阿修羅の牙   作:ダブルM

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第八話 牙

徳川邸。

 

そこに二人の男が座していた。

一人は上座には身なりのいい、高級そうな和服を着た老人。パイプを吸いながら足を崩して男に向き合っている。

 

「ほう、めっちゃんから聞いたと」

 

老人が、つるつるに剥げた頭をかきながらいった。

 

「はい。拳願会の他で、強きものと戦いたいならここ――――

徳川財閥当主、徳川光成様を頼れと。」

 

対面している、無表情なもう一人の男が答えた。

徳川光成と呼ばれたこの老人こそ徳川財閥13代目の当主にして、国内屈指の財力家。

片原グループと同等、もしくはそれを超える財力を持ち、金をキロ単位で数えることを常とする怪物。

その財力と権力は時の総理大臣でさえ彼の前では委縮してしまうほどである。

だが、対面に坐ったこの男には全く怯んだ様子がない。

それどころか、表情も変えずに淡々と光成の眼を見返してくる。

完全なる実力に裏打ちされた、圧倒的な自信をもつ男。

好みのタイプであった。

大の格闘技好きとして、こういう男が光成は大好きであった。

笑いながら答えた。

 

「拳願試合の王。滅堂の牙たる君が訪れてくれたのなら、ワシとしては身に余る光栄というしかない。大歓迎じゃ」

「ありがとうございます。」

 

ポマードできっちり固めた前髪を触りながら、男が答えた。

この無表情に返す男こそ、拳願試合の元・王者。

160勝1敗。つい最近、黒木幻斎に敗北するまで拳願試合の王であり続けた男。

『滅堂の牙』、加納アギトであった。

 

「にしてものう。あのジジイが。カッカッカッ」

「――――」

「そういうことなら話は早い。こっちもとびっきりの相手がおる。」

「――――」

「チャンピオンと、闘ってみるかい?」

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

 

そういわれて辿り着いたのがこの家であった。

異様な風景の中にある、異様な家で会った。

チャンピオンの住む家までの道のり、チャンピオンの家。

そこら中いたるところに落書きがあった。

しかも、ただの落書きではない。

 

『刃牙死ね!!』

『キンタマ!!!』

『命とったる』

 

便所の落書きのような、心底品性下劣極まるような落書きであった。

そういったものが視界に収まりきらないほど書かれている。

道路にも、

塀にも、

家の屋根にも、

壁にさえ、

いたるところに書かれてある。

そのすべてが、大日本銀行で闘技者として育ってきた加納アギトには見た事のないものであった。

『DEATH』

『俺は逃げも隠れもせん』

逃げも隠れもしないなら、この落書きの主はいったいどこにいるのだろう?

そんな事を考えてしまう。

アギトからすれば、見るものすべてがあまりにも斬新で、あまりにも意味が分からなかった。

わからなすぎて、しばし眺めることに夢中になっていた。

 

『喧嘩上等』

『下品上等』

『エロ魔王』

 

興味深い。

エロ魔王とはゼットンのような怪物なのだろうか?

 

「あのー…」

 

しばらく眺めていると、声がかかった。

優しい、青年の声であった。

夢中になりながら、背中で返事をした。

 

「ああ…スマナイ。つい、珍しくてな」

「ハハ…確かに。あんまりないですよね、こーゆーのは」

「汚いが…しかし、新しい。新鮮だ。」

「え?」

「私は今、旅をしていてね。その中である人物を訪ねて来たんだが…しかしすごいな。

あれなんか登って書いたのだろうか」

「あのー…どちら様です?」

「私は加納アギト。範馬刃牙という人物を探しているのだが…」

「あ、それならちょうどよかった。」

「何?」

 

その言葉に振り替えるアギト。

そこに、一人の青年が居た。

白いTシャツによれたジーパン。

美男子ではるが、超がつくほどではない。

ある意味どこにでも居そうな顔。

それでも妙に人を引き付ける感じがする顔をしていた。

普通の顔をしているだけなのだろうが、愛嬌のようなものがその顔や口元に漂っていた。

髪の毛は赤いが、どこにでもいそうな青年。

 

「初めまして。範馬刃牙です。」

 

この青年こそが、地下闘技場最年少チャンピオン。

範馬刃牙であった。

 

