下闘技場の正戦士。それがこういう――――」
「ドウダッテイインダヨソンナコトハ。」
「――――」
「億単位ノ金。デカイ不動産。ビル。銭ノカカル力比ベ。結構ジャナイカ」
「結構、ですか」
「アア。確カニオレハ闘技場ノ競技者デハアル…アルガ、ソンナコトハハッキリイッテドウダッテイイコトダ。」
「――――――」
「闘レリャアイインダヨ。強エ奴ト喧嘩ヲナ。」
「――――――」
「強エエンダロ?オレヲ頼ッテクルクライニ、相手ノ野郎ガヨ?」
「―――強敵です。」
そういって、山下は自身の黒いカバンから一枚のクリアファイルを机に出した。
ジャックがそれを取り、中に入っている資料を眺め出した。
「拳願試合、58勝2敗。“獄天使”関林ジュン。
これが、あなたが対戦する相手の資料です。」
「知ッテルゼ。プロレスラーダナ?」
「はい。表の世界では有名な―――アントニオ猪狩やグレート巽ほどではありませんが、それでも有名人です。」
「ソノ猪狩カラ聞イタコトガアル。ドンナ試合デモプロレスデ勝負スルンダッテナ。」
「はい」
「楽シミダ。場所ハ?」
「プールです。」
「ホウ、プール。」
「今は使われていない閉鎖されたプールです。過去に一度だけ、愚地独歩さんが出場したことでも――――」
―――――――――――――――――――――――――――
時を同じくして――――とあるビルの最上階。
その社長室に、二人の男が居た。
岩のような肉体を持つ男だった。
ドレッドヘアーに、ずんぐりとした丸みを持った肉体。その丸みは脂肪ではなく天然の、粘り強い力をもつ筋肉が出す丸みであった。
「ほう、プールですか」
“獄天使”関林ジュン。ジャック範馬の対戦相手の男であった。
「どうだっていいんだよ、場所なんてな」
関林を呼び出した男が言った。
鋭い目つきに、大きく尖った顎。放つ言葉一つ一つに相手を従わせる強制力ともいうような言霊―――カリスマ性が感じられる。
この男こそ、FAW代表にして、超花形レスラー。日本人誰もが知る男、グレート巽であった。
「重要なのは相手があの『範馬』ってとこだ」
「――――」
「拳願会にも煉獄にも所属せず。最大トーナメント、死刑囚との戦いのときのみ顔を出す裏社会でも知る人ぞ知るジャック・範馬」
「――――」
「最大トーナメント準優勝。範馬勇次郎の息子。ピットファイター。
肩書を上げればきりがねえ」
「はい」
「その範馬の初、拳願試合の相手にプロレスラーが選ばれる。」
「――――」
「大役だな」
「はい――――」
「事件だぜ。」
「――――」
「プロレスの強さ。面白さ。底知れなさ。それを裏社会に知らしめたのはもちろんだが、」
「はい」
「礼を言う。」
「礼、ですか」
グレート巽が、自慢の顎を上げて見下ろす。決定事項を告げるかのように、淡々と。
「箔がつくだろうが。
あの『範馬』に勝てるプロレスラーってのはすごいんだ――――ってな」
「――――」
「なあ?お前の団体ももちろんだがわが社に対する投資も増えることだろう。
その利益は計り知れない。」
「――――」
「チャッチャとぶちのめしてこいッ」
「――――」
「腕一本になっても範馬の命を取ってこいッッ」
「――――」
「歯一本になっても範馬の動脈をかみちぎってこいッッ」
「――――」
「プロレスラーならそんくらいは当たり前だ。
どんな重傷を負ってでも必ず範馬の首を取ってこい。」
――――やっぱりな。
関林の胸中に浮かんだ言葉は、それであった。
この人がそんな生ぬるい激励の言葉なんかかけてくれるわけがない。
だからであった。
関林の口角と目じりが、強烈に上がった。
来る栄光と暴力の愉悦に歪んだ。
