熱風が吹いていた。
気温は実に50度。体感温度はこれより更に高くなるだろう。
空は、憎たらしいほどに晴れ渡っている。
その晴れた空の下、ちらちらと風で飛ばされた砂が舞っている。強い風ではないが、炎天下の熱風は肌を焼く。
その炎天下の中、一人の男が居た。
風で運ばれて来た砂が男の靴の川上側に積もる。
男は『仕事』に一区切りがついたので、手ごろな岩に腰掛けていた。
周囲に人は居ない。数刻前まで激しい戦闘があったので、多くの市民は建物の中に潜んでいる。そんな市民も『終わった』ことを察してか、ちらりほらりと顔を出し始めていた。
とはいえこの暑さだ。普通に出ては肌がやけどする。そのため、皆ここでは『長袖』での外出が必須であった。
しかし、男は熱射が降り注ぐ中で何をするわけでもなく座っている。ここまで移動してきたバイクの隣で、岩に腰掛けていた。
糞熱く、今の今まで『戦闘』があったこの地域で特に警戒もせずにリラックスしている。
服装もまた、ほかの市民とは異なっていた。
『半袖』なのだ。
まだ、もう少し前の季節でさえ外出するものは焦がすような日差しを避けるために肌を衣類で覆って行動する。最低でも、腕と足くらいは着ているもので隠す。今年のような異常気象じみた気温ではなおさらだ。
それが、この男は違っていた。
履いているのは動きやすい短パンであり、着ているものはタンクトップ一枚であった。
こんな状態で外に出続けていたら確実に肌が火傷をする。男がアフリカ出身で、暑さに強いタイプの肌黒い人種であるとは言え、このままでは確実に行動に支障がでる。
だが、この男は平然としていた。というよりも、今の今までこの姿で『仕事』を行っていたのだ。
肌を焼くような熱風が吹くこの地域は半年ほど前まで『イラク』であった。イラクの一部であった。
もともとはモスルと呼ばれる地域であり、ムスリムのアラブ人が多く住む地域であったが、クルド人が統治する地域とほぼ隣接している。そのため、元より複雑な問題を抱える地域であった。
民族。
宗教。
そして政治…
そこを狙い、あるテロ組織が軍事行動を行ったのであった。電撃的作戦であったそれは、政府の対応を後手後手にさせて、この地域の反政府感情を揺り動かし、ついには別の国家として樹立するにまで至るのであった。
当初、一テロ組織の軍事行動とだけ思われていたその行動が、実は欧米の支援を受けた入念な作戦に裏打ちされた綿密な行動であると気づいたとき、イランは大国に助けを求めた。
大国――――ロシアはその話を受けた。欧米の手が中東にまでまわるのは面白くないと考えたからである。
しかし、表立って行動すれば軍事介入を行ったとして他国と世論の反発は免れない。
そこで、ロシアはまず二つの援助をした。
一つは金銭。秘密裏に金銭を支援することにより政府側が軍事行動を行いやすくする。
そしてもう一つ――――それは一人の傭兵の紹介であった。
かつてシエラレオネで起こった軍事クーデター、その鎮圧のために政府が雇い入れた男。
男は完全武装した反乱軍を相手に単身、さらに素手で挑み一発の銃弾を浴びることなく事態を鎮圧した。
その男こそ、この薄着の男。
この地域の反政府軍の鎮圧という『仕事』を終え、『反政府軍であったモノ』に囲まれながら薄ら笑いを浮かべているこの男。
そいつの名は『ムテバ・ギゼンガ』といった。
そのムテバがリラックスしながらスマートホンを見た。
現在時刻は13時過ぎ。報告も終え、後は女でも食って帰ろうか―――そう思った刹那、ムテバは軽く首を傾けた。ほんの数センチ、傾けたその空間を何かが飛んでいき、ムテバの4メートルほど手前の地面に落ちた。
その地面から、液体が出ると共に強烈な匂いが鼻を突きさす。
「へえ、うまいもんだね」
そこへ、一人の男が声をかけてきた。
ムテバが振り返ると、上下迷彩服に白いバンダナを頭に巻いた男が居た。
身体の小さな男であった。
装備をあまりしない身軽な格好に、アジア人特有の幼い顔立ちが男の体をより一層小さく見せる。