「それで…ご用件は?」

「――――私と立ち会ってもらいたい。」

「―――いきなりだね」

「御前と、ご老公から聞いていた。ここに行けば、チャンピオンに会えると」

「御前?」

「片原滅堂。片原グループの総帥にして、私の元・『雇い主』だ。」

「ああ…じゃあ、あなたがあの『滅堂の牙』

話は聞いたことがあります。

なんでも、敗北を喫して以来見聞を広めるために旅に出たって言うのは。」

「間違いではない。それに、私も御前から君と君の父親の話を伺っていた」

「親父の?」

 

刃牙が怪訝な顔をした。

 

「御前が仰っていた。昔、君の父親に殺されかけたと。」

「親父に?」

「御前が範馬勇次郎と初めて会った時のことだ。」

「いつですか?」

「十年以上前だと聞いている。私が御前と出会う前だ。」

「へえ」

「あんなに怖かったのは初めてだ、と言っていた。

あんな御前は初めて見たのでな。よく覚えている。」

「――――」

「そんな父親と戦った君も、強いんだろう?」

「いまの話の流れだと強いのは親父ですけどね」

「謙遜する必要はない。親子喧嘩の動画は見させてもらった。

そして、今も尚私はひしひしと感じている。君の戦力を」

「――――俺も、感じてますよ」

「同じか」

「同じですね」

 

空気が、変わった。

今まではなんてことのない、土の大地だったものがいきなりガラス張りの地面に変わったのだ。

何か一つの拍子ではじける。

はじけて壊れる。

そういう空気であることが、二人共わかった。

わかったからこそ、刃牙は親指で後ろを指した。

 

「裏に空き地があるんです。そこなら人目につきにくい」

「わかった。」

 

刃牙がそう言って背を向けた。

加納アギトも、それについて行った。

わくわくしていた。

 

 

空き地に一筋の風が吹いた。

Tシャツジーパン姿の範馬刃牙が立っている。

その対面に、加納アギトが立っていた。

拳願会対地下闘技場。

加納アギトの背の体毛が逆立っている。

ぞくぞくしていた。顔に哂いも浮かんでいる。

範馬刃牙の柔かい視線がこちらに向いている。

あの親子喧嘩を見て以来、一時は欠伸が止まらなかった。

原因はわかっている。

凄すぎたのだ。

こんな男達が居るのかと思った。

こんなに強い男達がこの世に存在するのかとも思った。

ようやくやれるのだ。

この漢と。

嬉しかった。

辿り着けるかもしれないのだ、この世の強さの頂に。

『地上最強』の称号に。

始めから―――

そう思っている。

迷いはない。

全力で闘う。

我闘う、故に我あり。

それこそが自分なのだ。

闘いこそが、加納アギトの証明なのだ。

もう一度、風が吹いた。

 

血が沸き立っているのがわかる。

肉が歓喜に震えているのもわかる。

構えて、前に出る。

ただそれだけのことで全身の毛穴という毛穴から悦びが噴き出してきていた。

悦びに満ちた肉体が血を沸かせて、それが体外へ吹きこぼれてくるのだ。

笑みが抑えられなかった。

加納アギト―――――身長200センチ、体重128キロ

範馬刃牙――――――身長168センチ、体重76キロ。

身長差で32センチ、

体重差にすると実に52キロ。

成人女性一人分は優に違う。

スポーツ競技では考えられない対格差であった。

しかしこれは競技ではない。

競技ではないからルールもない。

同じだとアギトは思った。

拳願試合でも体重別というものはない。

そこでは小さなものが自分より大きなものを打ち倒す光景がなんども見られたではないか。

その中には自分とこの範馬刃牙以上の体格差のものもあっただろう。

自分だって、自分より大きいものを倒してきたではないか。

だから、そういうことで油断したりはしない。

しかも、今まで戦ってきた相手は範馬刃牙ではない。

範馬刃牙は範馬刃牙だ。

他の誰とも比べられない。

もしかしたら自分を倒したあの黒木幻斎よりも上かもしれない。

そうか。

だから俺は悦んでいるのか。

だから血が沸き立つのか。

歓喜に満ちたまま歩みを進める――――

 

 

「へえ」

 

隙さえあればすぐ突っかけよう―――そう考えていた刃牙の心境が変わった。

間合いに入れば即決める算段であったのだが、加納アギトの肉体が何か別のもののように見える。

現実には別のものに変わったりしない。しないが、ことさらに大きく見えたのだ。

身長差があることは知っているが、それよりも一回り大きく見える。

加納アギトが構えたのだ。

いわゆるアップライトの姿勢である。それ自体は珍しいものではない。

珍しくない分、その歪さが目立った。

前傾姿勢であるが、その角度がすこしきつい。結構な前かがみだ。

これでは打撃を受けやすくなりスウェーバックにも時間がかかる。

脇をきっちりとしめ、左足を前にだし右足を後ろに出している。

両腕でしっかりと構え、その二つの拳の間から加納アギトの二つの目がしっかりとこちらを捉えている。

自ら穴にこもった獣が、その穴の中から炯々とその眼を光らせているようでもあった。

 