「プロレスラーの強さを信じていただき。
初めて範馬に勝ったプロレスラーという大役を譲っていただき。
感謝します。」
「フフ…いい貌で笑うな」
「ありがとうございます」
「なあ、関林。お前ケンカは好きか?」
「ケンカですか?」
関林が、妙に真顔になった
「おう」
「嫌いっす」
「ばか、本当のことを言え。
気に入らない相手をぶちのめすのは好きかって聞いてるんだよ。」
「好きっす♡」
関林が、再び笑った。
「これだよ…この嘘つきめ。」
巽も笑った。
「勝つことも嘘。負けることも嘘。こういった際の言葉にすら嘘が入る。
お前は生粋のプロレスラーだ。俺が言う事なんてなかったようだ。」
「恐れ入ります。」
「試合は三日後だ――――必ずぶちのめせ」
男たちが戦うには似つかわしくない場であった。
子供ウケしそうなチープなイルカをメインに、カニなどの海洋生物がバランスよくアニメ調の絵柄で底面に描かれている。そのプールを見下ろせる位置には、これまた安っぽそうな椅子が所狭しと並べられていた。
十年以上前に閉鎖されたプール。
水を抜かれ、昼間訪れるものが皆無なのに、今なお取り壊されないことを不思議がる市民も多い。
そのため多くの噂がたった。
やれ、暴走族のたまり場だ――――
やれ、薬物の裏取引の現場だ――――
やれ、自衛隊の秘密の駐屯所だ――――
だが、事実は全く異なる。
「うおーーーーーッ!!!関林ィィィーーーーッ!!」
「あ、あの範馬だッッ!!!ついにッッ!!」
「プロレス見せてくれーーーーッッ!!」
夜、このプールが戦場となるからだ。
拳願試合―――代打ちの場なのだから。
――――今夜は、盛り上がっているな。
熱量がいつもとちょっと違う。
その原因が目の前の男であることは、容易に想像がついた。
ジャック・ハンマー。
ああ、みんなわかっているんだ。関林は思った。
範馬のことはみんなわかっている。あれを見たからだ。
範馬勇次郎と、範馬刃牙の親子喧嘩。
地上最大のぶん殴りあい。
その系譜を継ぐもう一人の男、ジャック。ピクルに敗北したとはいえ、ピクル相手に『五体満足』で帰還した男。
関林は歓喜していた。
あの『範馬』と拳願試合で始めて戦えることに。
そして、恐らく勝利をすることに―――
ありがとう、プロレス。
お前のおかげだ。お前のおかげで俺はこんなすごい漢と戦えるのだ。
歓声の中、近づいていく。
同時に、ジャックも近づいてくる。
ゆっくりと、まるで愛し合った者同士の逢瀬のように
そろそろ射程内に入る―――そう思ったところで、関林の耳が唸り声を捉えた。
地の底からだ。しかも大きい。
それは獣の声であった。獰猛な、血に飢えた獅子の声であった。
それが大きく口を開けて、迫ってくるのだ。
関林は――――何もしなかった。
気づいてなお、そのまま歩み続けた。歩み続け、その身を牙にさらした。
顎だ。
ドンッッ
顎で、何かが爆発した。とてつもない力を持つ何かだ。
身体がその衝撃で宙に浮きあがる。アッパーだ。
ジャックの、地面すれすれから跳ね上がるような右アッパーが関林の顎を直撃したのだった。
何メートルか、跳ね上がった関林がどう、と地面にあおむけに倒れ伏す。
会場はこれに反応した。
「すっげェーーーーーッ!!!」
「全然見えねェッッ!!!??」
「あの関林がッッ!!!」
だが、ジャックは反応しなかった。
同じく、山下、巽をはじめとする目の肥えた人間たちの表情は変わらなかった。
「ナルホドナ。」
倒れて動かない関林をしり目に、ジャックが己の拳を見ながら口を開いた。
「殺サレテイル。」
「――――」