「クク…アンタほどじゃないさ。Mr
ゆっくりと、ムテバが立ち上がって振り返りながら、つづけた。
「アンタの噂は戦場でよーく耳にしている。その男にうまいだなんだの言われてもね…」
「どんな噂だい。」
「曰く、オーガと並ぶ最強の軍人。
曰く、アンタを含めたたった五人で自衛隊の精鋭を撃破。
曰く、その身に銃弾どころか拳一つ浴びたことがない…」
「ストーカーが趣味かな、
「最近じゃあの死刑囚・シコルスキーに敗北を与えたとも聞いている。
軍人中の軍人ノムラ―――いや、『ガイア』。
そんなビッグネームがこの俺に何の用かな?」
薄ら笑いは消さないまま、ガイアと呼ばれた男が口を言った。
「ビッグネームって意味じゃあんたも負けていないだろう。
伝説の傭兵のエピソードは遠い日本にも届いている。」
「どんなエピソードだい」
「素手で武装した海賊を二分で皆殺し。
コンゴ内戦で武器一つ持たずに一地域を鎮圧。
あの『関林』に完勝。」
「オーケーオーケー。アンタの趣味がストーカーだってことがよくわかった。」
ムテバが微笑しながら手を上げた。
熱い風が、二人の頬をなでる。
「後悔してるかい」
ガイアが言った。
「そう見えるかい」
ムテバが答えた。
「チョットね。」
「じゃあそうなのかもな」
「でも、同時にスゴク期待している。」
「そう見えるかい?」
「ああ。勃起してる。」
「クク、そうかもな」
そそり立つ短パンの布地も意に介さず、ムテバの剛槍が天を仰ぐ。
「仕方がないさ。気になっちまったんだ。」
「気に?」
「アンタのことがさ。」
「変態が趣味とは聞いていなかったな」
「クク。『狩り』を前にするとどうしてもこうなっちまう」
「
「他に誰がいるんだい?」
ムテバが哂う。
「狩りこそが我が人生。今日の獲物は狩りつくしたと思ったが…予定変更だ」
「帰っていいかい?」
「そんなこと思っても居ないくせに。アンタも仕事だろう?」
「ああ、仕事だ。」
「なら帰るって選択肢はないな。
アンタが俺を殺すか、俺がアンタを殺すかしかない。」
「不条理だな」
「戦場じゃ不条理だっていいのさ。だろう?」
「まあね。」
言うが否や、ムテバが駆けた。一直線だった。
狙いはガイアの眼球。
「!?」
その攻撃が、空を切った。
というより、居ない。
さきほどまで目の前にいたガイアがムテバの前から完全に消え去ったのである。
気配はある。しかし、どこに居るのかがわからない。
いくら戦場といえど、尋常ではありえない事態であった。
「くっ!??」
ありえない事態に、ムテバがしきりに首をふり辺りを警戒する。
(チョット残念かな…)
背後で砂を全身に纏い、偽装したガイアが心の中でつぶやいた。
伝説の傭兵といえど、こんなものか、と。
期待が大きかったと言えばそうかもしれない。伝説の傭兵なのだから、この程度は見破って楽しい戦いになるだろうと。
自分の戦力がはるかに上回っていると言えばそうなのかもしれない。
だが、『念のため』もあり得る。そう思って、手にしたナイフのスイッチを入れた。
その瞬間、柄からナイフが『発射』された。
『スペツナズ・ナイフ』。ロシアの特殊部隊が開発したとされるそれは、短剣の刃先部分のみが弾のように発射される。初速、時速60キロで迫るそれは、たとえ対峙していたとしてもかわすことは困難を極める。
それを背後から撃とうものなら、まさしく『必殺』の兵器となる。
その必殺のスペツナズナイフが空を切った。
と、同時に黒い風が吹いた。熱く、悪意のこもった風だ。
風を風…と感じる前にバックステップしてかわす。
一瞬前までガイアが居た位置には、二本の指があった。
ガイアが居た位置、というよりはガイアの『眼球があった』位置、と言った方がいいだろう。
「どうだい?傭兵の演技もなかなかのもんだろう。」
「なかなかだ。もし私が映画の審査員なら主演男優賞を渡したいところだよ。」
(―――なぜ当たらなかった?)