「たまんねえや…」

 

素晴らしい名画か、あるいは彫刻か。

完成された芸術が眼の前に立っているような感動すら覚える。

しかもこの芸術は動き、牙を剥くのだ。

今、刃牙は心の底からわくわくしていた。

玩具を買ってもらえる少年のように、期待に満ち溢れ歩き出した。

軽やかに、帯電された空間に足を進めた。

空間の磁場に触れ、毛先が逆立つ。

その時――――動いた。

同時に動いたようにさえ見えた。

 

「シュッ」

「コッ」

 

二つの唇から同時に呼気が漏れた。

拳。

拳。

足。

拳。

足。

拳。

脛。

膝。

めぐるましく二人の攻撃が交差した。

ほとんど、ありとあらゆる部位がお互いの体目がけて、動き、疾った。

休まない。

連続した攻撃であった。

しかしそのことごとくが空を切った。

加納アギトのすべての攻撃を範馬刃牙が。

範馬刃牙のすべての攻撃を加納アギトがかわし続けたからである。

手で受けたりだとか、足で受けたりだとか、ダッキングしたりだとか、そういうのもなかった。

ほんの紙一重の距離でお互いがお互いの攻撃をかわし続けているのだ。

それはあたかも、互いが互いの幻影を攻撃し続けているようにさえ見えた。

だからこそ、加納アギトは驚愕した。

 

これだ。”俺”はこういうのを求めていたのだ。

身長167センチ。己の身長とは30センチ以上、リーチに至っては40センチ近くは違うだろう。

大人と子供と言ってもいい。それくらいは数字の上で上回っているものがある。

これを利用して近づかせない、ということが競技シーンではよくみられる。現にアギトも恵まれた体格から活かした攻撃を行い勝利したことが何度もある。

初見と戦った時のように、近づかせず戦いを有利に進めたことも何度もある。

それだというのにこの男ときたら。

既に間合いに入っているのだ。

近づかせない、とかそういう概念ではない。

既に入っているのだ。

アギトが攻撃するよりも早く、既に懐に入って仕掛けてきているのだ。

スピードが速いというのはもちろんある。

自分より小柄なこの少年がスピードで勝るということは理解できる。

だが、それだけでは説明がつかない。

つかないが、アギトは納得していた。

スピードのほかに心辺りがあったからだ。

 

――――“先の先”か。

 

気の起こり…意識の起こりと言い替えてもいいかもしれない。

脳が命令があり動作を行う…ふつうはこうだ。

しかし事実は異なる。

まず肉体が信号を発する。

次に脳が命令し、意識をする。

肉体が信号を発して脳が肉体に命令を下すまでの0.5秒の間、人間は無意識である。

つまるところ、信号を発してから意識するまでには0.5秒のタイムラグが存在するのだ。

そのタイムラグの間はやりたい放題というわけである。

この信号を察知することこそが、『読み』。先読みである。

それを読むことができれば、相手が攻撃する前に避けることができる。

これを完全な形で出来るのは世界でも黒木幻斎と自分だけだと思っていたのだが―――

井の中の蛙であったというのも納得できる話だ。

こんな少年が、この領域に踏み込んでいるとは。

しかも、この少年よりも父親の方がずっと強いという話ではないか。

世界は広い。

 

――――こんなことがあるのだな、範馬刃牙よ。

 

『私』は、自分は黒木幻斎以外には負けないと思っていた。黒木幻斎と戦う前は、御前に仇なすものはすべて潰すことができる『滅堂の牙』であると思っていた。

それが当然だとも思っていた。

しかし、お前が居た。

外に出た世界。

自分が極めたと思っていた武の頂ともいえる『先の先』をこんな少年が完璧な形で使えるとは。これからも満足いく戦いができる出会いが外には待っているのだろう。

死ぬまで。

だから『俺』は、今楽しい。

 

「アンタ」

 

動きながら、刃牙が声をかけてきた。

 

「笑ってるぜ」

 