「スベテノ攻撃ヲ受ケキル。ドンナモノカトオモイ打ッテミタガ」
「――――」
「ポイントヲズラシテ受ケテイル。
ソウスルコトデ完全デハナイガ威力ヲ殺シ、ヒイテハ相手ヲ壊ス。」
「――――」
「モウチョイオレノアッパーガ甘ケリャ、手首ガオシャカニナルトコダッタ。」
「―――――」
「―――トハイエ」
相も変わらずあおむけのままの関林に、ジャックは言い放った。
「イツマデ演技コイテンダコラ」
「――――知らねえのか?プロレスラーは演技も上手いんだよ」
即座に立ち上がる関林。
ダメージなどないかのようなその動作に観客たちのボルテージはさらに上がる。
その中で、狂宴には混じらず、一人微笑む男が居た。
顎の長い、大きな男だった。
「フフ…この嘘つきめ。」
グレート巽だった。
プロレス界のカリスマにはわかっていた。あれは確かに演技だ。
そう、演技には違いない。
ただし、半分だけ。
ポイントはずらしたものの、相手はジャック・範馬。そのアッパーの衝撃はおよそ並の闘技者とは比較にならない。受けはしたが、顎には罅が入り。振動は脳に伝わり一瞬意識が『飛んで』いただろう。
ジャックとしても事前に関林の情報を山下から受けていたので、演技と『思い込み』追撃するのはやめた。つき続けた嘘が活きた瞬間であった。
「だが…それでいい。もっと嘘をはけ。」
――――――――――――――――――――――――――――
作戦はある、と言えばある。
ない、と言えばない。
考えていることはひとつだ。
『プロレス』をする。
それだけだ。
空間が歪むほどの重圧が関林を襲う。
だが、このまま下がってはプロレスができない。
故に前に出る。
前に出て、ジャックの拳を受ける。
受けながら、手を出す。逆水平チョップだ。
これまでの相手とはケタが違う。
打たれた瞬間に、関林にはそれがわかった。
重いとか、早いとか、そういう問題ではない。
そもそもの『肉体』が違うのだ。
対格差もあるが、それを自在にコントロールできるフィジカルモンスター。
ぶん回す左のフック。
それを受けて、右の拳で殴り返す。当たる。
だというのに。
そのままの勢いで、右のストレートが飛んでくる。
鼻血が噴き出す。
ほら。
こいつはこんなガタイなのに、こんな技を、こんなスピードで。
首がのけぞるのを耐え、そのまま頭突きを返す。
ジャックの鼻っ柱に叩き込むのと同時に腹に何かが突き刺さる。
拳だ。ジャストな角度で突き刺さったそれは、もはや人間の腕というよりは刃物。
関林の脳裏は、ナイフをつきたてられたイメージで埋め尽くされた。
しかも連打だ。
撃ち返す。膝を入れた。あばらに、思いっきり。
止まらない。
左のアッパーが関林の顎を跳ね上げる。
全く止まらない。
だが、前へ出ていく。
それしかできない。
否、それしか『してはならない』。
前に出て受け。
受けたら殴る。蹴る。投げる。
言ってしまえばそれだけだ。
それをするためだけに稽古をしてきたと言っていい。
殴られたら殴って。
蹴られたら蹴って。
投げられたら投げて。
殴って、殴って、殴りまくる。
ローが来た。
靭帯を――――それがどうした。
エルボーで切り返す。
ボディアッパー。
内臓―――――それがどうした。
空いた顔面に拳を返す。
ミドル。
ほれぼれする衝撃だった。肝臓まで衝撃が―――
――――知ったことかよッッ
骨が砕けようが、肉が裂けようが知ったことではない。
『プロレスラーがプロレスを信じなくてどうするんだ』
衝撃の一言だった。
尊敬する大先輩、蔵地さん。すべての攻撃を受け切り、負けてもそう言い放った。
真のプロレスラーの在り方を教えてくれた一言だった。