視覚以外の全感覚を研ぎ澄まし、常人とは比較にならない洞察力を持つムテバにとって偽装などなんの意味も持たない。
だから攻撃も読めたし、『観える』ので不意打ちをかますところまではできた。
しかし、その後が誤算であった。
確かに命中ったはず。
外したというよりは何か攻撃がすり抜けたような―――そんな感覚さえ覚える。
仮説として考えられることはある。あるが、今は攻撃しないことには始まらない。
つう、とガイアが腰を沈めて近寄る。
「シャッ」
低くなった顔面にムテバが右脚で蹴りを放つ。
靴の爪先が当たった――――そう思った瞬間、またしても爪先がガイアを『すり抜け』ていた。そしてその脚がふわりと柔かい何かに包まれる。
ガイアだ。ガイアの腕がムテバの伸び切った足をつかんでいる。
そして、そのまま思いっきり背後に振りかぶった。
脚一本背負い―――プロレスではたまに見かけられる技であるが、脳内麻薬を自在に操り人間の潜在能力を極限まで引き出しているガイアが行うそれはもはや殺人技。
以前『目黒正樹』から行われたそれとは威力と速さが完全に異なる。
時速80キロの速さでムテバが地面にたたきつけられる―――
「オヤ、受け身を取ったね」
顔面からすぐ先の地面にたたきつけられたかのように見えた時、両手をその地面について勢いを殺していた。
それには答えず、即座に起き上がる。
――――どういうことだ?
これ以上ないと言えるタイミングで蹴りこんだ。
普通ならばあれでKO。最低でもガードくらいはさせられるタイミングだった。
今回は義眼も『まだ』使っていないので自分の体調の変化から来るタイミングのずれというわけでもない。
で、あるならばこれは間違いなく、ガイアが『何か』をしている。これを解かなければ自分の命はない。
――――この緊張感、たまらんね。
アップライトの構えからノーモーションのジャブを放つ。当てて倒すことではなく、動かすことを目的とした攻撃。
その攻撃が、またしてもすり抜けた。
ガイアの手刀。右手で受け、そのまま懐に入った。
膝だ。傭兵は無駄なことはしない。確実に一撃で倒すために、蹴り上げる箇所は決めている。顔面か、睾丸かだ。
その睾丸を狙った膝であったが、これも空を切った。
同時にムテバの耳が風を捉えた。
殺意と破棄力のある、うねりを持った風だ。頭を下げる。そこにガイアの右の剛腕がすり抜けていった。
――――なるほどね。
ムテバは心の中でうなずいた。
さっきからの妙な空振りもこれで都合4度目。
その妙なものの正体になんとなく気づきかけてきた。
普段のムテバならこのような空振りはありえないことである。わざと外したり、防がれたりすることはあっても目測を誤って空振ることはまずない。
それがこれまで体験したことのない違和感をムテバに覚えさせていた。
大きく動揺するほどでもない。しかし、無視できるほどの違和感でもない。
その空振りの正体がなんであるかになんとなく検討がついた。
しかし、だからといって『これ』を実戦で実行できるものなど自分を含めて世界に何人いるかどうかだ。それが、
――――なるほどね。
の中には込められている。
賞賛に近い意味もある。納得の意味もある。それがわかった。
だから
――――なるほどね。
この一言に集約されたのである。
おおよその仕組みがわかっているが、チェックを誤っては意味がない。
あとは確信を得るのだ。
そう結論づけたムテバが一息に距離を取る。