笑っている。

ああ、笑っているのだろう。

確かに笑っているとも。

だけどな。

お前だって同じだろう。

楽しいだろう。

笑ったまま、アギトは拳を出した。

刃牙が喋ったそのほんの一瞬、呼吸が途切れたのだ。

そこを見逃さなかった。

右のパンチ。

パンチ、と呼んでいいのだろうか。

少なくとも既存の格闘技にこのような大ぶりの攻撃はない。

近いものはロシアンフックだろうか。豪快な、フルスイングであった。

今までの『武』の攻撃とは異なり、人が変わったかのような豪快な一撃。

これこそがアギトのもう一つの『型』、無形である。

その本質は暴力。

アギトの本能から繰り出される『型』のない暴力であった。

黒木幻斎と戦った時に『進化』したそれは、武のモードとこの無形を瞬時に切り替えることができるようになった。

この形のない一撃を出したところで、アギトの意識は一度途切れる。

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

――――やるよ。どうせ乗ってる暇もないんだからな。

 

思えば、あれが旅の始まりだった。

 

(―――――)

 

あいつの言うように、十分すぎる名馬だった。

一度乗ってみたかったそいつは、初心者ライダーである自分に忠実に、どこまでもついてきてくれた。

 

(―――――――)

 

あれ?

誰だ?

誰が俺を見下ろしているんだ?

鷹山じゃない。

 

(――――どうだい?)

 

範馬刃牙だ。あの動画で見た、親子喧嘩の―――?

何故ここに?

そもそも私は倒れているのか?

あおむけに?

いつから?

何があったんだ?

 

(―――――まだ続行(つづ)けるかい?)

 

いつから私はこの男と。

そうだ、思い出した。

この男と戦っていて、無形を放ったのだ。

そうしたら何かをくらって記憶を飛ばされたのか。

あれは、右の上段蹴りだったか。

 

「当然ッッ!!」

 

 

 

 

加納アギトが手をつき、起き上がる。

飛ばされたのは一瞬だけだった。

 

「初めてではないなッッッ!!!!無形の暴力と戦うのはッッッ!!!」

「ん~~~~~。初めてではないっていうか――――」

「―――――」

「それが、当たり前だった?」

「…何?」

「初めては13歳の時だったかな。飛騨の奥山に居る夜叉―――まあ、バカでかいゴリラみたいなのと戦ってさ。」

「―――――」

「――――そっからはヤクザ。軍隊。プロレス。中国拳法。地上最強の生物。

地下でも、地下以外でもいろいろやったよ。

こないだは白亜紀最強の戦士ともやった。」

「ピクルか?」

「そう。だから、慣れっこなんだよね、こういうの」

「――――素晴らしい。」

 

言いながら、アギトがいきなり右脚を跳ね上げた。

右の上段蹴り。武術的な、まっすぐで隙のない蹴りだった。

 

―――顔。ハイキックね。

 

顔をそらす。

脚に薙刀が突き刺さった

 

「ッッッッ!!!!????」

 

突き刺さった瞬間に、飛んで逃げた。

ローだ。

上に跳ね上がると見え、頭部まで飛んできた蹴りが、コンマ一秒前に軌道を変えて暴力的な下段蹴りになったのだ。

もうすこし遅ければ、加納アギトの靴の爪先が刃牙の太ももの肉を突き破るところであった。

 

――――今のは?

 

刃牙は言葉を呑み込んだ。

今の今までは確かに、武術的な攻撃を出すときは、武術的な攻撃の『まま』であった。

だから、突然スイッチされても問題はなかった。

武か暴か、スイッチされようが意識の起こりを読める自分にとっては、先に宣言をされながら攻撃されるようなものだ。

怖くはなかった。

しかし今のは?

 

「カッ」

 

アギトの眼が、くるりと動いて白目になった。

呼気と、その右のミドルに対して左手を下げて脇腹を防御するが

――――加納アギトの左の拳が飛んできた。

眼がくるりとまた動き、黒い目が戻ってきていた。

まっすぐな、良い正拳であった。

残った右腕でガードするが、刃牙の体が崩れる。

 

――――間違いない。

 

刃牙の額から冷たい汗が流れた。

このわずかな攻防ではあるが、刃牙にわかったことがある。

この男は強い。

そして上手い。

それはもちろんなのだが、これまでは刃牙にとって対応できる攻撃ばかりであった。

狙いも正確で、逆にそれが読みやすかった。

刃牙はさきほどと変わったことはとくにしていない。

となれば、この変化の原因は間違いなく加納アギトにある。

しかもその原因が――――

 