思い出すたびに、心に火が灯る。
打たれた場所にも火が灯る。
全身の温度が上がっていく。
『いいか、純平。プロレスラーになりたきゃ一日でも稽古を欠かすなよ』
熱い。
『たとえ、親が死んでも。俺が死んでもだ』
育ててくれた社長。馬場道山がそう言っていた。
社長の葬式の日。泣きながらジムでスクワットをした。
毎日、稽古をしてきたのだ。
ロープ登り5メートル×20回。
プッシュアップ1000回×3セット。
ブリッジ1時間。
ヒンズースクワット1万回。
これらはスパーリング前の準備運動だ。
そこから意識を失うまでスパーリング。
1日として、休んだ事は無い。
自分には何もなかった。
親もない。
学もない。
だが、この肉体には自信がある。
誰よりも長い間、この肉体を苛め抜いてきたのだ。
膝。
ぐつぐつと、筋肉の中で血がわいていた。
「ハアアアッ」
関林は吼えた。
「ハイイイイイイイイイイイイイッッッ」
モンゴリアンチョップ。
ジャックの体勢が揺れる。
揺れながら、がら空きになった顔面に拳が叩き込まれる。
衝げ――――殴りたいならなぐれ。
同時に腹。
右を出したら右。
左を出したら左。
右。右。
左。左。
膝。膝。
持久力、スタミナ。
時間1分なのか、2分なのか。考えても居ない。
―――――――――――――――――――――――――
普通なら倒れる。
ジャックはそう思っていた。
いや、倒れなくてもいい。
ひざをつくくらいはする。
最低、怯むくらいはしてもいい。
そういう一撃だった。
そういう一撃を何発も、何発も入れた。
しかし、あいつは倒れなかった。
それどころか、反撃してくるのだ。
入れたら入れたぶんだけ、返ってくる。
それで、打ち合いになっている。
その時にあいつの顔を見た。
笑っていた。
やせ我慢の、無理やり張り付かせた笑みだった。
普通、ああなったら先は長くない。
もう数発いいのを入れてやれば終わりだ。
たとえ動けたとしても、反応は鈍い。
顎なら一発で終る。
過去、何人もの人間を打ち砕いてきた経験からそうだと言える。
しかし、あいつは同じ速度で動いてきた。
よほど修練をしてきたのだろう。
徹頭徹尾、強くなることだけに人生をささげた自分と同じくらい、稽古をしてきたのだと直感的に感じた。
馬鹿みたいに、それこそ親が死んでも修行をやめなかったのかもしれない。
凄い肉体だ。ほれぼれする、いい体だ。
だが、何も着ていない。
自分と同じ、パンツ一枚の姿だ。
ならば、あれをやろう。
ヤシの実を食いちぎるほどに鍛え上げた俺の顎。
お前に耐えられるか―――
――――――――――――――――――――――――
「~~~~~~~~~~ッッッ!!???」
山下一夫は、声にならない声を上げた。
突き刺さっているのだ。
関林の左腕に、がぶりと。
ジャックの歯が深々と突き刺さっていた。
「か―――――噛みつきかァ…」
なかなかに強力な技―――これを技と言っていいのかわからないが――――である。
男女問わず、使えるその攻撃。生じる威力と痛みは、どんなずぶの素人だろうと容易に想像がつく。
それを大男、ジャック・ハンマーが行ったのだ。その咬合力は常人の比ではない。
――――関林が食われる。
誰もがそう思った。
山下も、ジャックも、ほかの闘技者も。これで終わりだと思った。
―――否、思っていた。
「ぬんっ!!」
その関林が、左腕一本でジャックを地面にたたきつけるまでは。
「…ッッッ!!??」
衝撃で口が開き、獲物を逃がす。
「あ、アームホイップ…!!関林はまだ終わっていないッッ!!!」
アームホイップ。腕一本で相手を投げ飛ばす、プロレス流一本背負い。