バックステップを繰り返し、一瞬の間に10mもの間合いを取った。
取ったのだが―――ざうっ
「!?」
「オイオイ、どこに行こうっていうんだい。」
もう、目の前にガイアが居た。
ネコ科の猛獣の間合いは10mだと言われるが、あの距離を一度のジャンプで詰めたガイアをムテバは人類ヒト科であるかどうか疑いたくなってきた。
猛獣が右のミドルを放つがムテバはそれを受けずに、さらに身を引く。
追うガイア。踏み込みの速さに迎撃が追い付かない。
しかし、仕込みはできた。
あとは試すだけだ。
とことん見てやるよ。
お前が噂通り大地の神『ガイア』なのか。
それとも人間、『ノムラ君』なのか。
このムテバ・ギゼンガがしっかり観ていてやろう―――
ムテバの目がぎらんと光る。
同時に、何かをなげつけた。それは尖ったたくさんの黒いものであった。
ガイアは気づいていた。わざとらしく取った距離の間に後ろ手に何かしていたのを見逃さなかったからだ。では、中身は何か。
よもやここにきて銃を出す男でもあるまいというのは想像がつく。ナイフというのも違う。使うならとっくに今までの場面で使っているだろう。そこまで考えると、ポケットの中身は小細工の類ということになる。
それを受けるか、よけるかした隙に足を払う。
もしくは急所への一撃で決めるつもりだろう。
ムテバは名手だ。目つきや睾丸への攻撃はこちらが少々身をひねったところで問題なく決めてくる。そうなれば戦いは終わりだ。
そうなれば。
(サングラスの無駄だな、虐殺者(ジェノサイダー)。)
これも手を使わず、身をひねらず。必要最小限の動作でかわす。
ほんの紙一重の差でかわし、隙を作らない。
のだが、じゃっという音がした。
音の正体はすぐにわかった。
眼の前の男だ。
ムテバが蹴り上げた地面の砂。それがガイアの軍服の裾にかかっていたのだ。
どうってことない行動。ここ戦場においては挑発ですらない。
だが、効率主義のこの男がそんな真似をするだろうか
「オヤ」
「―――――――――」
「当たっちまったね」
「これのことか?」
「よくわかってるじゃないか。」
「傷にもならないこんな事で誇らしげにするってのはなんというか…安っぽいんだな、案外。」
「クク…」
「このズボン、チョット気に入ってたんだけどな…」
「なら、気にする必要はないぜ」
大きな拳が、思いっきりガイアの顔面に入っていた。
「ッッッ!?!?」
「もっと汚れちまうんだからな…着てるもん、全部がよ。」
肉が肉を穿つ衝撃が拳を奔った時、ぞくりとムテバの背に血の塊のようなものが走り抜けた。
―――これだよ、これ。
強烈な快感であった。立て続けに爪先を腹に打ち込む。柔かいその肉に足が食い込んだ。
ガイアが吐しゃ物をまき散らす。ムテバの鍛えられた爪先が水月にクリーンヒットしている。今日食べたものか、胃液か、そういったものがムテバの顔面を濡らすが意に介さず立て続けに顔面に拳を撃ちこむ。
右。左。右―――
面白いようにムテバの拳が当たる。
何故、いきなりムテバの攻撃が当たるようになったのか。
それはムテバがガイアの『秘密』を解き明かしたからに他ならない。
――――ネタは割れたぜ。『勘』、だろ?
カンといってもあてずっぽうのヤマ勘とは全く持って異なる。
アンタの『カン』という名の警報ランプは『殺意』とか『殺気』とか、人間の『念』みたいなものに反応するんだ。その念を察知して、攻撃をかわす。違うかい?