――――まいったね。このタイミングで進化って…

 

アギトが、『進化』していたのだ。

これこそが加納アギトの真骨頂。闘いの間に『適応』し、相手に合わせた最適の回答を見つけて『攻略』する。これを範馬刃牙は理解したのだ。

今までのようなただのスイッチではなく、直前に『スイッチ』することによって、より『当てる』ことに特化させた動きになっている。

もちろん、直前で動きを変えるという事は筋肉に大きな負担をかけるので威力も落ちる。

だが、重いのだ。

重いというのは、攻撃そのもののことではない。

確かにアギトの攻撃は十分な重さがある。

しかし、例えばガオランや大久保のような体重が十分にあるような相手では効果は薄いだろう。

刃牙クラスの体重の相手を攻撃する、という意味では十分に重いのだ。

 

「まずいな、こりゃ」

 

刃牙が、焦ったように笑った。

 

「カアッッッッッッッ!!!!!!!!!!」

 

アギトが吼えた。

叩いた

叩いた

叩いた

拳と脚を次々に打ち込んでいく。

無形で叩く。

武で打つ。

武の蹴りが直前で無のパンチとなる。

無のフックと見せかけて武の回し蹴り。

加納アギトは止まらない。

範馬刃牙はそれをかわす。それを受ける。

手で。脚で。肘で。膝で。

受けて、流して、防御する。

そこでほんの一瞬、加納アギトが止まった。

時間にするとコンマ数秒、本当に一瞬すぎるくらいの一瞬であった。

その一瞬だけ、隙が生まれた。

フェイントのためなのか。

何かに迷ったからなのか。

わからないが、とにかくほんの一瞬だけ加納アギトに隙が生じたのは事実だった。

それは普通の戦い――――いわゆるボクシングや空手の試合であればどれほどのこともないわずかな隙だ。普通ならば隙とも言えない隙だ。

たとえ相手が加納アギトでもつくことの難しいわずかな隙だと言っていい。これはそのような隙であった。

ただ、一点普通の隙とは違ったことがあった。

ミスで起こる隙とは違い、この隙は加納アギトによって『作られた』隙だということだ。そして、アギトはこの隙を範馬刃牙が見逃さないと知っていた。

知っていて待っていたのだ。

刃牙がわずかに下がったガードに対して右を放った。

その攻撃に対してアギトはガードを上げなかった。

代わりに、それより先に右脚で大地を蹴った。

蹴ってその攻撃をかすめるようにして避けながら、体ごと刃牙に密着する。

密着しながら拳を水月に当てた。

踏み込んだ力を利用し足から発生した衝撃。

その衝撃をそのままに腰に伝え、胸に伝え、腕に伝え――――最短距離から最小限の動作で最大の効果を発揮する打撃を範馬刃牙に行った。

黒木幻斎に、初見泉に放った寸勁と似るこの技を、アギトは『龍弾』と名付けた。

 

 

 

 

 

 

 

緊急時、人は物を考えない。

あらゆる単語が脳内を疾りまわる。

 

(罠

無理

尊敬

寸勁――――)

 

真正面だった。

かわせなかった。

受けるしかない技であった。

範馬刃牙の放った拳の間の、狭い空間に加納アギトが入り込んでいるのだ。

その技が、刃牙の腹部で爆発した。

 

――――龍弾、炸裂。

 

体重差実に52キロ。

刃牙の体が宙に浮いた。

 

――――ちぎれたッッ!?

 

刃牙の脳裏に浮かんだものはそれであった。

自分の体がである。

自分は何か隠し持っていた爆薬か何かで吹き飛ばされ、上半身だけがこうして宙を舞っているのではないかと錯覚していた。

背から地面に落ち二回か三回バウンドした後、刃牙は自分の背中と脚が草の感触を衣類越しに味わっていることからまだ自分の下半身が失われていないことをようやく理解した。

意識はしっかりしている。しっかりしているが―――刃牙は思い出していた。

この、どろどろにとけてなくなりそうな甘い痺れを。

 

―――――気持ちいいや。

 

拳願試合の元・王、加納アギトの最大火力。

それは懐かしい感覚だった。

父・範馬勇次郎と少年時代に立ち会った時の記憶。

アメリカ最強の男、ビスケット・オリバの全力。

白亜紀最強の雄、ピクルの一撃。

あいつらとやった時はいつも―――――

 

 

 

 

「まだ続行(やれ)るのか…」

 

少し驚いた顔をしている。

何驚いてんだい。

しかもそんな遠いとこから追い打ちもかけずに何のつもりだ。

 