300キロを超える弟子、河野春男を腕一本で持ち上げる関林にとって、200キロ弱のジャックを投げ飛ばすことなど、赤子の手をひねるに等しい行為であった。
「さて。ここからだな。」
出血する左腕を意に介さず。ぐるんぐるんと肩を回し余裕っぷりをアピールする。
「アア。ソウダナ。」
ジャックもまた、あおむけになった状態から首だけで倒立し。ゆっくりと体を起こした。
―――――――――――――――――――――――――――――
何故闘っているのか。
拳。
わからなかった。
足。
わからない。
頭。
こんな場所で。
蹴。
強くなりたかった。
打。
父を倒すために。
痛。
母の無念を晴らすために。
蹴。
闘う事は。
拳。
好きだった。
拳。
努力とか。
手。
考えたこともない。
腕。
女も。
蹴。
金も
額。
すべて捨てた。
拳。
蹴。
強くなることが好きだった。
そのためならどんな苦痛にも耐えられた。
苦。
痛。
打。
だから、今も闘っている。
強くなるため。父を超えるため。
たとえ弟にファイターとして失格だと言われようが。
こうして代打ちに出ている。
足。痛。拳。蹴。
肘。拳。膝。腹。
顎。苦。肩。顎。
バカじゃないのか。
馬鹿でもいい。
貌。
痛。
肘。
親父を。
範馬勇次郎に勝つためなら。
足。
拳。
打。
薬は、よかった。己に流れる血を忘れさせてくれる。
博士も、よかった。己に流れる血を実感させてくれた。
(だから、死んだ。)
(絶望して。俺に。)
女拳なんか蹴強くなる痛に比べたら顎膝肘どうでもい顔こ拳だ。
こ拳れ膝終っ痛た怒ら、膝ま噛た歯強顎い拳や蹴つ入に頭挑膝む。
(死ぬまで)
俺の人生…
拳。打。顔。
足。
蹴。腹。膝。
肘。顔。痛。打。
殴殴殴。
蹴蹴蹴。
顔腹顎。
拳膝肘。
何だ、
何があった。
糞が。
一瞬意識がぶっとんでいたみたいじゃねえか。
これが範馬。恐ろしいやつだ。
バカみたいなタフさとスタミナを持っていやがる。
肘。
糞。
ぼぐん。
鼻。
ばがぁ。
ミチィ。
野郎。
めちぃ。
めじゃ。
どぐん。
ばがあ。
びちゃ。
どかっ。
ドグン。
ぼなっ
ごず。
ごすぅ。
また顎だ。
がちん。
歯と歯がぶつかる。
びきい。
首がよじれる。
頸椎―――
ごしゃっ
野郎。
プロレスだ。
打たれても―――
どぐん。
痛!
痛。
打ち返す。
拳(ぼぐん)。
蹴。(どがあ)。
頭。(めちゃあ)。
膝。(みしい)。
打つ。
打。打。殴。殴。蹴。蹴。噛。
「あいいいいいいいッッ!!!」
狂。
狂。
狂。
これはあれだ。
あいつは骨だ。
眼が聞こえない。
耳が真っ暗だ。
あの拳が立っている。
足で殴る。
真っ赤な味。
捉えろ。
脳が哭く。
歯が吼える。
俺が筋肉だ。
俺は肉だ。
俺は拳だ。
俺はこ、だ。
背骨もおれだ。
尻も、
俺も。
俺。
お、
知ったことか。
あいつが肉だとか。
骨で考えてみれば、
あいつは耳だ。
ここで膝を出せば赤い。
拳が聞こえていればそれでいい。
ぶちのめす。
ぶちのめぶちのプロのめりめりめす。
今。めりめののレス。殴打喜強。
「ガッ」
「カァッ」
「ダッ」
「ダァッ」
会場が、沸いていた。
楽しいなあ
(はあ)
ぞくぞくするなあ
(はあ)
比べっこだ。
(ひい)
ここからは。
(ふう)
技術とか、
(ふう)
肉体とかではなく、
(ひい)
もっと根源的なもの。
(はあ)
人間力っていうのかな。
(ひい)
哀しみとか。
(ふう)
苦しみとか。
(はあ)。
我慢してきたもの。
(ひい)
そういうものの量だ。
(ふう)
比べあうんだ。
(ふう)
なあ。
(ひい)
わかっているのか関林。