その通りであった。
事実、ガイアは人間の敵意を察知する力を持っていた。
身に着けたのは10年以上前、ウガンダで敵対勢力につかまり、捕虜になった時だ。
傭兵として内戦に参加した彼は、殺人という美酒に酔いしれた。培った技術、武器。それらを思うさま使ってもよいという歓喜に酔いしれた。
だが、酔いしれるあまり我を忘れた。
気づけばガイアは危険を顧みず行動するようになり――――その結果、囚われることとなったのだ。
通常、ジュネーブ条約で捕虜に対する拷問は禁止されているが、こと傭兵だけにそれは適応されない。傭兵であったガイアには、即刻処刑が決定した。
およそ文明国ではありえない刑罰とスピード。
捕虜となった次の日には目隠しをされ、木に縛り付けられ、100個の銃口を向けられていた。
そこで、ガイアは得たのだ。確実に訪れる恐怖。その極限の恐怖がガイアの神経を研ぎ澄まし、人間が行動を起こす直前に放つ『念』を感じられるようになった。
まさに処刑が実行される間一髪のところで味方勢力に助けられて以来、彼は生まれ変わった。
敵の作戦だとか。
闘気だとか。
殺意だとか。
そういったものが手に取るようにわかってしまうのだ。
危機察知能力がずば抜けている、と言えばそうかもしれない。
超能力である、と言えばそうだと言えるだろう。
そのガイアが今、『念』のない攻撃に圧倒されていた。
腹に蹴りを入れられた。腹をけられたのはガイアが内股になり股間を守っているからであるが、それでも響く。鞭のようにしなる脚であった。
―――強い。
ガイアは1も2もなくそう思った。
ムテバがである。
伝説の傭兵、その仕事は多岐に渡る。
軍隊の鎮圧、賊の殲滅、用人警護――――そして、暗殺。
誰かに教えてもらったわけではない。そういった裏家業を続けていく中で、ムテバがある程度『念』を消して攻撃することを覚えることは、自然な流れであった。
こんな芸当など、過去に中国で鍛えてもらった『妖怪ジジイ』の技に比べればどうってことはない。
ガイアの顔面に肘を入れる。ぐじりと鼻が潰れる音が聞こえた。
倒れこそしなかったが体が後ろにぐらりと揺れる。揺れながらも追撃を受けまいとガードを固めるガイアであったが、ムテバの姿が消えた。
その瞬間に足を払っていたのだ。鉄パイプで足をぶん殴られたようであった。しかも、自分の動きの方向に合わせて払われたのであおむけに盛大にすっころんだ。その衝撃で、守っていた腕が解かれる。
――――頃合いか。
右手を逆手に構え、親指だけをたたむ。貫手の形状にしたそれを、人体の胸部中央――――心臓に叩き込むその技を、中国拳法では『心臓抜き』と言った。
受けたものは死、あるのみ。絶命技を叩き込もうとしたまさにその時。
「奇ッッ!!!!!!」
恐ろしい衝撃がムテバを襲った。
衝撃といっても打撃による衝撃ではない。
音だ。
ガイアの口から発せられたすさまじい音量の声がムテバの耳を揺さぶったのだ。
一瞬、ムテバが観ているガイアが『揺れた』。たまらないと思い、ムテバは瞬時に距離を取った。
事実、この攻撃はムテバにとって泣き所であった。
全盲であるムテバがいかにして相手を観ているか―――その多くは聴力に頼っている。
蝙蝠が暗闇の中でも音波を頼りに物を観るように、ムテバも基本的には音を頼りに相手を『観』ている。
その頼りの聴力に揺さぶりをかけられたのだ。
脳内で描かれているガイアの位置情報に、若干の狂いが生じている。
「しょうがないな…」
ガイアが大きく息を吐いた。同時に、大きく息を吸った。
いや、大きいなんてものではなかった。
膨らんでいるのだ。
空気をぱんぱんにいれた風船のように、ガイアの上半身が大きく盛り上がっているのだ。
ムテバにはまだわからない。
ただ、何かやろうとしていることだけはわかった。おそらく、とてつもない何かがくる。
さらに距離を―――――
「あッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!」
取れなかった。
衝撃に、砂が舞う。
衝撃で、鳥が落ちた。
衝撃に、ムテバの耳が完全に破壊された。
ほかの五感で補うという思考すら生まれてこなかった。
それほどの衝撃だった。
常人の数倍の肺活量を持つガイアが、常人の数倍の空気を肺にため、その空気をいっきに声帯から消費する。
その行為は攻撃―――というよりもまさに兵器。
ムテバの動きが、完全に止まった。演技ではない。本当に動けなかったのだ。
―――――ムテバ、聴力を喪失。
「なかなかいかした光景だろう―――って言っても見えるわけでもなかったな。」
返事を待たず、ムテバの前まで歩いて行ったガイアが、いきなり足を跳ね上げた。
右の蹴りだ。
どん、という音がしてムテバの体が九の字に曲がった。動きが止まったとはいえ、そこは伝説の傭兵。
止まりながらも急所だけは押さえているので蹴るのは腹にとどめたわけであるが、無防備の状態からガイアの蹴りをもらうとどうなるか――――
「ガハッ!!!」
吐血及び吐瀉。
ほとんど予備動作のない蹴りであったが、内臓まで響いているのは確実だった。
続いて下からすくい上げるような左の蹴り上げ。
ムテバの顔面が噴き出す鼻血と共に上に上がった。
――――ムテバ、嗅覚を喪失。
続けざまに、ひねりを加えた右の掌底が前に突き出された。
その掌がムテバのみぞおちに綺麗に吸い込まれる。
「ゲエッ」
ムテバが再び声を上げた。体を折り曲げ、苦悶にあえいでいた。
この状態からではまともな攻撃や武器攻撃は使えない―――そう断じたガイアはムテバに組み付いた。
背後から馬乗りになるように組み付き、胴体に足をまわして首に腕をまわす。
いわゆる裸締めである。
完全に極まったこれを返す技はない。少なくとも、ガイアは知らない。
技はないが、技でなければ返す方法はある。
伝え聞く超握力の花山薫。彼ならば掴んだ腕を握りつぶして脱出できるだろう。
もしくは範馬刃牙。狂っているともいえる精神力で耐えながら首と顔面の間に無理やり空間を作り、顔面に後頭部で頭突きをみまう。
事実、5年ほど前の範馬刃牙に裸締めをそうやって脱出されていた。
その時の教訓から、こうして徹底的に戦力を削いだ相手にだけ極めることにしていた。
そして、ムテバはそのどちらのタイプでもない。
どちらでもないがゆえに――――
「―――ありがとよ。」
ガイアの知らない技を使った。
鋭い衝撃がガイアの腕―――両手首辺りに広がる。鋭い衝撃と痛みでありながら、一瞬力が入らなくなる。
中指で神門と呼ばれる経穴をついたのだ。若槻ほどの剛力に組み付かれても脱出できるそれが、ガイアに通用しないわけもなく。
「おかげで、目が覚めた。」
腕を振りほどく。
その隙に足の膝にある経穴――――陰凌泉をつく。同じような衝撃で、ガイアの足がほどかれる。
その隙に―――ムテバ、死地よりの脱出を果たす。
(クク…つくづく、『妖怪ジジイ』には感謝だな)
(間違いない。『見』えている。)
ガイアは点穴を撃たれた瞬間に気がついていた。
ムテバ・ギゼンガは「見」えている。聴力と嗅覚を破壊し、残る触覚のみで点穴を打つことの難しさもさることながら、目が『合った』のだ。
視力はないはず。
しかし、明らかにこちらを『見』ている。
鮮やかに、『見』ていた。
ガイアの予測は正解であった。
岩見重工社長、『東郷とまり』。ムテバの元・雇用主である悪魔的女性が彼に施した『義眼』。
それを作動させていたのだ。
聴覚は失ったが、問題なく『見えている』。つまるところ、勝負は振り出しに戻ったのだ。
二人の間に熱い風が吹く。
再び、男たちが拳を握り固めた。
そして、駆けた。
駆けようとした寸前――――二人の頭部を銃弾が貫通した。