続行(やれ)るじゃない。」

「―――――」

続行()るんだよ、俺らは」

 

わかるんだよ。

あんた、強いな。

強すぎるくらいだ。

兄さん。

オリバのおっちゃん。

あの人たちとも変わんねえよ。

何も変わんねえ強さだ。

だからさ、溶けるんだよ

身体がね。

こう、どろどろになって。

どろどろになるだけじゃとまらなくって。

溶けてって。溶けてって。溶けてって。

そしたらさ、

ほら、出た

―――鬼だ。

 

「堪能させてもらったよ。」

 

刃牙が立ち上がった。

 

「!?」

 

アギトが目を見開く。

立ち上がった、というのは正確ではない。

それだけでもアギトは驚く。

地下闘技場の王とはいえ、初見を葬るきっかけとなったあれを叩き込んだのだ。

だが、本当に驚いたのは立ち上がったことではない。

その起き上がり方と地面だ。

腕も、足も、頭も。

何も使わずにそのまま、地面から垂直に刃牙が跳ね上がって、立ったのだ。

信じられない復帰の仕方であるが、今まで刃牙が寝ていた地面に何かがある。

あれはなんだ?

土に刻まれたあの模様は?

いや、模様じゃない。

貌だ。

しかも、とびきり凶悪な―――

 

「そうか。」

「――――」

「これが、鬼の貌か。」

「知ってたんだ」

「最強のヒッティングマッスル。

親子喧嘩を見て以来。一度見ておきたかった。」

 

少年のように、新しいアニメを見る前の子供のように笑いながらアギトは言った。

険の取れた、柔かい笑顔だった。

それを見て、刃牙も笑った。

 

「はは…」

「―――――」

「なんかこう、アンタにばっか見せてもらってばかりな気がするね。」

「―――――」

「その…申し訳ないなって。」

「構わない」

「イヤイヤイヤ。だって大変でしょ?」

「―――――」

「いきなり住み慣れたとこ出て外の世界来てさァ。」

「―――――」

「そんな箱入り娘にもてなされてばっかりってものなんていうか…こう。

こっちも気を遣うよね。」

「―――――」

「だから、俺もなんかしなくちゃあって思ったんだ。」

「―――――」

使用(つか)わせてもらうよ、こいつを」

「!?」

 

刃牙が、構えた。

それを見たアギトは驚愕した。

それは奇妙な構えであった。

すべてが奇妙で見たこともない構えだった。

まずは脚が奇妙だった。左足が前、右脚を可能な限り後ろに置いている。

次に腰が奇妙だった。腰を深く深―く。それこそ胸が地面につくような勢いで落としたうえで。

最後に腕が最も奇妙だった。

左腕は顔の下に拳が、右腕は顔の上に拳が。あたかも角のように突き出るように構えていた。

およそ格闘技では見たことのない奇妙極まる構えであったが、アギトが驚いたのはその構えにではなかった。

 

(~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!???)

 

背後、いや少年だ。この少年の形が希薄となり、浮かんでくるものがある。

浮かんできたそいつは、まるで山のようであった。

まず体がでかい。

体長?といっていいのか。優に8m。もしかしたら10mくらいはあるかもしれない。

次に頭部がでかかった。成人男性二人分はあろうかという三本の大きな角と、盾のように上部に張り出した頭部の襟飾りがただでさえでかい頭部をことさらに大きく見せている。

正面から見ても横から見ても、でかいだろう。

現代の生物では考えにくいくらい、何もかもがでかい。

幼いころか、御前の元に行ってからかは忘れたが、確実に図鑑か何かでみたことがある。

ていうか、これって、どう見ても…

 

(ト、トリケラトプスかッッッ!!!????)

 

刹那―――、それが猛進(はし)った。

慌ててその角をつかんだ。

掴もうとして、鼻の方にある三本目の角が胴体に突き刺さった。

 

―――これは、なんなのだ?!

 

吹き飛ばされながら、これはなんなのだろうと加納アギトは思っている。

武、ではあるのだろう。

形意拳とは動物をまねてはいるものの、動きを『人間流』にアレンジしたものだ。

そういう意味では、これは武なのかもしれない。

しかし見たこともない動物を真似て、そのうえでその動物――――恐竜の力をそのまま発揮できるこれは、武なのだろうか。

無、でもあるのだろう。

しかし自分のような形のない暴力とは違い、野生の猛獣が暴れるようなそれは暴力とは呼ばない。ましてやトリケラトプスがその角でもって突っ込んでくることを暴力とも無形とも呼ぶわけがない。

加納アギトにはわからなかった。

そもそも、この範馬刃牙という男は人間なのか。

人間でありながら恐竜になれるなどということが、この世で起こりえることなのだろうか。

もしかしたら自分は幻想の中で、この世のものではない何かを相手にしているのではないだろうか。

加納アギトにはわからなかった。

わからないまま、地面に落ちた。

何メートル飛ばされたのだろうか?