(はあ)
そうか。
(ふう)
わかっているのか。
(ひい)
なあ。
(ふう)
楽しいなあ。
山下一夫は立ち上がっていた。
こんなぶん殴りあい、坐ってみるには遠すぎる。
もっと、距離は近づかなくとも気持ちで近づきたい。
そう思ったときには、自然と立ち上がっていた。
山下だけではない。
観客皆が、立ち上がってみていた。声をあげていた。
図らずとも叫んでいた。
魂が吼えているのか。
言語化できないなにかが口から飛び出していた。
皆が立っていた。
巽もまた、立ち上がっていた男の一人だった。
疾。打。立。蹴。拳。痛。膝。腹。顔。肘。打。打。拳。拳。拳。蹴。足。打。膝。腹。肘。鼻。掌。耳。膝。膝。拳。額。ごすん。打。蹴。打。蹴。蹴。足。拳。間。無。近。頬。拳。返。肘。左。ごしゃっ。めきい。どがあ。打。打。殴。「ハッハァ!」「ニィ」打。殴。痛。「カッ!」「ヌッ」顔。顎。アッパー。がきぃっ。打。めちゃあ。打。ばぐん。蹴。どむんっ。「ガハッ」「ガッ」頭。鼻。額。骨。腹。打。拳。がつん。がつん。「チィッ」「ジャッ」
血。
汗。
疲。
拳。
蹴。
打。
歯。
噛。
膝。
腹。
「オラッッッ!!」
「邪ッッッ!!!!」
足。拳。脚。下段。蹴。中段。拳。顔。叩。打。突。手。組。膝。膝。膝。離。踵。高。上段。耐。拳。痛。中段。回。裏。跳。打。打。打。「シャアアッ」「ヌンッッ」ごしゃみちぐぶどずん打拳蹴脚膝顔肘鼻拳脚頭踵膝手上段手額肘蹴組打離打打打「ぐっ」「グッ」ゴチィどずん蹴気血怒勝情怒怒拳腹早力怒怒血拳顔上鼻頭首膝「はぁっ」「ハァッ」はあ拳ひい脚ふう頭「かっ」「ガアッ」打打蹴脚殴殺殺殺蹴脚殴殺殺殺殺殺殺父殺殺殴恩殺殺殴拳拳愛殴殺殺殺殺死殺殺殺殺殺殺殺殺刃殺殺殺殺殴殴蹴噛信殺殺殺殺殺打拳蹴脚腹腹膝殺殺殴愛拳拳殺死殴鍛情打拳拳脚脚殺殺殴殺蹴汗ジェーン殺殺拳打打打蹴社長蹴哀殴殴殴殺勇次郎打愛殴殴欲打拳拳殺殺殺プロレスを信じろ殴殴打拳脚蹴膝膝膝弟肘蹴蹴殴殴愛誰が知る苦喜愛殴殺殺殺ありがとう悦打信じろ殴信じろ殴勇次郎殴殺俺だって殺殺殺痛打蹴打蹴夢中だ殴蹴殴蹴殴蹴認めろって殴殴殴蹴拳蹴拳脚拳空脚殺殺殺―――――――
終わりは唐突だった。
ぷつんと。糸の切れた操り人形のようにジャックが腰から落ち、膝をついた。
関林の放ったハイキック。それがジャックの顎をかすめたのだ。
狙ったわけではない。お互いの意識なんてもうとっくにもうろうとしている。まともな思考もない。そういう中で放った一発が入ったのだ。
たまたまと言えばたまたまと言える。
関林のタフネスの勝利と言えば、勝利である。
現にジャックは白目をむいている。
時間にしてほんの一瞬、関林が止まった。
山下一夫が何か叫んでいる。
巽がほくそ笑んだ。
関林がとどめに組み付こうとした。
もはやだれの目にも明らかだった。
ジャックは意識を失っている。次の一撃で終わりだろう。
その瞬間、再び関林の耳が何かを捉えた。
聞いたことがあるこの音。間違いない。あれだ。
あの巨獣が再び口を開けこちらを呑み込もうとしている。
だが待て。
この状態からは『受け』られない。
それにこいつはもう落ちている。
いかにこいつが怪物とはいえ
巨獣がとびかかって来た。
顎だ。
顎に思いっきり、右のアッパーが下から撃ち込まれた。
まるで強風に吹かれた綿毛のように、その圧倒的なパワーによって関林の体が宙でぐるんぐるんと廻って、床の上に落ちて行った。
床の上に落とされた。
しかし、関林はその床の感触を味わうことがなかった。
意識が、宙を舞っている時に体の外に弾き飛ばされていたからだ。
(し…失神したまま…ッッ!!???)