「~~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!???」
「…ッッ!!!??」
否、貫通したイメージが二人の脳裏を疾(はし)った。
脳漿をぶちまけるところまで見えてしまうほどの、鮮烈なる『死』の感覚。
強烈な悪寒が二人を襲っていた。
『獰猛』
『凶悪』
『高圧的』
そんな言葉ばかりがムテバとガイアの脳裏を駆け巡る。
額からどっと汗が出る。ガイアはこの感覚に覚えがあった。
忘れもしない、あの――――――――――。
「…ッッ」
喉がからからに乾いて声が出ない。初めての体験であった。
眼を失いながら戦った時も。死が常に隣り合わせで会ったコンゴ内戦の時も、”猛虎”若槻との戦いのときも。こんな事は一度としてなかった。
ムテバの警報ランプが最大になってわめきたてているのだ。『ここから逃げろ』と。
(こ、これがッ!!!…まさかッッ)
その正体はすぐに分かった。
ずちゃり、ずちゃりと。遠くから歩いてくる男がいた。
身長は優に190は超えていよう。
漆黒のシャツからはみ出た腕からは恐るべき太さのエッジが何本も立ち。
漆黒のズボンが教えてくれる男の足取りは、ネコ科の猛獣以上の軽やかさがある。
そしてその男の周りにはオーラとも言うべき陽炎がゆらいでいた。
「…たまには散歩でもしてみるもんだなァ。」
「~~~~~~ッッ」
「とんだ拾いもんもあるもんだ。」
「…初めて、仕事を受けたことを後悔しているぜ。」
やにわに。
男の、ワックスで固められた頭髪が持ち上がり始めた。
燃え上がる炎のように、めらめらと、立ち上がりはじめた。
「なあ?伝説の傭兵、ムテバ・ギゼンガ。」
「…アンタに伝説と呼ばれる日が来るとはな。
…『オーガ』」
『オーガ』と呼ばれた漢は笑った。
範馬勇次郎。
この地上に存在するあらゆる生物の中をぶっちぎりで超越した最強の存在。
米国を腕力だけで屈服させたすべての兵士の伝説的存在。
拳願会でもこの男に依頼を出すことはタブーとされており、あの片原滅道ですら手を出す事すらままならない。恐怖の存在。
空気が足りない、とムテバは思った。
異様な圧力が眼の前をふさいでいる。
汗が止まらなかった。この程度の熱さでは汗一つかかない自分が、なぜこんなにも。
それは目の前の男が怖いからだとムテバは思った。
俺は、この男が怖いのだ。
いや、俺だけなものか。
みろ、さっきまで殺し合いをしていたあの男までもが、追い詰められたウサギみたいな顔をしているじゃないか。
何故怖いのか。それもよくわかる。
死ぬからだ。この男と戦えば間違いなく死ぬ。
それはどんな危険な戦場でいることよりも確実だった。この男の半径20m以内は確実にこの世のどんな戦場よりも。核兵器が降り注ぐ終末より危険だということが本能で理解った。
本能でも、頭でも分かってからのムテバは早かった。
「ちょこっと――――――」
遊んでいかねえか。
オーガは言い切ることができなかった。
「…はっや」
ぼそりとガイアが思わず本音をつぶやく程に、ムテバは早かった。
逃げたのだ。背を向けて、バイクにカギを入れてエンジンを吹かせる。
ムテバが小さくなるまで、実に数秒の出来事であった。
「…」
「いッ、いやッ!!あの…ッ」
所在なさげに出した腕をポケットに突っ込み、ガイアの方に顔を向けるオーガ。
ぎょろりとした目玉と、額と側頭部に浮かんだ血管が今の勇次郎の感情を物語っていた。
機嫌を損なえば待っているのは――――
苦し紛れの笑顔がガイアの顔面に張り付いていた。
「き、今日は…お、終わりってことで…?」
「…」
――――振られちまったぜ。
それだけ言い残して、勇次郎はガイアに背を向けた。
すねたような、ちょっと寂しい子供が言うような口調で歩いて行った。
「――――――――――――――ふう。」
伝説的傭兵二名、共に生きて帰還を果たす。
誤字脱字報告、感想等お待ちしております