正確な数字はわからないが、空き地の端から端まで吹き飛んだことはわかった。

 

「~~~~~~~~~~ッッッ!!!!」

 

意識はクリアだ。全身の感覚もしっかりある。

ただ、腹の感覚がなかった。

腹に大きな穴が空いていた。向こう側まで見えるんじゃないかというくらい、大きい穴が空いているのだ。

立ち上がる。

 

「ッッッ!!!!!!!?????」

 

立ち上がった時のこの苦痛をどう表現すればいいのか。

痛い―――なんていう表現では到底済まされない。

一度ちぎれた体を無理やりつなげ合わすような――――?

ダイナマイトを呑み込んで腹部が爆発して、尚生きていたときのような――――?

どでかい鉄塊で腹を串刺されたような――――?

痛みとしてはこういうものが適当なのかもしれない。

ただ、痛いよりもとにかく苦しかった。

呼吸ができないのだ。

巨大な手で体の内側を無理やりひねりつぶされたような苦しみだった。

耐えろ。

そう思いながら膝を立てた時、

 

「オエエエエエッッ!!!!」

 

吐いた。

黄色い胃液と今朝食べたものと、血が地面にぶちまけられた。

 

「ゲエエエエエッ!!!」

 

吐いた。

拳願試合でなくてよかったと心底思った。

滅堂の牙であればこのような無様な姿、御前にはとてもでないが見せることができない。

手の甲で口を拭う。

横隔膜がせりあがっているのがわかる。

呼吸が浅く、まともに酸素が体に行き届いていないのもわかった。

苦しかった。だが、不幸ではなかった。

 

「―――――よ、―――った」

「ん?」

「…よかった」

「何がだい」

「いろいろだ」

「いろいろね」

「だが、一番は外に出て見聞を広めようと決断したことだ。」

「―――――」

「本当に牙をやめてよかった…」

「―――――」

「君のような漢に出会えたのだからな」

「ハハ…照れますね」

「こんなにも強い男がいるなんて、思っても居なかったのだ」

「俺より強いやつはいますよ」

「それでもだ。こんな体験は拳願試合ではできなかった――――」

「―――――」

「―――だから、よかった。」

「―――――すごいな」

 

ふらつく足を叱咤しながら起き上がるアギトに対し、刃牙が言った。

アギトの前髪が揺れている。ポマードで固めた髪が、汗で溶け始め髪がたれ始めてきているのだ。

 

「内臓損傷。骨折複数。しかもその骨が、肺に突き刺さっている。」

「――――――」

「それでもなお、まだアギトさんはやろうとしてくれている。

この時間を終わらせるまいと立ってくれている。」

「当然だ」

「当然?」

「私には何もなかった。」

「―――――」

「親も。兄弟も。親しい人も。何もかもがなかった」

「――――――」

「人生。ある時期まで良いことなど何一つなかった。」

「――――――」

「そんな私を支えてくれたもの。御前、そして闘いだ。」

「――――へえ」

「我闘う。故に我在り。闘いこそが私の存在の証明ッッ!!」

「―――――」

「だから、闘うのだ。」

「ワカったよ」

 

刃牙が、頭をかきながらいった。

そして、もう一度構えた。

 

加納アギトは、対角線上にいる範馬刃牙を見つめていた。

あの龍弾。

あれが、完璧に入ったはずであった。

進化した自分のスイッチをフェイントにした拳を、その体に叩き込んだのだ。

おもいきり。

自分の最大火力を叩き込んだのだ。

息だってあがっていた。

勝った。

そう思っていた。

だというのに。

 

「―――――」

 