山下一夫が目を見開いた。
確かにジャックの動きは止まっている。アッパーを撃った体勢のまま、微動だにしない。
眼も青い部分が見えずに完全に裏返っている。気を失っていることは誰の眼にも明らかだった。
過去、関林が失神したまま歩いたことはあった。アームホイップのような技をしかけたこともあった。
しかし、気を失った人間がここまで力強い打撃を出すことができるのだろうか。
自身に刻み込まれた細胞の記憶。
気を失えどなおジャック。
(責めまい…誰も…)
興奮を通り越して、戦慄を覚えた巽が坐って腕を組んだ。
背骨につららをつっこまれたような、冷たい汗が出る。
関林の勝利を信じて疑わず。いや、事実勝っていたともいえる。しかし、失神してなお牙をむくとはだれが予想できようか。
関林は間違っていない。自分も同じ状況ならとどめに投げに行ったであろう。
そうした場合結果は――――冷汗が、止まらなかった。
勝負はついた。しかし、観客がまだざわついている。
「ジャックが意識を取り戻したぞッッ!!!」
何事かと思い、立ち上がりプールを見る巽。
不思議な光景がそこに広がっていた。
ジャックは立っていた。だが、立っているだけで何もしない。
倒れた関林が、プールの中央で奇妙な動きを見せていたからだ。
天井のライトに向って左右の拳を繰り出し、足まで動かしている。
のろいパンチ。ゆっくりとした蹴り。
関林は自分が倒れたことに気付いていないのだ。
まだ、立って戦っているつもりらしかった。
関林の眼に光はないが、まだ開いていた。
ライトに向ってつかむような動きを見せる。
投げ―――ているのだろう。
脚を出した。蹴っているのだろう。
関林はうっすらと微笑んでいた。
ジャックはそれを無表情に見下ろしている。場内が静まり返った。
「ど、ドクターッ!!!」
山下一夫が叫んだ。
同時に大きく、赤毛を一本に縛った医者と、無造作な金髪にどこか不健康そうな隈を抱えた医者が飛び出して関林の瞳孔を確認した。
二人の医者は、それを確認した後同時に叫ぶ。
「「試合終了だッッ!!担架をッッッ!!!」」
確認したジャックが背を向け、歩き出した。
決着の瞬間であった。
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「凄い試合でしたね…」
株式会社――――山下商事。設立したばかりの小さな事務所の中で、女がつぶやいた。
おおきい眼鏡をした、金髪ポニーテールの女性であった。目鼻立ちがくっきりとして整い、その表情からは知性から出る落ち着きと有能さが溢れていた。
女の名は秋山楓。拳願会会長の乃木英樹の元・秘書にして山下一夫の右腕的存在。
なお、そのバストは豊満であった。
「はい。一生のうちにそう何度も見れるものではないですね…」
山下が答えた。
「意識をすぐ取り戻したジャックさんもそうですが、関林さんもさすがでしたね。
試合の後、医務室に担ぎ込まれる前に目を覚ましたそうですから。」
関林は重傷であった。
普通なら死んでいてもおかしくない骨折と打撲の数々。
だが―――
「この分なら来月には復帰できるでしょう。」
二人の医師がそう告げた。
医師がすごいのか。関林がすごいのか。あるいはその両方か。
あれから二週間。関林が闘技者に復帰するのはもう秒読みの段階らしい。
「関林さんもそうだけど、ジャックさんも素晴らしい闘技者でした。
どうですか?社長から見てジャックさんは。」
「素晴らしい闘技者なのは間違いないと思うんですが…いかんせん、食費がね…
ジャックさんにおごっているとお金がいくらあっても足りないよ」
苦笑いしながら楓にこたえる。
その様子を見た楓は目を丸くした後、はあ、とため息をついた。
「…この反応。さては山下さん、会長から『まだ』聞いていませんね?」
「ヨオ。」
「え?」
いつのまに居たのか。
その巨体でありながら、山下が気配を感じたころにはもうその男は背後に居た。
優に3人は座れるであろうソファーに深々と一人で座って、俺のもんだと言わんばかりに3人分の席を独占していた。
「ジャックさん。うちの専属ファイターになっちゃいましたので…。」
「ヨロシクナ。」
「…???」
いまだ事態を呑み込めていない。山下に、楓が慌てて付け加える。
「ええっとですね…あの試合を見た乃木会長が、えらく感動しまして。
ぜひ山下商事の専属闘技者になってくれないかと打診したところ――――」
「ヤマシタカズオ。ナンカ、アンタトハ上手クヤッテイケソウナ気ガシテナ。」
「――――とのことでして。今日付で…」
「聞いてないんですけど!!!!???」
「アア。言ッテナカッタカラナ。」
「いや、言ってよッッ!!!!????」
設立以来最高に汗を流しながら叫ぶ山下。
ジャックはその背後に『かずーーーーーん』という謎の文字?のようなものを見た。
ような気がした。多分。
「マア…ヨロシク頼ムゼ。山下『シャチョウ』サンヨ。」
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