叩かれている。

叩きまくっている。

蹴られている。

蹴っている。

しかし、打っているうちに、蹴っているうちに範馬刃牙がさらに早くなるのである。

自分より52キロも下なのに真っ向から打ち合える身体。

こういう肉体もあるのか。

驚嘆すべき肉体であった。

技とか、

意思とか、

そういうのもすごいが、この肉体はそういうものを超えている。

これは範馬の血というとんでもない肉体を持つ男との戦いなのだ。

それを、加納アギトは荒い呼吸を繰り返しながら思っていた。

肉を打つ。

肉を打たれる。

蹴る。

蹴られる。

殴る。

殴られる。

殴蹴打

拳殴打

痛い。

苦しい。

傷ついている。

しかし、範馬刃牙の肉体は嬉々としてそれを楽しんでいるようであった。

この自分だって同じだ。

楽しんでいる。

この男でなければ座り込んでいるかもしれない。

でも、まだ立って闘っている。

なんという濃い時間か。

こんな小さい肉体でありながら自分と真っ向から闘える身体。

素晴らしい。

自然に微笑んでいた。

見れば、刃牙も刃牙で微笑んでいるように見えた。

ボコボコに変形した顔で笑っていた。

自分もきっとそうなのだろうと思った。

そうだろうと思いながらお互いの顔面にお互いの拳が突き刺さった。

膝が揺れる。

手が止まる。

おい。

止まってくれるな。

俺の身体よ。

こんな楽しい時間を――――

そこで、刃牙が口を開いた。

 

 

「アギトさん。」

「――――何かな」

「俺、今から技を出します。」

「―――――――」

「この技が、俺にできる最高の技です。」

「―――――――」

「俺、頭悪いんでよくわかんないですけど」

「―――――」

「これが、そんなになってまでも続けてくれる貴方に対する礼儀だと思うから…」

「わかった。」

「―――ありがとう。」

「…礼を言うのはこちらのほうだ。」

 

 

加納アギトが構えなおした。

対して刃牙は、構えを解いた。

どうするつもりなんだ。

警戒を詰めるアギトの予想とは裏腹に、刃牙はさらに構えを解いた。

さらに、というのは正確ではない。

緩んでいるのだ。

全身から力を解き、ふらふらとしている。

眼もどこかうつろだ。

力を抜いている、と言えばそうなのかもしれない。

武術でいう脱力というのならきっとそうなのだろう。

しかしこのレベルの脱力を、この次元の戦いで?

アギトにはわからなかった。

 

「行きます」

 

わからないまま、もう一度衝撃が襲ってきた。

ぶつかってきたのだ。

その衝撃のイメージは、新幹線だった。

あの線路を奔る鉄の物体が、そのMAXのスピードをそのままに、いきなりぶつかってきたのだ。

範馬刃牙の、いや人間が出せるスピードとは思えなかった。

そもそも、いきなりMAXのスピードというのもおかしな話であった。

あのウィルバー・ボルトだって、御雷だってそんなことは不可能だ。

――――人間じゃない。

――――これが範馬。これが最強。

――――さすがだチャンピオン。

そう思ってから、アギトの思考は闇に落ちた。

気持ちのいい、闇であった。

 

「ゴキブリタックル…です。」

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

「して、負けたと」

「はい。」

 

徳川邸。

そこで、二人の男が座して向かい合っていた。

徳川光成と、加納アギトである。

 

「どうじゃった?刃牙は」

「強かったです。私が後れを取った黒木幻斎と、なんら変わらぬほどに」

「じゃろう。刃牙からも聞いておるよ」

「―――――」

「素晴らしい戦士じゃったと。自分が負けた範馬勇次郎、ピクルとなんら変わらぬくらいには、とな」

「恐縮です。ご老公」

 

改めて、加納アギトが背筋を伸ばした。

真剣な顔で、光成を見た。

そのまなざしに、光成も真剣にアギトを見た。

 

「なんじゃ」

「彼が最強である、そういわれましたね」

「うむ、言った」

「しかし彼は、彼より強い男がいると言っていました。」

「うむ…おる。」

「そして、彼は地下でいろいろな戦士とやったと言いました。」

「うむ、やった。」

「ご老公。」

「なんじゃ」

「ぜひ、私は地下闘技場の猛者たちとッッッ!!!」

 

徳川は笑った。

口を、Vの字に吊り上げて、にぃぃと笑った。

 

「もちろんじゃッ!!!」

「ありがとうございます」

「なんなら対抗戦じゃッ」

「対抗戦?」

 

にいぃと笑いながら、徳川は答えた。

 

「拳願会VS地下闘技場ッッッ!!!!

どっちがつええか決める、対抗戦を開くんじゃッッッ!!!!!!!」

 

 

 




誤字脱字報告、感想等お待ちしております。
次々回から、第二部の対抗戦編が始まります。多分。
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